15

私の思いとは裏腹に時が経つのは早く、あっという間に二十時前になってしまった。重い脚を引き摺って私はロックハートの部屋の前に来た。ドラコたちから貰った懐中時計を開いて時間を確認する。現在時刻は十九時と五十分だ。

嫌だ……行きたくない……!ロックハートと何時間も密室にいるだなんて、そんなの耐えられる気がしない……!!この後に控えているイベントも十分に気が重くなることだが、私は今目前に迫る貞操の危機の方が重要だった。や、まあ、いざとなればそれなりの対処をすればいいわけだが、うん。そう易々とヤられるほど、私はヤワではないの、だが……いくら自分の身は自分で護れるとは言え、好きで嫌いな相手と、更には身体的には年の離れた相手とそういう状況に陥るというのは好ましくはない筈だ。好きだという人もいるかもしれないけれども、私にそういう趣味はない。断じて、ないのだ。



「……くそ、」



だが、相手は教師で、私は生徒という身分。そして今回は一応罰則という名目なのだ。ここでフケて私の評判を下げるというのもしたくないことだ。覚悟を決め、右手に杖を忍ばせつつ、私は歯を食いしばり、ドアをノックした。ドアはすぐに開かれ、満面の笑みを浮かべたロックハートが出てきた。



「おや、悪戯好きな妖精さんのご到着かな? よく来たねアシュリー! さあさあ、入りたまえ! さあ、中へ!」



肩を抱き寄せて、ロックハートは私を招き入れる。頬が引きつるのを拳を握りしめて我慢しながらロックハートの部屋に足を踏み入れる。若い良い子たち、男の部屋に一人で上がり込んではいけないよ……その相手が誰であれ、心許す相手でなければ後悔するよ、絶対だよ……!!

部屋は想像以上だった。壁という壁にロックハートの写真が数え切れないほど飾られており、どれも腹立たしいウインクを飛ばしながら決めポーズしている。だが私の真横にいる本物の方が何倍も鬱陶しいウインクを飛ばし、歯の浮くようなセリフを吐き、白い歯を見せつけて笑っている。うぜえ。部屋は蝋燭がたくさんある所為かやたら明るく、サイン入りの写真や書籍がその辺に置いてあり、机には写真がもうひと山と、気の遠くなるような数の手紙の山が合った。これの返事を書けってか。くそ、まだスネイプのレポートを羊皮紙十メートル分書いた方が楽だわ。



「さあかけたまえ、アシュリー! 飲み物は紅茶でいいかな?」

「構いません先生。その、罰則で来ていますし」

「気にすることはない。君と私の仲だ。少しくらいは、ね?」



何が、ね?なのかちっとも分からない。ロックハートは紳士のように椅子を引いてくれて、かけるように促した。えーと、左側から入るんだっけか。私は椅子の左側に立ち、左足から椅子の前に移動させ、右足も椅子に入れて真っ直ぐに立った。ロックハートが静かに椅子を押し、膝裏に椅子が触れたので、ゆっくりと腰を下ろした。日本に居た頃は、あまり意識した事無かった立ち振る舞いも、この身体になってからは、ひいては何れの為にと必死で覚え込んだものだ。面倒くさいけれど、せっかく綺麗な顔で産んで貰ったんだし、立ち振る舞いも綺麗じゃないと勿体ないしねえ……。

ロックハートは満足そうに頷いて、私の隣に腰かけた。



「君は年若いのに、その姿に相応しいマナーを身につけているようだ。立ち居振る舞いも上品とは、実に素晴らしい。私の見込んだだけある」

「いえ、基本ですから。それで、私は何をすればいいんですか?」

「まあまあ、アシュリー。そう急ぐことはないだろう。時間はまだ、タップリと用意されているのだからね」

「(かえりたい)」

「さあさあ、セイロンティーはお好きかな? ここに確か……ああ、これだ。しばし待ちたまえ、今、準備するのでね」



ロックハートは座ったかと思えば立ちあがり、忙しなく机や棚をひっくり返している。正直紅茶なんか飲んでる暇があるなら勉強をしたい。私には暇なんてないし、学ぶべきことが山ほどある。こんなところで油を売っている暇なんてないのに。ああ、マクゴナガル先生、これじゃあ本当の意味での罰則になっちゃうじゃないですか。なんでですか、私が何したって言うんですか。いやまあ、色々しちゃったかもしれないけど、それでも、罰則を受ける体って話だったじゃないですか。畜生、神様私が何したって言うんだ。このセリフももう何度言ったか分からないけれど、何度でも言うわ。神様私が何したっていうんだ。

内心悶々と悪態をついていると、ロックハートがティーカップを私の目の前に置いた。手には、煌びやかな丸いティーポットを持っている。



「そんな気難しい顔は、君の美しい相貌に似合わないよ」



相変わらずのセリフ。ねえそれ誰に向かって言ってるか分かってる?あんた自分より一回り以上年下の女の子に言ってるんだぜ?身体は、だけど。そのセリフやばいぜ?誰かに聞かれたら一発アウトだって気付いてる?それとも英国人は歳の差は関係ないって感じなの?でも生徒と教師だよ?アウトなんじゃないの? 

すると──。



「……良い匂い」



ふわり、と鼻をくすぐる紅茶の良い匂いに、意識がこちらに引き戻される。カップを温め、数分蒸らしてから、淹れるのは流石腐っても英国人ってところだろうか。目の前のカップの中には、ルビーのように赤く美しい水色が波紋を描いている。



「キャンディ、ですか?」

「欧州の硬水で淹れても、色が綺麗になるからね」



クセのない、飲みやすいものだ。さあどうぞ、とにこやかな笑みでロックハートの言葉に、そろそろとティーカップに手を伸ばす。そしてカップを手に取り、口をつける。



「──美味しい」

「それはよかった」



普通に美味しかった。良い茶葉を使用していることは分かったし、淹れ方も達者なものだった。こちらでは紅茶はかなりポピュラーな飲み物で、淹れ方も、日本のようにふわふわとした感じではなく、多くの一般の人はかなり徹底した淹れ方をする。そう、だからこそ──胸に湧いた疑問を、思わず口にした。



「先生──マグル生まれなんですか?」



魔法使いは、大抵のことは魔法を使って行う。それは、日々の生活のにも同じことが言える。料理も掃除も、杖を一振りして行う者が多い。ウィーズリーおばさんだってそうだった。それは、紅茶を入れる時だってそうだ。杖を振って、ポットとカップに魔法をかける。それはとても簡単なこと。けれど、けれど、一般のイギリス家庭で育った者ならば、そんな方法に頼るより、自分の手で淹れた方が美味しいし、それが“当たり前”だということを知っている筈だ。

その当たり前を知っているのは──少なくとも、マグルで育ったことのある人ではないだろうか。



「……父が、マグルでね」



ロックハートは、初めて重々しい口調でそう言った。顔から輝かしい笑顔が消え、どこか悩ましげに、悲しそうにそう言うロックハート。その理由は、容易に察せる。奴の性格を考えるに、マグル生まれという称号は、ギルデロイ・ロックハートにとってコンプレックスになっているのではないだろうか。あれだけ自尊心の強い男だ。いくら淘汰されつつあるとはいえ今尚純血主義を声高に叫ぶ奴らだっているのだし、それは、ロックハートにとって、耐えがたいことなのではないか。生まれだけは、その出自だけは、濁すことは出来ない。記憶を消して、奪うことのできない──よくある言葉で言えば、純血主義者は、奴の大好きな“選ばれた者”であるのだから。

それにしても、ロックハートの出自なんて微塵にも興味無かったし、初めて知ったことだった。奴にも、“本当”のことってあったんだなあ。なんだか、不思議な気分だ。嘘と虚栄で塗り固められた中には、確かに一人の“人間”がいた。ただの嘘つきで、詐欺師で、ロリコンだと思っていたけれど、それでもやっぱり、ギルデロイ・ロックハートは紛れもない一人の人間なのだ。だからこそ、当たり前に生きているし、当たり前の幸福を享受している。

ああでも、それはまるで──。



「(私のようだなんて、そんな──)」



ああ、そうか。私は、ギルデロイ・ロックハートの中に、“自分”を見ていたのか。あの嘘つきで、詐欺師で、クソ野郎だと思った男は、自分と同じ生き方をしていたのか。ああ、だからこんなにも腹立たしく、こんなにも苛々するのか。自己嫌悪、同族嫌悪──そういうことなのだ。嘘で周りを塗り固め、本当の自分は嘘の殻に閉じ籠り、ぴくりとも動かないように嘘と偽りで雁字搦めにする。そんなの、そんなの“私”以外の何者でもないじゃないか。そんな、そんなの、そんなこと──。



「やっと見せてくれたね、アシュリー」



急に、ロックハートが私の両肩に手を置いて、真正面に向き合わされる。目の前に、やけに思いつめたような顔をしているロックハートの顔がある。やたら近い距離にあるその顔に、照れはしないが居心地が悪くなり、目を背ける。



「ああ、目を逸らさないでおくれ、アシュリー。私は君の、その目の美しさに惹かれたのだ。その、何者をも拒むような──冷たい、瞳に」

「……先生、近いです」

「嗚呼、私を先生などと呼ばないでくれ。アシュリー、君は“そう”じゃない筈だ。“本当の君”は、そんなものではないのだろう? 君のエメラルドの瞳は、そんな色はしていない。もっと、もっと冷たく、非情な目であるはずだ、アシュリー!!」



最後は叫ぶように、ロックハートがそうのたまった。その声は、その顔は、その言葉のなんと、煩わしいことか。あまりに必死に詰め寄ってくるので、私は身をよじって、その両手を払いのけた。一瞬だけショックを受けたような顔をしたロックハートだが、私の目を見るなり、その頬を歓喜に染め上げていった。そして、私の手をぎゅうっと掴み、握りしめる。



「そうだ。その目だ、アシュリー」



こいつ──おかしい。

いや違う、おかしいのではない。おかしいのは、そこではない。こいつは、この男はアシュリーを見ている訳ではない。そうだ、この男の眼には──アシュリーを被った、“私”が、見えているんだ。言葉の端々に見え隠れしているアシュリーから、“私”を掬いあげているのだ。バレているわけではない。この男はそこまで賢しくはない。きっと、きっと嘘つきの偽り者同士だ、私の中の“違和感”に、気付いたのだろう。

誰よりも先に、気付いただけだ。だって私たちは、あまりに同じ存在だから。



「そんな……ことが、」



思わず、言葉が閊える。こんなことが、そんなことが、あっていい筈が無い。だって私は、こいつとは違う。私には、ちゃんとした“自分”があって、嘘ばかりの人生などではない。違う、こいつとは違う。ただ状況が似ていると言うだけだ。嘘を貫いているという、その状況だけが似ているのだと。

だって、だって仕方がないじゃないか。前世の記憶があるだなんて、一体誰が信じてくれる? 未来を知っているだなんて、誰が理解してくれる? これは、この嘘は必要悪だ。こんな奴とは違う。だって私の嘘は、嘘は必要なものだ、そう割り切ったはずだ。そう、私がこの世界で戦っていく為に必要なものだ。こいつのように──私利私欲の為と自尊の為に吐く嘘とは、雲泥の差がある!!



「スピューディファイ!!」



目の眩むような閃光が、目の前を過った。

その瞬間、轟音と共に目の前のロックハートが吹っ飛んでいき、その身体は抵抗する間もなく本棚に突っ込み、ドサドサドサッと中の本が大量にロックハートの身体めがけて降り注ぐ。そして、ロックハートは本の山に埋もれ、ぴくりとも動かなくなった。私の手は杖に触れているが、私は何もしていない。ただそこで立っていただけだ。

一体誰が──ハッとして振り返る。目線の先には、ロックハートの部屋の入り口で、杖を構え、殺気立ったセブルス・スネイプの姿があった。


*PREV | TOP | NEXT#

- ナノ -