「天城って御幸に『ワガママ』って言うの?」 「なんて?」 七月。最後の夏が始まる。汗ばんで背中に張り付く制服が、それが物語っているような気がした。そんな特別な夏が訪れようとも、学校に行けば授業があり、教科書やらノートやらを広げる日々。そんな授業の合間のわずかな時間、ノートを片付けていた凪沙の机の前にやってきてそんなことを訊ねたのは、クラスメイトにしてチームメイトの川上だった。 ぱちくり、と目を瞬く凪沙。川上の表情は真剣そのものので、もう一度瞬きをする。御幸と付き合いだして、早いものでもうすぐ一年になる。当初は何をするにもどこからともなく口笛が飛んでくるような騒ぎようではあったが、流石に一年も経てば落ち着いてきた。故にこそ、そんなことを訊ねてくる川上の真意が計りかねて、じっとその顔を見つめる。人間の言葉はまず顔に出る。ピッチャーに言うのも何だが、川上は割と顔に出やすいタイプである。その表情を見ていくつかふわふわとした物が浮かぶも、決定打はない。なので凪沙は薄く微笑んで、頬杖をつく。 「んー、『ワガママ』って、例えばどんな?」 「え、っと……『デートに行きたい』とか、『もっと連絡欲しい』とか?」 「ぶふっ……それを私が、御幸くんに?」 「わ、笑うなよ! 普段カップルが何してんのか知らないし!」 確かに、言われてみれば世のカップルの動向というのは意外と知らないものである。トラブルがなければなおさらだ。何故なら、上手くいっていればそれを口にした途端『惚気るな』と苦い顔をされるのが世の常だからである。人間、興味があるのは、古今東西トラブル時のみ。下種だねえ、なんてことを考えながら、ひとまず川上の疑問を返す。 「んーとねえ、『お昼一緒に食べよう』って言いだしたのは私だよ」 「それじゃよわ──え、えーと、他には?」 「(よわ?)うーん……『朝夜のメールに一文返事して』もお願いしたかな」 「一文て……ほ、他!」 「他ぁ……? んー、『告白されたら報告して』とかは嫌がってたけどお願いしたよ」 「え、なんで?」 「恋敵とはなるべく近付きたくないでしょ、どこに潜んでるか分かったもんじゃないんだし」 「あー……」 顔が広い凪沙に、モテすぎて練習に支障が出たほどの御幸である。うっかり友達になった相手が実は恋人に懸想を抱いていた、なんて大事故を避けるための対策である。こればっかりはあまり『ワガママ』とは言いたくないが、御幸は死ぬほど嫌がっていた。相手の都合や事情をわきまえずに我を通す、それを『我儘』というのであれば、間違いなく該当する数少ない『ワガママ』である。だが、少なくともそれは川上の望む答えではなかったらしい。がっくりと肩を落としてしまった。 「……やっぱ、気ぃ遣う?」 「ワガママ言わないように──って意識は、まあ、多少はあるけども」 「やっぱりそうなんだ……」 「でもそんなに我慢してるなーとは思わないよ?」 「それって、今の御幸に不満はない、ってこと?」 「……ま、まあ、そういうことになるんじゃないかな……」 今のままの君が好き、なんてキャラではないため、真面目な顔で話をする川上を前に、凪沙の視線はすっと逸らされる。ただこれで、なんとなく川上が何を凪沙から引き出したかったのかは分かった。ふう、と気持ちを落ち着けてから顔を上げる。 「川上くんは、御幸くんにワガママ言いたいんだね」 「……」 図星だったのか、今度は川上の方が視線を逸らした。気持ちが分からないとは言わない。メンタルにこそ多少の難はあれど、ピッチングにしても、自分の役目にしても、チームの求める物を発揮する川上は、言ってしまえば『手のかからない』投手だ。というか、後輩投手二人が手がかかりすぎるのだ。必然的に、正捕手の御幸との投球練習が削られてしまうのは、仕方のない話だ。いくら天才捕手といえど、一日は二十四時間しかない。人類平等に、だ。自分の時間を分け与えてあげられれば、なんて思ったことも一度や二度ではない。 「言おうよ、ワガママ」 「……けど」 「私と川上くんの立場は、違うんだよ」 「分かってる……」 恋人に恋人らしさを求めることと、投手がプレイヤーとして捕手に求めることは、決して同じ『ワガママ』ではない。そんな当たり前のことは分かってるはずなのに、凪沙に前もって確認するあたり、彼の人の好さ──もとい、気の弱さが見えている。 「……変な話だけどさ、私には可能性があるんだよ」 「可能性?」 「これから、ワガママを言える可能性」 正直なところ、御幸との今の付き合いに対して大きな不満はないのは本当だ。けれど、我儘を言わないように努めているのもまた、本当だ。ろくに二人の時間も取れない中で、相手を思う気持ちはどんどん募っていくのだ。もっと、これ以上、と望んでしまうのは人の性だ。だからこれからは色んな不満が募る可能性は大いにある。けれど凪沙にはまだ、『可能性』があるのだ。二人が望むのなら、その先にはいくらでも我儘を言い合えるだけの時間がある──かも、しれない。 けれど──彼は、彼らは違う。可能性なんてものは、皆無に等しい。 「あと、一か月なんだよ」 彼らが共に野球をする時間は、もう多くない。そりゃあプロに進むのであれば、可能性はある。当然だ。きっと御幸はプロの道を進む。あれだけのスカウトが来ているのだ、振り切る真似はしまい。凪沙にはその確信があった。けれど、このチームで──このメンバーで野球ができるのは、これが最後。同じメンバーが全員プロなり社会人野球なりで巡り合う可能性は、皆無に等しい。そもそも、高校で野球は最後と思う者がほとんどだ。だから、これが人生で最後のチャンス。凪沙とは違う。最後の我儘を通す、チャンス。 「御幸くんだって、きっと待ってる」 「……そう、かな。けど、俺より沢村たちの──」 「投手が捕手を必要としてる。それ以上の理由は、いらないよ」 ぴしゃりと言い放つ凪沙に、川上は叱られたような顔で肩を震わせた。この優しさに救われた日もあったのだろう。それでも、優しさだけじゃチームは勝てない。背番号をもらった投手が正捕手の力を要求しているのだから、それはチームの為でなく何だというのか。 「……ごめん、サンキュ」 「いえいえ」 そうして顔を上げた川上は、どこか憂いの晴れたような穏やかな表情をしていた。大丈夫、御幸はそんなことを疎んじる男ではない。寧ろ、困った投手の世話をあれだけ楽しんでいるのだから、喜んで練習なりなんなり付き合ってくれるだろう。本当に男女問わずモテモテの恋人である。誇らしくはあるが、複雑な気持ちがないわけでもないが──。 「天城は『ワガママ』言わないのか?」 「なんて?」 どこから聞いて──いや、きっと最初からだろう。そんな声がやってきたのは、天城の斜め向かいに座っている席から。同じくチームメイトの白州が、どこかからかいがちの言葉をかけてきて、凪沙は力の抜けたような返事をしてしまった。 「我儘を言わないようにしてるってことは、何か思うところはあるんだろ?」 「まあ……そりゃあ、ねえ」 「ノリをこんだけ焚き付けておいて、自分はだんまりなのか?」 「いやいや、私は関係ないよね? あれ? ないよね?」 「どうせなら天城も言えばいいだろうと思ってな」 「どんな『どうせ』!? そんな相乗りしないよ!」 「俺も天城が相乗りしてくれたら勇気出るんだけどなー」 「いや嘘だよ絶対嘘! 今一人でもイケる流れだったよ!」 そう逃げる凪沙に、白州も川上もからかうように追撃するのだった。そして何故か、川上と一緒に御幸にワガママを言う、なんて約束を取り付けてしまって。そしてそんな約束が、優しい彼を後押ししたのだろうか。 「──御幸、俺は? 俺のはいつ受ける? いつ受けたい?」 そうやって、川上は御幸の時間を見事勝ち取ったのだった。他の三年生たちがざわめく中で、川上と白州は凪沙に向かってガッツポーズをとって見せた。まるで次はお前の番だぞと言わんばかり。何故自分までワガママを言う必要があるのか。分からない。分からないが勢いのままに約束を取り付けてしまったので、反故にするとそれはそれで不義理な気もする程度の真面目さが凪沙にはあったわけで。 で、次の日の昼休み。 「「天城!」」 「わ、分かったよ……」 「?」 昼食のため天城を迎えに来た御幸を見るなり白州と川上があのガッツポーズを見せつけてくるので、凪沙は顔を赤らめながら弁当箱を抱えてA組から飛び出して首を傾げる御幸を連れて寮に駆け込んだのだった。当然、奇妙な目配せをするA組の三人に疑問を抱かないはずもなく、寮で二人きりになって食事を進めながら事のあらましを説明すると、案の定御幸も苦い顔を浮かべる。 「えーと……じゃあ、天城は俺に『ワガママ』言いたいってこと?」 「なんか、うん、そういう感じになっちゃって……」 弁当を片付けて、二人は何故か向かい合って正座する。まあ要はそういう話なのだが、昨日の今日で御幸にバレるとは思わず、凪沙もまた苦々しい笑みを浮かべる。我慢をさせてる、なんて、思われたくなかった。不満というほど不満は、なかったのに。 「俺にできることなら、なるべくしたいんだけど」 「いいの?」 「俺ばっかり『練習』するのも、フェアじゃねーだろ?」 「……ん、ありがとう。じゃあ、一個だけ」 少しだけ気落ちしたような御幸に、凪沙は腹を括る。不満はない。だけど、やりたいことはいくらでもある。これは決して、御幸の同情や責任感からくるものではない。その目を見れば──ちゃんと、分かる。その目の奥に、ちゃんと『愛情』が秘められていることを。 「一個だけ?」 「うん、今は一つだけで十分」 「いいの?」 「あんまり嬉しいことありすぎてもあれかなって」 「すぐできること?」 「すぐできるね」 「じゃあしよ」 「判断が早い!」 けらけら笑いながら、凪沙はゆっくりと立ち上がる。そうして不安げな目が揺れる御幸の腕を取って、強引に立ち上がらせる。頭一つ分高い位置にある御幸を見上げる角度は、いつも通り。 「えーとね、お昼食べれる日は、ちょっとだけぎゅっとしたい……かな」 「……それだけ?」 「だ、だめですかッ!!」 拍子抜けとばかりに脱力する御幸に、凪沙は顔を赤らめながら声を大きくする。そりゃあ、やりたいことなんて腐るほどある。だけど、一番は恋人に触れ合いたい──ただただシンプルな欲求だけが胸に渦巻いているのである。仕方がないじゃないか。男女問わず惹きつけるほどの魅力的な恋人に対して、肉体的接触の欲求を抱くななどと、甚だ無理な話なのだ! ただ、凪沙だって理性はあるし、分別はついているつもりだ。肉体的接触の後に湧き上がる底無き欲望を、我慢できる自信が正直なかったのだ。だって、自分たちはその欲の味を知っている。だからこそ余計に、触れたいと言えなかったのだ。何より、そうなった時に我慢ができなくなるのは、きっと自分じゃなくて──。 「それぐらいなら、いいけど」 「いいんだ──じゃなくて、我慢、できるの?」 快諾する御幸はぎくりと肩を震わせた。そう、そうはいっても女の性欲は一般的には男ほど衝動的なものではないと言われているし、見て分かるほどの『反応』もない。凪沙自身の話で言っても、欲求の自覚はあっても、それを飲み込んでこれから授業に行ける自信はある。けれど、御幸はどうだろう。 「……我慢、します」 「で、できる?」 「……ゼンショシマス」 す、と目を逸らす御幸。だから『ワガママ』なのだ、と凪沙は苦い顔を一つ。けれど、何かを飲み込んだような顔で、御幸は両腕を広げるのだ。なんとも魅力的なお誘いである。 「俺も、触りたいし」 「う、うん……」 その言い方だとそれ以上の──いや、何も言うまい。凪沙は頷いて、どきどきと高鳴る胸をそのままに深呼吸を一つ。改めて、ハグするとなると緊張する。自分から言い出したのに。 「……どうかした? なんか、臭う?」 「う、ううん、まさか。改めてお願いすると、緊張して……」 意識すればするほど、顔に熱が集まる。御幸の視線を痛いほど感じて、凪沙はええいままよとその胸板に飛び込んだ。広い背中に手を回し、ぎゅっと力を籠める。その肉体を確かめるように、そのぬくもりを噛み締めるように。それからワンテンポ遅れて、御幸の腕が恐る恐る背中に回された。 「んー……ふふ……」 どきどきと心臓が煩く鼓動を鳴らす。けれど同時に、これ以上ない安堵感に包まれるのだ。このふかふかの胸筋のおかげだろうか、思わず満ち足りた笑みが浮かんでしまう。いい匂いがする。スッとした制汗剤の匂いと、汗のにおい、それからやはり、御幸の匂い。これが好きなのだ。どう形容すべきか未だに分からないが、やはりいい匂いがするのだ。何からこんな匂いがするのだろう。なんとも、不思議である。 背中に回した両手を繋ぐことができないほど厚い胸板。生まれ持った体躯の良さを、日々の積み重ねが育てたのだろうか。匂いの発生源はここかと鼻をこすりつけるも、違う気がする。少しだけ背伸びをして、喉仏を避けて首元に鼻を近づける。すんすんと鼻孔を膨らませると、少しだけあの匂いが強くなった気がした。いい匂いがする。こうしていると、どきどきするのにふわりとした安心感でいっぱいになるのだ。お風呂のようだと思った。熱湯で心拍数は上がるのに、全身に行き渡る温もりで安堵するあの感覚と同じだ。ただただ、幸せを噛み締めた。この時間が永遠になればいいのに、なんて詩的なことを考えるほど。 ──けれど、そんな時間はいつだって刹那的に消えるものである。 「……御幸、くん」 「あのな、堪えようと思ってできるなら、世の男は苦労してねえの」 「開き直るのもどうかと思うのですが……」 「押し倒さないだけ理性が働いてると思ってくれよ」 ぐぐ、と二人の抱擁を阻むような抵抗感。それも、下腹部の方からともなると、見なくとも理解できる。そういうものだと、凪沙だって理解はしている。数少ない触れ合いなのだ、しかも三年になってからはとんとご無沙汰である。仕方ない、そういうものだ、仕方ない。そう分かってはいても、思わずにはいられないものである──まだハグしかしてないけど、と。 「えーと……と、とりあえず、離れる?」 「……お預け?」 「だって……そんな……ここじゃ、その……」 神聖な寮──と言われるほど神聖視はしていないけれど、この部屋では他に生活している部員がいるのだ。流石にラブホ代わりにするのは気が引ける。だというのに、背中と腰に回された腕の力は強まる。ぐ、とへその下あたりに押し付けられた熱量に、ぐらりと脳が揺れる。 「ちょ、」 「……だめ?」 「……いま、緊急事態?」 「わりと」 「わあ……即答……」 そりゃあ、場所も時間も限られているのだ。凪沙だって寮という選択肢が浮かばないではなかった。しかし、やはり木村や奥村の顔を思い浮かべると申し訳なさしかなくて。だけど、この状況の御幸にお預けも酷だということも理解していて──どうしたものかと悩むこと三秒、脳裏に名案という名の電流が走った。 「そうだ!」 「なに?」 「御幸くん、一人でして!」 「は!?」 名案、これ以上ない名案である。要は二人でするから問題なのだ。一人で処理する分には問題あるまい。御幸はこの部屋の主なのだから。男同士の生活、そういうことも儘あろう。 「御幸くんが一人でする分には問題ないわけだしさ!」 「俺そういう趣味ねえんだけど?」 「だって二人でしてるとこ見つかったら大問題だよ!」 「お前が部屋にいて俺一人がしてるのが見つかっても大問題だろ」 「え、じゃあ私教室に帰るけど……」 「──あー、待て待て。分かった分かった」 一瞬の間をおいてそんなことを言いながら、御幸がぱっと手を放して凪沙を解放する。ちり、と胸を焦がすような奇妙な予感。どうしてか、含みのある笑顔の前に、そんな焦燥が走る。 「二人でしてなきゃ問題ない」 「そ、そうだね?」 「けど、やっぱ一人だとこう、決め手にかけるっつーかさ」 「……?」 「天城の協力が必要ってこと」 「じゃ意味ないじゃん!」 「まあ待てって。お前は何もしなくていいんだよ」 ここにきて御幸の意図が読めなくなり、首を傾げる。てっきり一人でするのを手伝わされるのかと思ったのだ。だが、御幸はきっぱりと言うのだ。何もしなくていい、と。 「……服脱ぐとかも?」 「脱がない。何もしなくていい。見たくなきゃ見なくてもいい」 「……私、部屋にいるだけ?」 「そ。お前は傍にいてくれるだけでいーの」 ふむ、それなら、と凪沙は思う。多少──いや、ものすごく気恥ずかしいことには違いないが、御幸がこうなってしまったのには凪沙に責任がある。しかも、自分の『ワガママ』のせい。ならば責任を取らねばならない。何もしなくてもいい、とまで言うのなら。見つかったら問題にはなるが、少なくとも二人でしているところを見つかるよりマシなはずだ。 「分かった。でも、ほんとに何もしないよ?」 「はいはい。とりあえず準備すっから、ベッド上がってて」 「ベッ……」 「床でやるわけにもいかねーだろ。その辺、沢村達だってくつろぐのに」 一瞬言葉を詰まらせたが、御幸の言葉には素直に頷く他ない。一応そういう配慮はあるんだな、と思いながらハシゴに足をかけて御幸のベッドに飛び乗る。ここで御幸が毎晩寝ているのか、と思うとなんだかほんとに悪いことをしてる気分になってくる。なるべく隅っこの方に身を寄せて体育座りをしていると、御幸が箱ティッシュを手にベッドに乗り込んできた。ぎしぎしと、お世辞にも新しいとは言い難いベッドが軋む。 「こ、壊れない?」 「流石に大丈夫だろ。東さんだって同じようなベッドで寝てたんだし」 「いや東さんってそんな百キロ以上なかっ──」 それが言い終わるより先に、足首を掴まれたかと思うと一気に引っ張られた。完全に油断していた凪沙はそのままごろんとベッドに転がった。改めて汚れた天井見たのは初めてかもしれない、なんて間抜けたことを考えるより先に視界は御幸のにたりとした笑みでいっぱいになる。まずい、と焦燥感が警鐘へと変化する頃には、もう遅い。 「な、何もしないって言った!」 「お前は、な」 「屁理屈!!」 「じゃあ一緒にする?」 「それはヤダ!」 「じゃあ静かにしてろよ」 そう言いながら、凪沙に覆いかぶさったまま制服のベルトを外し始める御幸。本気なのか。本気でするつもりなのか。引っ叩いてでも逃げるべきか判断に迷っている凪沙を、チョロい奴だと御幸が思っていることなど露とも知らず。あー、と大きく開かれた口が、Yシャツとブラジャーごと乳房に噛みついた。鈍い刺激、けれど欲を駆り立てるには十分すぎるほどで。 「ひ!?」 「言ったろ。お前は、何もしなくていいって」 勝ち誇った御幸の一言に、凪沙は呻いた。してやられた。完全にしてやられた。その制約を課すのなら、『御幸も凪沙何もしない』、と言質を取らなければならなかったのだ。どうせ自分で処理するなら手を使うのだからとたかを括っていた自分が大馬鹿すぎる。例えそうだとしても人間には二本の手があり、そして唇が、舌があることを、どうして忘れていたのか。 「それとも、やっぱ気が変わった?」 「!」 挑発するような、ニタニタとした笑み。ボクサーパンツの膨らみを、これ見よがしに下腹部にぐりぐりと押し付けるような動きに凪沙はドキリとした──ではなく、カチンときた。愚かにも少女は、奇妙なところで負けず嫌いの気があった。そしてそのスイッチを、今しがた蹴っ飛ばされてしまったのだ。 要は我慢すれば勝ちなのだ──だったら。 「そこまで言うなら、その気にさせてみたら?」 「!」 売り言葉に買い言葉。御幸はきっと、自分のことを見縊っているのだ。だからあんな挑発ができるのだ。口車に乗ってぱくりと食べられるほど、甘い女ではない。そんな意地が芽生えた凪沙は、ニッと負けずに挑発的な笑みを浮かべる。 「へー、後悔してもしらねーよ?」 「そっちこそ。制限時間はチャイム鳴るまでだからね」 「じゅーぶん。どーせぐずぐずになるくせに」 「一人でしてるとこを観察する日がくるとは思わなかったなあ」 誰と競う訳でもないのに、性欲と同じぐらい闘争心に火が点いた二人を止める者はなく。戦いのゴングは勝手に高らかに鳴らされ、二人の根競べは人知れず幕を開けることになったのだ。授業開始を告げるチャイムが鳴るまであと二十分、どちらの理性が勝ち越したかを知る者は、この二人以外にいない。 ただ、戦いの後、冷静になった御幸と凪沙は互いにしっかりと話し合い、結果、この『ワガママ』は二人の時間が取れるまではお預けにすることにはなったのだった。 (ワガママを言うお話/3年夏) |