御幸一也は借りさせた

 秋──それは体育祭のシーズン。だが、秋大を順調に勝ち進んでいた野球部は体育祭の開催日と大会が被って、本来であれば体育祭は不参加になるはずだった。だが、幸か不幸か体育祭の開催日は生憎の悪天候に見舞われ、延期に延期を重ねて結局体育祭が開催されたのは十一月末という寒風の厳しくなる時期だった。オフシーズンに入った野球部たちに逃げる術はなく、一年生たちはせっかくのイベントに参加できると歓声を上げ、上級生たちは『例の競技』を思い胃をぞわぞわとさせたのだった。

『──怪我してるなら、どう?』

 そんな御幸の嫌な予感は直撃した。体育祭の出場種目を再登録するHR中、クラスメイトの恐ろしい一言によりあわや御幸も悪名高き『借り人競争』に文字通り借り出されるところだった。『借り人競争』──文字通り、借り物競争の人バージョン。だが、お題が『恋人にしたい人』だの『可愛いと思う先輩』だの、伊佐敷曰く『青春ポイント全振り』の競技だ。その恐ろしさは全学年に周知されてはいるものの、それでも昨年川上や凪沙といった犠牲者たちが毎年野球部からも出る。その騒ぎを知っているからこそ、そういったからかいが苦手だからこそ、御幸は何としてでも出場を辞退する必要があった。

 痛めたのはわき腹なのでリレーなどの競技には支障がなく、部活中は寧ろずっとランニングをしていることを力説した結果、何とか御幸は『借り人競争』への出場を避けるのに成功した。去年自分が借りられるだけでもあんなに騒がれたのだ。自分が『借りる』立場になったらと思うと胃が捩れる。ましてや今の自分には天城凪沙という恋人がいる立場で、野球部の連中にもそれが知れ渡っており、事あるごとにヒューヒュー口笛を吹かれるのだ。凪沙を借りようが借りまいが、大騒ぎになるのは目に見えている。危なかったとここ一番の安堵の息を漏らす御幸に、倉持は盛大に舌打ちをした。ひとまず緊急事態は回避できた。あとは当日だけだ。

「つーわけで沢村、降谷、俺を『借りて』くれ」

「なんで俺らが『借り人競争』出るって知ってンんだよ!!」

「投手は大体怪我回避の名目で押し付けられっからな」

 夕食時に球馬鹿どもを捕まえてそう言えば、跳ねっ返りの沢村が噛みついてくる。試合中はあんなに素直にリードに従うというのに、どうして私生活ではこうなのか。今更なので、御幸も大して気に留めないが。

「先輩たちから聞いてっけど、お題次第じゃねっすかそんなの!」

「大丈夫。お前ら引き良さそうだし、イケるイケる」

 保険は二人分、どっちかはそれらしいお題を引けるだろう。残念ながら上級生たちの中に『借り人競争』に参加する勇者がおらず──川上は去年出たという免罪符のおかげか免除されたと聞く──、野球部以外の知り合いもいない御幸はこの投手二人だけが頼りだった。頼むー、と再度念押しすれば、降谷はこくんと頷き、沢村はムフーッとあの気の抜けた笑みを浮かべる。

「……僕は、別にいいですけど」

「仕方ねえっすね! 御幸一也に貸しを作れると思えば、安いもんだし!」

「なんだよ、珍しく素直じゃねえか」

 素直な後輩たち、これはこれで薄気味が悪いと感じるのだから御幸の感性も大概である。正直にそう告げれば、案の定沢村はむっとしたように目を三角にする。

「勘違いすんなよ! アンタのためじゃなくて、エンジェル先輩の為っすからね!」

 エンジェル先輩──そんなこっぱずかしいあだ名を未だに使ってるのか、この馬鹿は。と御幸は呆れる。下心がないと分かってるだけまだいいが、曲がりに恋人をそんな風に呼ばれるのは、どうにも複雑な気分になる。だがそれ以上に、この馬鹿にそんな気の使い方ができる方に驚いた。あれだけ『若菜』についてイジられても頑なに否定していたのだから、もっと鈍感極めていると思っていたのだが。

「アンタが他の人に借りられたら、エンジェル先輩が悲しむっすからね!!」

「……まー、あいつはそういうの気にするタマじゃねえけどさあ」

 海よりも心の広い恋人をの顔を思い出し、御幸は苦々しくそう呟く。何分彼女は嫉妬の『し』の字も見せない。未だ女生徒に声をかけられ、呼び出しがかかる御幸に凪沙は何一つ文句を言ったことがないのだ。寧ろ、呼び出す女生徒の度胸を褒めていたほどだ。そんな彼女が、御幸が借りられた程度でへそを曲げるとは思い難い。だが沢村はそうは考えていないらしい。

「何言ってんすか! エンジェル先輩のことですし、口では『気にしない』って言いやすよそりゃあ! 『モテる彼氏に素直になれないオトメゴコロ』って奴っすよ、きっと!!」

「そーいうもんかねえ」

「カーッ!! キャップ全然分かったねーっすよ!! アンタたまにはスコアブックじゃなくて少女漫画でも読むべきっすよ!! エンジェル先輩が可哀想っ!!」

「お前に言われたくねーわ、お前だけには」

 長野からわざわざ応援に駆け付け、何度となくメールのやり取りをする可愛い女の子に対して頑なに『幼馴染です』を貫くお前が何を言うのか、と御幸は心底『若菜』に同情した。そう言っても沢村は不思議そうに首を傾げるだけなのだから、性質が悪いと思う。

「そもそも、もっち先輩にもお兄様にもヒゲ先輩にも若大将にも師匠にも『御幸を借りてやれ』言われてんすよ、こっちは!! どんだけやべー競技なんすか、『借り人競争』って!!」

「……あ、っそ」

 なるほど。沢村にしては嫌に気が利くと思ったら、そういうことか。凪沙と付き合っていると知った時には散々からかい倒して、夜寝る間も構わず尋問させられたのに、気を使ってるのか、応援しているのか、はたまた凪沙が異様に可愛がられているのか。何にしても先輩たちも、そして副主将たる倉持も、妙な気を回してくれていたらしい。気持ちはありがたいが、これはこれで下手にからかわれるよりも気恥ずかしく感じる。

「……」

 そんな中で、話が分かってるのか分かってないのか定かではない降谷はいつにもましてぼーっとした表情をしている。ほんとに大丈夫かこいつら、と一抹の不安が過らないでもない。一応最後の最後に念押しをし、今日のミーティング終了となった。球を受けろ俺を見ろと煩い投手たちだが、凪沙の送迎を口に出すと恐ろしく素直に引き下がるので、恋人が慕われているのか御幸自身が舐められているのか未だ判断はつかない。恋人との数少ない二人きりの逢瀬なのだからと、気を遣う程度の優しさは彼らにもあるのだと信じたい。

 いつもの帰り道を二人で歩いていると、体育祭の話題が上がる。

「そういや、天城は体育祭何出んの?」

「去年と同じ感じ。リレー三種と短距離走……」

「流石体育祭の過労死担当」

「このクラスも……ブラックだった……!」

 運動神経に限って言えばそこらの運動部員よりもよっぽど光る才能を持つ凪沙だ。球技大会は逃げられたようだが、体育祭はきっちりお役目を全うするよう言いくるめられたらしい。球技大会よりは体育祭の方がビッグイベントであるし、仕方ないと条件を呑む恋人は優しくもあり、チョロくもあると御幸は思う。

「御幸くんは? 『借り人競争』にエントリーされかけたって聞いたけど」

「短距離だけ。俺、こう見えても怪我人だから」

「そのせいで倉持くんが私以上の過労を強いられてるのに、いけしゃあしゃあと……」

「いーじゃん。あいつ足だけは速いんだし」

 ニタニタ笑う御幸に、凪沙は心底呆れた顔をしている。曲がりなりにも怪我人の御幸に代わり、責任取れよ野球部という一声に倉持は御幸の分までこき使われることになった。頼むぜキャプテン代理、と声をかけた時の倉持の顔は、中々見ごたえがあるものだった。

「じゃあ、今年は平和に終わりそうだね」

「ま、そこは沢村と降谷次第だけどな」

「ほんとに職権乱用するとは思わなかったなあ」

「有言実行って言って欲しいんですけど」

 拗ねたようにそう言えば、凪沙はくすくす楽しげに笑う。昨年、散々痛い目に遭ったのだから、同じ轍を踏むまいと努める御幸を責めることはできないはずだ。凪沙も御幸がそういったからかいが苦手だと分かっているからこそ、それ以上茶化すことはなく。

「体育祭、楽しみだね!」

「……だな」

 御幸も頷く。正直、『借り人競争』なんて厄介な競技があるせいで中々純粋に楽しむことはできないが、それでも恋人の活躍が見れるのだと思うと、ほんの少しだけ凪沙の言葉に心から同意できた。普段マネージャーとして自分たちを懸命にサポートする彼女が逆に、脚光を浴びる姿を拝めるチャンスは中々ない。他の連中から妙な注目を集めるのはあまり面白くないと思う一方で、御幸もまた、凪沙が華々しくグラウンドで輝く姿を目にしたいという欲求はあるのだ。一年前の球技大会を思い出しながら、御幸はそんなことを思ったのだった。



***



 そして迎える青道での二回目の体育祭。早々に出番の終えた御幸は倉持と共に昨年同様野球部員ばかりで集まって応援という名の野次を飛ばしていた。そんな中で、御幸の想像通り凪沙の活躍は目覚ましいもので、昨年の球技大会を知らぬ後輩たちは、夢を見ているのかとばかりにマネージャーの雄姿を見つめていた。いかにも文系少女といった見た目の凪沙が、陸上部員と互角のスピードでトラックを駆け抜ける姿は、やはり何度見ても違和感しかない。だが、リレーにしろ短距離走にしろ、一位や二位の旗を掲げればA組の生徒たちは大いに盛り上がり、それを見て満足げに笑う凪沙を見ると、体育祭も悪くない──御幸はそんなことを考えた。

 だが、それも『借り人競争』が始まるまでの、束の間の心穏やかな時間だった。一年生から順に走者が集められる中で、御幸はひたすら神に祈る。どうか誰かに借りられる前に、沢村か降谷が自分を借りに来ますようにと。試合中でも見せないほど真剣な眼差しで位置につく後輩を睨む御幸に、同級生たちはからかいの声をかけることもできず。それほどのオーラがあったと、後に白洲と川上は語る。そしてピストルと共に駆け出す走者たち。頼む、と今一度御幸は天に祈った。

 すると。

「キャップ〜〜〜〜〜〜〜!!」

 流石──流石すぎる、沢村。グラウンドの端から端まで聞こえるような馬鹿デカイ声が、御幸を呼んで手を振っている。でかした、と御幸は迷いなく沢村の方へと駆け出す。

「いやー、ここでこれ引いちゃうかー。こんなにもキャップに相応しいお題を引いちまうかー! それもこれも、この沢村栄純の日ごろの行いが──」

「わーったわーった。感謝してるっての」

 後輩に貸しを作るのはあまり得策ではないが、この場合は背に腹を変えられないことを御幸はよくよく知っている。ほら行こうぜ、と応援席の椅子を避けながらグラウンドに踏み込もうとした時、いつものようにぼんやりした表情をした降谷が、二年生のクラスの方へ駆け出したのが見えた。あいつはあまりからかい甲斐はなさそうだな、と他人事ように思っていた。その時だった。

「天城先輩」

 ──聞きなれた声が、聞き捨てならない名前を呼ぶのが耳に飛び込んできて、思わず沢村共々振り返ってしまった。降谷がいつもと変わらぬ様子で、二-Aの席でマネージャーの梅本と夏川と一緒に座っている凪沙に声をかけていた。当の凪沙は目を丸くしたまま呆然としていた。

「──え?」

「先輩……?」

「え、いやいや、え? 降谷くん?」

「天城先輩を借りに来たんですけど……」

「ええ……?」

 梅本も夏川も信じられないとばかりに目を見開いており、気まずそうに御幸に視線を寄越す。というか野球部全員が漏れなく同じ反応だ。金丸に至っては倒れかねないぐらい顔が青い。普段ならここでワーキャーといった悲鳴の一つでも上がるところだが、相手が相手なだけにA組の面々も声が出ない状態だ。当の降谷と凪沙だけが、照れや恥じらいなど一切見せぬまま、互いに顔を見合わせて困惑した様子。渋る凪沙に降谷がお題の紙を差し出す。だが、それを見た凪沙はますます困惑したように眉を顰めた。

「ほんとに私なの……?」

「はい」

「降谷くん、あそこで私を連れてきた理由話すんだよ……?」

「分かってます」

 迷いなく頷く降谷に、凪沙は今度こそ言葉を失っていた。奇妙な沈黙が数秒続いた後、凪沙は意を決したように立ち上がる。

「分かった。行こうか」

「はい」

 そうして椅子から立ち上がり、降谷の後を追ってとことこと駆け出す。そんな凪沙はついぞ御幸を見ることはなく。沢村の声に促されるように、御幸もまた駆け出す。前方を走る大きな背中と小さな背中。そして横を走る沢村は死ぬほど気まずそうで、ぐぬぬと猫のような目つきになっている。沢村ですらこの状況のまずさに気付いているというのに、前を走る降谷が何を考えているか御幸にはとんと分からない。

 というか──失礼極まりない話であるが──降谷が凪沙を『借りる』まで、自分の恋人が借りられるという可能性を全く考えてなかったことに、御幸は驚かされる。どんなお題だったかは分からないが、凪沙の渋りようを見るに、実に『借り人競争』らしいお題だったことは容易に想像がつく。まさか後輩に、しかも堂々と宣戦布告されることになるとは思わず、御幸の顔はどんどん険しくなる。凪沙が降谷に取られるなんて思ってはいないが──いや、可能性としてはなくはないのだろうか。野球の顔とも言える投手、一年にしてエースだ。やや天然の気があるも、顔立ちだって悪くないし、背も御幸より高い。あれこれ考えれば考えるほど、これはまずいのでは、なんて不安が過る。いや、凪沙はスペックで人を見るような人間ではない。だが──しかし──。

 そうこうしているうちに、降谷と凪沙ペアが審査員席に辿り着く。鼻息荒くお題の紙を見た審査員は、マイクを通して高らかに叫ぶ。

「さて一番乗りは一年野球部エースの降谷くん! お題は──おお、『愛らしいと思う人』ですね! お隣はマネージャーさんですか? さあさあ、彼女のどこが愛らしいと思うのか、一言お願いします!」

 読み上げられたお題は、まあ想像の範疇内。野球部集団からは『降谷のアホ〜〜〜!!』『何考えてんだあいつ!!』『御幸先輩に殺されてえのか!!』といった怒りと焦りに満ちた眼差しが飛んでくる。横の沢村も同様だ。だが、当の降谷はいつものようにスンとした表情でマイクを受け取る。一瞬の沈黙。誰もが降谷に注目する中で、降谷は表情一つ変えずに口を開く。

「……先輩、足が速くて」

 足が、速くて。ぼそぼそとした、相変わらず覇気のない声がそんなことを言いだし、審査員から凪沙、御幸含めたほぼ全員の目が点になる。こいつ、お題が読めているのだろうか、と。

「いつもあちこち駆け回って仕事してて……先輩、小さいし……」

「ちいさい……」

「それが……豆柴みたいで、『愛らしい』と思いました」

「ま、まめしば……」

 降谷の説明に、審査員は目を白黒させながら凪沙と降谷を見比べている。どう見ても、凪沙は特別『小柄』な体躯ではない。上背は他のマネージャーとさほど変わらない、平均的身長だろう。そりゃあ、百八十センチを超える降谷から見れば百六十そこそこの身長など全て『小柄』に見えるのかもしれないが……。

 凪沙が目を点にしながら困惑した表情を浮かべている。確かに、無邪気に笑う姿やボーゼンと立ち尽くす姿が犬っぽい、と思わないでもない。降谷はこれ以上何を説明しろと、とばかりの圧でずいっと審査員にマイクを返した。降谷節が留まるところを知らない。マイクを押し付けられた審査員は、どうしたものかと考えるそぶりを見せたが、やがてこう言った。

「──合格! 感性は人それぞれ! さあ、ゴールへどうぞ!!」

 仮にも人の恋人になんつー言いようだと御幸は思わないでもなかったが、降谷は満足げに頷いて凪沙を連れてゴールテープに向かって駆け出した。沢村・御幸ペアもまた、お題を読み上げられ──お題は『殴りたい先輩』だったので、声高らかに御幸の悪口をのたまう沢村にいい度胸だと一発背中に叩き込んでやった──、そのまま二位でゴールを決めた。

「降谷、お前なあ……」

「?」

 走者と『借り人』は順位の書かれた旗を手に待機列に並べられる。『借り人』が一人に集中しないようにするためだ。ワンツーフィニッシュを決めた野球部四人は顔を突き合わせた。降谷だけが自分の何がまずかったのか全く理解してない様子で、首を傾げている。

「お前も、知ってんだろ」

「何がですか?」

「……え、なに。まさかこいつ、知らねえの?」

 あまりに素直すぎる反応。まさか知らないなんてことがあるのか、と御幸は沢村の顔を見る。数か月以上秘密にされていた二人の交際が白日の下に晒された時、寮中の人間が御幸の部屋に押し寄せるぐらい大騒ぎになったのだ、知らないわけがない。が、相手が降谷だと思うと──正直、ありえなくもない。どうも降谷は他人に流されないというか、いい意味でも悪い意味でもマイペースなきらいがあるからだ。しかし凪沙はそんなまさかと降谷を見る。

「え、嘘だあ、降谷くん。私と御幸くんが、えーと、付き合ってるの、知ってるよね?」

「はい」

「お前知っててエンジェル先輩連れてきたのか!?」

「沢村くんはいつまでその呼び方引きずる気かな!?」

 そっちの方が恥ずかしいよ、と凪沙。ぎゃあぎゃあ言われ、ようやく事情がおかしいと感じ始めたのか、降谷はこてんと首を傾げた。

「僕が天城先輩を借りたら、他の人は天城先輩を借りれないんですよね?」

「え──」

「御幸先輩は出場しないって聞いたので……そういう、ルールですよね?」

 コミュニケーションが苦手な、降谷らしいたどたどしい言葉。これは、つまり、要約すると──。

「……わ、私の、ため?」

 恐る恐るといった体で凪沙が尋ねると、降谷はコクコクと無言で頷いた。確かに、降谷の言うように、凪沙を借りてしまえば他の人間が『借りる』ことはできない。御幸は自分が借りられることしか考えてなかったが、凪沙が他の誰かに借りられていたら。彼女に好意を持つ男が、他にいたら。降谷はそんな可能性を潰すために、凪沙を『借りた』としたら──。

 珍しく、後輩に行動で諭された御幸は、大人しく項垂れる他なく。まさか降谷がそこまで考えているとは思わなかった。情けない。後輩たちの方がよっぽど凪沙を思っているではないか。自分のことばかり考えて、勝手に降谷に苛立ちを覚えるなど、どれほど傲慢なのか、と。なお、後日発覚したのだが、これは降谷の独断ではなく小野の入れ知恵だったという。そうとも知らず、流石は俺のライバル、と謎の賛辞を贈る沢村を尻目にちらりと凪沙の様子を見る。当の凪沙はのほほんとした様子で、

「デキる後輩に囲まれて、幸せだねえ」

 なんて能天気なことを言ってる。凪沙は凪沙でもっと思うところがあっていいはずだが。

「お前さあ……」

「ん?」

「……いや、」

 御幸の言葉に凪沙はにこりと微笑むだけ。情けないだのなんだのと、思う御幸の不安など微塵にも思ってなさそうな、朗らかな顔。先ほどまでの困惑顔はどこへやら、にこにこと楽しげだ。しかし次の瞬間、くるりと興奮気味な表情に一転する。

「見て見て! 楠木先輩が借りられてる!」

「なぬっ!!」

「ほんとだ……」

 凪沙が指差した先には、野球部の先輩である楠木が小柄な女の子に借りられている。沢村も降谷も、『借り人競争』らしく大注目される二人に興味津々だ。

「天城」

「ん?」

 そんな騒ぎの中、隣にしゃがみ込む凪沙を呼ぶと、視線だけをこちらに向ける。顔は、クラスメイトや友人たちにヒューヒュー騒がれる楠木たちの方に向けている。ついには楠木も頷き、小柄な少女に手を引かれてグラウンドに足を踏み入れる二人の男女にパチパチと拍手を送る凪沙に、そっと耳打ちする。


「来年は絶対──俺が、『借り』に行くから」


 そうだ、簡単な話だったのだ。去年も、今年も、そうすればよかったのだ。先輩に、同級生に、後輩にまで、気を使われて、御幸はようやく自分の馬鹿さ加減を自覚した。そうだ、最初からそうすれば、自分が借りられるだの、彼女が借りられるとか、そういう下らないことにモヤモヤする必要はない。死ぬほどかわかわれるだろうが、付き合ってるのだから文句の言われようはない。そうだ、照れたり恥ずかしがったりするから他人もつけあがるのだ。堂々と振る舞っていればいいのだ。彼女のことを常に可愛いと、愛らしいと思っているのだと──凪沙自身も、思い知れば、いい。今はまだそんな度胸はないけれど。きっと来年には、彼女と二人で。

「うわっ!? エンジェル先輩顔真っ赤!! 風邪っすか!?」

「……保健室、行きますか?」

「だ、だいじょぶ、だいじょぶだから……」

 もはや他人の様子を気にすることができなくなった凪沙は、俯いたままフルフルと震えている。顔は真っ赤だ。後輩二人に囲まれてぎゃいぎゃい騒がれ、凪沙はますます縮こまっていく。こんな下らない約束に、そこまで照れられるとは思わず、それが伝染したように御幸の顔も熱くなる。がしがしと頭をかきながら、御幸は小柄な少女がマイクを向けられ、楠木を連れてきた理由をぼそぼそと口にするのを見やる。ああそうだ、あれもやらなきゃいけないのかと──けれど。

 凪沙となら、最後の最後で馬鹿騒ぎに興じるのも悪くないと、思ってしまう程度には──御幸もまた、浮かれてしまっていたのかもしれない。

(体育祭のお話/2年秋)


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