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あれから──十年が経った。

アシュリー・ポッターはダーズリー一家に預けられて、育った。ここまでは、予定調和。私の知る原作に忠実な、展開である。



「んんーっ、いい天気」



朝、目が覚めて、ぐっと伸びをする。ベッドから降りてカーテンを開けてみれば、外はまだ薄暗いが徐々に明るい光が差し込み始めたのが目に見えて分かる。今日もジョギング日和、なんて呟いて、Tシャツと短パンと運動しやすい格好に着替えてから、ドレッサーの前で身だしなみを整える。そして部屋を出て、この家の住人を起こさないよう静かに階段を下りてから、階段下の物置を横切り、洗面所で顔を洗う。冷たい水を顔に浴び、タオルで拭いてぱっと顔を上げれば、もはや見慣れた“アシュリー”が、鏡から私を見つめ返す。

髪の毛は、誰に似たのかくしゃくしゃの黒髪。髪は昔は伸ばしてたけど、今はショートボブにしている。額には薄ら稲妻形の傷があり、それを隠すように前髪を整えている。瞳は勿論、アーモンド型のエメラルドグリーン色。視力は現在良好なのでメガネはしていない。顔はママに似ているのだろう、客観的に見ても美人だと思う。これは人生得できそう。未だに己の顔に慣れないまま、私は美しい顔に苦笑を湛える。おお、こんな顔まで綺麗だ。美人てスゲエな。



「髪もママに似ればよかったのになあ」



相も変わらずブラシの通りの悪い髪を梳かしながら、文句が零れる。この髪の毛ばかりは何とも曲者で、縮毛をかけても直らなかったほどガンコだった。父親の遺伝子に不満を抱きながら、私は身支度を整えると、誰にも気付かれないようそっと外に出て、玄関の鍵を閉める。そしてそのまま、いつものように、お決まりのコースを脳裏に思い描きながら走りだした。

一時間も走っていれば、日は上り、プリベット通り全体が明るく照らされ始める。まだ六月半ばとはいえ、激しい運動をすれば汗だくになる季節だ。肩にかけたタオルで汗をぬぐいながら、私は家に戻り、バスルームに飛び込む。



「ふーっ」



いい汗をかいた所で再び部屋に戻り、近くの図書館で借りてきた本の山をどかし、本棚の奥の奥で眠る一冊のノートを引っ張りだす。古ぼけた青い表紙のリングノートを手に取り、椅子に腰かける。ノートを開けば、懐かしい“母国語”で書かれた、今後起こるであろう出来事が、一年ごとに細かく記されている。



「(これが──私の、戦う術)」



私の名前はアシュリー・ポッター。生き残った女の子。親戚に嫌われ居場所がない半面、魔法界で英雄視され、そのまま英雄になっていく少年と同じ運命を辿るであろう人間だ。何故こんなことになっているのか分からないけれど。名前に立ち位置、私を取り囲む親戚の面々を見て、私はハリーが生きるべき道筋に、何故だか立たされていると気付いた。つまり私は、児童書なんて聞こえはいい、人が死にまくることでお馴染みのあの作品の主人公と同じなのだ、と。

けれど、私の名前はアシュリー・ポッター。ハリーと同じ運命が待ち受けているのはこの際しょうがないとして、同じ人生を歩むなんてまっぴらだ。誰がそんな面倒な事をするもんか。まあそもそも、ハリーは育ったこの環境の所為で性格がやや卑屈になってしまったのもあって、あんなにも大変な人生になってしまったのだ。けれど私は違う。未来を知り、既に“大人”を経験した私が歩むアシュリー・ポッターの人生は、違うのだ。



「アシュリー! 起きてるかい!?」



部屋のドアを、どんどんとけたたましく鳴らすのは、この世でただ一人、私と血の繋がった人。ママの妹である、ペチュニアおばさん。その声に、私はノートを本棚の奥底へ封印すると、今日も私は“いい子”の皮を被り、快活に答える。



「勿論よ、ペチュニアおばさん」

「今日は何の日か分かってるだろうね」

「勿論。ダドリーの誕生日、でしょう? 私、ダドリーにケーキ作ってあげるって約束したの。後でキッチン借りても良い?」

「それは後にしなさい。さっさと下に降りといで」

「はあい、おばさん!」



そう、ハリーは環境のせいでかなり卑屈で暗い子だったが、私は違う。

大体私の精神年齢はもうとっくに三十路オーバーしている、立派なアラサーだ。人並みの処世術ぐらいは身につけている。ましてや相手は自分を嫌ってくる相手だ、対処の仕方くらい心得ていますとも。因みに、長年得た知識のおかげで学校の成績は常にトップだ。英語が分かんないなんて言ってた時期はどこへやら。なお、ダドリーの成績は言わずもがな。あいつは下から数えた方が早い。

フリルのついた可愛いワンピースに着替えて、自室の鏡を見てもう一度身支度する。私は生まれつき顔がよかったのと、内でも外でも明るくよい子な品行方正を貫いた結果もあって、私はハリーのようにダーズリー一家から酷い扱いを受けていない。勿論、大事にされてる訳でもない。旅行の際は家に置いていかれるし、ダドリーと違って家事をあれこれ押し付けられる。おじさんもおばさんも私を蝶よ花よと愛でることはなく、話しかければ答える程度の、最低限の距離感を保った。それでも私は早々に一人部屋を与えられ、服やアクセサリー、文房具など、まあおおよそ、普通の女の子に必要な物は全て彼らから買い与えられた。



「(ただ、私の趣味じゃないのが難点だよなあ……)」



まあそこまで注文つけるのは我儘というものだ。ふりふりのワンピースとボロ雑巾のようなお下がりなら、私は前者を取る。そんなわけでこの部屋も、少女趣味フルスロットルなわけだ。天蓋は流石についてないが、サテン調の生地にフリルをたっぷりとあしらった淡いピンクのベッド、同色の二重レースのドレスカーテン、チェスト、キャビネット、テーブル、スタンドミラー、ドレッサー……──生前の私ならめまいを起こしそうな姫部屋だが、今の私は居候の身。文句言えようが無い。

私の見た目がいいせいで、バーノンおじさんは私を飾り立てることに関しては、息子のダドリーよりもお金をを割いていた。おかげでクローゼットに入ってる服は、お値段もびっくりなブランドものばっかり。それを着ておじさんの接待に赴き、嫌な顔せずに酌でもしてやれば、商談はスムーズに進むことを、おじさんは知ってしまったのだ。それにしても、このロリータにも似た服は、全く以て私の趣味には合わない。それでもまともに見えるこの西洋顔がすごい、我ながら。

例え私の為でなく、どこからどう見ても品行方正な淑女の部屋に見える為の工作でも、日の当らない蜘蛛が出る階段下に押し込められるよりは、千倍ましだった。



「おはよう、おじさん、おばさん」

「……ウム」

「……」



着替えて、リビングへ降りる。相変わらずそっけないが、十年も経てば流石に慣れた。リビングはダドリーの誕生日プレゼントで溢れかえっており、足の踏み場が無い。おじさんもおばさんも、窮屈そうに肩を縮まらせている。私も何とかプレゼントをどかしてキッチンに入り、朝食のベーコンを焼く為にフライパンを手に取る。そこへ、大量のプレゼントを抱えた親愛なるいとこ殿がすっ飛んできた。



「よう、アシュリー!」

「おはようダドリー、ハッピーバースデー!」

「見ろよこれ! パパが新しいコンピュータくれた!」

「よかったわね。お尻に敷いて、壊さないように気をつけて」

「あ! そうだ、お前、ケーキ!!」

「分かってるわ。あとでちゃんと作るから」



ハリーと決定的に違う点、それはダドリーとの関係だろう。おじさんとおばさんの関係は見た通りだが、私はダドリーとの仲は良好だ。ダドリーはおじさんやおばさんと違って、私が魔法使いの血を引いている──まともじゃない血筋であると知らないからだ。何より、元々運動が好きでゲームっ子な私は、女の子の友達とお家でお人形遊びをするよりも、外に飛び出して木登りしたり、テレビゲームに興じる方が好きだった。おかげで居心地の悪い家ではあるが、ダドリーとだけは面白おかしくやって来れたように思う。ばかでノロマだとは思うけど、十年も一緒に居れば愛着の一つでも湧くというものだ。というか、私がダーズリー一家で平穏に暮らせてるのはダドリーの恩恵が大きい。愛息子と仲の良い従妹を、どうして邪険に扱えようか。

因みに肥満防止の為に、ダドリーは私と共にボクシングジムに通っている。おかげで原作のダドリーよりは脂肪が少ない……はずだ。私も一緒に行ってるのは、運動になるのと、将来の為だ。《死喰い人》と戦うにあたって、武術の一つくらい身につけて損はないだろう。勿論、体力づくりも忘れていない。毎朝欠かさずランニングしているのも、その為だ。私が私として生きようと、奴らとの戦いは避けて通れない。この傷がある限り、だ。



「おい、アシュリー! プレゼント開けるの手伝えよ!」

「はいはい。今年はいくつ貰ったの?」

「えーっと……三十七個だ。でも、去年より一つ少ないから、あと二つ買ってもらえることになった。だから……三十……三十二……三十九だ!」

「はい、よく出来ました」



我がいとこの雀の涙ほどの学力に、こっちの涙も止まらない。

さて──今日は六月二十三日。ダドリーの誕生日ということは、原作通りならフィッグばあさんが骨折し、私はフィッグばあさんちに預けられず、ダドリーと一緒に動物園に行く、となる筈だ。今朝も確認したノートの内容を思い浮かべながら、やや焦げたベーコンを摘まむ。

そう、流石に十年も前の児童書の内容を全て覚え続けるのは難しいと判断した私は、幼い頃、初めておねだりして譲ってもらった青い表紙のノートに原作の情報を全て書き綴った。血の守りがあるこの家ならあと七年は見られる心配もないし、念には念を入れて日本語で書いたため、うっかり見られても内容を悟られる心配もない訳だ。一応、世界有数の難語であるわけだし。あとは心の中を見られないよう、閉心術を身につけなければならないが、一先ずは安心していいところだろう。



「バーノン、大変だわ!」



考え事をしながら朝食の支度をしていると、おばさんが慌てて飛んでくる。おじさんと共に、席を外して、廊下へ行ってしまう。どうしたんだろう、さあ、なんて軽い会話をしながらトーストとスクランブルエッグとカリカリに焼きすぎたベーコン、コンソメスープと温野菜のサラダをテーブルに並べる。

大方、私をどうするか、ってことだろう。目に見えて邪険な扱いはしないだけ、まだマシな方だが。さてどうするか。ついて行こうが行くまいが、大したメリットはない。寧ろ留守番してるフリして近くの図書館に行く方が、よっぽど有意義だ。どうにかして置いて行かないものか……。



「いいか、アシュリー。ケーキはチョコレートが入ってないと許さないからな」

「はいはい。でもいいの? カロリー制限するよう、コーチに言われてなかった?」

「いいんだよ、誕生日ぐらいは!」

「仕方ないわね。とびっきり甘いのを作るわ」

「やった!」



事情を知らないダドリーの、なんと無邪気なことか。まあ私の目の届かない所では弱い者いじめだのなんだのと忙しい様なので、それを見つけては咎めてを繰り返しているんだけど。ダドリーが原作よりも真っ直ぐに育ったのは、私の教育の賜物かもしれない。おじさんとおばさんはダドリーの性根の悪さに気付いてないので、感謝して欲しいものである。



「(……私が魔法使いだと知ったら、この子はどんな反応をするのだろう)」



私はまだ魔法のコントロールは出来ないが、感情が高ぶらなければ“不思議なこと”は起こらないことを知っている。この十年で常に心を平成に保つ術を身に付けた私は見えるところでは魔法の力を行使したことはない。なのでおじさんもおばさんも、私に“不思議な力”があるとは思ってない、はずだ。そのように振舞って生きてきた。私がハリーほど邪険に扱われてこなかったのは、結局のところこれが一番大きいのかもしれない。まあそれでも魔法族の子ども、というレッテルはどうにも剥せなかったようで、特におばさんからは冷ややかな対応をされることもある。が、ハリーに比べたら可愛いものである。

てなことを考えながら、三十分後。私はとびっきりのおめかしをして、おじさんの車に乗り込んでた。



「アシュリーと出かけるの、久しぶりだな」

「よかったの? せっかくの誕生日なのに、私も一緒で」

「荷物持ちぐらいできるだろ」

「英国紳士にあるまじき発言ね、ダドリー。けど、ありがとう」

「……フン。はぐれないようにしろよ、アシュリーはうんと小さいんだから」

「もう! 身長のことは言わない約束でしょ!」



素直ではないが、元々ダドリーはそこまで悪い子ではない。普通、露骨でないとはいえおじさんとおばさんの私に対する態度とか見れば訝しんで当然だと思うんだけど、まあ、ウン、ダドリー、馬鹿だからなあ。

その後、ダドリーの友人のピアーズ、そしてダドリー。おばさんとおじさん、そして私は動物園へ行くことになった。ピアーズは私のことが好きらしく、ちらちらこちらを見つめてくる。車に揺られながら、子供相手にも愛想笑いを湛える私を誰か褒めてくれ。



「(疲れるなあ──なんて、今の段階では言ってられない、か)」



学校では、品行方正、成績優秀、スポーツ万能、家では家事を積極的に手伝い、暇な時は部屋で勉強したり読書したり、一家の邪魔にならないように振る舞って明るく愛想のよい、誰からも好かれる様な子供を演じ続けてきた。何一つ、努力を怠ることなく勤しんできた結果が現れてるのだ、ナルシストなんて言わせない。

そして、裏では闇の勢力と戦うための力も少しはつけてきた。私は来るべき戦いに備えて、来るべき生活に備えて、可能な限り努力を続けてきた。



「(……ふう、)」



楽ではない、勿論。ラフな服で日がな一日のんびりしてたい。ほんとは勉強も得意ではない。人と関わるのもあまり好きではないし、もっと口調も乱暴で、粗暴だ。基本的に不真面目だし、めんどくさいこともたくさんある。けど、こうした方が、まあ、後々楽なのだ。十七歳までは、ここが私の帰る場所で、この身体が今の私の器なのだ。どこへ行ってもより良く生きる為、私は今、頑張らなければいけないのだ。

……ってことは、誰にも話せないので。



『マジで人生って大変だわ』

『だろうな。俺もそう思うぜ』



人には話せないので蛇に話す私。寂しい奴みたいだ。口からシューシュー音が出るのを極力抑えながら、さも蛇をじっくり見ています、といった体で、“彼”との会話を楽しんだ。やべー、ほんとにパーセルマウスなのか、私。実感した。やっぱり私は、魔女なんだ。

彼のすぐ傍にあるプレートに目を向ける。ブラジル産──『この蛇は動物園で産まれました』、か。



『ブラジル、行きたい?』

『ああ──でも、そんな夢、叶いやしねえよ』

『叶えてあげる。愚痴聞いてくれたお礼ね』



ガラスを、じっと睨む。敵意をこめて、殺意を込めて。ピシリ、とガラスが震える。その波紋はガラス全体に広がり──次の瞬間、ガッシャーンッ、と耳をつんざく音と共に、蛇のケースガラスが砕け散った。私は、その場に崩れ落ち、腰の抜けたフリをする。ふふ、抜かりはない。蛇はとぐろをほどき、ケースの外に這い出てきた。館内に居た客たちは、叫び声を上げて出口に向かって駆けだした。



『信じられねえ。ありがとよ、アミーゴ』

『頑張ってね』



ガラスは、不慮の事故で割れたと、園長は私たちに甘い紅茶を入れて謝り倒した。消えたのではなく、割れたので、誰かが蹴ったりしてひびが入ったのだろうと、私が“不思議な事”を起こしたとは、おばさんですら疑わなかった。蛇に襲われそうになった、可憐な少女を、誰が疑おう。あっ、今自分で可憐って言っちゃった、やだー。

帰り道、おじさんは私を気遣ってか大きなキャラメルを買ってくれた。ダドリーは、誕生日プレゼントの一つの絵本を、私にくれた。なんかあれだ、好意を裏切ってる気になってきた。手紙が来るまでに、罪悪感に押し潰されるかと思った。いやあの、悪気はなかったんですよ、ほんとに。


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