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そっからはもう大騒ぎ。とりあえずダンブルドアは混乱するグリフィンドール生たちを一度大広間に集めて、全校生徒を呼び出してから事情を説明した。先生とゴースト総出でシリウス・ブラックを捜索し、生徒たちは大広間で雑魚寝をするよう言われる。ダンブルドアは、いつもの長いテーブルを片付けて何百個ものふかふかした紫色の寝袋を魔法で取り出した。



「ぐっすりおやすみ」



と、にこやかに言うが、あんなことがあった後なのだ、皆、そうぐっすり休める筈もなく。

ダンブルドア率いる先生方は大広間から出ていき、扉は固く閉ざされた。監督生たちの指示で、みんなで寝床を確保しながら、グリフィンドール生は率先して事件の事を他寮生に話し始めた。私もロンとハーマイオニーと共に、寝袋を引き摺って大広間の隅の方へ移動し始めた。しかし緊急時とはいえ、男女混合で雑魚寝て。流石に危機感無さすぎでは……と思いながら、隅っこの方で腰を下ろす。フードの中からシュバルツを引っ張りだし、少しでも疑ったことを申し訳なく思いながら膝の上に乗せ、ぬくもりを分けてもらう。あー、あったかーい。



「ねえ、ブラックはまだ城の中だと思う?」

「ダンブルドアは明らかにそう思ってるみたいだな」

「じゃなきゃ捜索なんてしないでしょうしね」



みんなに見えないよう、寝袋に足を突っ込んでその膝の上にシュバルツを乗せて撫でながら、そんなことを話し始める。とはいえ、他の生徒はともかく、二人はシリウス・ブラックの狙いが私であると思っている為、心配げにこちらを見つめる。



「ああ、アシュリー。お願いだから、自分からブラックを探しに行こうなんて思わないでね……!」

「それ、前も聞いたわ。何度も言うけど、私、そこまで命知らずじゃないの。ま、ホグワーツが世界で一番安全かどうかは、疑わしくなったけど」

「確かにな。ブラックはどっから入りこんだんだろう。やっぱ姿現しの術?」

「いい加減、ホグワーツの歴史を読みなさいな、ロン。ホグワーツで姿現しは出来ないのよ。それに城壁や校庭への入り口は一つ残らず吸魂鬼が見張ってるの。例え空を飛んで来たって見つかった筈だわ」



まあ、ダンブルドア―――そういえばニコラス・フラメルもだったか―――は、ホグワーツでも姿くらまし、ではないのかもしれないが、とにかく何かしらの移動手段を得ているようだったな、なんて思い返す。一度ならず二度までも、ニコラス・フラメルは私の目の前から姿を消して見せた。当時はさほど気にしなかったが、やはり六百年生きただけあり、ホグワーツにかけられた魔法を潜り抜けるのは容易い、というワケか。

しばらくああでもないこうでもないとシリウス・ブラックについての話題があちこちに咲いたが、監督生たちが明かりを落としたため、生徒たちは興奮やら恐怖やらを抱えながら寝袋に入る羽目になった。無論、そんな中でグッスリ眠れる筈もなく、みんな寝返りを打ったり、寝たフリをしつつ、監督生と先生方の声に耳を傾けて夜を過ごした。



「(ま、私は別だけど)」



流石に慣れぬ場所ではあるが、早寝早起きが身に沁み込んでいる私は早速眠くなってきていた。別段命の危機に瀕している訳でもない。みんなが興奮覚めやらぬといった空気の中、シュバルツを抱き締めながらうとうとしだす。ふと、扉の近くでダンブルドアとバブリング先生が何やら話しているのが聞こえ、意識を浮上させた。



「やれやれ、年寄りを夜中まで酷使するでないわ、全く」

「バスシバ! 生徒の危機なんですよ!」



死ぬほどめんどくさい、と言わんばかりの物言いに、もう一つの声―――マクゴナガル先生の声―――が不謹慎だと咎めた。ハイハイ、とバブリング先生はそれを聞き流す。



「一応、主の言う通り、守りのルーンを組んできてやったわ。しかし、こんな急ごしらえの結界、シリウス・ブラックに通ずるとは思えんがのう……」

「何もしないよりは、ずっと良いことじゃろう。バスシバ」

「しかしじゃな、アルバス。ワシがシリウス・ブラックを忘れたと本気で思うておるなら、今すぐ校長の椅子から降りることを勧めようぞ。あれは数十年に一人の逸材じゃった。たかだか数十分で組んだルーンなぞ、奴ほどの担い手を前にはそよ風に等しいじゃろうて。ああ全く、惜しい人材よな。シリウス・ブラック……はあ、どうにか改心せんものかなあ」

「バスシバ! またあなたはそんなことを言って!!」

「お説教は飽いたぞミネルバ。心配せんでも、奴がアルバスに敵対している間は手出しはせぬ。アルバスが此処を守れというのなら、ワシはそれに従順にするとも。どうじゃ、これで満足じゃろう。主らもこんなところで喋っている暇があるなら、はようシリウス・ブラックを探しに行かんか」



バブリング先生はマジで相変わらずというか、我が道を行くというか。声しか聞こえないのに、鬱陶しげにしっしっとマクゴナガル先生を追い払う動作をする先生が余裕で脳裏に描ける。ふふっ、と口元に笑みを浮かべた後、一際大きな欠伸を一つしてから、うとうとと意識を闇の底へ落としていったのだった。





***





瞼の裏に光を感じ、もう朝かと意識をゆるやかに浮上させる。が、周りは寝息を立てるばかりで誰も起きている気配が無い。流石の私もこの状況でジョギングに行こうとは思えず、仕方ないので二度寝をしようかと眼を閉じたまま寝返りを打つ。が、腕の中にあるはずのぬくもりがなく、おや、と思ったその時、私の顔の真上に何かが覆いかぶさった気配を感じた。やけに息が荒いそれに、私はいよいよヤバイ、と意識を一気に浮上させた。



「にゃあ!」



そして耳に届いた、聞きなれたシュバルツの鳴き声に私はバチリと目を開けたのと同時に、起きあがりざまに右拳を振り上げた。視界に何かを捉えるより先に右拳に柔らかくも何か固いものがブチ当たった。勢いのまま拳を引くことなく力一杯突き上げると、何かがゴロゴロと前方へ転がっていった。シュバルツが寝袋の上から私の膝に乗り、フーフーと威嚇しているのが聞こえる。慌ててかぶりを振って意識を覚醒させて見てみれば、左頬を真っ赤に腫らした―――。



「あなたは―――」



……やばい、名前が出てこない。が、やけに名前の長い、今学期最初に私に告白してきた、レイブンクローの上級生が、頬を押さえて驚いた顔で私を見つめている。こいつ、まさか……。

両隣のロンとハーマイオニーは、今の騒ぎに目を擦りながら身体を起こす。そして二人は、寝起きの私と、どう見ても寝る前は近くに居なかった、頬を腫らしたレイブンクローの男子生徒と、それをフーフーと威嚇するシュバルツを見比べて、すぐに合点が入ったようで、ハーマイオニーは外道を見つめるような目付きで男子生徒を睨んで私を護るように抱きしめ、ロンは怒り狂った様で私とレイブンクロー生の間に転がり込んだ。



「何してんだ、お前!!」

「誰か―――誰か来て、アシュリーが! アシュリーがッ!!」



そっからは早かった。ロンとハーマイオニーの声に、ついにシリウス・ブラックが乗り込んできたのかと大広間のドアがバタンと大きな音を立てて開き、先生方が飛び込んで来て、大広間の中に居た生徒たちも何事だと眠い目を擦って起き始めた。私は慌てて、シュバルツを鷲掴みにして寝袋の中に隠した。そして誰もが私と、頬を腫らしたレイブンクローの男子生徒を見比べて、また一際大きな悲鳴があちこちから上がった。



「浅ましい行為です!!」



マクゴナガル先生はカンカンだった。私はすぐさま色んな寮の女性たちにレイブンクローの男子生徒から引き離され、大丈夫だったか何も無かったか怖かったねえもう平気だよと慰められ宥められ、こちらが何か一言発する前に揉みくちゃにされた。レイブンクロー生はマクゴナガル先生とフリットウィック先生に引き摺られて大広間から連れ出され、扉の向こうで大声で叱られているのが聞こえた。



「こんな緊急事態に、一体何を考えているのです!! いいえ、いいえそうでなくとも、なんて下劣でいやらしい行為でしょう!! 眠っている女生徒に襲い掛かるなんて―――!!」

「ご、誤解です先生! ボク、ボクまだ何もしてないです!」

「まだ……? 来なさい、オールドカースル! レイブンクローから五十点減点します! 更に処罰、加えて御両親に手紙を書きます! レイブンクローの寮監をしていてもう数十年と経ちますが、これほど残念な事件にお目にかかったことが無い!」



マクゴナガル先生の天地をひっくり返さんばかりの怒声と、フリットウィック先生のキーキー声に混じった男子生徒の言い訳がどんどん遠ざかっていく。ぼんやりとそれを聞きながら、もはや顔も名前もおぼろげな女生徒たちにしっちゃかめっちゃかに囲まれ、ようやくハーマイオニーとロンにその輪から引っ張り出して貰える頃には、起きてからとうに一時間は過ぎてからだった。

そして心配そうに私を見つめ、なんて声をかけていいか戸惑う二人を見上げて、私は大きくため息をついた。そして、未だに好奇や安堵の視線の絡むので声を落として、ようやく私は声を発したのだった。



「あー、びっくりした」



人の善意に押し潰されるかと思った。それが私の第一声だった。

……いや、ね。二人の顔を見れば、この反応が如何に異常かなどは見て取れた。とはいえ、怖かったとか、そういう身の危険の度合いでいえば去年の方がよほどのことだったし、第一未遂だ。おまけにあんな、年の離れた子ども相手では、あまり怖いとか危機は覚えられなかった。

勿論、私がどんなに身体を鍛え上げようとも、私は女で、相手は(身体だけは)年上の、おまけにガタイの良い男だ。それだけは理解している。無理矢理組み敷かれれば、抵抗するのは不可能だろうとも分かってる。けれど、私は魔女だ。筋力だけでない、男女の差がない絶対的な力を持っている。加えて、私も遊びで身体を鍛えている訳ではないのだ。少なくともそれは、寝起きという油断し切った状況でも、一介の学生程度なら余裕でやっつけられるほどで。なので、怖いとかよりも、こんな人が密集した状況で強行策を強いてきたことに驚きを感じていた。



「君なあ……」

「私たちがあの時、どれだけ心配したと……」



そんな私に、ロンもハーマイオニーも脱力したように肩を落とした。いやあ、うん。心配かけてごめんて。でも、ほんとびっくりしたんだ。それはほんとのことだし。



「ほんと、君って大物だよ」

「そっかなあ……」



呆れたように、でもどこか笑いを含んだロンに、私は肩を竦めて笑って見せたのだった。

そんな、シリウス・ブラック襲撃事件に負けないほどの事件を起こされてから数日は、あっちもこっちもこの二つの話題で持ちきりになっていた。ブラックはどうやって城へ入り込んだのだろうから始まり、あのアシュリー・ポッターが強姦未遂事件に巻き込まれたらしいとかいう尾ひれのでかい話に発展していって、私は何処へ行っても好奇の視線を浴びせられることとなった。

もう誰かから注目されるのはいつものことだったが、更にもそれが増してげんなりせざるを得ないが、良かったことが一つだけある。それは、ロンやハーマイオニーだけでなく、お調子者のフレッドやジョージまでもが、私が誰かから告白されている、ということをからかわなくなったのだ。事が事なだけに、ただモテるのも楽じゃないのだと今回の一件で誰もが知ったらしい。



「(ま、いいことばっかではないんだけど)」



今日も今日とて、フードの中で大人しくしているシュバルツの体温を背中に感じながら、今尚隣で番犬の様にふんぞり返っているパーシーをちらりと見上げ、大きくため息をついた。

あの後、先生方は私がシリウス・ブラックに狙われている上にあんな事件に巻き込まれたとあって、監視の目をより一層きつくさせてきた。先生方は何かと理由をつけて私と一緒に廊下を歩いたし、そうでなければ恐らくおばさんから事のあらましを聞いたのだろうパーシーが私に付きっきりになった。そう、先生はまだしも、とにかくパーシーが厄介だった。不用意に私に近づこうとする男子生徒を誰彼構わず追い払うし、酷い時にはクィディッチの練習に誘いに来たウッドやすれ違っただけのセドリックだけでなく、ロンでさえも男だからと噛み付くのだ。



「トチ狂ってるぜ、パーシーの奴」

「カドガン卿といい勝負だわ」



ロンに散々口煩く説教した後、私を無事に寮まで送り届けるよう言い付け、肩で風を切りながら廊下を歩いていくパーシーの背中を見ながら、ロンとハーマイオニーはもはや怒りさえ滲ませたように言った。

太った婦人の後続となったカドガン卿という絵画も負けず劣らず厄介で、誰彼構わず決闘を申し込んだり、一日に三回も四回も合言葉を変えたり、そうじゃなきゃとても複雑で、メモを取らないと、とても覚えられないような複雑な合言葉を用意した。グリフィンドール生は誰もが困り果てたが、代わりの肖像画がいないらしく、しばらくはこのトチ狂った騎士に付き合わされる羽目になりそうだと分かった時は、私でさえ辟易した。

まあ、目下面倒くさいのはパーシーの方なんだけどね。



「ほんと、勘弁してほしいわ。パーシーったら、女子トイレにまで付いてこようとするのよ! ペネロピー・クリアウォーターに言いつけてやろうかな」

「そりゃあいい、アシュリー。是非そうしてくれ。じゃなきゃパーシーの奴、ついには男子生徒ってだけで呪いをかけ始めるぞ」

「パーシーだって男性なのに、なんで自分は許されてると思えるのかしら」

「さあ、主席だからじゃないか?」

「主席は神とでもいうわけね、彼の考えそうなことだわ」



三人でそんな話をしながら、授業を終えて談話室に戻る。

先生、パーシー、そうでなければ大勢の生徒の好奇の監視されている中、まともに自分の時など皆無に等しかった。せいぜいみんなに黙って朝早起きしてジョギングが出来るぐらいで、本当に冗談抜きで、トイレさえも誰かに見張られている状況だった。こんなんでは守護霊の呪文だの、ましてや《動物もどき》の練習など出来る筈もなく、足踏みをするばかり。せっかく実践段階までこぎつけたのにと、私のフラストレーションは堪る一方だ。

そういった不平不満は、スポーツで発散しようと思うのだが、マクゴナガル先生は私が暗くなるまでクィディッチの練習をすることさえも渋って見せた。先生は授業終わりに私を自分の事務室に呼び出し、シリウス・ブラックに狙われていると正直に話した上でそう告げてきた時には、もう勘弁ならないと私は頭を振った。



「先生、次の土曜は試合なんですよ! 練習しなければ!」



私の嘆願に、先生は唇をキュッと結んでみせた。しかし、これをマクゴナガル先生に言うのは些か酷なことだと思った。先生は誰よりも―――いや、ウッドと同じくらい、グリフィンドールの勝利を望んでいる。そもそも、規則を捻じ曲げてまで私をチームに入れたのは他ならぬマクゴナガル先生だなのだ。

じいっと先生を見つめて次の言葉を待つ。



「そう……今度こそは優勝杯を獲得したいものです」

「なら―――」

「ですが、それはそれ。これはこれ、です。ミス・ポッター、あんなことが立て続けに起こったのです。我々としても、あなたの自由に、野放しにするわけにはいきません。ですので、フーチ先生に練習の監督をして頂くこととします」



また監視か。しかし練習が出来るのならもう何だっていい。私はしっかりと頷いて、先生に一礼した。マクゴナガル先生は窓から雨に霞むクィディッチ・グラウンドからふっと眼を外し、こちらを振り向く。



「ミス・ポッター。スィオフィラス・オールドカースルのことですが」

「はい?」

「彼のしたことは、例え未遂であれ立派な犯罪です。フリットウィック先生としっかり話し合った結果、数カ月の停学処分ということに落ち付きました。最も、あなたの心に負った傷を思えば、些細な処罰でしょうが……」



一瞬誰かと思った。私に告白して寝込みを襲おうとした奴か。特に心身ともにダメージを負ったわけじゃないのでそいつがどうなろうがあまり知ったことではないのだが、マクゴナガル先生があまりに悲しげな顔をするので、どうしていいか分からず曖昧に頷いた。



「ミス・ポッター。今は何か、不都合なことはありますか? 誰かに執拗に付けられているとか、些細なことでも構いません。何かあったらすぐに私に相談するように。良いですね」

「は、はい」



現状、私に一番しつこく付きまとっているのは私を守ると豪語しているパーシーなのが皮肉なところだ。が、まさかパーシーですとは流石に口が裂けても言えない。特にないとだけ言い、私はくるりと向きを変え、マクゴナガル先生の自室から出ようとした。すると、先生が大きくため息をついたので私はふと、足を止めた。



「……ミス・ポッター。これは私の独り言です。ただの、ミネルバ・マクゴナガルの独り言です。ですからあなたは何も聞いていないし、何も知らないのです」



マクゴナガル先生の声は酷く疲れ切ったものだった。私は先生に背を向けたまま、樫の木の扉のノブに手を伸ばした姿勢でぴたりと動きを止めて、先生の独り言に耳を傾ける。先生はもう一度、深い深い溜息をついてから、ゆっくりと唇を開いた。



「……どうしてあなただけが、こんな目に遭うのでしょう」

「……!」

「もうたくさんではありませんか。もう、十分ではありませんか。神はこれ以上何を、あなたに背負わせようと言うのでしょうか。泣き付ける親もなく、同じ悩みを分かち合う者もいない。より多くの傷を負い、より多くの危険を冒し、より多くの死線を踏み越えて、それでもあなたは、歩き続けなければならない」

「……」

「世界はどうして、十三歳の少女に―――こんな仕打ちを」



やり切れない、無力感を噛み締めながら告げられるその独り言は、ただただ悲痛なものだった。その言葉の裏には、一人の女性の嘆きが込められていて。水盆を守る者が、零れ落ちる一滴を守れないのだと、顔を覆う姿が目に浮かぶほどに。

ミネルバ・マクゴナガル。誰よりも公平な先生でありながら、それでいて人一倍優しい母のような人。公平だからこそ、独り言を言うことでしか私を案じることが出来ない不器用な人。公平だからこそ、誰か一人を特別扱いしてはならないのだと己を責めてしまう悲しい人。生徒と先生という、絶対的な関係でないのなら、彼女は私の為に泣いてくれたのだろうか―――なんて想像すると、笑みが浮かぶ。



「私―――平気ですよ」



独り言には独り言を。私は誰に告げるでもなく、歌うようにそう言って、今度こそドアノブに手をかけた。もごもごと身を動かすシュバルツの鼓動を背中に受けながら、私は本当に、にこやかな笑顔を浮かべてそのままガチャリと扉を開ける。



「私には、泣き付ける親も、同じ悩みを分かつことの出来る人はいないけれど。私の為に心を痛めて、私の身を案じて心を砕いてくれる人がいる。私、それだけで十分なんです」



それだけで十分―――戦える。

ぱたりと背中で締めたドアの向こうで、啜り泣く声が聞こえた気がしたけれど、気のせいだろう。あの気丈で厳格なマクゴナガル先生が、私なんかの為に泣いてくれる筈はないのだから。そんなことを考えながら、私は足取り軽く自分の寮へと帰っていくのだった。

さて、週末の試合が近づくにつれ、天候は悪化するばかりだった。けれどグリフィンドールのチームは、ウッドの熱気が雨風をも吹き飛ばさん勢いがある。フーチ先生の監督、もとい監視の元、私たちはウッドの激励に耳を傾けながら何時にも増して激しい練習を受けた。そうして明後日を試合に控えた最後の練習の時、ウッドがカンカンになりながらグラウンドに入ってきたので、みんなで箒に跨ったままウッドの元へ降りた。



「どうしたの?」

「対戦相手はスリザリンではない! フリントが今しがた会いに来た。我々はハッフルパフと対戦することになった!」

「何故?」

「フリントのやつ、シーカーの怪我が治ってないとぬかすんだ」

「馬鹿言わないで。私が完治してるのにそんな言い訳、通る筈はないわ」



大方、明日の荒れた天気でやりあいたくないのだろう。そうでなくとも最新型の箒をチーム全員に完備し、最高のクィディッチ日和、おまけにブラッジャーが私以外狙わないという圧倒的に不利な状況の中、去年スリザリンはグリフィンドールに敗れている。そりゃあ、まともにやりあっても勝てないのだ、明日の天気を考えれば、グリフィンドールの勝利は眼に見えていた。

しかし、今年はそうはいくか。なんせドラコは私が庇ったのだ。私は全治一週間―――実際には数日もかからぬうちに完治し、ドラコはせいぜい突き飛ばした時に尻持ちをついた程度。そんな言い訳、まかり通る筈が無い。



「分かってる。しかし証明できない上に、あっちにはスネイプがいる」



苦々しげなウッドの言葉に、これには誰もが顔を顰めた。スネイプのスリザリン贔屓は今に始まったことではない上に、ドラコはスネイプに個人的にもとても可愛がられている。例えドラコが望まずとも、フリントがドラコの名を出せばスネイプは必ず動く筈だ。誰もが閉口する中、ウッドは怒りを滲ませながら続ける。



「俺たちがこれまで練習してきた戦略は対スリザリン用だ。それがハッフルパフときた。あいつらのスタイルはまた全然違う。キャプテンもシーカーのセドリック・ディゴリーになったんだ」



おや、そういえば事件やパーシーのせいで、最近顔を合わせていないが、セドリック、キャプテンになったのか。こんな状況じゃなきゃすぐにお祝いの言葉でもかけにいくのにな、と思いつつウッドの話を耳に入れていると、セドリックの名前を聞いたチェイサー三人がクスクスと笑い始めた。



「なんだよ」

「セドリック、あの背の高いハンサムな人でしょう」

「無口で強そうな」

「それで、アシュリーとよく一緒に図書館に居る」



ケイティにそう言われ、ウッドは私の方にぐるりと首を動かした。



「まさかアシュリー、知人相手と手を抜いたりしないだろうな……?」

「冗談! ウッド、一昨年のハッフルパフ戦を覚えてないの? 私、一年の頃からセドリックと友人だけど、あの時は私、五分もかからずにスニッチを取ったのよ! これのどこが手加減してるっていうワケ!?」

「それは二年前の話だろう。今はどうか分からない。俺の見たところ、君たちは―――アー、その、なんだ。随分親しいようだし」

「ただの友達よ! それを言うならドラコだって友達だわ。私は敵チームに友達がいるからって手心を加えたことは一度もないし、ましてや一度勝った相手に油断するなんて馬鹿な真似もしないわ!」



そうやってウッドに吠えると、みな我に返ったかのように俯いた。そう、グリフィンドールは一度ハッフルパフに勝っている。温和な生徒が多いとされるこの寮、どうも勝負事には向かないのか、贔屓目に見ても強いチームとは言えない。周りがこのウッド率いるグリフィンドールや、どんな手を使ってでも勝とうとするスリザリンがいるんじゃ、見劣りしてしまうのは当然と言えるかもしれないが。

それでも、セドリックは良い選手だ。おまけに人となりも十分。キャプテンとなったからにはチームを上手くまとめあげているだろうし、無論、急な話とはいえ、対戦相手となったからには全力で挑んでくるだろう。



「……そうだ。だからこそ、我々は油断してはならない。神経を集中させ、常に勝利を見据えよ。我々はどうあっても勝たなければならないのだ」



そのウッドの一声に皆一念発起し、みんなで顔を見合わせた。大丈夫―――油断、驕り、そういった感情は無くなっている。勝利を見据えたこのチームは過去最高のものだ、負ける筈が無い。そうだ、例え吸魂鬼が迫ってきたとしても、大丈夫。完全でないにしろ守護霊の呪文は知っているのだ。あの試合ならダンブルドアも居る筈だし、その場凌ぎでも大丈夫だろう。大丈夫―――私は負けないし、ニンバスも折らせない。そう決意を新たに、私たちは雨風を顔面に受けながら、灰色の空の中を飛び立ったのだった。





***





そして次の日。試合を明日に控えたグリフィンドールのクィディッチ生は誰も彼もがピリピリしていた。とりわけウッドは酷いもので、授業の合間にすっ飛んできては私に指示を与えに来た。やれセドリックは急旋回が得意だの、やれセドリックは初速は遅いが風の読み方が上手いだのと授業に行く為に移動する私を引っ捕まえるので、私は一日中授業に遅れる羽目になった。

次は闇の魔術に対する防衛術。シュバルツのぬくもりを感じながら、まあ多少の遅刻なら減点ぐらいで勘弁してもらえるだろう、と思いながらようやくウッドを引き剥がした時、すでに授業が始まって十分は経過していた。私は急ぎ足で防衛術のクラスへ向かい、扉を開けて飛び込んだ。



「すみません、ルーピン先生! 遅れまし―――」

「遅刻だ、ミス・ポッター。グリフィンドールから十点減点」



が、教壇の向こうに居たのはスネイプだった。ああそうか、そういやそろそろ満月だからか。スネイプはこちらを一瞥もくれずにそう言うと、くるりと踵を返して黒板に向き合う。私はハーマイオニーとロンが並ぶ長机を詰めてもらってその横に座る。

スネイプは改めてクラスをグルリと見まわした。



「―――ルーピン先生はこれまでどのような内容を教えたのか、全く記憶を残していないからして」

「先生。これまでやったのは、《まね妖怪》、《赤帽鬼》、《河童》、《水魔》です。これからやる予定だったのは―――」

「黙れ。教えてくれと言ったわけではない。我輩はただ、ルーピン先生のだらしなさを指摘しているだけである」



ハーマイオニーの答えを、スネイプはバッサリ切り捨てた。

……いくら最終的に味方になると知っていても、やはりこいつは性格悪いなと思ってしまう。生来からそうなのか、パパが彼の性格を歪めたのかは分からないが。ダンブルドアの言うことは聞いても、やっぱり個人的に恨みはあるんだなあ、と意地の悪そうなツラを携えたスネイプにどうしたもんかと思ったその瞬間、後ろに座っていたディーン・トーマスが立ち上がった。



「ルーピン先生はこれまでの闇の魔術に対する防衛術の先生の中で、一番いい先生です!」



あのスネイプ相手に、と、ディーンの勇敢な台詞にクラス中騒然となったが、そうだそうだと指示する声が上がった。こういう所はほんと馬鹿正直というか、可愛いなあ、と思う。



「点の甘いことよ。ルーピンは諸君に対して著しく厳しさに欠ける―――《赤帽鬼》や《水魔》など、一年坊主でもできることだろう。我々が今日学ぶのは、人狼である」



スネイプは教科書の一番後ろまでページを捲りながらそんなことを言うと、いよいよクラス内で抗議の声が上がった。



「でも先生、まだ狼人間までやる予定ではありません。これからやる予定なのは《おいでおいで妖精》で―――」

「ミス・グレンジャー。この授業は我輩が教えているのであり、君ではない筈だが。その我輩が、諸君に三九四ページを開くよう言っているのだ。全員、今すぐにだ!!」



吠えるスネイプに、クラスのあちこちで苦い声が上がりながらも渋々教科書を捲る音が響く。いやあ、ホント、見るからに悪役である。これが本当に味方になるなんて、ヴォルデモートでも見抜ける筈もないってか。



「人狼と真の狼とどうやって見分けるか、分かる者はいるか」



学期末にやるであろう項目の予習なんて誰もやっている筈が無く、クラスメイトはみんな顔を下に向けてシーンと静まり返る中、いつものようにハーマイオニーはバッと手を挙げた。私は自分から率先して発言をすることはないので、身動ぎせずに黙っている。



「誰もいないのか? すると何かね、ルーピン先生は基本的な両者の区別さえ、まだ教えて居ないと」



スネイプは、まるでハーマイオニーが見えていないかのように振る舞った……うん、彼の性格についてはパパのことや今後の為の環境作りが関わっているのだろうが、半分くらいは生来の性格の悪さがあるのだろう。そっちから質問を投げかけ、手を挙げている人がいるっていうのに無視て。性格ねじ曲がりすぎだろこいつ。

パーバティも、そんなスネイプに負けじと立ち上がった。



「お話しした筈です! 私たちまだ狼人間までいっていません!」

「黙れ!」



やっぱ教師としての才能はないなあ。怒りを露わにするスネイプに、パーバティはびくりと肩を震わせ、力なく席に腰かけた。ハーマイオニーの手はまだ降りない。



「さて、さて、さて。三年生にもなって、人狼に出会っても見分けもつかない生徒にお目にかかろうとは、我輩は考えてもみなかった。諸君の学習がどんなに遅れているか、ダンブルドア校長にしっかりお伝えしておこう」

「先生」



ハーマイオニーが痺れを切らしたのか口を開いた。私は余計なことを言うなと左腕で彼女のわき腹を突いたが、ハーマイオニーは止まらなかった。



「狼人間はいくつか細かいところで本当の狼と違っています。狼人間の鼻面は―――」

「勝手にしゃしゃり出てきたのはこれで二度目だ、ミス・グレンジャー。鼻持ちならない知ったかぶりで、グリフィンドールからさらに五点減点」



ハーマイオニーは真っ赤になって手を下ろした。横目で見る彼女の瞳には涙が浮かんでおり、どうにか流すまいと必死に堪えているようだ。

あのさあ……流石に大人げ無さすぎるだろう、この男。いくら嫌々教師をしているといっても、もう三十を超えた良い年した大人が、十三歳の子どもにする仕打ちではない。自分の事を棚に上げつつ、スネイプに怒りを募らせ立ち上がろうとしたその時、私より先にロンが立ち上がった。



「先生はクラスに質問を出したじゃないですか!! ハーマイオニーは答えを知っていたんだ! 答えて欲しくないなら、何で質問したんですか!?」



はい、ド正論。

少なくとも、ハーマイオニーの『知ったかぶり』は今に始まったことではないし、親しいグリフィンドール生ですらも、少なくとも一度は彼女を『知ったかぶり』と思ったことだろう。けれど、今のスネイプの態度に、誰もがハーマイオニーの代わりに怒りを爆発させた。ロンは我慢ならないと言わんばかりにスネイプに怒鳴り声を上げたようだが、言い過ぎたとロン自身さえ思ったことだろう。スネイプはゆっくりとロンに近付いた。

私はとうとう我慢ならず、立ち上がって頬をヒクつかせるロンを守るように片手を広げてスネイプに立ちはだかるように見上げる。



「そろそろいいでしょう、スネイプ先生」



スネイプは鳩が豆鉄砲食ったような顔で私を一瞬だけ見たが、悪いものでも見てしまったかのようにサッと目線だけを逸らした。流石、閉心術を極めただけあって、露骨な逸らし方じゃないのは見事と言えよう。

誰もが私たちを見つめた。スリザリン生以外は露骨に嫌がらせをすることで有名な嫌われ教師ことスネイプと、そんなスネイプが唯一絡みに行かない、今まで一度も先生に盾突いたことが無い―――ロックハートを覗いて―――基本的にいい子のアシュリー・ポッターが、三年目にして初めて対立してみせたのだ。注目を浴びない筈が無かった。



「君には関係ない筈だが、ミス・ポッター」

「虐げた生徒に論破されたから逆ギレってのは、些か大人げないかと」

「……何?」



出だしから飛ばしていく私に、クラスメイトは誰もがポカンと口を開いた。

基本的に、私は主立って誰かに盾突くことはしない。見えない所じゃ色々やってる私だが、普段はいい子の皮を被るのに余念がない。変動の激しい私の株を、少しでも保つためだ。だからこそ表向きの私しか見てない奴らが告白してきたりするんだけど、まあそこはいい。

けれど、ルーピン先生を始め、グリフィンドール生がこうも馬鹿にされて黙っていられるほど私はお人好しでもない。……ふふ、以前なら、目的以外のためにこんな面倒事に首を突っ込むほど、馬鹿正直になった覚えはなかったんだけど―――な。



「それに、やり方がいちいちセコいと思いますよ」

「ミス・ポッター。我輩の授業方針に口を出せる程、君の成績は立派なものとは思えないが?」

「静かな水は深く流れるんですよ。それに、これは授業のことじゃないです。こんな形で報復しようってその魂胆がクズいと申し上げているのです」



多くは語らず、多くを悟らせず。挑戦的に笑いながらそう言うと、スネイプは眼に見えて嫌そうな顔をした。そういう感情も胸の内に隠しておいてほしいものだ。

とはいえ、自分の手を汚さず、生徒に全てを勘付かせようとするその魂胆は気に入らない。まあ結局は自分で暴露するし、どのみち来年はニセムーディ先生が来ないと話が進まない。なのでルーピン先生に申し訳ないとは思うが、この流れは変えようと思わない。けれど、それはそれ。これはこれだ。



「君の父親も、そうやって人を小馬鹿にしたものだ」

「いい年して生徒に小馬鹿にされることをする方が、どうかと」



どよめくグリフィンドール生をバックに、私はあくまで強気に出る。つーかパパのことを持ち出すな。私はお前らみたいに性格ねじ曲がってねえし。というか、そんな性格ねじ曲がった男にお前の幼馴染は取られたという事実から目を背けるのは止めた方がいいと思う。

スネイプは決して私と目を合わせず、何を見てるか分からない瞳は私の首の下辺りを彷徨うまま。この眼はこの顔は、命を賭してまで守りたいものだから。己が罪の形が私そのものだから。だから彼は決して私と向き合うことはしないし、いつまでもママの幻影を追い掛け続ける。そういうところも気に入らないからこそ―――私もまた、彼に挑み続けてしまうのだろうか。

が、ようやくスネイプは私に背を向けた。つかつかと黒板まで歩いていき、チョークと教科書を手に取る。勝 っ た 。



「教師に対する口の利き方がなっていない。グリフィンドール二十点減点」



……おうふ。一日で三十点も減点されてしまった。勝負に負けて試合に勝ったみたいなそんな気持ちになりながら、まあロンへの咎めが無くなっただけマシだろう。

結局、九十分人狼についてみっちり講義をし、嫌がらせとばかりに羊皮紙二巻き分の宿題を課してから授業はお開きとなった。生徒たちはブツクサ言いながら教室を出たが、スネイプに声が届かなくなった辺りまで歩いていくと、みんなで一斉に歓声を挙げた。



「やるなあ、アシュリー!」

「スネイプ相手にあそこまで言うなんて!」

「ま、三十点の減点は痛いけどね」

「それでも処罰食らわなかっただけすごいよ!」

「ぼ、ぼく、アシュリーが死んじゃうかと思った……!」



ワイワイとグリフィンドール生たちが興奮気味にそうはやし立ててくれるのを聞き流しながら、ニヤつくロンと、どこかぼんやりとしたハーマイオニーの間に入る。



「君も言うようになったなあ」

「え?」

「前の君なら、絶対に言わなかったと思うけど」

「……そう、かしら」

「スネイプに盾突いても、良いことはないからな」



やっぱり、そっか。あんなの、損はあれ、得をすることはない。せいぜい私やみんなの気持ちがスッキリする程度。別に私が直接侮辱された訳でもないし、そもそもマージおばさんの罵倒に耐えられる私がこの程度、堪えられない訳もない。けれど。



「言ったでしょ。仲間が馬鹿にされちゃ黙ってられないって」



いつか言った言葉。けれど、以前とは違う。誰かを納得させる為の言葉じゃない、自分自身の意思で告げたその言葉。そう告げると、ロンがニヤりと笑って私を小突いてきた。

ふと、黙ったままのハーマイオニーが気になった。先程スネイプに言われたこと、そんなに引き摺っているのだろうか。そろりとハーマイオニーの顔を覗き込んでみる。彼女の顔は困っているような、どこか戦いているような、思いつめたような複雑な顔をしている。



「ハーマイオニー?」

「あ、うん。ううん、なんでもない。なんでもないの……」



ハーマイオニーはぼんやりとした口調でそう告げて、ツカツカと足早に進んで行ってしまった。どうしたんだろう、高い位置にあるロンの顔を見上げて、首を傾げる彼の姿に、私もまた、肩を竦めてみせた。そんな空気の中、背中のシュバルツは、小さくにゃんと鳴いたのだった。





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Still waters run deep=能ある鷹は爪を隠す


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