9 ※グロ注意

なんてことのない日だった。お互い仕事続きの中でようやく被った休日に、気の置けない長年の友人と共にショッピングに繰り出した。お気に入りの店でベルトを買って、そこらでご飯でも食べて。だらだら下らない事を話しながら歩いて帰る。そんなどこにでもあるような、気にも留めないささやかな日常は、けたたましいダンプカーのクラクションによって壊される―――と、本の内容を知るように分かっていたら、今、私はここに居なかっただろうか。

なんて可能性も、今となっては無意味なのだけど。



『―――危ないっ!!』



長年連れ添った、“私”の親友だった。少しだけとろくさいけれど、馬鹿みたいに誠実な、自慢の友人だった。大事な友人だった。大好きだった。だからなのかは分からない。けたたましいクラクションを前に私は、大事な友人を突き飛ばしたのだ。そして友人が生垣に突っ込んだのと同時に、私の背中にはダンプカーが突っ込んできたのだった。



『―――え?』



友人は実に馬鹿馬鹿しいほど間抜けな声を上げて、何が起こったのか分からないと言わんばかり。私にも、何が起こったのか分からなかった。どうして咄嗟にそんなマネが出来たのかも、どうして私は空を飛んでいるのかも、どうして友人はそんな顔で私を見ているのかも。

人間て、本当に驚いた時は表情が無くなるんだとその時はじめて分かった。見下ろす友人の顔を見て、なんて間抜けなツラだろうと笑いそうになりながら、私の身体は硬い硬いコンクリートに叩きつけられて、世界の全てがひしゃげた。視界が真っ赤で、世界の半分は無くなってしまったかのように知覚できなくて。ぐしゃりと耳を塞ぎたくなるような音も、耳からではなく骨を通して伝えられてきて。ひしゃげたのは背中の骨だけでなく、世界そのものだと気付いたのは、見慣れた友人の顔が何やらよく分からない肌色のモノにしか見えなくなった時だった。



『目を開けてよぉ、起きてよお、やだよぉおおっ……!!』



脳が壊れたんだと、今になって分かった。脳みそっていうのはとても繊細な装置だ。ちょっと壊れるだけで人を人と思えなくなるし、世界の半分は綺麗さっぱり消えて無くなるし、音を音として認識できなくなるし、このように指一本動かすことも儘ならなくなる。ブツブツと途切れる声をコンクリートを通じて骨で感じながら、私は何一言も発することは出来ない。ただただ、じわじわと侵食されていく“何か”が怖いと、ただそう思った。

それはまるで、羊水のように温かく、けれど何処までも深い静けさと凍てついた温度を孕んでいて。ひたりひたりと霧のように、霞のようにまとわりついていく“それ”から逃れたくてもがきたいのに、瞼さえ閉じられない私に“それ”から逃げられる筈もなく。乾いてくのは眼球だけじゃないのだと虚ろを見つめながら思ったのだ。まとわりついてくる“それ”が、私の全てを乾かしていく。乾いたものはぱらぱらと、砂上の城より尚容易く、朽ちて散る。



『やだああっ……なんで、なんでよお……っ!!』



これは―――死だ。

身体の中から、“私”が死んでいくのだ。頭のてっぺんから爪の先に至るまで、死が私を乾かしていく。干乾びた私が朽ちていく。散っていく。“私”の身体が、“私”の思考が、“私”そのものが、ぱらりぱらりと朽ちて流れていく。生まれた時から逃れられない宿命と定められた神に、私は殺されていくのだ。乾いて、朽ちて、そして散る。“私”の声が、記憶が、この世界から無くなっていく―――。





『死んじゃやだよお―――×××××っ!!』





血と涙が滴る視界を最期に―――そうして“私”は終わったのだった。













「  あ゛ ぁ゛ ぁ゛ あ゛ あ゛ あ゛ ぁ゛― ― ―  ッ ! ! 」



『ポピー、ミス・ポッターが目覚めました!』

『誰か手伝って下さい、すごい力―――鎮静剤を!』

『それから眠り薬を! ええ、うんと強力なのをお願いします、この子はかつてないほど不安定なのです!』

『いえこれでは薬も投与出来ないでしょう、止むをえません、呪文を!』

『お止めになって! 医務室でそんな野蛮な物を振り上げるなんて、正気ですか!?』

『だめだ、この子なんてパワーだ!』

『あまり動かすな、鎖でも持ってこい!』

『いいえいいえ、私の患者に手出しはさせません、そんなことするくらいなら直接飲ませ―――ウグッ』

『ポピー? ポピーしっかりしてください!』

『くっ、この子のどこにこんな力が!』

『止むをえまい、ミネルバ!』

『ええ、セブルスも同時にお願いします!』

『待ってくれ二人とも、いくらなんでも―――!!』





***





ぱちん、と何かが弾けた。何故か疲労感の残る身体を、無理矢理起こす。ぼやける視界を何度か瞬かせれば、部屋が暗くて分かり辛かったが、自分は医務室のベッドの上に居ることがようやく分かった。何かと世話になるなと身体を捻ろうとした瞬間、じゃらりと重々しい鉄の擦れる音が響いた。はて、と両腕を持ちあげてみれば、そこには瓦ほどの分厚い手錠がかけられており、鎖はベッドに縫い付けるように繋がれている。



「うっ―――」



驚くよりも先に、生々しくも甦った光景が目の前を横切って私は身体を震わせた。

ああ、ああ。思い出した、思い出してしまった。自分の死に様を、自分の体験した死の恐怖を。がたがたと震える身体を抑えつけたくても、両手の手錠がそれを許さない。ああ、ああ。あの恐怖をどうして忘れられていたのか、信じられない。あの、あの絶望感、あの恐怖感。全てが黒に塗りつぶされていくあの世界を、全てがひしゃげて歪んでぽっかりなくなってしまうあの視界を、どうして、何故、片時も思い出すことなく笑っていられたのかが、分からない。

どうやって、どうやって私はあの恐怖を忘れて生きていたのか。分からない、忘れてしまった。どうしよう、こんな、こんなんじゃ私、この先どうやって生きていけばいいんだ。こんな、こんなのってないだろう。これから私の人生、何度死の間際まで追いやられると思ってるんだ。少し気を抜いただけで呆気なく散るその死線を、何度潜り抜けなきゃいけないと思ってるんだ。



「うっ……う―――あぁっ……ああぁああっ……!!」



そして何よりも―――またあの絶望を味わわなくてはならない瞬間が、どんな生き方をしても絶対に訪れると知ってしまった、思い出してしまった。それが何よりも、恐ろしかった。

そうだ、私は生まれてしまった。もう一度死ぬために、生まれ落ちてしまった。ああ、ああ。かみさま、私がどんな罪を犯したというのでしょうか。あの絶望を、あの恐怖を誰よりも知っている私に、もう一度同じ目に遭えなどと、どんな業を背負えばこんな目に遭わされるのでしょうか。分からない、私にはちっともわからない。どうして、どうして私だけがこんな目に。



「誰か―――」



たすけてと手を伸ばしたくても、縛りつけられた手を取る者なんて何処にもいないのに。それでも縋らずにはいられない弱い私が、泣き言を喚きながらのた打ち回る。やだよ、やだ。やだよ、どうして私は、私がこんな、私、どうして生きて、何の為に産まれて、どうしてこんな世界にもう一度、私、どうして、誰か教えて、誰か答えて。どうして、どうして私だけがこんなにも苦しむの、どうして生きていたいというたった一つの望みさえ満足に抱くことが出来ないの。どうして私は死んでしまったの。どうして私は生まれてきたの。どうして、誰か、こたえて誰か、ねえ、誰か―――!





「「アシュリーッ!!」」





手を―――握られた。

鎖で縛られた、どこにも伸ばせない筈の手なのに。右手には赤い髪の少年の少しだけ大きくなったごつごつした手が。左手には茶色の髪の少女の、羽根ペンたこがそこらじゅうに出来ている小さな手が。温かなぬくもりを分け与えようとぎゅうっと握られて。私はぱちぱち、と暗闇の中で目を瞬かせた。



「ロン……ハーマイオニー……?」



暗闇の中から、ぱっと現れた二人の姿に、私は思考を放棄して茫然とした。二人ともパジャマ姿で髪もぼさぼさ、ロンなんてスリッパの右と左を間違えているし、ハーマイオニーに至ってはいつもの青いパジャマのボタンをかけ違えている。



「どうして……なんで、私……?」

「君に呼ばれた夢を見たんだ」

「居てもたってもいられなくて、こっそり拝借したの」



コレ、と悪戯っぽく笑う二人の手には、鼠色の液体のようなもの。ああ、透明マントか、と認識するのにだいぶ時間がかかった。



「アシュリー、どうかしたのかい?」

「何でもいいのよ。私たちに、出来ることはない?」



優しく、温かく笑うロンと、ハーマイオニー。なぜ、どうしてという疑問よりも先に、込み上げてきた熱いものを、ついに私は堪えることが出来なくて。ぽたりぽたりと頬を伝っていく液体を隠そうともせずに、鎖で縛られた手を握ってくれる二人のぬくもりに―――忘れていたもの全て、甦ってしまった恐怖に耐えることは出来なかった。

二人は少しだけ驚いた顔をした。けれど、些細なことだと言わんばかりに私をそっと抱きしめた。その温もりに、堪えていたもの全てが堰を切って溢れ出た。



「こ―――こわかったの、ゆめを―――私、怖いゆめを、見た」



嗚咽も涙も、隠そうとはしなかった。零れ出る恐怖への敗北も、ぬくもりを感じることの出来る身体に安堵した吐息も、一方的な信頼に応えてくれた二人の友情への歓喜も、全て全て吐き出した。秘密や言えないアレコレは全て忘れ去って。怖かったのだと、恐ろしかったのだと、お化けを見た子どもが本能的に母親に泣き付くのと同じように、私はロンとハーマイオニーに抱き締められながら、ただ情けなく、ただ純粋に涙を流した。ああ、こんなにも涙を流すのは、一体いつぶりだろう。そんな記憶も、遥か彼方に置いてきてしまったほど、私は戦ってきたんだろうか―――。

そうして泣き疲れた頃には、何もかもを忘れて眠ってしまっていたのだった。





***





やばい、と思った瞬間に意識が覚醒し、私は毛布を跳ね飛ばす勢いで起きあがった。窓からは眩いくらいの朝日が差し込み、陽が昇ってしばし経つことが容易に窺える。起きなきゃと身体を捻るも、しかし鎖は相変わらず手の中でじゃらじゃらと音を立ててベッドから動くことは叶いそうにない。

ハッ、とベッドサイドを見る。右にはロンが、左にはハーマイオニーが、私の手を取りながら私が身を置くベッドに頭だけを沈めて寝息を立てている。



「ふ、二人とも、起きてッ! 朝、朝になっちゃ―――」



こんなところ見られたら処罰モンだ、と肩をゆすろうとしたその時、医務室の樫の木のドアを開けて白ひげのじいさん、もといアルバス・ダンブルドアが入ってきたのが見えて、思わず口を閉口した。

ダンブルドアは、にっこりと笑う。



「おはよう。よく眠れたかね」



痛む目を肩で擦りながら、嫌味かと思いながらダンブルドアを見つめ返す。



「ああ、そう慌てずともよい。マダム・ポンフリーにはわしから言って聞かせてある。アシュリー・ポッターには鎮静剤や眠り薬よりも、友人と過ごす時間の方が余程特効薬になるのじゃと」

「……そう、ですか」



図星だっただけに言い返すことも出来ず、頬に集まる熱の言い訳もすることなく私は曖昧に頷いた。それからゆっくりと私のベッドに近付いてくると、杖を取り出して一振りする。するとたちまち手錠も鎖も溶けるように消えて無くなった。



「友人との語らいに、無粋な物は必要ない。そうじゃな?」

「は、はあ……」



そこに、チリンと聞きなれた鈴の音が聞こえて、窓際を振り返った。ベッドの真後ろにある窓枠に、見慣れた小さな黒い塊が、目を覚ましたのかぐっと伸びをして顔を洗っている。



「シュバルツ、どうして……」

「君が心配になったようでな。ずっと君の傍に居たのじゃよ。無論、ミネルバたちには見つからぬよう身を隠しておったがの。君に似て賢い子のようじゃ」

「……先生も、少しは怒ったりした方がいいと思いますよ」

「はて、何のことか。わしはただ、可愛らしい子猫が飼い主の身を案じる健気な姿に心を打たれただけじゃよ」



ほっほっほ、と笑うダンブルドアに、私は何も言えなくなった。ダンブルドアに見る目が無いんじゃなくて、ダンブルドア自身が教師に向いてないんじゃないかって気がしてきた。少しだけ唸る私の膝に乗ろうと、いつもの調子でシュバルツが毛布の上にぴょんと飛び乗った。鎖はもう無いのに、嫌に重い腕を動かし、静かに丸くなるシュバルツの頭を撫でる。ああ、あったかい。いつものシュバルツだ。

それを見たダンブルドアは、ではごゆっくり、と笑いながら静かに医務室から出ていった。……何しに来たんだアンタ。



「うぅ……煩いよお、アシュリー……」

「なあに……も、朝なの……?」



そんな私たちの会話が聞こえたのか、もぞもぞと起き出す友人たち。朝日に目を眩ませながら、ゆっくりと覚醒していく。



「おはよう、ロン、ハーマイオニー」

「おはよ……―――アレ、僕らあのまま寝ちゃったんだっけ」

「そう、みたいね。……ふあぁあ」



欠伸を噛み殺すハーマイオニーは、ぐっと伸びをする。私も凝り固まった身体を伸ばし、軽いストレッチをする。んん、なんだろう。物凄く身体が重いっていうか、だるさが残るっていうか、なんだかヘンテコな感じだ。



「なーんか身体が重いわね……」

「そりゃ一週間近くも寝てればね」

「い、一週間ッ!?」



思わず授業の一覧を頭に思い描き、そのまま頭を抱えたくなった。最悪だ、初週から休みだなんて。得意科目はまだしも、苦手科目、そして明らかに厳しそうな古代ルーン文字学のことを考えると頭が痛くなってくる。



「えーと、アシュリー。項垂れるのもいいけど、まあまずは状況を確認しようぜ」

「状況……?」

「君が倒れたのが先週の月曜。今日は日曜だ。それは覚えてるか?」

「ええ、まあ。ハグリッドの授業でヒッポグリフの、えーと、バックビークに襲われた。ドラコを庇って。うん、そこまでは覚えてるわ」



そっから昨夜まで記憶がないのだ、今日が日曜日なのなら、ほぼ一週間医務室で寝ていた計算になる。うっかり気絶してしまったのが情けないが、あの程度の傷を癒すことはマダム・ポンフリーには造作もないようで、背中に痛みは感じなかった。彼女の事だ、恐らく跡一つ残っていないだろう。

しかしいくら傷を癒せても、衰えた体力までは考慮してくれなかったらしい。通りで身体が重い筈である。筋トレメニュー、少し弄らないといけないなあ、と呑気なことを考えながら、深刻な表情のロンとハーマイオニーを見つめる。毛布越しにシュバルツの体温を感じながら、耳を傾ける。



「それで……そうだな、ハグリッドの授業は台無しになったって言ってもいいな、ウン。マルフォイはバックビークに傷を負わされたって騒ぎ立てて、今やハグリッドの立場は森番以下だ。本当に辞めさせられちゃうかもしれない」

「そんな! ドラコは私が庇ったじゃない!」

「突き飛ばされて尻もちついた時、怪我をしたって言い張るのよ! ……ううん、それ以上に、あなたが一週間も目を覚まさなかったことが問題だったの。マダム・ポンフリーが三日かけても癒せないなんて、そんなの誰もが只事じゃないって思うでしょう?」

「別にそれは―――」



傷のせいで寝込んでたわけじゃないんだ、きっと。私はそう、思い出したくもない記憶を思い出してしまった。だから、目を覚ますのに時間がかかったのだ。慌てて口を開くも、ロンは残念そうにかぶりを振った。



「分かってる。あの傷程度で一週間も退院出来ない君じゃない、そうだろ? じゃなきゃ君は、年から年中此処に住まなきゃいけなくなっちゃう」

「だったらどうして―――」

「その事実を知ってるのが、私たちと一部の先生方だけなの。あのね、アシュリー、その、言っていいか分からないんだけど、そのね、あなた、」



一瞬、言葉を詰まらせるハーマイオニー。だが、元より隠し通すつもりはなかったらしく、すぐに顔を上げて真っ直ぐに私を見つめる。



「あなたが医務室に運ばれてから、すぐに面会謝絶になったわ。でも私たち心配で、どうしても一目お見舞いに行きたかったの。そしたらね、シュバルツが」

「シュバルツ?」

「君のトランクから、透明マントを引っ張りだしてくれたんだ。だから僕らはすぐにマントを被って医務室に来た、シュバルツも一緒にね。医務室は防音魔法や人避けの魔法が掛かってたけど、マクゴナガル先生たちがしきりに出たり入ったりしてたから、僕らはその隙を付いて医務室に入った。そしたら―――」



酷い有様だった。とロンは俯き、ハーマイオニーは両手で顔を覆った。途中から支離滅裂になる二人の言葉を要約すると、こうだ。

ハグリッドによって医務室に運ばれた私は一人、ベッドに横たえられた。幸い傷はすぐに癒えたようで傷跡も後遺症も綺麗さっぱり無くなった。なのに、一日待っても二日待っても、ちっとも目を覚まさない。なのに時折、酷く魘されて、自分の首を締めようとのたうち回ったのだという。馬鹿みたいに暴れまわり、抑えつけようとする先生方を力任せに振り払い、時には怪我までさせた。鎮静剤を打とうにも酷く暴れる為に投与することも叶わず、何度も強力な呪文や呪いで私の身体を拘束し、物理的にベッドに縛りつけることでようやく奇行を食い止めることが出来た、とのことだった。



「すごい……すごい、凄惨だった。それだけは言えるの。マクゴナガル先生、スネイプ先生、ルーピン先生、それからマダム・ポンフリー、時にはダンブルドア先生もいらっしゃったわ。でも、大の大人が数人がかりでもあなたは力任せに振り払ったてた。けど、意識はないの。あなたはずっと、眠ったままなの」

「正直すごい怖かった。僕ら、透明マントを被ったまま医務室の隅っこで震えあがっちゃったぐらいだ。あんなアシュリー見たこと無くって、お見舞いに来たは良いけど、どうしていいのか分かんなくなったんだ」



私が思い出したくないものを思い出していた時、現実の世界ではこんなことになっていたのか。自分が終わる様、友人の歪な顔、世界が無くなっていく音、命が乾いて朽ちていく絶望―――……一週間の間、夢の世界で私は魘されていたのだ。そうして現実の世界では、吸魂鬼に襲われた時と同じように、この首に手を宛がって、私は、どうして。



「……けど君が、僕らを呼んだ。夢の中で」

「どうしていいのか分かんなかった。けど、黙って待ってることも出来なかったわ。だからもう一度会いに来たの。来たらあなたは魘されてて、傍にはダンブルドア先生がいらっしゃったわ」

「先生は僕らの顔を見るなり、『傍にいてやりなさい』って言ってどっか行っちゃったんだ。どうしていいのか分かんなくて、でも君、すごく苦しそうだったから、だから僕ら」



君の手を取ったんだ。そうやってロンは、照れくさそうに笑った。

……ああ、誰よりも生き残りたいと願いながらも戦う事を受け入れて。なのにこうして無意識下で、自らの手はこの首を締め上げることを求めていて。矛盾という矛盾を孕んだこの身体に残存するのは決して意識や記憶だけではなかった、ということなのか。逃げて、目を背けて、遠回しにしてきたツケが十三年の時を経て甦ってきたのだろうか。けれど十三年の月日を経て尚、私にはまだ、それを抱き止めるだけの“心”も“時間”も存在しない。

ああ、そっか。なるほど。これも一つの答えという奴か。今にしか出来ないことをとこの子たちの笑顔に誓ったのならば、私はまだ―――まだ。



「私ね、ずっと昔に交通事故に遭ったの」



ロンもハーマイオニーも、驚いて互いの顔を見合わせる。嘘は言いたくない、けれど本当の事も全てはまだ言えない。けれど、それでも数少ない真実を言うことは、出来る。黒猫の喉を指で弄びながら、心底穏やかな気持ちで言葉を続ける。



「友達と二人で歩いてたらね、大きなクラクションと共にダンプカーが私たちに突っ込んできたの。……どうしてそうできたのか、未だに分からないんだけど、私、その子を庇った。すぐそばの生垣にその子を突き飛ばしたのと同時に、私の身体はダンプカーに撥ね飛ばされてた。……死んだと思った。世界が終わる音が聞こえた。もうだめなんだって思ってそれがすごく―――どうしようもなく、私は怖くて」

「……それが、君が見たっていう夢?」

「そ。どうして忘れてたのか不思議だったくらい、鮮明に思い出した。とても怖かったから、きっと身体も忘れたがってたんでしょうね。でも、吸魂鬼を初めて見た時、何か記憶の蓋に引っかかった気がしたの。そして、私が庇ったドラコのあの表情を見た時、ついに思い出したの。『ああ、あの子もあの時、同じ顔をしてたなあ』って」



初めて吸魂鬼を見た時、思い出したのだ。耳元で声を聞いた、懐かしい声を。懐かしくも悲しい、思い出したくはなかった“私”の最期の記憶。“私”を抱いて、泣き叫ぶ親友の声。

そうして本当の死の恐怖を思い出してしまった私は、文字通りのた打ち回るくらい苦しんだ。何せ私は本当に死んだのだ、臨死体験なぞとは訳が違う。その恐怖は生者の誰とも分かち合うことは出来ない、絶対にして絶命の感覚。そうして夢の中の私は死の恐怖にもがき苦しみ、現実の私は自らの命を断とうとすることでその恐怖から解放されたがった。



「(だから私はあの時も―――己が、首を)」



そう私は、自殺を図ることで死を受け入れようとしたのだ。愚かしく、情けない己に涙さえ出てくる。生き残ると決めたのに。戦いから逃れられない運命を受け入れ、生き残り、“私”の思い出と生きる―――それが最初の誓いだった。その予定に変わりはない筈だ。いくら私の人生にも大切な物が出来たとしても、原作を大いに狂わせてしまうくらい大切な物が出来たとしても、私はその誓いだけは捻じ曲げないと、思っていたのに。



「……こわい、ゆめだったわ」



けれど、封じ込めていた死への恐怖を思い出してしまった私は、怖気づいてしまった。無意識とはいえ自ら命を断とうとするほど、私は死に屈してしまった。掲げた誓いを捻じ曲げて、刹那の終わりの為だけに私は全てを放棄してしまうところだった。



「けれど―――あなたたちが、私を助けてくれた」



たった一人、楽に終わろうと苦しむ私に、思い出させてくれた。そうだ、私はもう“私”だけのものじゃない。ロンの、ハーマイオニーの、目を瞑れば思い描ける、掛け替えのない人々の命。彼らの命全てが、この両肩に伸しかかってくる日が、そう遠くない未来に来ることを。私の行動次第で、救える命を見殺すことも、死にゆく命を拾い上げることも出来るのだと、思い出したのだ。

何よりこの涙を受け止めてくれる人がいるのだと、思い出したのだ。



「思い出してしまったこと、少し後悔した。けど、いつまでも逃げてはいられない。だから私、戦うわ。あの時の恐怖に、負けないように」

「……どう、やって?」

「おあつらえ向きのブツがいることを、思い出したのよ」



後悔しないよう、今の為に考える。今出来ることを、全力で。そう誓って私は立ち上がったのだ。だとすれば、私はまだまだ、やらなければならないことがある。たくさんある。悔いて、恐怖し、立ち止まっている暇なんて、ありゃしないんだから。

ああ、変な気持ち。私、あの時のダンブルドアの質問に、今ならこんな晴れやかな気持ちで答えられる。去年の冬、校長室に呼び出された日、最後に問いかけられた言葉に、私は『割と』と答えたんだっけ。ああ、ダンブルドアが何を言いたかったのか、今なら分かる気がする。



「私―――私、今すっごく幸せだわ」

「アシュリー……」

「変な気持ち。あなたたちにすっごく迷惑かけた筈なのに、ハグリッドたちが大変だって聞いた筈なのに。先生方にも、苦労をかけたっていうのに。私、今すっごく幸せ」

「僕らのおかげ?」

「そうかも」



冗談で言ったつもりなのにそう返されると思ってなかったらしく、ロンは顔を赤くしながらモゴモゴと口を動かす。そんな様子のロンに、思わずふふ、と笑みが込み上げてくる。それを見たハーマイオニーは、ようやく私にいつもの笑顔を見せてくれた。



「元気になってくれたみたいで、よかった」

「おかげさまで、ね」

「でも、笑ってる暇なんかないわよ。一週間分の宿題が山積みになってるんだから」

「げっ」



嫌なことを思い出させないで欲しい。ハーマイオニーの気迫迫る表情から、《動物もどき》の練習は、しばらく後回しにしなければならなくなりそうだと思った。



「今日から自習もジョギングも控えてもらいます! 完治したとはいえあなたは怪我人なんですからね! そ、れ、に! 闇の魔術に対する防衛術はともかく、魔法薬や変身術、それに古代文字ルーン学、なにより天文学の宿題と予習復習が残ってるんだから!」

「ウッワ、あと二週間ぐらい起きなきゃ良かった」

「アシュリー!!」

「うそうそ」



ようやく、いつものように軽口を叩いて笑える。笑顔も、不自然じゃなくなった。私、ちゃんと笑ってる。二人も、いつも通りに笑っている。



「そういい気になってられるのも今のうちだぜ。暴れ回る君を抑えつけるのに、先生方はボロボロになったからな。次の授業出た日には、宿題倍にされるぜ、きっと」

「……やっぱあと一か月ぐらい引き籠ってようかな」

「君の憧れのルーピン先生も、相当ボロボロにされてたよ。引っかき傷やら打撲の跡とか、もう酷くって」

「あ、憧れとかそんなんじゃないし!!」

「ああでも、スネイプがボコボコにされてたのはちょっと気分良かったな。あいつったら酷いんだぜ、この間の授業なんか―――」



そうして三人で、とりとめのない話を繰り広げた。ネビルの縮み薬が本来緑になるはずがオレンジ色になったこと、闇の魔術に対する防衛術の授業のこと。ハーマイオニーの《まね妖怪》は『去年の試験が全科目落第だったので、あなたは留年ですと言いに来るマクゴナガル先生だった』、という話を聞いて思わず大声で笑うとハーマイオニーは無言で私の頬を抓った。

するとその声が聞こえたのか、奥の個室からマダム・ポンフリーがひょっこり顔をのぞかせた。



「ミス・ポッター。お目覚めですか?」



ウッワ、と声に出さなかったことを褒めて欲しい。私が暴れ回ったというのは本当らしく、先生の顔や手は傷や打撲跡だらけだった。これをマクゴナガル先生やルーピン先生にも、と思うと申し訳なくってあと数カ月は誰とも顔を合わせたくなくなった。



「え、ええ。この通り、ピンピンしてます。その、その節は、ご迷惑を……」

「結構、それが私たちの仕事ですから。校長先生が目覚め次第退院させよとのことなので、着替えたら寮に帰っても宜しい」



そう言って、事務室に引っ込むマダム・ポンフリー。間髪入れずにロンが吹き出したので、不快さを隠さずにロンを見やる。



「君、そんな顔するけどな! スネイプの顔見たら僕と同じ反応する筈だぜ! ほんと、みんなあんな感じなんだから!」

「申し訳なくて今すぐ退学したい気分だわ。ていうか、傷薬とか、治療薬とか、医務室ならたくさんあるでしょうに、どうして使わないのかしら。私への当て付け!?」

「君の背中の傷を癒すのに使ったら無くなったって言ってたよ」

「……」



罪悪感で死んでしまいそうだ。ルーピン先生には個人的にはお世話になる気満々なのに、早速行きづらくなってしまった。うう、新学期からなんて仕打ちだ、チクショウ。

それから交代でローブに着替えて、朝ごはんを食べる為に大広間に向かう事になった。丸くなるシュバルツをフードに滑り込ませ、私はほぼ一週間ぶりに自分の足で立った。けれどどこか不安定な力の加減に、やはり足の筋肉が明らかに衰えているのが分かる。それを見たハーマイオニーが、柔らかく微笑んだ。



「シュバルツ、ほんといい子ね」

「え?」

「あなたが入院してずっと、先生方に見つからないように毎日ベッドの下で丸くなってたのよ。彼、本当にあなたのことが好きなのね」

「……そう、なんだ」



もはや忠犬だ。名前がなければハチ公と呼んでいるとこだ。なんて愛おしい。一生可愛がってやろうと心に決める。あ、勿論ヴァイスだって私の大事なペットだよ。二人……じゃない、二匹への愛情の比重は同じくらいだ。同じくらいな、筈だ。うん。そう、うん。ソウ、ネ。ウン。ヴァイスには高級なふくろうフーズを買ってやろう……。

なんて思いながら人気の少ない廊下を歩いていると、ふと前を歩くロンがくるりと振り返った。この夏また少し伸びた身長に合わせ、彼を見上げる私。



「さっきさ、分かんないって言ってたよな」

「何が?」

「友達を庇ったこと。なんで出来たのかって」



そう言うロンは、頭の後ろで手を組んだ。

分からない―――覚えてないのか、忘れてしまったのか。あのコンマ数秒の間に何を思って彼女を守ろうとし、守って、死んだのか。ドラコの時とは違う。計算も今後の算段も何もなかったあの頃、どうしてただの一般人でしかなかった私は、漫画や小説の登場人物のように、自分を犠牲に他人を救う、なんてことが出来たのだろうか。



「僕さあ、思うんだけど」

「うん」

「君、多分そんな深く考えてないんじゃないの?」

「……え?」

「君って、自分が思ってるよりずっとお人好しなんだよ。助けられそうだから助けた。多分そんな感じじゃない?」

「そんなこと―――」



無い、筈だ。私、そんな良い人じゃない。そりゃあ、味方はなるべく助けたいって思う。けれど敵は一切の情けはかけない。果てに私は一人の男を手に掛けている。そんな私がお人好しだなんて、助けられそうだから助けるなんて、そんなことあり得る訳が無い。



「違う。私、そんな良い人じゃない」

「僕がそう思っただけだよ。君が自分をどう思ってるかじゃない。僕はアシュリーのこと、すごいお人好しだと思う。だから助けたんだと思った。それだけだよ」



ロンの言葉は、とてもシンプルだった。子どもにでも分かるような、理論もロジックもない、感情論ですらない真っ直ぐな言葉。私があれこれ考えているのが馬鹿らしくなるほど何にも考えてなさそうな、けれどどこかそんな言葉を求めていた自分がいることに気付いてしまって。ぽかんとロンを見上げる私の肩を、ハーマイオニーが軽く叩いた。



「私も今回ばかりはロンに同感。ねえ、アシュリー。難しいこと考えすぎるの良くないって、私去年も言ったでしょう?」

「そうだぜ。今君が頭を悩ませなきゃいけないのは、山積みになった宿題と、先生方をボッコボコにしたことへの謝罪。ああ、後、ルーピン先生への個人的なお詫び、かな?」

「ち、違うったら! ばか、ホントもう、そんなんじゃないの!!」

「照れなくても良いのに」

「照れてないったら、ロンのばか!!」



ローブのフードがモゴモゴいうのも気にせずに、私は大股でずんずんとロンを追い越す。顔が熱い。そんなんじゃないっつってんのに、しつこいなあもう。そりゃ気まずいとは思ったけどさあ……。

ずんずん進む私だが、悲しいかな、コンパスの差というものが無情にもはだかって、あっさりとロンにもハーマイオニーにも追いこされてしまう。振り返りざまの二人のニヤけ顔が鬱陶しく、私は二人の背中をばしばし叩きながら、大広間へ向かうのだった。

そしてその背中に、ぽつりと言葉を投げかけた。



「―――ありがと」



答えはない。ただ、後ろから見上げる嫌にニヤつく顔が、見られるものになったことだけは確かだった。


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