12

そんなこんなで月日は流れてハロウィーンの朝、土曜日。相変わらず慣れぬ手つきを携えつつジョギングを終えた私は部屋に戻り、筋トレを終えてから一風呂浴びて、授業の予習を行う。それが済んだらロンやハーマイオニーと朝食へ向かった。道すがら、みんな浮足立ちながらも、私に気を使ってかあまり騒がないようにしてくれているようで、嬉しい半面、申し訳なくなった。

ロンも何だかんだ私に気を使ったのか、スキャバーズの話を持ち出さなくなり、ハーマイオニーとの確執も水に流したようだった。



「お土産買ってくるわね!」

「ウン、たーくさん!」

「私のことは気にしないでって。いいから、ホラ、支度は済んだの? もうそろそろ馬車が出るんじゃないの? ホラホラ〜」



流石にハリーのように拗ねるほど可愛い精神でないし、気にしてないのは本当のことなのだ。私は心配そうにこちらを見つめる二人の背中を押して、玄関ホールまで見送る。今日も今日とてシュバルツをフードに押し込んで、背中に温かさを感じつつフィルチに連れられて旅立つ生徒たちを見送り、私は踵を返して階段を駆け上がる。

三年生以上の学生はほとんどホグズミードに行ったらしく、城内は静けさを保っていた。廊下を歩いていてもほとんど誰ともすれ違わない。注目されることもない。なんて静かなんだ、ずっとこのままで居て欲しいくらい、なんて思いながらシュバルツをフードに入れたまま私は四階に向かう。たんたんとリズミカルに階段を登っていく最中、踊り場に出たその時、上から誰かが駆け下りてきたのでくるりとそれを避けた。



「わっ!」

「!」



その人物は踊り場でつんのめるが、手すりを掴んで何とかバランスを崩さずに済んだ。そしてその人が振り返る。ああ、顔を見ずとも分かる、教員の中でただ一人、ツギハギだらけのボロボロのローブを着たその人。私が探していたリーマス・ルーピン先生、その人だった。



「ルーピン先生!」

「やあ、アシュリー。おや、ロンとハーマイオニーは?」

「ホグズミードです」

「ああ、そっか。もうそんな時期だったね」



ルーピン先生は、その名を懐かしげに呟いた。うん、今日も今日とて、先生は変わらない。多少顔色が悪くなっているのはもう半月を超えたからか。それでも一介の生徒に対しても、裏のないにこやかな笑顔を浮かべてくれる。爪の先だけでもいい、その愛想をスネイプに分けてやって欲しいレベルだ。

そういえば、こんな風にルーピン先生と話すのは随分久しぶりだなあ。そりゃそうか、誰かに告白されたり、授業の予習復習に専念したり、クィディッチの練習があったりと、何かと忙しい私は、汽車以来ルーピン先生とサシで話すどころか、会う事も無かった。ま、ハグリッドと違い、ほぼ初対面の生徒と先生なのだし、当然といえば当然だが。

……じゃなくて。



「先生、今お時間ありますか? その、お願いしたいことが……」

「ああ、いいとも。授業の事かな、さあ、おいで」



頼みの内容は何も言っていないのに快諾してくれるルーピン先生、なんて良い人なんだ。にこやかに笑うルーピン先生を見上げ、素敵な紳士だなあと感動しながら、ルーピン先生についていった。ロックハートや身体は同年代の異性を思うと、何も間違いが無い、と思える相手のなんと楽なことかとしみじみ思う。そうしてついていった闇の魔術に対する防衛術の教室を通り抜け、ルーピン先生の事務室に向かう。

部屋はバブリング先生と対極を行くかの如く、片付いている。しかし、物は多い。物っていうか、授業に使う生き物が多いって感じだな。大きな水槽には君の悪い緑色の生き物がぷかぷか浮かんでる。《水魔》って奴か、緑色の歯を剥き出しに威嚇する生物をちらりと見やりながら、ルーピン先生に促されるがままに部屋に案内される。



「紅茶はどうかな?」

「頂きます」

「すまないが、ティーバックしかないんだ。……けど、お茶の葉はうんざりだろう?」

「……ご存知なんですね」



ヤカンを手にしたルーピン先生の背中を見ながら、そんなことを言うので、困ったように笑みを浮かべてみせた。



「マクゴナガル先生が教えてくれたよ。尤も、君はそんな占いなんてちっとも気にしてないみたいで、先生と二人で笑ってしまったよ」

「気にしてませんよ。キリないですし」

「君は強い子だ」



そんなことないんだけどな、と思いながらソファの背もたれにもたれかかる。その時、むぎゅっと潰れる柔らかい感覚。しまった、シュバルツがフードにいるんだった!



「うにゃあ!」

「ご、ごめ、シュバルツ―――うわっ!」



シュバルツは不機嫌になったのか、フードをよじ登って出てくると、私の足元にすとんと飛び降りた。ルーピン先生を威嚇してるのか、大きく毛を逆立てている。やべえ、いくら温和なルーピン先生の前っつっても、目の前の校則違反を堂々と無視するとは思えない!



「ん、アシュリー。君のペットかい?」

「え、ええ、そうです」

「はは、ご主人様を守ろうとしてるらしい」



威嚇するシュバルツに、ルーピン先生は朗らかに笑い飛ばした。あ、あぶねー。先生はどうやら、私がヴァイスというふくろうを飼っていることを知らないらしい。しかし、普段は大人しく、長年の飼い猫以上に人慣れしているシュバルツがこんなに気が立ってるのは珍しい。

いや―――彼が気を立てているのは、目の前にいるのが見知らぬ人だからではない。先生が最も隠したがっている秘密に、本能的に気付いているからなのか。



「とはいえ、私は昔から動物に嫌われていてね。ただ単純に、この子は私のことが嫌いなだけかもしれないが」



どこか寂しそうに肩を竦め、ヤカンをこちらに運んでくる先生に、私は曖昧に微笑むだけだ。縁の欠けたマグカップを手に取りながら、威嚇するシュバルツがルーピン先生に襲い掛からないよう、足でガードしながら、紅茶が蒸らし上がるのを待つ。



「それでアシュリー。私に頼みたいことというのは?」



ああそうだった。今回はその件で訪ねて来たんだった。少し、大きく深呼吸する。大丈夫、私は立ち止まるわけにはいかないのだから。ぐっと唾液を呑み込み、私は真っ直ぐにルーピン先生を見つめる。



「私を、《まね妖怪[ボガード]》に会わせて欲しいんです」



蒸らし上がった紅茶が入ったカップに手を伸ばしたルーピン先生の手が、一瞬だけ止まった。が、すぐにカップを手に取って一口つけると、どこか肩を落としたように私を見つめ返した。



「それは、どうして?」

「私、その……入院してたせいで、先生の最初の授業に出られなかったじゃないですか。私、その、この授業すごく好きです。なるべくなら、テストで良い点を取りたいと思って……」



あ、そうだ、入院で思い出した。私はばっと膝に目を落とし、いやいやこれは目を合わせなきゃ、と思い直し、再び顔を上げる。



「そ、その、マダム・ポンフリーから聞きました! わ、私、迷惑かけたみたいで―――怪我も、させてしまったと、本当にすみませんでした!」

「ああ、そのことか。別にいいんだよ、アシュリー。まあ、君の身体の何処にそんなパワーがあるのかと驚いたのは、事実だけどね」



ぱちん、とウインクを飛ばされ、申し訳無さと恥ずかしさで、更に縮こまってしまう。来るべき戦いにと鍛え上げたこの身体は決して大きくなることはなかったが、パワーだけは大人並にあるらしく、本気で暴れれば大人でも抑えつけるのが難しい……ようだ。身を持って証明できたのは嬉しいことだが、やはり申し訳無さとほんの少しの恥ずかしさが私を襲い、肩を落とす。

ルーピン先生は私を見て思い切り朗らかに笑い飛ばしてから、取っ手が外れそうなティーカップを置いた。



「いいだろう。けれど、私の立ち会いの元でだ、いいね?」

「……それは、」

「《まね妖怪》―――M.O.M分類は三だが、決して低くない数値だ。いくら君が優秀な学生とはいえ、危険な生物を教師の立ち会い無しで戦わせるわけにはいかない。それとも、見られて困る理由でも、あるのかな?」



どこか、含んだ笑みを見せるルーピン先生に、私は身体を強張らせる。見られて困る理由―――が、ないわけではない。今の私が《まね妖怪》を前にしたら現れるモノは、恐らくだが分かっている。それを見たからと言って、ルーピン先生が何を気付く訳でも、何を悟る訳でもない筈だ。

……けれど、やはり、アレが現れることを考えれば、あまり人に見せたいものではないし、そもそも人に見せられる姿になっては出てこないだろう。私は一瞬頭を悩ますが、ルーピン先生は梃子でも動かない、といった空気だ。仕方ない、多少のリスクは承知の上。



「分かりました。お願いします」

「よし、アシュリー。準備をするから、教室の方で待っていてくれるかい? 私は、トランクに詰めた《まね妖怪》を持っていくから、机でも片付けてくれてると嬉しいかな」

「はい!」



そうして話が決まり、私は未だに警戒心を解かないシュバルツを抱き上げたその時、コンコン、と控えめなノックが聞こえ、慌ててシュバルツをソファのクッションの下に滑り込ませた。そして一間置いて現れたのは、スネイプだった。あぶねー、スネイプはヴァイスの存在を知っている筈だ、シュバルツ隠しておいて良かったー!



「ああ、セブルス。どうもありがとう、このデスクに置いてもらえるかい」



ルーピン先生はトランクを抱えていて手が空いていないようで、そのようなこと頼む。スネイプは無言で煙の噴き上がるゴブレットをデスクに置いて、少し驚いた顔で私に一瞥くれ、そしていつものように何を考えてるのか分からない暗い瞳を私から外して、ルーピンを見る。



「ああ、アシュリーと、今から《まね妖怪》の補習授業を行おうと思ってね」

「それは結構。……ルーピン、すぐ飲みたまえ」

「はいはい、そうします」

「一鍋分煎じた。もっと必要とあらば」

「多分、明日また少し飲まないと。セブルス、ありがとう」

「礼には及ばん」



そう言ってスネイプはさっさと出て行った。

スネイプの足音が遠ざかったのを確認して、シュバルツをクッションから解放した。ついにはフーフー唸り出すシュバルツに、機嫌悪いなあ、なんて思いながら抱き抱える。ルーピン先生はトランクを一旦地面に置くと、肩をがっくりと落としながらゴブレットに手を伸ばす。



「砂糖を入れると効き目が無くなるのは残念だ」

「不味いんですか?」

「そりゃあもう。私は薬を煎じるのが苦手でね、どうして砂糖を入れると効き目が無くなるのか分からないのが、運の付きだったかな」



そう言いながら、顔を顰めて脱狼薬を飲むルーピン先生。私はシュバルツを連れていったん事務所から出ると、シュバルツを左手に乗せ、右手で杖を抜いてから闇の魔術に対する防衛術の教室の机や椅子を魔法で片して、広い空間を作る。こういう時、魔法ってホント便利だわ。

此処で待っててね、と積み上げたテーブルの傍にシュバルツを起き、振り返れば、ゲッソリした顔のルーピン先生が大きなトランクをやってきた。うん、相当不味いんだろうな、脱狼薬。顔見ればすぐに分かる。



「酷い味だったよ。さあ、アシュリー。始めようか」

「はい」

「杖は、もう出しているね。オーケー。一応知っているとは思うが、呪文は平気だね?」

「リディクラス、と」

「よろしい。授業ならグリフィンドールに十点を上げているところだ。さて、アシュリー。合図をしたら、私が《まね妖怪》の死角からトランクを開ける。すると《まね妖怪》は、君の一番怖いと思う物が出てくる。此処までは良いね?」

「はい」



あえてルーピン先生は、《まね妖怪》が何になるかとは聞かなかった。ま、見ればすぐに分かるだろう。ドクドクと嫌な音を立てる心臓を手で押さえ、一度深呼吸をする。大丈夫、きっと大丈夫。私はもう、こんなものに屈しないと決めたのだから。これからたくさん、迷い、傷つき、折れることがあると思う。

けれど、同じ過ちだけは―――もう、繰り返さない。そんなことでは、私は一生前に進むことが出来ないのだから。



「準備は良いかな?」

「お願いします」



その声と共に、私は杖を真っ直ぐに構え、ルーピン先生がトランクのロックを外し、ガチャリと口を開けた。そして飛び出してきたソレに―――ルーピン先生は、大きく目を見開いた。

ああ、やはりこうなるんだね。コツリ、と靴を鳴らして私は一歩前へ出る。目の前に居るのは《まね妖怪》、そんな明白なことは分かっている。けれどそいつが取った姿はかつてハリーが思い描いたヴォルデモート卿でも、ましてや今から必要になる筈の吸魂鬼でさえもなかった。



『どう、して……』



肩にかかる艶のある黒髪。少しだけ高い身長。顔立ちはどこにでもある東洋人のもの。絶望に塗れた問いかけを投げる、今はもう聞き慣れない日本語を口にする目の前の《まね妖怪》が取った姿は、まぎれもなく、みぞの鏡でも確認した生前の“私”の姿だった。

―――トラックに撥ねられた直後の、だが。



『どう、してだよ……ッ!』



私は、自分が撥ねられた姿を見た訳ではない。当然だ、撥ねられてすぐに死んだのだ。自分の姿を客観的に見ることなんて出来ない。だからきっと、これは私の想像。

赤い血がべっとりとついたその艶めいた黒髪も、明後日の方向に向く左腕も、膝から先のない右足も、十指十爪全てバキバキに折れて関節人形の様な曲がり方をした指も、肩から飛び出す血に塗れた細く白い骨も、肉がゴッソリ抉れてピンクと赤の中身が剥き出しの頬も、眼窩から飛び出して視神経だけが繋ぎ止めてくれている零れ落ちた右の眼球も、もはや原形さえも留めていない左目から額にかけて潰された頭部も、全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部全部ぜんぶ偽物で、まやかしなのだ!



『嘘つき……ッ!!』



そんな今にも砕け散りそうな身体を引き摺って、“私”は私に縋りつくように歩き寄ってくる。ああ、ルーピン先生がとても驚いた顔で私と《まね妖怪》を交互に見ている。スプラッター映画でもお目にかかれないようなグロテスクな物体に、流石のルーピン先生も驚いたのかな。なんて。



『お前は忘れないって約束したじゃないか……』

『全部全部、背負ってくれるって思っていた……』

『だから“私”は安心したのに……』

『なのに、今のお前はなんだ……!』

『“私”を、“私”たちを忘れて、幸せになっているなんて!』

『そんなの許せない』

『許してなるものか』

『お前は幸せになんかなれないんだ』

『罪に穢れ、血に塗れたお前がどうして』

『ウソツキ』

『ひどいよ、“私”』

『ユルセナイ』

『誰もお前なんか信じない』

『ウソツキ』

『お前を忘れることのできるその日まで』

『ユルサナイ』

『“私”は一体、どこに行けばいい』

『ウソツキ』

『どうして置いていくんだよ……』

『ユルサレナイ』

『お前だけが救われて、残されたみんなはどうなる』

『ウソツキ』

『どうして』

『どうして』

『ドウシテ』

『クルシイ』

『カナシイ』


『タスケテ―――』



呪詛を吐き続けながら、私の脚に絡みついてくる“私”。口から吐き出す聞き慣れない言葉をルーピン先生が解さないのは助かった。純英国人が、極東の言葉なんて知ってる筈もないけれど。

ああ、やはりこれが、私の一番怖いものか。血に塗れ、記憶さえも捻じ曲げて見せるこの姿こそが、私が最も恐怖するもの。恐怖しなければならないもの。まさに死に直面した“私”。私が“私”だった頃の、最期の瞬間。いや、死の記憶を呼び起こし、私が想像し、私が創造した、“私”の最期。そう、これはまやかし。自分の最期の姿を私が知っている訳が無いのだから、この凄惨な姿は私の想像。痛みと悲しみ、絶望から私が組み上げただけの虚記憶に過ぎない。



『ねえ、どうして、どうし―――』

『煩いな』



私は分かっていた。《まね妖怪》がコレになるのだろうと。死を呼び覚まし、我を忘れて先生方に怪我を負わせてまで暴れまわり、ロンとハーマイオニーに泣き付いたほど恐怖した、“死”。それが具現化した姿が、コレだ。“私”だ、“私”の死に様の幻だ。

けれど―――私は、“アシュリー”はこれではダメなのだ。《まね妖怪》には、もっと別の姿を取ってもらわなければならないのだ。そう、だって、この一年で私は守護霊の術を身につけなければならない。けれど流石に本物の吸魂鬼相手にそんな練習は出来ない。何としてでも、《まね妖怪》には吸魂鬼の姿を模してもらわなければ困るんだ。

だから私は、呪詛飛び出す半開きの口に杖を突っ込んだ。



『あ、グ……ッ!』

『黙れよ』



不思議なものだ。心は冷静沈着なもので、私の視線は冷ややかだった。死に怯え、私を恨み、恐怖を植え付けようと迫る《まね妖怪》に、私の心はぴくりとも動かない。はは、そりゃそうか。こんな、こんな作り物で、まやかしの恐怖、私が慄く筈が無いのだ。まだ、吸魂鬼に直面した方がまだ恐れを感じたものだ。

私は、死ぬことが怖い。一度体験し、思い出してしまったあの“死”を味わうのは、もう二度とご免だ。それは、今も尚、変わらない恐怖だ。ああけれど、ねえ、《まね妖怪》。私を本当に怖がらせるなら、“私”に成ってはならないのだ。だって“私”はもう死んだ。友人を庇い、ダンプカーに撥ね飛ばされ、世界が黒に塗りつぶされていく恐怖の中、死んだのは“私”だ。私ではない。“アシュリー”ではない。私は生きている、“アシュリー”は生きている。死んだ“私”なんかじゃないんだ。そんな大切なことを、気付かせてくれる人がいたんだ。

どう足掻いても、“私”が二度死ぬことはないんだよ。



『じゃあ、“私”は“ダレ”なんだよぉお……』



私の記憶を読み取ったのか、《まね妖怪》はそんなことをのたまう。

私は誰―――か。ホント、誰なんだろうね。そんなの、私が一番知りたいに決まってる。私は“私”なのか、“アシュリー・ポッター”なのか。それともどちらでもない私なのか、あるいはそれですらないのか。何を以て『私』と定義するのか。何を以て『私』を定義するのか。そうして拡散し、収束していくはずのアイデンティティをいくつも内包した私は、一体誰で、『何』なのか。それはきっと、まだ分かる筈も無くて。

ただそんな私にも、一つ分かることがある。確かなことがある。明白なことがある。今は、この瞬間―――私が守護霊の呪文を得るその時までは、《まね妖怪》の前で、“私”を前に出してはいけないのだ。“私”が恐怖するものが吸魂鬼でない以上、私が恐怖するものが吸魂鬼である以上、私はこいつの前だけは私のままで、アシュリー・ポッターを強く保たねばいけないのだ。例えそのせいで薄れゆく記憶があるとしても―――なあ、“私”、もう決めたろ。喪くしていく記憶を犠牲にしてでも、今生き残る術を得なければ全てが無意味なんだって。

だからその問いかけに、私は今はこう答えるのだ。





「―――リディクラス[ばかばかしい]





問いかけ自体が、愚かなんだって―――ね。

バチン、と杖先がスパークし、口の中に杖を突っ込まれた《まね妖怪》はその勢いのままゴロゴロと教室の隅に勢いよく転がっていき、ガツンと教室の壁に頭をぶつけた。それでも尚こちらを驚かせようと《まね妖怪》は再びこちらに襲い掛かってくる。くるくるとその姿はアニメのコマ送りするかのように姿を変えて―――ついに来た。ヒヤリと空気を冷やすその存在。大きな柳の様に、ユラリユラリとその場に佇むその姿。

“私”ではない。『私』が今、最も恐怖すると思うその存在。それと同時に、最も渇望していたその姿に、私は杖を構える。その瞬間、目の前がまるで濃霧に包まれたかのようにホワイトアウトする。霧の奥からは、二つの声が響いてくる。



『アシュリーだけは! どうか、アシュリーだけは!』

『どけ、馬鹿な女め……さあ、どくんだ!』

『アシュリーだけは、この子だけはどうかお願い。私を、私を代わりに殺して―――!!』



ハッキリと聞こえた。汽車で聞いた、懐かしき親友の声ではない。温かくも、凍りつくような記憶の奥底に眠る声。目の前が白い靄に包まれたかのように視界が一瞬凍てついた。私を命に代えて守ってくれた優しいママの声。そして、私が命を賭して戦い、倒す筈の敵の声。二つの声は入り混じり、頭の中で渦を描いて痺れさせていく。甲高い笑い声が、ママの絶命の声が耳元で木霊する―――。



「(違う! 私はこの記憶に打ち勝つ為、此処に来たんだ!!)」



爪が手のひらに食い込むほど杖を握り締め、正気を保ちながら、靄を振り払うような幸福をイメージする。想像するのは、あんなチンケな妄想ではない。幸せ、そう、最高級の幸せを思い描け。初めてダイアゴン横丁や汽車を見た瞬間、杖を手にした瞬間、箒の乗った瞬間、クィディッチで勝利を得た瞬間、寮対抗杯を勝ち取った瞬間―――様々な思いを胸に、私は大きく杖を振り上げた。



「エクスペクト・パトローナム!」



その瞬間、杖先から銀色の霧のようなものが噴射し、吸魂鬼を模した《まね妖怪》は大きくよろけ、後ずさった。それを見かねたルーピン先生は《まね妖怪》をトランクに押し込むと、急いで鍵をかけた。

……ちっ、流石に守護霊を出すまでにはいかなかったか。今までもこっそり練習していて、守護霊を一度も出せたことはなかった。《まね妖怪》の吸魂鬼相手なら、火事場の何とやらで出来るかと思ったのだけれど……そう甘くはないってことか。杖を仕舞って、ルーピン先生にお辞儀をした。



「……先生、わざわざありがとうございました」

「アシュリー、何故守護霊の呪文を……それにあの女性は……?」

「あー……吸魂鬼に襲われたのが悔しくて、こっそり練習してたんです。あの姿見たら、まね妖怪だってことを忘れて、つい……。それと、あの女性―――あれは以前見た東洋のホラー映画の登場人物なんです。子どものころ見て、トラウマになったで……未だにあんなのが怖いなんて、すごく恥ずかしくって」



照れくさそうに見えるよう、頬をかきながら先程適当に考えた言い訳を使う。ルーピン先生は大層驚いた顔をしたが、すぐにかぶりを振って、私の目の前に向き合う。



「驚いたな。《まね妖怪》が同じ人間に対し、姿を変えることがあるなんて……それじゃあ、たった今、君はトラウマを克服したと……そんなことが……本当に……?」



先生が驚くのも無理はない。そりゃあ、自分が怖いと思うものをすぐさま克服できる人間、そうそう居る筈もない。けれど、その考えは根本的に違うのだ。

《まね妖怪》は“私”が最も怖いと思う姿―――即ち“私”の死に際の姿―――を思い描いたのだろう。けれど、私は今、《まね妖怪》の前で“私”であることを放棄した。目的の為に、手段の為に、私は“私”であることを、一度やめた。するとどうだろう、《まね妖怪》は今度はアシュリー・ポッターの怖いもの―――即ち、吸魂鬼―――へと姿を変えた。“アシュリー”が心の底から望みながら、心の奥底から恐れているものへ。



「(どちらも正解。どちらも私が恐れているもの)」



“アシュリー”が恐れているものなのか、“私”が恐れているものなのか。ただ単純に、それだけの話だった。からくりさえ知っていれば、それだけの話で、それだけの答え。

けれどそんなからくりが在るなんて、そんな馬鹿馬鹿しい発想をルーピン先生がする筈もない。ただただ不思議そうに、それでいてどこか思いつめた様に再び口を開く。



「それに私は、君が《まね妖怪》を見たらヴォルデモート卿になると思っていた」



ルーピン先生は驚きを交えながらも、それでいてどこか興味深げにトランクに押し込められたまね妖怪と私を交互に見やりながら、呟くようにそう言った。

ヴォルデモート、か。確かにあれも、恐怖の対象だ。一昨年見た、あの恐ろしい顔は忘れたくても忘れられない。けれど、今の私はヴォルデモートよりも、“私”の死体にも似た姿よりも、より直接的に“死”を連想させる吸魂鬼の方が恐ろしく思えたのだ。最初は“私”の、次はママの死を連想させてくる、あのおぞましい生物が。



「感心したよ。君が恐れているものは恐怖そのものなんだ。……その、トラウマというのは分からないが、《まね妖怪》を前に吸魂鬼を思い浮かべる人間は決して多くはない」

「そうなんですか?」

「ああ。誰もが吸魂鬼を恐ろしい生物だと知ってはいる。けれど、その恐怖は……言ってしまえば、遠すぎる恐怖なんだよ、アシュリー」

「遠すぎる……?」



ああ、と語り、私が片付けた長机の山に凭れかかるルーピン先生。外は日も暮れてきており、紅色の光が先生の彫りの深い顔に刻まれた皺を、より深くする。



「アシュリー、普通に生きてきた人はね、“死の恐怖”を知らないものなんだ。自らの命が尽きかねないその状況を、“想像”することが出来ない。だから皆、幸福を吸い取り、人の歓喜を糧とし、更には魂を吸い取り人を死に近い状況に陥れる吸魂鬼を恐れてはいても、そこから“死の恐怖”を連想することはないんだ」

「そうだったん、ですか……」



そっか。だからこそ、ハリーだけでなく私でさえも、吸魂鬼を恐ろしいと感じるのか。死の恐怖を最も知っているからこそ、それを呼び起こす相手が恐ろしいと思う。ヒトとして生物として、当たり前の機能も、人間の様に安全なのが当然の世界で生きていると、その機能すら退化するものなのかな。ああ、いつだったかバブリング先生も似たようなことを言っていた気がする。

……しまった、バブリング先生で思い出したが、そろそろ帰って古代ルーン文字学の宿題しなきゃ。いや、それよりもみんなが帰ってくる方が先だろうか。慌てて懐中時計をパチンと開けば、時計はもう六時を差していた。ハロウィーンのパーティは七時からだ、やばいそろそろお暇しないと。



「先生、私そろそろ帰ります!」

「ああ、もうそんな時間か。すまない、呼び止めて。後で宴会で会おう」

「はい。その、ありがとうございます。助かりました!」

「いやいや、教師として当然のことをしたまでだ。さあ、行きなさい」

「はあい!」



私は未だに毛を逆立てたシュバルツを抱えて、ぺこりとお辞儀をしてから闇の魔術に対する防衛術の教室を飛び出した。やばいな、みんなもう談話室にいるかなあ。





「……ど して……アシュリー ―――……彼女 ……」





扉の向こうでルーピン先生が茫然と呟いていたが、よく聞こえなかった。まあいい、とにかく急がなきゃ。動く階段を飛ばし飛ばしで駆け上がっていき、太った婦人の肖像画に合言葉を言って中に入れてもらう。が、談話室は相変わらず閑散としており、ホグズミードに飽きるほど行ったであろう上級生が数人と、宿題をする下級生の子しかいなかった。なんだ、急いで損した。

私は暖炉の隅にある一人用のソファに腰かけ、シュバルツを膝の上に置く。先程まで毛を逆立てていたのが嘘のように、シュバルツは大人しく私の膝の上でぴんと背筋を伸ばしている。



「……」



頭を撫でれば、いつものふかふかの手触りが手のひらに伝う。大人しく、決して嫌がることはない。多少乱暴しても拗ねるくらいで、こちらに噛みついたり引っかいたりと、決して攻撃的にはならない。唯一見せた攻撃性といえば、クルックシャンクスと共にスキャバーズを襲った時くらいか。

ぴいんと伸ばされた背筋と、艶やかな黒い毛並み、私の手の中ではスキャバーズどころかネビルのトレバーよりも大人しいペット。私はこの二か月で、シュバルツのことをそう認識していた。プリベット通りで見つけた、ただの子猫。ダーズリー家の生垣で死にかけていた、恐らくはフィッグばあさんの所から逃げ出してきた。魔法界生まれの、魔力を宿した子猫の筈だ、そうだろう。何がおかしいところがある。どうして不自然なことが―――不自然……?



「お前……」

「にゃあ」



私の声に応えるように、首をこちらに向けるシュバルツ。従順で大人しく、虫一匹殺さない優しい子。お風呂が嫌いで、時々ヤンチャもするけれど、ただただ私に懐く可愛い子。たった二か月ほどだが、私はシュバルツと寝食を共にしてきた。ヴァイス共々、家族と言っても差支えはないほど、シュバルツは私の生活に溶け込んでいた。

けれど、たった今胸の内に落とされた黒い種が、芽を出して根を張り巡らせるように私の思考を支配していく。いくらなんでも、都合が良すぎるのではないかと。いつかハリーがハグリッドがドラゴンの卵を得た経路を疑念に思ったのと同じくらい唐突に、私はそんな疑念を抱いた。抱けば最後、種から芽を出したそれは、鮮やかに色づいていく。思考の隅々にまで行き届き、思い描いていく馬鹿馬鹿しくも、決してありえないとは言えない可能性。そんな馬鹿なと笑う自分がいる一方で、どうしてもっと早く気付かなかったのかと声を荒げる自分もいる。



「(まさか、お前―――いや、あなたは、)」



ありもしない可能性を思い描き、恐る恐るシュバルツの無防備な身体に手を伸ばした―――その時、談話室の穴からグリフィンドール生がわらわらと雪崩れ込んできたせいで、私の馬鹿な思考は吹っ飛んだ。



「「アシュリー!!」」



寒風をその身に浴び、たった今、人生最高の時を過ごしてきましたと言わんばかりの晴れやかな顔を携えて、ロンとハーマイオニーが私のソファに駈け寄った。二人は鞄から溢れんばかりのお菓子を引っ張り出し、シュバルツがいるのもおかまいなしに私の膝にお菓子の雨を降り注いだ。



「持てるだけ持って来たんだ!」

「アシュリー、すごいのよ。すっごい所だった!」



黒胡椒キャンディに埋もれたシュバルツが私の膝の上でクシャミをしたのを耳に、私はロンとハーマイオニーとホグズミードの話について盛り上がり、先程まで思い描いていた可能性についてすっかり忘れてしまっていた。

二人の話は最高に面白かった。魔法用具店のダービッシュ・アンド・バングスのこと、いたずらグッズ専門店のゾンコのこと、『三本の箒』では粟立った温かいバタービールというジンジャーエールにも似た飲み物があって、郵便局にはふくろうが山ほどいて、お菓子専門店のハニーデュークスは、まさに夢のような空間だったと、二人は頬を紅潮させながら教えてくれた。



「そういえば、君は何してたの?」

「ああ、ルーピン先生のところに―――ちょっとあなたたち、その顔やめなさい、いい加減怒るわよ。それで、《まね妖怪》のことを教えてもらったわ。あと、スネイプが来たわね」

「スネイプ?」



ロンはハニーデュークスの新作だという色取り取りのヌガーの一つを手に取ったまま、口をパッカーンと開けた。スネイプが薬を持ってやってきて、ルーピン先生がそれを目の前で飲んだことを語ると、二人は顔を真っ青にした。



「ルーピンがそれを飲んだ、マジ?」



そこに、監督生がパーティーが始まると声をかけ始めたので、私たちは話を切り上げて立ち上がった。スキャバーズの為、そして―――頭を過る、馬鹿みたいな考えを脳裏に描きながら、私はシュバルツを抱き上げるとフードの中に入れて連れ立つ。みんなで談話室を下り、階段を下って行き、周りの生徒がパーティーに気を取られている間に、三人で会話を再開させる。



「だけどもし、スネイプが―――ねえ、そのつもりだったとしても、アシュリーが見てる前で堂々とはしない、でしょう?」

「私もそう思うわ。ただ、相当不味そうな顔してたわ」

「スネイプが?」

「薬を飲んだルーピン先生が、よ。薬、美味しくないんだって」



私がそう言って、大広間についた時、目の前に広がる光景にそんなどうでもいい話は吹き飛んでしまった。毎年恒例のハロウィンの飾り付けは今年も見事な物で、ハグリッドが育てたのであろう何百もの大きなくり抜きかぼちゃに蝋燭が灯り、夜空に見える天井を明るく照らしている。生きた蝙蝠がガヤガヤと音を立ててテーブルから夜空に飛び交って、壁は骸骨や墓石で飾り立てられており、より一層ムードを醸し出していた。

今年の食事も素晴らしいもので、去年も味わったハロウィンパイ、チキン・キッシュ、バーベキュー・リブ、ジャンバラヤなどが私たちの目の前に広がった。デザートに手をつける頃にはお腹ははち切れそうだったのに、パンプキン・プディングや超特大のかぼちゃケーキが出てきたとなればみんな手をつけない筈もなく。ゴーストたちの余興も相俟って、みんなでワイワイ楽しくハロウィンパーティを楽しんだ。



「(……あれ)」



今日のこの騒ぎなら誰にも気付かれないだろうと、シュバルツもフードから出して膝の上に乗せ、バーベキュー・リブのソースがかかってない部分を与える。シュバルツは嬉しそうにリブに食らい付くのを横目に、私は職員のテーブルを見上げた。バブリング先生が見当たらないのだ。まああの先生、ハロウィンの現を抜かすくらいなら古文書の一つでも解き明かした方がまだ有意義、と胸を張るような人だし、参加して無くて当然か。

空いた席の隣にはルーピン先生がいて、呪文学のフリットウィック先生と楽しげに会話を弾ませているようだった。先生、楽しそうだな。いやあの、そういう意味で気になるとかじゃないんだ。素敵だと思ったのはこの際認めるが、そういうことじゃないんだ。ただ、先生が楽しそうにしてる、それだけで嬉しかった。その体質の所為で苦難続きであっただろう過去に、そして彼を待ち受ける波乱の未来を思うと、今だけでも穏やかに過ごして欲しい―――そう思っただけだ。



「(なんて、独り善がりな自己満足なんだけどね)」



リブにがっつくシュバルツの頬を撫で、私も食事を再開させた。

お腹一杯になり、こっそりとシュバルツをフードに入れて、私たちも席を立った。みんなでのんびりと歩きながら、寮へ向かう為、階段を登っていく。ふと、前を歩くロンのポケットにいつもの膨らみがないことに気付く。恐らく、寮に置いてきたのだろう。蒸し返すと面倒なのでそれを口に出すことはしなかったが、シュバルツを、いや、彼を連れて歩いててよかった、と人知れず胸を撫で下ろした。

そんな胸のうちを少しも晒すことなく、私たちはお喋りに勤しむ。



「最高。まだハニーデュークスのお菓子もあるんだぜ!」

「流石に太りそう。明日にしよっかなあ」

「そうよ。虫歯になっても知らないわよ、ロン」

「流石歯医者の娘、着眼点が違うわね」

「そういえば、魔法界で虫歯ってどうやって治すのかしら」

「知らないのか? 魔法薬で一発なんだぜ」

「「エーッ!」」



そんな取るに足らない会話を交えながら、背中のぬくもりを感じながら歩いていく。これで何も起こらなかったら、確定だ。疑いようもない。ああ、馬鹿な私。どうして今の今まで気付かなかったんだろう。……いやだって、先入観ってやっぱりあるじゃん。こっちは犬だ犬だと思い込んでるんだから、そりゃあ、予想外の出方をされたら、ねえ。

何て誰にする訳でもない言い訳を考えながら、太った婦人の肖像画に繋がる廊下まで来る。だがそこは、グリフィンドール生がすし詰め状態になっており、一歩たりとも進めない状態だった。

……あれ?



「なんでみんな入らないんだろう」



ロンが怪訝そうに言う後ろの方で、パーシーが「僕は主席だ、通してくれ」と大きな声で向かってくるのが分かって、ロンは特に嫌そうな顔をしつつ、道を開ける。パーシーが人波をかき分けて太った婦人の肖像画の前へ出ると、沈黙が波のように広がっていく。



「誰か、ダンブルドア先生を呼んできて。急いで!」



パーシーが切羽詰まったように叫ぶ。後列に居る私たちは何が起こったのか分からず、周りの生徒はみなつま先立ちで何があったのか確認しようとしている。

次の瞬間、ダンブルドアが反対側の廊下から現れ、グリフィンドール生の人波がパッと割れた。後ろにはマクゴナガル先生、ルーピン先生、スネイプがおり、みな深刻そうな顔をしている。私たちは生徒たちの波をくぐり抜け、何があったのかを見る為に肖像画の近くまで行った。



「ああ、なんてこと―――」



ハーマイオニーが震える声でそう言い、ロンの腕を掴んだ。

太った婦人は肖像画から綺麗さっぱり消えて居なくなり、肖像画はめった刺しにされていた。見事な婦人の背景も見る影もなく、キャンバスの切れ端が床に散っている。



「婦人を探さなければ」

「見つかったらお慰み!!」



甲高いしわがれ声に、誰もが上空を見上げた。ポルターガイストのピーブズだ。ニタニタといやらしい笑いを浮かべながら、先生方の上をぴょこぴょこと飛んでいた。彼にしてみれば、この大惨事が嬉しくてたまらないようで、こんなに機嫌のよいピーブズを私は見たことが無かった。



「ピーブズ、どういうことかね?」

「……校長閣下、彼女は恥ずかしかったのですよ」



が、流石のピーブズもダンブルドア相手におちょくりたくはなかったのか、ニタニタ笑いを引っ込めた、どこか芝居かかった口調で両手を広げた。



「見られたくなかったのです。ああ、可哀想に。彼女はズタズタでしたよ。五階の風景画の中を走ってゆくのを、私はお目にかかりました。酷く泣き叫びながら、ね! ああ、なんてお可哀想!」

「婦人は誰がやったのか話したかね」

「閣下、そいつはかのレディに向かって、問答無用で刃を付きたててました。私はその瞬間を、この目でしっかりと見た! ああなんて残忍、ああなんておぞましい! 数多の吸魂鬼でさえ、奴を止めることが出来なかっただけはある!」



吸魂鬼―――そのワードに、生徒たち、そして先生方の表情に動揺が広がった。誰もが恐怖、そして混乱に彩られていくその空気の中、ピーブズはニタリと笑って、遠くを見つめた。





「癇癪持ちなんだねえ―――あの、シリウス・ブラックって奴ァ」





グリフィンドール生は、今度こそパニックになって暴れ出した。先生方がその騒ぎを諌めようと杖を振るそんな大騒ぎの中、常に感じていた温かな感触を背中の子を想いながら、とりあえず、シュバルツがシリウス・ブラックなんじゃないかという馬鹿げた疑念の黒い種が心の中で潰えたのを感じ取ったのだった。


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