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結局、退院した日曜は一週間分の宿題と予習復習に追われることとなった。まあ比較的成績がいい私にとっちゃ、夕食前には苦手科目の天文学と古代ルーン文字以外はどれもこれもスムーズに片付いたのは幸いだった。

が、天文学のみならず、新しい科目の古代ルーン文字学―――これが、相当手こずらせた。



「(……死ぬ)」



いくら言語系統が元を辿れば同じっつっても厳しかった。まだ文字の意味と書き取りぐらいしかしていないにも関わらず、天文学並に苦手意識を感じていた。集中できないし、全く頭に入らない。元々他言語を学ぶのに向かない頭なのかもしれないが、それにしたってこの集中力の無さったらない。他の授業の内容ならスルスル頭に入ってくるってのになあ。今でさえこれなのだ。今後の事を考えるとお先真っ暗な気がしてならない。なので、念入りに予習をしようと思い立った―――のだが。



「……つってもなあ」



勉強方法が分からないんだよなあ……。

初めての学問、初めての文字。手こずるのも当然といえば当然か。教科書を読んでも頭に入らないし、隣でマグル学の教科書と羊皮紙を広げているハーマイオニーに聞くのもどうにも憚られる。なんたって彼女は私たちの倍ほど授業があるのだ、あまり時間を取らせるのも申し訳ない。……仕方ない。気乗りはしないが、背に腹は代えられない。



「私、バブリング先生の所に行ってくる」

「あら、どうしたの」

「お勧めの参考書でも聞きに行こうと思って」

「へえ、あなたそんなに勉強熱心だったかしら?」

「苦手科目は増やしたくないの」



僕もそんなセリフ言ってみたいよ、とボヤきながら魔法薬のレポートを前に頭を抱えるロンに苦笑を洩らしつつ、私は席を立った。身一つで談話室を出ると、バブリング先生の個人部屋というか事務室、古代ルーン文字学の教室まで向かう事にした。

ゴーストや絵画たちに挨拶されながら、私はバブリング先生の元を目指す。引き籠りの先生と聞くし、職員室には居ないだろう。真っ直ぐに古代ルーン文字学の教室に入り、その奥にあるバブリング先生の事務室を目指す。樫の木の扉の前で軽くノックする。が、返事はない。あれ、居ないのか。



「しつれーしまーす」



しかし私にも引けぬ理由がある。大きな声をかけてから、ドアを開ける。ガチャリとドアを開けて、部屋の中を見た私は思いっきりドアを閉めたくなる衝動に駆られた。

一言で言うと、死ぬほど汚い。いや、汚いつっても埃やゴミがあるわけではない。が、とにかく散らかっているのだ。おまけに、何置いたらこんな臭いになるのか分からないほど、部屋はかび臭い空気でいっぱいだった。天井まで積み上がった古びた本や羊皮紙が厚ぼったいカーテンの隙間から僅かに差し込む光でさえも遮り、部屋は夕方であることを差し引きしてもとても暗い。床は本と羊皮紙、羽根ペン、ルーン文字が刻まれた石碑などが雑多に散らばっており、足を踏むスペースもない。本棚もお世辞にも綺麗とは言えず、本もシリーズ順に並べるどころか横積みになっているし、ところどころ棚が撓んでいる。部屋の中央には辛うじてテーブルと椅子があるが、こちらも床に負けず劣らず雑多に物が積まれている。



「……うわー」



ザ・研究者の部屋って感じ、そう思いながら床にあるわずかなスペースを探して、ぴょんぴょんと部屋の中を飛び交い、本と紙の山の中に先生が埋もれていないか探す。が、人気はない。先生は留守のようだ。



「(骨折り損か)」



つーか今思ったけど、先生じゃなくてセドリックに聞きに行けばよかったなあ。セドリックもこの授業取ってるって言ってたし、バブリング先生よりは真っ当なアドバイスをしてくれそうである。あーでも、私、セドリックとは噂になってるんだっけ。うーん、チョウにも悪いし、あんまり顔を会わせない方がいいのかなあ。

仕方ない、先生が居ないんじゃどうしようもない。大人しく図書室で自力で調べるか―――そう思ってもう一度部屋の中をぴょんと跳んで扉の前まで行こうとしたその時、跳んだ拍子に紙の山に腕を掠めてしまい、本の山から紙の束がバサバサバサッと落下した。



「やっば!!」



慌てて屈み込み、紙をかき集める。だが、床も紙塗れなので、どれが今落ちた紙束なのか区別できない。仕方ない、勝手に中身を見るのは頂けないが、テキトーに戻した方が後々面倒になりそうだ。



「ルーモス」



杖に光を灯し、口に咥えて両手で紙束をかき集める。えーとなになに、これは……リストみたいだ。生徒の名前や寮が書いてあるところを見ると、どうやら古代ルーン文字学を選択した生徒の一覧らしい。おっし、この手の紙を集めればいいんだな。床に散った紙を一枚一枚照らし、生徒名簿らしきものを膝の上に積み上げる。ぱらぱらとめくってみれば見知った名前もいくらか見受けられた。セドリック・ディゴリー、パーシー・ウィーズリー、アントニー・オッターバーン、フローラ・カロー、アンソニー・ゴールドスタイン……お、ウィリアム・ウィーズリー発見、兄世代入ったか。

いやしかし、リストを見ていると、確かに噂通り、高学年になるにつれて受講者が減って言っているというのは本当らしく、三年生のリストはたくさんの名前が連なっているのに、六、七年生のリストは平気で二人や三人の名前しかなかったりする。リストから感じる古代ルーン文字学へのプレッシャーに肩を落としながら拾い集める。すると―――。



「……え?」



ぴたり、と手を止めた。震える手で一枚のリストを拾い上げる。記されたリストには一九七六年の六年生の受講者の名前と学年、寮。名前の欄は二つ。一つは『シリウス・ブラック』。どうやらシリウス・ブラックもこの授業を受講していたらしい。それはいい、それはいいんだ。その下にある名前だ。記された名前は『アシュリー・グレンジャー』。六年生、スリザリン所属、女性。



「……アシュリー・グレンジャー……?」



セブルス・スネイプやドラコ・マルフォイのように、ラテン語やフランス語、造語入り混じった、この世界にはよく居る『現実ではあり得ない名前』とは違って、アシュリーもグレンジャーも決して珍しい名前ではない。探せばいくらでも見つかる名前だろう、そんなことは分かっている。

けれど、数少ない魔法使いの名前で、アシュリーという名前で、グレンジャーという名字。あまりに見慣れ過ぎたこの並びに、何とも言えない違和感が胸をかき立てる。



「……」



しかし、いくら目を凝らしても、記された年月にもスペルにも間違いはない。……いいや、必然だなんて思うのは馬鹿げてる。この世界に、アシュリー・グレンジャーという女性が過去に居たのだろう。そう、それだけだ。それ以上のことが今、何が言えるだろう。



「(……)」



けれど、どこかモヤモヤした気持ちが晴れない。しかしそんなことに頭を使う暇はないのだと気付き、慌ててリストを拾うのを再開する。その間にも、見知った名前を色々と見つけた。レギュラス・ブラック、ルクレティア・プルウェット、バーテミウス・クラウチ、アルファード・ブラック、メアリー・エリザベス・カターモール、マリウス・ブラック、ルタニ・レストレンジ、ヘプジバ・スミス……ブラック系多いな、そういう家系なのだろうか。

そうしてその中に、ベラトリックス・ブラックの名前も見つけた。



「……ッ」



いいや、いいや。今、この女の事を気にしてどうする。落ちつけ、気にするな。ただの紙に、ただのリストだ。そう心を落ち着けて、作業を再開する。

リストは遡りに遡り、ついには爺世代までやってきた。オリオン・ブラックに始まり数多くのブラックの文字が見受けられた。ミネルバ・マクゴナガル、オーガスタ・ロングボトム、ミリセント・バグノールド、マファルダ・ホップカーク、シグナス・ブラック、マートル・ウォーレン、アブラクサス・マルフォイ―――そして。



「トム・マールヴォロ・リドル……」



一九四〇年。綴られた死ぬほど読み辛いミドルネームの、その男。去年、私の手で消し飛ばした男の、名前。いや、別にあいつに限っては私が殺したわけじゃない、けどさ。あいつは記憶、分霊箱だ。生きた人間ではない。けれど瞼の裏には、冷たく、凍りついた血の色の瞳をした少年を、今も鮮やかに思い描くことが出来る。

……こいつも、古代ルーン文字学を受けていたのか。



「―――優秀な男じゃったよ、トム・リドルは」

「わあっ!?」



哀愁孕んだしわがれた声に、私は肩を震わせて光の灯った杖を背後に向ける。そこには私の肩口から手にあるリストを覗き込んでいるバブリング先生がいた。なんだこの先生、こんな至近距離に近付いてきてんのに私が気付かないなんて……!!



「気配殺しの加護がついておるのでの。気付かないのも無理はない」



私の心を読んだように、バブリング先生はくつくつと笑う。いやなんでそんなことをと言うより先に、バブリング先生は私の手から受講者リストの束を引っ手繰る。そうして忌々しげにそのリストを見やる。



「フン、忌々しいことよ。これだけの弟子が居たのに、我が叡智を受け継ぐ者がよもや一人も現れぬとは……やはり杖使いどもに、ルーンの加護は荷が重すぎたのか。いや、いや。それでも優秀な者は数少ないが居たか。トム・リドル、シリウス・ブラック、バーテミウス・クラウチ……しかしどいつもこいつも我が叡智を継ぐのを辞退してしまった。それどころか、みな陽の当たる世界じゃ生きてはゆけぬときた。才能ある人間は、どうにもその力を持て余していかんなァ」

「……先生、その、トム・リドルをご存知で……?」

「ああ、良く知っておるよ。若き日のワシが、初めて教鞭をとった年の最初の生徒じゃったからの。……が、ワシは若かった。師としても、そして人としても。彼奴に教えられたことなど、主らの境遇を考えればもはや鼻くそ以下であろうよ―――尤も、それが幸と転ぶなど、当時は思わなんだが」



どこか懐かしげに、しかしどこか悲しそうに、憂いを帯びた紅茶色の瞳でそう語る。

後継者を探して五十年と語る先生。巡り合う担い手はどいつもこいつも闇の魔術に走るばかりで、その叡智とやらは授けられぬまま今日の今日まで過ごしてきたのだろう。ゲホゲホッ、と吐血交じりでリストをぼたぼたと血で濡らすバブリング先生を見上げる。



「ゲホッ……ふむ。まこと、惜しいものよな。彼奴にしろ、シリウス・ブラックにしろバーテミウス・クラウチにしろ―――良き弟子であったというのに、勿体ない」

「(勿体ないって)」

「当然。あれほどの鬼才、闇の陣営に渡らなければどんな手を使ってでも我が手中に収めたわ」

「……意外、ですね。先生なら、闇の陣営とか関係無いと思っていましたよ」

「阿呆。闇の陣営に加担するということは、アルバスを敵に回すという事じゃろうが。それはいかん。全く以ていかん。あの老いぼれを相手にするのは、些か骨が折れる」



意外な答えである。この先生にも怖いものというか、手段を選ぶだけの余裕があったのか。いやまあ、手段を選びすぎて目的を前に頓挫するなんてそれこそナンセンスだろう。善悪ではなく損得で考える辺り、先生らしいと言えばらしいが。



「無論。我がルーンの神秘を前に善悪など、紙くずにも等しいわ」

「(ワタシ、ナニモ、イッテナイノニ)」



いちいち声に出してない言葉に反応するのは止めて欲しい。……じゃなくて、私はこんなことをしに来たわけではないのだ。



「あ、あの、先生。私、授業のことで聞きたいことが」

「おお、良い心がけじゃの。よいよい、何が聞きたいのじゃ?」



先生は嬉しそうにそう語り、私の肩をバシバシ叩いた。先生はどうやら、学習意欲の高い子が好きなようで、聞いてもいないことをあれこれと教えてくれた。



「主の額に刻まれたのがシゲルじゃな。太陽の象徴とされる」

「あれ、シゲルはこっちじゃ」

「それはユルじゃ。ゲルマン読みじゃとエイワズとも言うな。多少形は似ておるが、意味は全く異なる。死と再生、防御などを意味するのう」

「防御……」



ユル、と呼ばれたZの鏡文字のようなルーンをなぞりながら、私はそっと呟く。バブリング先生はそりゃあもうニッコニコしながら早口ながらも授業のように、丁寧に解説をしてくれた。苦手意識はまだ消えないものの、理解はだいぶ進んだ。それから二時間みっちり解説授業が入り、目的のオススメの参考書を聞き出し、ようやく先生から解放される頃には二十時を回っていた。



「ああ、そうじゃポッター」



ゲッソリした顔で、唸り声を上げるお腹を擦りながら樫の木のドアに手をかけたその時、バブリング先生の嬉しそうな声が聞こえてきたので振り返る。先生は、紅茶色の瞳を細めながら、こちらを見つめている。





「主には―――期待、しておるぞ」





ばちり、とウインク一つ飛ばす先生。

正直苦手意識しか感じないこの授業に、天文学並みの苦戦を強いられるのは目に見えていた。先生だって、今の二時間でそれが何となく分かった筈だ、先生の眼が節穴じゃなければ。なのに何故、そんなことを私に言えるのだろうか。不思議に思いながらもそんなことを言われれば苦手ですとは言えず、曖昧に頷いてから、私は部屋を出た。

ぱちん、と懐中時計を開いてみれば時間は二十時を差していた。やべーな長居しすぎた、とっとと飯食って図書館行かなきゃ。ああそうだ、《動物もどき》の練習もしなきゃいけないのに。明日はこの鈍った身体を鍛え直さなきゃいけないし、そうだシュバルツのご飯も用意しなきゃいけないし。



「(時間、いくらあっても足りないなあ)」



そんなことを思いながら一人で食事を終え、寮に戻るとロンとハーマイオニーが向かい合わせでソファに腰かけ、ココア片手にあれこれ何か喋っているようだった。ハーマイオニーの膝の上にはクルックシャンクスがいて、クルックシャンクスの上にシュバルツがいるが、険悪なムードはないようだった。

私が寮に入ってくるのが見えて、二人はこちらに手を振ってくれる。



「アシュリー、今まで何してたんだ?」

「バブリング先生の所よ。ずっと捕まってたの。あなたたちは何してたの?」

「君の話さ」



ニヤリ、と笑うロンに、なーんか嫌な予感がする。温かいココアの入ったマグを手に取り、ハーマイオニーの隣のソファにどかりと腰かける。シュバルツは私を見るなりぴょんとクルックシャンクスの上から飛び降りると、トコトコとこちらに歩いてきて、私の足元で丸くなった。



「なあに、なんなの?」

「君が告白されたって話さ」

「……ああ、それ」



ええと、名前はなんだっけ……長いから忘れちゃったよ、とりあえずレイブンクロー生だったのは覚えているが。一週間も前の話を今になって掘り返されるとは思わなかったので、私は思いっきり顔を顰めてしまった。ロンは面白そうに笑い、ハーマイオニーも堪えてはいるが笑いを隠し切れていない。



「まあ、こんな日が来るとは思ってたさ。なんたって君はアシュリー・ポッターだ。勉強も出来るし、表面上は愛想も良い」

「表面上は、は余計よ。……はーあ、もー少し逃げられると思ってたんだけどなあ……あー、もう。あの噂、広まってくれないかなあ」

「あなたがマグルの子が好きだっていう奴?」

「あら、知ってたの?」

「君の噂は速達ふくろう便よりも早く届くからね」



千人程度しかいない学校だし、加えて私の知名度ともなればそうなれば当然といえば当然か。私としては堪ったものではないが。



「でも、嘘なんでしょう?」

「何を根拠に」

「君は我らが親愛なるルーピン先生にお熱だ」

「違うっつってんのに!」



苛立ちを諌める為に、足元で丸くなっているシュバルツを抱き上げて、膝の上で転がす。もふもふもふもふとしていると、アニマルセラピー効果が表れ、顔の熱さがどんどん引いていく。嫌がらないシュバルツに感謝しつつ、溜息交じりでロンを見つめる。



「まあ、君がそう言うならそうなんだろうさ。けど、残念なことに、君が好きなのがマグルだろうがルーピン先生だろうが、君のファンはお構いなしらしい」

「……まさか」

「安心して、ラブレターは預かってないわ。けど、この一週間で三人の男子生徒に声を掛けられたわ。『アシュリー・ポッターに話があるんだけど』ってね」

「うわあぁ……」



思わずそんな声が漏れてしまう。談話室がガヤガヤ喧しくて助かった。一応、体裁を非常に気にしている私がこんなことを言っていると誰かに聞かれてしまっては、ただでさえ変動の激しい私の株が駄々下がりになるからだ。

撫で繰り回していたシュバルツがピクリと一瞬身じろいだと止まる。どっか変なとこ触ってしまっただろうか、気をつけて肉球を弄ぶ。



「それほんと?」

「ああ。アシュリーは入院してるって言えば、また来るって言われたよ」

「また来る!? あああもう、透明マント被って移動しようかなあ……」

「去年も似たようなことしてたわね」

「まだコリンとロックハートの方がマシだわ……私のこと何にも知らない癖に、なんだって好きだの付き合って欲しいだの言えるのかしら……」



周りがガヤガヤしてるのを良いことに、私は本音を漏らしてココアを呷る。

厭味ったらしく聞こえるかもしれないけど、この顔に生まれてからは本当にそう思ったものだ。確かに顔が良いというのはメリットだ。自分の恋人は可愛い、綺麗な方が良いと思うのは何も男だけではない。それは分かる、分かってる。けれどやはり、顔が良い方に生まれてみると、お互いよく知りもしないでよくまあそんなことが言えるな、としか思えなかった。

度重なる告白が慣れを生んでしまい、告白に対する“嬉しさ”や“恥ずかしさ”、“高揚感”などが薄れていってしまったのだろう。そもそも精神年齢が二十歳以上離れている子どもに一体何を思えというのだ、って話なのだが。



「どーしよ。とはいえ、下手に断ったら角が立つし……」

「体裁を気にするあなたとしては、大問題ね」

「大問題よ、ホント! とりあえず、私、マグルの世界に好きな人がいるってことにしておくから、二人も何か聞かれたら口裏合わせておいてね……!」

「はいはい」

「分かったよ」

「あ、あと、ラブレターとかも一切受け取らないでね!! マグルの時にもあったのよこういうこと! そんなんやるくらいなら、直接言いに来いって言っといて!」



割とある話だった。『これ、○○くんがアシュリーにって』という一言と共に渡されるラブレターに、何度眩暈を覚えたことか。いやもう、そこまでするなら直接渡しに来いよと何度思ったことか。しかし断れば渡し役の子にも申し訳が立たないという、さり気ないトラップでもあるのだから尚性質が悪い。



「全く、贅沢な悩みだよ。僕もそんな台詞言ってみたい」

「他人事だからそういう風に言えんのよ……ねえ、ハーマイオニー」

「残念ながらあなたの気持ちも、ましてやロンの気持ちも分からないわ」



ぱったぱったと尻尾を揺らすシュバルツを撫でくり回しながら、三人でそんなことを話しながらココアを飲む。やがて夜も深まり、十時を回る頃には私は眠くなっていたので、まだ予習が残ってるというロンとハーマイオニーを談話室に置いて、私はシュバルツを抱えて、一足先に女子寮に帰った。

暗い女子寮に人気はない。パーバティもラベンダーも勉強よりもお喋りな彼女たちは、十時程度じゃまだ眠くないのか、いつも下でお喋りを続けている。私が誰よりも先に寝入るのが早いのだ、勿論起きるのも誰よりも早いが。



「フーッ……」



とさり、とベッドに腰かけ、そのまま、ぼふっと上半身もベッドに沈める。シュバルツはぴょんとベッドに飛び乗り、私の顔の近くで丸くなる。ふわふわの黒い毛並みを右手で撫でながら、ビロードの広がる天蓋付きのベッドの天井を見上げる。



「好きな人、ねえ……」



もう、声も思い出せない懐かしい人に想いを馳せ、私はごろりと寝返りを打つ。愛に、恋に、胸をときめかせる時代はとうの昔に置いてきた。そりゃあ、かっこいい人がいれば、素敵だなあとは思うよ。ディゴリー氏もそうだったし、ルーピン先生もそうだ。私だって人間だ、何にも心を動かされない人形ではない。けれど、それは恋じゃない。ましてや愛でさえ無い。そもそも二人には、大切な人がいて、大切な人が出来るのだ。私の入り込む隙はないし、私はそんなことに身を費やす時間はないのだから。

ああ、なのに。それなのに、私の顔や名声にだけ惹かれた彼らは私に愛を、恋を告げるのだ。その淡く清らかな思いをそのままに、真っ直ぐに私にぶつけてくるのだ。そんな綺麗なもの、私には到底似合わないっていうのにね。



「ばかねみんな―――私なんかを、好きになるなんて」



こんな穢れた、愛を忘れられぬ女なんかを。

……あの人を、今尚、愛しているのかと問われれば、分からない。今尚、会いたいのかと言われれば、やはり分からない。今尚、元に戻りたいかと言われれば―――やはり、分からなかった。それは、ありもしない可能性だと分かっていると、想像さえも出来ないのか。想像してしまえば、自らが苦しくなると知っているからか。そうしていつものように思考に蓋をして、私は今を生きるために刃を磨くことに専念するのだ。直視してしまえば最後、私の歩みがまた、止まってしまいそうな気がしているから。

いいや、いいや。そんなことすらを考えている暇はない。そう何度も自分に言い聞かせているのに、未練としがらみに囚われたままのこのアタマ、何とかならないかと、温かなシュバルツにすり寄って、私は瞼を閉じた。ちりんちりんと、優しい音が鼓膜を揺すぶったような、気がした。


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