19

さて、クリスマス休暇ももう終盤に差し掛かった。私たちは休暇のほとんどを、宿題もこなしつつ、バックビークの弁護の為にあれこれ調べる時間に宛てたが、成果は芳しくない。そうこうしているうちにぽつりぽつりと寮に人が戻ってきて、談話室はいつものにぎわいを取り戻していった。そんな中、朝早く起きて、いつものようにシュバルツをフードに入れて、バックビークの弁護に関する本を借りに行こうと談話室を抜け出した私は、玄関ホールで実家から帰ってきたオリバー・ウッドに呼び止められた。



「あら、ウッド。おかえりなさい」

「ああ。アシュリー、いいクリスマスだったか?」

「ええ。ウッド、あなたは?」

「まあまあだ。……なあ、アシュリー」



人がまばらに行き来する玄関ホールで、ウッドはぐっと声を低くした。



「アシュリー、俺はクリスマスの間、色々考えてみた。前回の試合の後だ、分かるだろう? もしも次の試合に吸魂鬼が現れて―――その、つまり、君がまたあんなことになると―――その」

「対策は講じてるわ。ルーピン先生が吸魂鬼に対する防衛術の訓練をつけてくれるとおっしゃったの。今週中には始まる筈よ」

「そうか、うん、それならいいんだ! アシュリー、俺はシーカーの君は絶対に失いたくなかったんだよ。よかった……ところで、新しい箒は注文したか?」

「ああ……そのことなんだけど」



表情を明るくするウッドに少し顔を近づけて、私は囁くように言う。



「大きな声出さないでね」

「あ、ああ」

「なるべく、人にも言わないで」

「約束する」

「―――私、クリスマスにある人からファイアボルトを貰ったの」

「なにィッ!?」

「シィーッ!」



案の定、玄関ホールのど真ん中で大声を上げるウッドに、私は声を落とすよう咎めた。ウッドはすぐさま片手で口を覆い、キョロキョロと辺りを見回す。こちらに注目する人は、誰もいない。それを確認して、ウッドは興奮抑えきれぬ表情で顔を近づけ、私を見つめた。



「本物なのか」

「乗り心地は休暇中にタップリ味わったわ」

「そんな―――まさか、本当に?」

「ええ、間違いなく本物よ」

「そうか、そうか……―――ニンバス2000の犠牲も無駄じゃなかったってことか……そうか……我がチームに本物の……夢じゃないだろうか……!!」



いつかのロンと同じように、ウッドは夢見心地の表情でフラフラと覚束無い足取りで廊下を歩いていってしまった。今にも足滑らせて引っくり返りそうなその背中を見送り、ファイアボルトには人を狂わせる何かがあるのかもしれないな、と苦笑した。本物を見たら失神しちゃうんじゃないかな、なんて思いながら図書室へ向かう―――すると、玄関ホールから凍てついた風がするりと流れ込んできて、身を震わせた。



「アシュリー!」



さっむ、と思ったその時、誰かに呼び止められた。ああ、振り返るまでもない。その声を忘れるほど、私は薄情じゃない。くるりと振り返ってみると、黒髪にはらりと粉雪を乗っけたまま、鼻を赤くしたハンサム、セドリック・ディゴリーが軽く手を振ってこちらに足早にやってくるのが見えた。



「セドリック! 私、あなたになんてお礼を言ったらいいか―――」

「気にしないで、アシュリー。僕が勝手にしたことだから」



なんて……良い人……なんだ……ッ!!

春のそよ風のような爽やかな笑顔を浮かべて、お礼し倒す私をさらりと諌める彼、なんて素敵な人なんだ。どうして彼に恋人が出来ないのか不思議でならない。ちゃんと使ってるよ、とばかりに鞄につけたニンバスのグリーンアンバーストラップを見せると、セドリックはそれは嬉しそうに顔を綻ばせた。



「良かった。勝手なことして、怒るんじゃないかと思って」

「まさか! こんな素敵なストラップにしてもらえるなんて、夢にも思わなかったわ! ほんと、あなたのセンスには頭が下がる思いよ!」

「そっか。喜んでもらえたようで、何よりさ」



それからは、セドリックが休暇中に辿ったというアンバーロードについての話を、立ち話ながらも聞いた。フェニキア、ギリシャ、ローマに至る旅行の話はとても楽しいものだった。母親がいちいち店に立ち寄って中々プラン通りに旅行が進まなかったこと、デンマークで本物の人魚に見とれた父が母に怒られたことなど、家族仲の良い様子が話の端々から窺えて、本当に幸せなんだな、と思えた。核家族化が進む日本じゃ考えられないくらい、こちらは家族仲が良いのも、一因なのだろうけど。

ひとしきり旅行の話をしたあと、ふと真面目腐った顔になったセドリックが、灰色の瞳を少しだけすうっと細めた。



「そういえば、アシュリー」

「なあに?」

「ウッドとは、何を?」

「ウッドォ?」



急に飛び出してきた我らがキャプテンの名前に、私は目を丸くした。一瞬何のことかと思ったが、そういえばさっき話してことを思い出し、それを伝える。



「ああ、吸魂鬼と箒の対策について報告してたの」

「そ、そうだったんだ。……随分近付いてたから、てっきり君たちが」

「私たちが?」

「その―――恋人なんじゃないかって」

「はい?」



恋人。ウッドと、私が。

脳内の七割がクィディッチ、二割が優勝杯、残る一割がその他、といっても過言じゃないオリバー・ウッドと、私が。コイビト。最近そういった噂に振り回されていたが、まさかウッドとの関係を訝しまれる日が来ようとは。想像しうる限りでは世界一色気ない相手の名前に一瞬脳みその活動が停止した。そして脳みそが再び動き出す頃には、お腹が痛くなるほど笑いが込み上げてきたのだった。



「ぶくくっ……セ、セドリックも、ひ、人が悪いわ……っ!! よりによって、ウ、ウッドってあなたね―――ぶふっ……そ、想像しちゃった……ははっ、あはははっ!」

「わ、笑わないでくれよ!!」



勘違いしたことが恥ずかしいのか、セドリックは顔を赤らめて気まずそうに目線を泳がせている。はー、笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだ。ヒーヒー肩で息をしながら、少し拗ねたように視線を大理石の床に向けるセドリックに笑いかける。



「ホント、ただの報告よ。そんな浮ついた話は一切してないわ。にしたってウッドって……あのウッドが、ぶふっ……ウッドと、ねえ……!」

「も、もういいよ!」



あんまりにも私が笑うもんだから、セドリックは少しだけ怒ったようにそう言って、ズンズンと早足で玄関ホールから飛び出していってしまった。あらら、からかい過ぎちゃった。本気で怒った訳ではなさそうなので、追々謝ることとするかね。しかし、あのセドリックにそんな邪推をされていたとは、少し驚きだ。そういう繊細というか、プライベートな部分にはあまり触れてこない人だしね。

さて、こんなところに残っててもしょうがない。時間も微妙になったし、図書室は昼食後にするか、と私は踵を返して、玄関ホールを出て階段を登ろうとした。その時、背中から妙な視線を感じたので振り返る。何十メートルも離れたところにレイブンクローの女子生徒が数人いて、私を見ている、ような気がした。しかし、流石にこの距離じゃあこっち見てんのかどうかまでは分からない。



「……」



しばらくその集団を見つめたが、特になんのアクションもしてこなかったので、私はそのままくるりと向きを変えて、階段を登って行った。しかし、背後から刺さる妙な視線―――いつも感じる、羨望とも憧憬とも恋慕とも違うその奇妙な視線は、階段を登りきるまで続いたのだった。





***





さて、一月に入り、クリスマス休暇も終わって学校が始まった。凍え死にそうなくらい寒く、外に出るのが億劫になるが我儘は言っていられない。いつものように早寝早起き、筋トレ、ジョギング、予習復習、そして《動物もどき》になる為の訓練も進めた。意識が飛ぶほどの激痛に耐えながら、今度は下半身―――正確には臀部の辺りを変化させた。意識を回復すると、漆黒の毛並みの臀部から、長い尾羽がにょろんと伸びていた。一応、尻尾まで自分でコントロール出来る。すげえなあ、と思いながら痛みにのた打ち回った疲労感満載の身体を引き摺って立ち上がる。そして今日もシュバルツと共に三階の女子トイレを後にし、グリフィンドール塔に戻った。飲んだくれているカドガン卿を前に、私は言う。



「ハッピーニューイヤー! 合言葉を言え!」

「『グッドフォーナッシング』」

「誰のことだ!!」



テメーのことだよ、と言わずに、前に倒れながら怒るカドガン卿を踏み越えて、私は溜息交じりに談話室に入った。ああ、そろそろ合言葉が変わる頃合いかなあ……。

そんなこんなで、授業が始まって一週間が経過した。そろそろ守護霊の呪文の訓練を付けてもらわねばと相談に向かうと、木曜の二十時に闇の魔術に対する防衛術の教室においで、とのことなので、ワクワクしながら木曜を待った。その間、クィディッチの練習も始まり、バックビークの弁護の資料を探すというミッションのおかげで目が回るほど忙しくなったが、毎日一人で守護霊の呪文の練習ができる程度の余力を残す努力をした。

そして待ちに待った木曜日。ロンがスキャバーズに関して苛立ちを募らせているので、今日も今日とてシュバルツを連れ立って、私は闇の魔術に対する防衛術の教室に向かった。教室は真っ暗で、がらんとしている。明かりをつけて、シュバルツを近くのテーブルに乗せてしばらく待っていると、事務所からルーピン先生が出てきた。いつかも使った、大きなトランクを抱えている。そろそろ満月が近い所為か、ルーピン先生の顔色はいつにも増して悪い。



「お待たせ。……おや、この猫はいつかの」

「ああ、そうなんです。……すみません、ちょっと友人とゴタゴタがあって、飼い猫を放し飼いに出来ない状態なんです」

「そういうことなら構わないよ。どうやら君に似て、賢い子のようだ」



決して機嫌が良いわけではなさそうだが、一声も鳴かずにじっとしているシュバルツを見て、ルーピン先生は皺の寄った頬を綻ばせた。



「名前は?」

「シュバルツです」

「良い名だ」



安直な名前にも素直に返してくれるルーピン先生、やはり良い人である。トランクを床に置いて、ルーピン先生はくたびれたローブから、これまたボロボロになった杖を引っ張りだした。いよいよ始まるのかと思うと、少しだけ張りつめた空気が広がって、自ずと背筋が伸びる。



「さて、アシュリー。努力家の君のことだ、もう既に知っていることかもしれないが、確認の為に話をさせておくれ」

「勿論です」

「良い子だ。では、君に教える守護霊の呪文について話そう。知っての通り、非常に高度な魔法だ。呪文が上手く効けば守護霊が出てきて、吸魂鬼を追い払ってくれる。しかし、アシュリー、この間も言ったが、この呪文はまだ君には早すぎるように思う。一人前の魔法使いだって、この魔法を使えない者も多い」

「全て覚悟の上です」



私の決意は決して揺るがない。しっかりとルーピン先生の髪色と同じ、鳶色の瞳を見上げる。不安げに瞬かれるその瞳にも怯むことはない。



「分かった。では、早速訓練に入ろうか。呪文は、もう知っているね?」

「はい。一人で練習もしてきましたので」

「よろしい。では、まずは吸魂鬼なしでやってみよう」



さあ、と促され、私は杖をローブから引っ張り出した。そして目を閉じて神経を集中させる。脳裏を描くのは、溢れんばかりの幸福―――ファイアボルトに乗った時の高揚感とか―――よし、これにしよう。風を切るあの感覚、髪が靡き、視界の全てを過去に置いてくるようなあのスピード、思いのままに動くファイアボルトに跨ってスニッチを追うあの楽しさ―――そうして私は、大きく杖を振った。



「エクスペクト・パトローナム!」



杖先から、銀色の大きな霧のようなものが吹き出した。……だめだ、今回もまともな形を成していない。確かに何かが飛び出してきたのは分かるが、今にも消えそうなほどそれは脆い。しかしルーピン先生は、嬉しそうに微笑んだ。



「素晴らしい! もう守護霊を出す段階まで進んでいたなんて!」

「そ、そんな……まだまだです」



まだまだ完璧には程遠いその呪文にも、手を叩いて称賛してくれるルーピン先生。ここまで素直に褒められたのは久しぶりなので、少し照れてしまう。にこやかなルーピン先生からさっと目を逸らすと、ふいにシュバルツの透明な瞳と眼があった。が、シュバルツはすぐにフッと目を逸らして顔を洗いだした。

……傷ついてない、傷ついてないよ?



「それじゃあ、吸魂鬼でも練習してみようか」

「は、はい!」



ルーピン先生がトランクに手をかけた。私は一層神経を集中させた。幸せを、とびっきりの幸せを、思い描く。吸魂鬼なんかやっつけてしまうような、そんんあプラスパワーの塊を作りだすのだと己に言い聞かせ、杖を握る手に汗が滲む。そして―――ルーピン先生が、トランクを、開けた!

瞬間、あのヒヤリとした空気が教室いっぱいを満たした。教室の明かりが一斉に消え、暗闇が視界を支配する。しかし、窓から差し込む月明かりが、奴の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。トランクからユラリ、と柳のような吸魂鬼が立ち上がった。フードに覆われた、虚のような顔をこちらに向け、蛆の這った両腕を私に伸ばしてくる。するすると音もなく近付いてくる吸魂鬼。それと同時に、耳の奥で誰かが何かを叫んでいる。視界が白い霧で覆われていく。ぐわんぐわんと脳幹を揺らすような声、平衡感覚を無くす深い霧がヒタリ、ヒタリと身体にまとわりついて―――。



『アシュリーだけは! お願い、私はどうなっても―――』

『退け! 退くんだ小娘……!』

「っ―――、エクスペクト・パトローナムッ!!」



二人の声を振り払うように叫ぶと、杖先から再び銀色の靄が飛び出して吸魂鬼と私の間に出現した。……しかし、靄は何かをする様子は見せない。ただただ、銀の靄が白に覆われた世界の中で、異彩を放ちながら漂っているだけだ。けれど、少しだけママと奴の声が遠ざかった気がする。遠く、遠く、寄せては返す波のように聞こえなくなったのは、私の意識が朦朧としているせいだろうか。今、自分が立っているのかどうかも分からない。吸魂鬼は相変わらず、柳のようにゆらゆらしていて―――。



「アシュリー!」



そんなルーピン先生の声に、私は我に返った。教室は再び明かりに包まれており、吸魂鬼の影も形もない。そこまで確認してから、自分が膝を折って床に崩れ落ちていたことが分かった。慌てて、スカートの埃を払って立ち上がる。



「す、すみません」

「大丈夫かい?」

「はい」

「ようし―――では、チョコレートを食べてから、もう一度練習してみよう」



そう言ってルーピン先生が手渡してくれた、大きな板チョコの欠片を口に押し込んだ。じんわりと広がる温かさを胸に、私はしっかりと杖を握り締めて立ち上がった。



「もう、いけるかい?」

「はい。お願いします」

「分かった。……フム、別の思い出を選んだほうがいいかもしれないな。気持ちを集中できるような、もっと強い幸福の思い出を。さっきのは、十分な強さとは言えなかったようだ」



そうなのか……ならば、と私は頭を切り替える。

先日、《動物もどき》になる為に使った魔法―――まだ部分部分でしか変換させていないとはいえ、二年以上独学で学んできた変身術の努力が花開いた付けたあの瞬間。実りを付けるにはまだ程遠いけれど、確かに、いずれは実りとなる花を、確かに咲かせたのだ。その喜びと興奮を幸せと呼ばずして何と呼ぶのか。

集中して、あの瞬間を呼び起こす。ルーピン先生が合図をして、再びトランクを開いた。またもや教室の明かりは途絶え、吹雪の冷たさにも勝るあの冷気がひたひたと広がっていく。そうして目の前に現れた、柳のような吸魂鬼を前に、私はもう一度叫んだ。



「エクスペクト・パトローナム!!」



杖先から噴出したのはやはり銀色の霧だったが、先程よりもたくさんの霧が出て、大きな銀色の塊が目視できる程度にはなった。けれどそれはやはり吸魂鬼を追い払うだけの力は無く、ただただ現世に留まるのが精一杯。またも私を包みこむ白い靄に、手足の感覚を失っていってしまう。意識さえもぼんやりとしてくる中で、遠く、遠く、誰かが叫んでいるのが聞こえた―――男の声だ。けれど、ヴォルデモートの血をも凍らせるような声ではない。温かく、優しい、けれど焦りと恐怖に引きつったようなそんな声だ。



『リリー! アシュリーを連れて逃げろ! あいつだ! 行け、行くんだ! 僕が食い止める―――早く!!』



その声の主が分かった瞬間、私は、はっと我に返った。気が付けば教室はまたもや明るさと暖かさを取り戻している。けれど、今度はちゃんと自分の足で立っていた。意識も手足の感覚も朦朧としていたけれど、無様に倒れることだけはしなかった。これだけでも進歩だろうと思った―――けれど。

初めて聞いた、あの声がどうしても忘れられなくて。



「パパの声が―――した」

「アシュリー……?」

「初めて、初めて聞きました……パパの声です。ママと私を逃がす為に、時間を稼いでくれた……たった一人で、ヴォルデモートに立ち向かって……」



ふと、頬が濡れていることに気付いた。ローブの裾で擦ってみると、どうやら涙が一滴、零れたようだった。とても、とても悲しい気分になった。たった一人、杖もなく闇の魔法使いに挑んで散ったパパ。どんな思いだっただろう、どんな顔をしていただろう。それを確かめる術はもう無いのに、そればかりを考えてしまう。

いけない、とかぶりを振って目を擦る。こんな、こんなところで立ち止まれない。パパが、ママが、何を思って、何と戦って、何を守って死んだかなんて、もう確かめる術は無いんだ。永遠に分からないことに悩み続ける時間が、私に残されていると思うな。もう一月なんだ、しっかりしろ、アシュリー。あと半年で守護霊の呪文をマスターしなければならないのに、初日からこのザマでどうするんだ。



「すみません、続きを始めましょう」



もう一度、ゆっくりと顔を上げる。ルーピン先生は、とても悲しそうに、けれどどこか不思議そうな色の瞳で、私を見つめていた。



「ジェームズの声を、聞いたのかい」

「はい。……あ、えと。先生はパパをご存知で?」

「―――ああ。友人だった」



自然を装ってそう聞くと、ルーピン先生は悲痛そうに眉を顰めた。輝かりし少年時代。けれど親友から裏切り者が出たとあっては、思い出すのも苦痛、か。それ以上はとても聞く気になれず、私はもう一度杖を構えた。



「先生、もう一度お願いします」

「……アシュリー。君はもう十分頑張った。今夜はもう止めておこう」

「いいえ、いいえ! 私、まだまだやれます! いつもは、もっと、もっと長い時間練習していますから、余裕です!!」



一日あれやこれやと忙しい私だが、体力配分くらいは考えている。まだまだやれると訴えると、ルーピン先生は少し困った顔をしたが、やがてしっかりと頷いた。

込み上げる嬉しさを抑えて気持ちを集中させる。先程、声は聞こえたが立ってはいられた。ならば、思い出の選択は間違っていない筈だ。ならば何が足りないのだろう。集中力?根気?体力?分からないけれど、感覚は掴めた、そんな気がした。何度も練習して、吸魂鬼を前にしてでも揺るがない、強い思い出を描ければ―――きっと、きっと。

そうして、ルーピン先生が三度、トランクを開けた。



「エクスペクト・パトローナム!」



部屋は暗くなり、空気は凍てついている。吸魂鬼はユラユラと、未熟な私を嘲笑うようにそこに靡いている。杖先から噴出したものも、やはりいつもの大量の銀色の霧だったが、今度はザーザーと、周波数の合わないラジオの音のようなものしか聞こえない。男と女が何か言い争っているのが辛うじて分かる、ぐらいで、会話そのものは途切れ途切れでよく聞こえない。銀の霧は相変わらず私と吸魂鬼の間に漂っている。手足の感覚も、どこかぼんやりとしているがちゃんと自分の四肢であると認識は出来る。けれど、何時まで持ちこたえられるだろう。いいや、此処で踏ん張らないでどうする。いつかはもっとたくさんの、何百もの吸魂鬼を相手取らなきゃいけないのに―――。



「リディクラス!」



ルーピン先生の叫びに、パチン、と大きな音を立てて吸魂鬼は大きく後ずさってすっ転んだ。しかしルーピン先生を見るや否や別の形態を取ろうとしたが、その前に先生が素早くトランクに押し込めてしまった。

私は、立ち尽くしたまま大きく息を吐いた。……ただ守護霊を出した時の疲労感とは、比べ物にならないくらいの疲れが押し寄せている。少し気を抜けば膝が震えそうだった。私は数回深呼吸をして、気持ちと身体を落ちつける。そうしている間に《まね妖怪》を片付けたルーピン先生が、ぱあっと表情を綻ばせてこちらに歩いてきた。



「よくやった、立派なスタートだよ、アシュリー!」



心底嬉しそうに私の肩を叩くルーピン先生は、いつもよりずっと若く見えた。……いや、現時点でルーピン先生はせいぜい三十そこらの筈なので実際問題彼はまだ『若い』筈なのだが、苦労性の所為か、この年にしてその鳶色の髪に混じる白髪とか、老けこむには早い筈なのに深く刻まれた顔の皺とか、くたびれたローブとかのせいで実年齢プラス十歳くらい老けて見えるのだ。

じゃない、話が逸れた。



「私―――私、なんか感覚を掴めた気がします」

「良い傾向だよ、アシュリー。あれほど吸魂鬼に影響を受けていた君が、意識を失わずにいることがどれほどの進歩か。さあさあ、チョコレートを!」



嬉しそうに板チョコを割ってくれるルーピン先生。正直この時間にチョコはあまり口にしたくないのが乙女のホンネと言いたいところだが、一応立派な治療法らしいので文句は言えない。チョコの欠片を受け取り、私は口に押し込んだ。

そうして全て咀嚼して飲み込むと、もう一度先生に向き合った。



「先生、もう一度お願いします!」

「いいや、今夜はもうやめておこう。じゃないと、わたしはマダム・ポンフリーにこっぴどくお仕置きをされてしまうよ」

「私、まだまだ元気です! お願いします、やらせて下さい!! 私にはもう、時間が無いんです!! 出来る限りのことはしたいんです!!」



深く頭を下げ、もう一度顔を上げる。思案に暮れたルーピン先生の顔は、先程の若々しさはどこへやら、相当老け込んで見えた。けれど、私とてここは譲れない。たった数回の練習でどうにかなるとは思ってない。此処で引くわけにはいかないと、強い意志を持ってルーピン先生の返事を待った。

やがて開かれた鳶色の瞳は、泣きたくなるほど優しい色をしていた。



「君のそういう所は―――本当、ジェームズに良く似ている」



ああ、けれどそう言って笑う先生の、なんと悲しそうなことか。私を通して見つめるパパの面影は、ハリーほどは無いだろう。けれど、ああ、そう。いつだったか、スネイプに言われたんだっけな、私はパパに似ているって。見た目じゃなくって、性格が。パパの嫌な面しか見ていないであろうスネイプに言われるのは非常に腹立たしかったが、パパの嫌な面も、良い面も見ているであろうルーピン先生にそう言われると、少しだけ照れくさく感じた。

そうして折れてくれたルーピン先生の好意に甘えて、結局あれから二時間ほど練習に励んだ。眼に見えた成果は出なかったが、少しではあるが感覚が掴めた気がするし、何より吸魂鬼に対する耐性が出来始めたのではないかと思う。けれど三時間以上続いた練習は流石の私でも厳しく、十二回目の吸魂鬼での練習が終わると、私はついに膝から崩れ落ちた。



「ッ―――……!」



吸魂鬼がいるだけで、こんなに体力が削られるとは思わなかった。いつもはもっとたくさん出来るのに、と思うが流石にもう限界を感じた。ルーピン先生も心なしかゲッソリしてきたように思うし、今日はひとまず終わりにするしかない、かな。



「……すごいな」



肩で息をする私の傍で、先生が感心したように呟いた。



「君は本当にタフな子だね。魔力だけなら成人のそれだ」

「そう、なん―――です、か?」



魔力の量なんて他人と比べられるものでもないので、ロクなことも言えぬまま、ゼイゼイと息を吐きつつルーピン先生に返事をする。体力がある方―――というか、体力づくりをしているから当たり前なのだが―――だとは思ってたけど、魔力もたくさんある、というのは嬉しいことだ。こればっかりは鍛えようがないしな。いや、そもそも鍛えるものなのか?



「魔力の量って、増やしたりできるんですか?」

「基本的には、成長に伴い増大する傾向にある、としか解明されていない。魔力についてはまだまだ研究が進んでいなくてね……ただ、大人だから魔力があるのかと言われればそうではないし、逆もまたしかりだ」



うーん、成長と共に増大するなら精神力、みたいな捉え方でいいのかなあ。この世界、ご老体の方が強かったりするし、精神的に成熟していくと、魔力の底も広がったりする―――とか、そういうことなのかなあ。勿論大人だからってロックハートみたいなのもいるし、私みたいに、決闘とあらばそこらの冴えない成人魔法使いなんざ束にしても負ける気はしない奴もいるだろうし、一概にこうとは言えないのだろうけど。



「増やせないなら、回復する手段があればいいんですけど……」

「回復、か。君も面白いことを言う」



楽しそうに笑うルーピン先生は、そうだな、と少し考え込む。



「回復―――という言い方は違う気もするけれど、ルーンの魔術の中には魔力を宝石や彫像に蓄えて、それを引き出す術があった筈だ。君も古代ルーン文字学を選択しているんだったね?」

「あ、はい!」

「ならばいずれ、バブリング先生から手解きがあるかもしれないよ」



ほー、それは良いことを聞いた。ルーンの魔術って色々便利なんだなあ、と思いながら、私はルーピン先生の博識さに感心していた。



「詳しいんですね。古代ルーン文字学、選択していたんですか?」

「いや、私は受講していない。肌に合わなくてね。私ではなく、私の友人がね―――ああ、ジェームズでもないよ。彼はルーン文字学、というよりバブリング先生と肌が合わなかったようでね」



何となく、その理由も分かるような気がして私は曖昧に微笑んだ。ルーピン先生は実に懐かしそうに瞳を細めたが、その奥はまだ仄暗いまま。私は、そういえば、と数ヶ月前の記憶を引き摺りだしてから、更に踏み込んだ。



「その友人って―――シリウス・ブラックのことですか?」



今度こそ、ルーピン先生はピタリと動きを止めた。どうして、なぜ、と言わんばかりに驚いた様子で私を見つめている。その時、どこか嫌なことを聞かれた、と言わんばかりに肩がギクリと動いたので、言わなきゃ良かったと思ったがもう遅い。



「何故、そのことを……?」

「あー……その、以前バブリング先生の事務所にお邪魔した時、此処五十年分の履修者リストをたまたま見てしまって―――それで、その、私、」



ルーピン先生があんまりにも辛そうな顔をするので、ついつい言い訳じみたことを口走ってしまった。そう、数ヶ月前、バブリング先生の事務室を訪れた際、五十年分の受講者リストを見てしまった私は、シリウスがルーン文字学を取っていたことを知ってしまっている。

そう言うと、ルーピン先生の表情は和らいだ。



「なるほど、そういう―――全く、あの人らしい」

「あ、あの……先生、シリウス・ブラックをご存知で、?」

「ああ、知っていた。知っていると思っていた、と言うべきかな」



実に、さらりとした答えだった。友情に篤いルーピン先生とは、とても思えないほどに淡々としていて、どこか冷たさを感じた。親友二人を裏切って殺したもう一人の親友を、どうしても許せないのだという思いがヒシヒシと伝わる―――その親友を、庇っている自分の弱さにも、だろうけれど。

そんな顔をされては、私は次に聞こうとした言葉を飲み込まざるを得なかった。履修者リストに載せられていたシリウスではない、もう一つの名前。友人の名字を持ちながら、私と同じ名前を持つその人物。その名を思い出すだけで、心がザワリと粟立つ。その正体をそれとなく聞こうと思ったのに―――だめだ、今のルーピン先生に、これ以上のことは聞けない。当時の事を思い出させるような、そんな、追い詰めさせるようなことは、出来ない。

しばしの沈黙の後、ルーピン先生はおもむろにローブからハニーデュークス店印の最高級のトリュフ・チョコレートを一箱、私の前に差し出した。



「全部食べるように。君をそこまで疲弊させたとマダム・ポンフリーに知られたら、私の食事は全部ゴキブリ・ゴソゴソ豆板にされてしまうよ」



想像するだけで吐き気がする。ウエェ、と顔を顰めると、ルーピン先生はようやく朗らかに笑った。チョコを受け取った私に、いたずらっぽくウインクしてから、さり気なく私の背を押した。



「さあ、アシュリー。もう消灯時間も過ぎている。寮まで送ろう」

「ありがとうございます!」

「次の練習は来週の同じ時間でいいかな?」

「はい、大丈夫です」

「よろしい。さあ、行こうか」

「にゃん!」



そう言った途端、今まで一声も上げなかったシュバルツが大きな声で鳴いた。己が存在を示すように鳴いてから、シュバルツはぴょんと私のローブに飛び付くと、軽く爪を立てて肩によじ登ってきた。



「にゃーあー!」

「はは、ご主人様に置いていかれると焦ったようだ」

「シュバルツ……ッ!!」



可愛いよう可愛いお前は世界一の猫だよお、と肩に乗ったシュバルツを抱き抱えて、ルーピン先生の横に並んでグリフィンドール塔まで歩いていく。時折監督生やゴーストとすれ違ったが、ルーピン先生が横に居るので特に声はかけられなかった。二人でとりとめのないことを話しながら、階段を登っていく。



「アシュリー、君はやはり筋が良い」

「ほんとですか!?」

「ああ。この調子なら、すぐにでも呪文をマスター出来ることだろう」

「そうだと、いいんですけど……。期待に添えるよう、頑張ります」



そうは言いつつも、まだまだ道のりは長いぞと自分に言い聞かせた。過信をするな、他人の過剰な評価に惑わされるな―――そう、心に決めた。実際、長い時間一人で練習したのに、私はこの呪文をものに出来ていない。吸魂鬼からの影響も、まだまだ色濃く受けている。油断するな、過信するなと、腹に思いを据える。

そんな話をしているうちに、グリフィンドール塔についた。相変わらず喧しく喚くカドガン卿を前に、ルーピン先生は再び懐かしそうに瞳を細めた。



「ヤー! ヤー! 止まれ、止まれ御両人! 合言葉を言うんだ!」

「『ゴールデン・オポチュニティ』」

「貴殿にも訪れるかな?」



コロコロ変わる合言葉を記憶の底から引っ張り出しながら言うと、カドガン卿がそんな意味深なことを言いながら、ぱっと絵画ごと前に倒た。その向こうに、グリフィンドールの談話室へ続く穴が覗く。私はそのままルーピン先生に向き合って、もう一度お礼を言う。



「先生、今日は本当にありがとうございました」

「大したことはしてやれなくて、すまないね」

「とんでもないです。来週も、よろしくお願いします!」

「私も楽しみにしているよ。それではおやすみ、アシュリー」

「はい」



朗らかに笑って、ルーピン先生は踵を返した。一瞬、先程聞こうとしたことを思い出した。けれど、どうしてかは分からない。遠ざかる曲がった背中に―――私はどうしてもその問いかけを絞り出せずにいたのだった。


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