御幸と凪沙の交際が全野球部員に知れ渡ってしばらく。二人一緒にいるだけでどこからともなく口笛だの野次だのが鳴り止まず、ついには監督を筆頭とする先生方の耳にも飛び込む始末。知ってて何も言ってこない監督も不気味といえば不気味だが、終始生温かな視線を向けてくる部長や高島には心底参った。そこで御幸は、怪我をいいことに尊敬するクリスの元へと逃げ込むようになった。勿論、クリスも誰から聞いたのかしっかり凪沙との関係は聞いていたようで。 「まさかお前たちが付き合っていたなんてな」 「いやあ……ハハ……まあ……」 まさかトレーニングセンターに来てまでそんな話を振られるとは思わず、御幸は思わず後ずさる。これがクリス以外であったら適当にいなすところだが、尊敬する先輩相手にはそうもいかず。 「だが、結果を聞くと不思議と腑に落ちるものだな」 「ハハ……そうっすか?」 「ああ。似た者同士、惹かれ合ったんだろう」 「……それ、すげえ言われるんですけど、俺らそんな似てます?」 「気付いてないのは当人ばかりか」 クリスからこういった話題を振られるとは思わず、御幸は居心地悪そうに口元を一文字に結ぶ。グラウンド上の強気な姿勢が嘘のよう名その表情に、クリスもまたくつりと笑んだ。 「で」 「で──とは?」 「実際のところどうなんだ? 上手くいってるのか?」 「ク、クリス先輩まで……」 「あいつらが聞き出してこいと煩いんだ」 それに、俺も知りたいしな、とクリス。それを聞いてますます困惑した表情を浮かべるのだから、全くもってからかいがいのある後輩だとクリスは思う。クリスたちとしても、一年の頃から大胆不敵に野球に挑む可愛げのない後輩が、年相応にからかわれ、慌てて、困る様子が面白い──もとい、可愛くてついついちょっかいをかけてしまうのだが。 流石の御幸もクリス相手には逃げ果せることも敵わず、大仰にため息を吐いた。 「そりゃーまあ、喧嘩とかはしないですけど……」 「なんだ、何かあったのか?」 「何もなさ過ぎて、付き合ってるって言っていいのかどうか……」 「……まあ、お前たちらしいといえば、らしいのかもしれないが」 クリスたちも、今更御幸と凪沙が不仲だとは思っていない。やけっぱちに結城相手に啖呵を切った御幸の雄姿は、その場にいなかったクリスの耳にもしっかり届けられていた。しかし、それほどの愛情があるにもかかわらず御幸の優先順位の頂点には『部活』が君臨しており、他は二の次という始末。だからやいのやいのと遠回しに口出しされるのだということに、御幸はあまり気付いていないらしい。青道野球部の中枢を担う彼らだからこそ、ちゃんと恋人としても幸せであってほしい──少なくとも引退をした三年生は概ね同じ気持ちだった。何人か愉快犯がいるのは事実だが。 「天城は現状に何も──言わないか、彼女は……」 「そうっすね……あいつほど物分かりがいい奴もいませんよ」 何せ御幸の故障を見抜いて尚、その覚悟を問いただしてグラウンドに送り出すようなマネージャーだ。青道の勝利と御幸の未来を天秤にかけ、迷わず前者を取った御幸を、彼女は静かに肯定した。感情ではなく、勝利でもなく、ただ御幸の答えを尊重した、あの頃と変わらぬ彼女の言葉が嬉しかった。故にこそ、デートだの何だのと浮かれる暇があったらバットでも振ってこい、とばかりに恋人らしさを何一つ求めることのない彼女との付き合いが、果たして世間一般的に『上手くいっている』かは、御幸には判断しがたい。 「だったらなおのこと、天城を大事にな」 「やー、分かってます、そこは、まあ……」 「野球にかまけて泣きを見た奴らは、腐るほどいるんだからな」 「ちょっ、怖いこと言わないでくださいよ、クリス先輩」 「ほう。流石のお前でも、天城に捨てられるのは怖いのか」 「……」 正直、天城凪沙が野球を優先する御幸一也に愛想を尽かす、なんて可愛げを見せるのは想像できない。とはいえ、世の中何が起こるかは分からない。故にこそ押し黙る御幸にいじめすぎたな、とクリスは少し反省した。仮にも怪我人だ、メンタルまでやられていては世話がない。 「冗談だ。彼女のいない男の僻みだと思ってくれ」 「またまた、思ってもないことを」 「そうでもないぞ。この年で誕生日は男だけで過ごすというのも、中々虚しいものだからな」 「……誕生日?」 「ん──いやすまん。御幸、お前今月じゃなかったか?」 誕生日、そう告げられて御幸は目を瞬いた。クリスの言う通り、十一月は御幸の誕生月で、そういえばちょうど来週だ。よく後輩の誕生日なんか覚えているものだと御幸は感心したが、クリスは逆に呆れ返った。 「お前、自分の誕生日も忘れていたのか……」 「いやー……ハハ……まあ、年に一回の話ですからね」 誕生日なんだから当たり前だろう、とクリスの呆れは加速する一方だ。御幸とて誕生日を祝われたことがないわけではない。だが、この年になると親からは電話と誕生日プレゼント代わりの小遣い、シニアの友人やマメな同級生からメールが来るの日、という認識しかない。ケーキにプレゼントに、なんて物に心を浮足立たせる時期はとうに過ぎていた。 「なら、天城にしっかり祝ってもらうんだな」 「しっかり、って……」 「──愛する人に祝ってもらうんだ、きっと特別な日になる」 予想だにしない、クリスの口からそんなセリフが飛び出してくるもんだから、御幸は面食らった。やっぱそういうところは西洋文化仕込みなのか、なんて彼の面影をほとんど感じさせない父親を思い描きながら御幸は曖昧に頷く他なかった。特別な日──か。思えば付き合ってから記念日だのイベントだのは初めて迎える。何が起こるかなんて想像すらできない。流石にメール一つ寄越さないほど薄情な彼女ではないと思うが、クリスの言う『特別な日』というイメージが全く思い浮かばず、ふわふわとしたその言葉だけが御幸の脳裏に引っ掛かったままになっていた。 そんな話をしたからだろうか。それとも、彼女もちゃんと時期を把握していたからだろうか。クリスと会った日の翌日、凪沙からこんなメールが届いていた。 『おはようございます。空気が乾燥しているので、声出し後の水分補給を忘れずに。ところでもうすぐお誕生日ですが、欲しいものありますか?』 朝晩、業務連絡のような恋人からのメールをチェックするのが、ここ数か月の日課だ。昨日の今日でのタイムリーな話題に、昨日の会話を盗み聞きされたのかと思ったほどだ。覚醒しきらないぼんやりとした意識の中で、眼鏡のないぼやけた視界に映る、何でもない話題が並ぶ携帯に向かって文字を打ち込むこのささやかな時間を、御幸は人知れず慈しんでいた。 『おはよ。水分補給、了解。欲しいものは』 そこまで打ち込んで、指が止まる。誕生日に欲しい物。欲しい物。欲しい物と、色々と思い浮かべる。脳裏にメモされている買い物リストを開く。グリップテープ、プロテイン、アンダーシャツ、グラブワックス──そこまで考えてから、多分そういうことじゃないなとメモを打ち消す。付き合っている相手からのプレゼントだ、消耗品を強請るのは流石に空気が読めていない気がする。そりゃあ、チームメイトに送るならまだしも──そもそも御幸は他人に誕生日プレゼントを選定した記憶がないのだが──、相手は恋人。では、ここで御幸が返すべき言葉とはなんだろうか。 五秒考えて全く想像つかなかった御幸は、メール画面を閉じてネットの海に漕ぎ出す。『プレゼント 高校生』などで検索すれば出るわ出るわのアイデアの海。だが、そのどれもがピンとこない。ペンケース──今使っているものがある──定期入れ──寮生活なので不要だ──スマホケース──御幸は未だガラケーだ──キーホルダー──アクセサリー──財布──服──鞄──。 『おはよ。水分補給、了解。欲しいものは特にない。任せる。無理はしなくていいから』 結局、ロクな回答も用意できずに起床時間となる。つまらぬ回答を送信し、御幸は眼鏡をかけてベッドからもぞもぞと抜け出す。彼女はあのメールを見て何を思っただろうか。困ったように眉を八の字に曲げる凪沙の顔がありありと思い描ける。だが、自分の誕生日すら忘れかけていた男に欲しい物をと言われても、出てくるはずもなく。 すると手の中の携帯が震える。メールの差出人は、凪沙だ。文句の一つでも言われるのかと、少しだけどぎまぎしながらメールを開く。 『承知』 武士かよ、なんてつっこんで一人で笑ってしまった。全く、彼女はつくづく、自分を笑わせてくれる。 *** そうして凪沙から特に欲しいものについて言及のないまま、十一月十六日を迎える。神宮大会目前だが、当然御幸はベンチに戻ることは許されず、せいぜい沢村たちの投球練習をチェックする他なく、ただただ体力が落ちないようランニングに専念していた。徐々に積もるフラストレーションだが、凪沙と共に歩くこの時間だけは忘れられた。相変わらず練習のことから授業のことまで楽しげに喋る凪沙を見て、毎日毎日よくまあ話題が尽きないものだと感心する。 そうして見慣れた道を二人で談笑しながら歩くこと十分、名残惜しくも今日も彼女の家に辿り着く。いつもならここでまた明日と笑う彼女の背を見送るところだが──今日は少し、様子が違うようで。 「あ、ねえ御幸くん。誕生日プレゼント、今渡していい?」 「今?」 「うん。取ってくるから、待ってて」 「それはいいけど……誕生日、明日なんですが」 「知ってるよ! じゃあちょっと待ってて!」 そう言うなり、彼女はダッシュで家に飛び込んでいく。相変わらず読めない彼女である。さてどうしたものかと落ち着くより先に、家の中からドタタタタッと階段を駆け下りるすさまじい足音がして、鼻を真っ赤にした凪沙が飛び出してくる。 「おめでとうは、また明日! とりあえず、これだけ持って帰って!」 興奮気味に頬を上気させ、学生鞄を放り投げてきたのか身軽になった凪沙を見て御幸は目を丸くした。凪沙は両腕で抱きかかえるほど大きな箱を持っているではないか。 「お祝いのメールは、夜、寝てるから、一番は無理──だと、おもって、でも、プレゼントだけでも、一番に、渡したくて!」 ずいっと箱を差し出しながら、息切れしながらも必死に言葉を紡ぐ凪沙。マネージャーたる彼女の朝は選手と同じぐらい早い、十七日きっかりに連絡を取るのは無理だという判断なのだろう。青心寮の就寝時間は二十三時、当然ながら御幸も寝ている時間帯だ。零時きっかりにメールや電話、なんてロマンスよりも互いの健康を取るあたり、なんとも凪沙らしくて、くつりと笑みが込み上げる。 「つーかデカッ! なんだこれ!?」 「寮で開けて! 大丈夫、変な物じゃないから! たぶん!」 押し付けられた箱は、見た目ほどの重量はなく、一キロほどもない軽さ。綺麗にラッピングされたその中身を拝むには、この寒空の下では適さないようだ。それよりも、語尾につけたされた言葉の方が気になった。多分?と聞き返せば、だってと凪沙は唇を尖らせる。 「男の子にプレゼントなんて初めてだから……御幸くんは案の定『特にない』回答だったし……」 「そこは折りこみ済みだったわけね」 「正直私も友達に『何欲しい?』って聞かれたら『特に何も』って言っちゃうから、気持ちは分からないでもなくて……」 「やっぱ普通そうだよな」 「だってほんとに欲しい物って自分で買っちゃうしね」 「そうそう。今困ってないのに欲しい物って言われてもな」 「『今手元にないけどあったら嬉しい物』ってめっちゃハードル高いよね。お菓子好きな子ならいつもお菓子あげたりするんだけど、御幸くん甘いのダメな人でしょ、すっごい悩んだ」 こういった時、二人の感性は驚くほど合致する。自分だって、凪沙にプレゼントを買うとなったらほとほと困り果てる未来が見える──来る来月にはクリスマスが控えていることを、御幸は都合よく忘れていた──。しかし、苦労した様子ではあるが、凪沙は終始楽しそうに笑みを絶やさない。 「でもね、プレゼント選びすんごく楽しかった!」 「大変だった、じゃなくて?」 「まあ大変でもあったけどさ。でもね、御幸くん喜んでくれるかな、使ってくれるかな、がっかりしないかなとか、いいことも悪いことも色々頭に浮かんでくるんだよね」 「それなのに、楽しいんだ」 「楽しいよ! ここ最近ずーっと御幸くんのことばっか考えてたんだよ!」 鼻息荒く、目を星空のように輝かせながら力説する凪沙は、今自分がどれだけ凄まじいセリフを宣っているか、自覚がないのか。息を呑んでフリーズする御幸を前に、寒さなんか彼方に吹き飛ぶような凪沙の柔らかい笑顔が煌く。 「寝ても覚めても好きな人のこと考えられるんだよ、そんなの楽しいに決まってる!」 ああ、本当に──本当に彼女の言葉は御幸を揺さぶるのが、上手い。そんなことを言われて、平静でいられる方がどうかしてるのだ。ぶわっと火が付いたように顔を赤くする御幸は黙って俯く。何を、なんと返していいのかさえ分からない。ただの誕生日。自分の意志とは関係なく、年に一度くる、ただの節目。記憶から抜け落ちる程度には頓着のないそんな日のために、彼女はこんなにも花咲く笑顔を浮かべて言うのだ。楽しいのだ、と。 「──なあ」 世界でただ一人、そんな熱情を向けられたからこそ、普段は思ってもいないような欲が芽を出す。こんなこと、久しく過ったことなどなかったはずなのに、ひとたび思い出してしまえばそれは穴底に落下するよりも早く自覚してしまう。彼女なら。こんな些細なことですら楽しんでしまう彼女なら、と、手を伸ばしてしまうのだ。 「おめでとうも、天城が一番がいいんだけど」 そんな、子どもじみた願い。誰かに祝って欲しいなんて、それも『一番に』だなんて、幾年ぶりに思ったことだろう。普段ならこんな下らないこと、絶対に口にしない。なのに今だけはそれがするりと口に出た。驚くほど恥じらいもなく、素直な思いとして凪沙に伝えられた。彼女は決して、御幸の願いを子どもっぽいと馬鹿にすることはないのだと、知っているから。 案の定、凪沙は「確かに」と頷いて、小さくはにかんだ。 「誕生日の前日に言えば、絶対に一番だね」 「まあ、あと数時間だし……誤差の、範囲だろ」 「一理ある!」 こんな下らない願いがあるのに、そこはお互い合理的な判断をするのが、なんともおかしな話だった。けれど凪沙はそれを無碍にすることはなくもう一度頷く。それから誕生日プレゼントを抱きかかえる御幸の手にそっと、触れる。 「──十七歳のお誕生日、おめでとう。御幸くん!」 日付はまだ十一月十六日で、御幸はまだ十六歳。それでも、好きな人に一番乗りにお祝いしてほしいからと、プレゼントもお祝いの言葉も前倒しにしてしまった。今日は決して『特別な日』ではないというのに。けれど、二人とも今更そんなことは気にしない。そうだ、クリスだって言っていた。誕生日が特別な日ではないのだ。愛する人に祝ってもらえる日が、『特別』なのだ──と。 なお、凪沙からの誕生日プレゼントは加湿器だった。『これで冬場を健康に乗り切ろう!』なんてバースデーカードが添えられており、大荷物で帰ってきた御幸を茶化しに来た部員たちは、家庭的というか実用的というか、甘酸っぱさの欠片もないプレゼントを見て天城凪沙という人間は一般的女子高校生とは少し異なる思考の持ち主なのだなと認識を新たにしたのだった。とはいえ冬場の乾燥は風邪の元。アイマスクにマスクという完全防備で眠る御幸にとってこれほどありがたいプレゼントはない。静かにもくもくと蒸気を吹き上げる加湿器を見ながら、また一つ思いが積もったのだった。 なお、加湿器の恩恵にあやかった木村からの凪沙の好感度は爆上がりしたとかなんとか。 (誕生日のお話/2年秋) |