20

学校が始まってしばらくしてから、レイブンクロー対スリザリン戦が執り行われた。私は見に行っていないがどうやらスリザリンが僅差で勝ったらしく、またもやグリフィンドールにとって好都合な展開となった。次の試合でレイブンクローを破れば、グリフィンドールは二位に浮上するからだ。だからとウッドはクィディッチのチーム練習を週五回に増やした。ただでさえスケジュールがパンパンな私にとっては、これはかなり厄介な事だった。

けれど、ファイアボルトがグリフィンドールのチームに授けられた、というだけで、少なくともチームに士気は格段に上がった。他を圧倒するスピードでピッチを飛び回って軽々とスニッチを掴んでみせる私を見て、チームメイトの誰もが歓声を上げた。ウッドに至っては興奮のあまり感涙を零す程で、全員が全員引いていた。



「けどアシュリー、ファイアボルトなんて誰から貰ったの?」



練習後、あのファイアボルトとあらば一度は乗ってみたい、という要請に応え、箒に支障が出ない範囲でなら、と何故かウッドの許可を得て初めて、みんなでファイアボルトを堪能した。そんな中、チェイサーのアンジェリーナ・ジョンソンが興奮半分、不思議半分に私に尋ねた。



「フフ、今は内緒。いつかみんなに話してあげる」



私は、誰に対してもこう答えていた。チームメイトたちはこぞって不思議そうな顔をしたが、ハーマイオニーほど不審がる様子は無かった。ただただ、あのファイアボルトが目の前にある、という興奮と歓喜だけで、他に考える余裕はないらしい。ウッドは何度も、是非ファイアボルトの贈呈者に会って直接お礼を言いたいと鼻息荒く詰め寄ってきたが、私は笑って誤魔化した。



「いつか話してあげるって言ったでしょ。もう諦めてよ、ウッド」

「しかしだな、アシュリー! 俺は今年、卒業するんだぞ!」

「いつかちゃんと、教えるから! ね?」

「ウーム……」



不服そうなウッドの横で、チームメイトが一人、また一人とファイアボルトの爆発的な推進力に圧倒され、歓喜の声を上げていた。それを見たウッドはようやく、しつこくファイアボルトの贈呈者を聞き出すのを止めたのだった。ファイアボルトの活躍もあって、日々の練習は雨が降ろうが雪が積もろうが楽しかった。チームの士気は今や最高潮だ。

けれど身体に募る疲労だけは、興奮や歓喜の感情で取り払えるものではない。クィディッチの練習、体力作り、授業の予習復習、《動物もどき》の変身練習、更にバックビーク弁護の為の資料探しだけでも大変なのに、ルーピン先生との週に一回の守護霊の呪文の練習はそれら全てを束にしても尚敵わないほど体力も気力も消耗したので、流石の私もストレスや疲れが目に見えて現れ出した。



「(体力作りしてなきゃ死んでたかも……)」



鏡に映る、少しだけこけた頬を見ながら、私は溜息を吐くのだった。

が、そんな私もハーマイオニーよりはいくらかマシだった。《逆転時計》による時間旅行、そして選択科目数の多さがついに負担となって現れ出したのだ。ハーマイオニーは毎晩必ず談話室の片隅で机に齧りついて教科書や数占い表、古代ルーン語の辞書やマグル学で出題された力学的エネルギーのレポート、それら全てを細かに書きこんだ羊皮紙やノートが山積みにしていた。当然その間喋る暇もなく没頭し、邪魔をされれば誰彼構わず怒鳴るので、私やロン以外は近寄れない状態だ。最もロンも、クルックシャンクス対策を講じないハーマイオニーに苛立ちを募らせており、余程の事が無ければ私と共に宿題をする為に時間を使ったが。

しかし、負担が顔に現れ出すと、流石のロンも首を傾げ始めた。



「一体、どうやってやってるんだろ」

「何が?」



もうすぐ二月になるある日の晩、ロンと一緒に談話室でスネイプの「検出できない毒薬」というかなり厄介なレポートに取り組んでいる時、ロンが私に向かって呟いた。因みにハーマイオニーは私たちから離れた場所で、机を三つも占領して周りに今にも崩れそうな本の山を積み上げて、何らかのレポートに取り組んでいた。



「ハーマイオニーさ。あんなにたくさんの授業、どうしてるんだろう」

「うーん……」



アリホツィーの葉を食べて起こる目に見えないヒステリー症状について綴ってから羽根ペンをインク瓶に突っ込んで、考え込むフリをする。答えを知っている私は、ロンの純粋な疑問にどう返したもんかと頭を悩ます。



「先生たちやハッフルパフのアーニー・マクミランの話を聞くと、ハーマイオニーはどの授業も休んだことが無いんだって。おかしいだろ、アイツの時間割は一コマに二つも三つも授業が入ってるのに!」

「そうねえ……―――分身しているとか?」

「ニンジャじゃないんだから!」



ロンはニンニン、と指を適当に忍者っぽく組んで笑った。私も少しだけ笑って、机の上で大人しくしているシュバルツを撫でる。さらりとした黒毛が指をすり抜けて、心地よい。



「それより、ロン。『英雄を歴史に屠った毒薬』の著者のリバチウス・ボラージの綴りって、これであってるっけ?」

「エ? ああ、合ってるよ」

「よし! 引用文よーし、概要よーし、日付とタイトルよーし、方法と理論よーし、結果と考察もオッケーだしスペルミスもなし! やーっと終わったあーっ!」

「エエッ!? もう!?」



羽根ペンとインク瓶と羊皮紙を鞄に片付けてから大きく伸びをすると、ロンはショックを受けたような顔をして自分のレポートと私の顔を見比べた。



「助けてくれよ! まだ二十センチしか書けてないんだ!」

「提出期限まで三日もあるじゃない」

「この間、天文学の星座図を見せてやったろ!」

「仕方ないなあ……」



ブツクサ言いながらロンのレポートを覗き込んだ。その時、グリフィンドール寮に誰かが転がり込んできた。―――知らない上級生だ。手には、日刊預言者新聞が握られている。



「聞いたか! 魔法省がシリウス・ブラックに対して『吸魂鬼の接吻』を執行することが許可されたそうだ! 一面トップ記事だぜ!」



ワアッ、と談話室が沸いた。恐怖、興奮、蔑み……様々な感情が渦巻いて、誰も彼もが友人とヒソヒソ話をし始めて、遠くに座っているハーマイオニーがあからさまに顔を顰めたのが見えた。シリウスよりも宿題ってね、ハーマイオニーらしいやと笑っていると、机の上のシュバルツが、尻尾をピンと立てた。協力者の名前を耳に入れたからだろうか。賢すぎるのも困りものだなあ。

そんな話題に、ロンは首を傾げた。



「『吸魂鬼の接吻』って何だろう」

「魂を吸い取るって聞いたことがあるわね」

「殺すわけじゃないのか?」

「違う、らしいわ。魂を取られたソレは、もう記憶も感情もない。自分が誰で、何をしているのか分からない。けれど、脳や心臓が動いてる限りは生きているの。空っぽの抜け殻になって、何をするでもなく彷徨い続けて……いつか朽ち果てて……―――そうした成れの果てが、吸魂鬼になる、とも言われてるわ」

「……当然の報いさ。なあ?」



ブルリ、と身を震わせながらロンが言う。一度死んだことのある私でさえ、その感覚がどんなものかは想像出来ない。全てを失って尚、死ぬことのない身体。自分が誰で、どうやって生きてきたのか、全てが失われる……そんなのは、生きているとは言わない、だろうな。ソレはもう、人として死んでいることと同じだ。

ああ、けれどそれって。



「楽なものね」

「え?」

普通[・・]は死んだって、何にもならないのに」



他人の勝手なエゴのままに絶やす罪人の命の、なんと無駄なことか。

死んで罪が償われるのならば、私は全てを殺してやろう。死んで甦る命があると言うのなら、やはり私は全てを殺してやろう。死んで何もかもが元に戻ると言うのなら、どうあっても私は全てを殺してやろう。けれど大抵の場合、死んでも何もならない。罪の十字架だけが屍の上に突き立てられるだけで、失われた物は何一つ戻りやしない。私はそれを知っている。私はそう信じている。





「―――なんてね」





けどね、私の敵。お前たちは絶対に殺すと決めたんだ。

お前たちの死だけは、私に安息をもたらしてくれるのだから。





***





そうしているうちに二月に入ったが、相変わらず私も周りも変わらない。私は相変わらずの生活サイクルに身体を酷使させていたし、ロンはクルックシャンクスを見るたびに不機嫌になったし、ハーマイオニーはやはり手がつけられないほどピリピリしていた。

最近は《動物もどき》の練習を取り辞めて、守護霊の呪文の強化に当てた。自覚があったからダメージは少ないが、やはり何度やっても完璧な守護霊を出すことは敵わず、練習は足踏みをする日々だった。ルーピン先生はあれこれアドバイスしてくれたり、私の為にとわざわざ余所から教書を取り寄せてくれたりもしたが、結果は芳しくない。今日も今日とて、何十回も使った守護霊の呪文に疲弊しきった身体を椅子に預けて肩で息をする私の横で、ルーピン先生は難しそうな顔をした。



「君の守護霊というのは、だいぶ大きなものなのかもしれないな」

「え?」



此処に来て大きさの話?ていうか大きさって何か関係あんの?よく分からず、私は息を整えながらルーピン先生の次の言葉を待った。



「いや、あくまで私の推測なんだ。私も様々な守護霊を見たことがあるが、どれも人一人と同じか、それより小さな守護霊だった。例を上げるならそうだな……鳥とか、鹿とか、ヤギだった人もいたかな―――とにかく、大型の動物であっても精々一メートルそこらだった。しかし、君はどうだろう」



私は、未だに《まね妖怪》の入ったトランクの辺りでふよふよ漂っている銀の靄を、正確にはその量を見る。守護霊がどんなものなのか、どんな形を取るのかは定かではないが、確かに犬や猫になる量じゃないな、とは思った。あの靄は私を三人包み込んでもなお余るぐらい大量に漂っている。



「私の見たところ、熊やライオン―――いや、もっと大きいかもしれないが―――そんな、かなり大型の動物に形成そうとしているようだ」

「……ええと、?」

「守護霊はプラスエネルギーの塊だ、という話はしただろう? つまり、君の守護霊を完全な存在にするには、より多くのプラスエネルギーが必要なのではないかと考えている。人の二倍……いや、三倍以上のプラスエネルギーを消費して初めて、君は守護霊を産み出すことが出来るのではないか、と」



何になるかは分からないが、私の守護霊はかなり大型らしい。なので出すのも一苦労だし、それを留めるのも一苦労、ということか。まだまだゴールへの道のりが遠そうなその仮説に、私はがっくりと肩を落とした。



「勿論、確かな根拠があるわけじゃないんだ。守護霊は人によって、そして精神状態によってその形を変えるものだが、その大きさが呪文の習得難易度に影響するなんて聞いたこともないんだが……」



それなりに勉強している筈の私も初耳である。ひょっとしたら鹿になるのかな、と思っていたが、やはり精神構造が大きく違う私とハリーとでは守護霊が同じになる筈もない、か。そもそも、精神の状態によって守護霊って変化するんだよね、ルーピン先生に恋したトンクスとか、まさにそうだったし。

しっかし、困るなあ。本当に間に合うのだろうか……いやいや、何を弱気になってるんだ、私。間に合うのかじゃない、間に合わせなきゃなんないんだ。しっかりしろ、弱気になるな、と先生からもらったチョコを頬張りながら、かぶりを振った。

そんな私を、励ますようにルーピン先生は微笑んだ。



「けれど逆に考えれば、並の守護霊とは比にならないほど強力になる、とも取れるだろう。それほど力の込められた守護霊なら、吸魂鬼の影響を受けやすい君を完全な形で守ってくれると、私は思うよ」

「そう、でしょうか」

「信じよう。君の努力は本物なのだから」

「……はい」



優しいルーピン先生の言葉に頷いて、私は最後のチョコレートを口の中に放り込んだ。甘い味が口いっぱいに広がり、じんわりと足の指先まで暖まるのを感じた。



「よし、今日の練習はここまで。次は―――……アー、すまない。再来週でも構わないかな? 実は、来週は数日ほど学校を空けなければならなくて……」



困ったように笑うルーピン先生は、少しだけ顔色が悪い。……ああ、そっか、来週は満月だ。なら、こんな時間に特別講義なんてやってる場合じゃない、か。ルーピン先生が尚のこと申し訳なさそうな顔をしたので、慌てて笑顔を取り繕う。



「大丈夫です! 先生が留守の間、私、しっかり練習していますから! 再来週にはクマだかゾウだか分からないけど、立派な守護霊を出して見せます!」

「ゾウ! そりゃあ楽しみだなあ」



顔色の悪いルーピン先生は、面白そうに笑ってくれた。私も、杖先から銀色の巨大な像が吸魂鬼を蹴散らしていく様を思い描いて、くすりと笑った。

さて、そんなこんなで二月も中頃に。私はいつものように、ジョギング、筋トレ、授業の予習復習、週に五回に増えたクィディッチの練習に加えて難航する守護霊の呪文の練習に追われた。加えてバックビークの弁護探しも中々イイ書物は出てこない。朝も早くから夜遅くまで危険生物の本に目を通したが、せいぜい『処刑は免れたが手足が削がれた』で留まってしまい、決定打が打てない。しかし、諦めてはならない。バックビークの命がかかっているのだ、と私は一人でも図書室に通い詰めた。

そんな中、いつものように朝早く起きて、日の目も見ないうちからクソ寒い雪原にジョギングに向かう。しかしこれほど寒くとも、動けば多少は暖かくなるというもの。女子寮に戻る頃には、Tシャツ一枚でも寒さを感じないほどで。こういうところ、まだ身体は子どもなんだなあ、と思いながらシャワーを浴びてベッドに戻ると、妙な光景が目に入った。



「……シュバルツ?」



私の愛猫シュバルツが、白いシーツの上でぐったりと寝そべっている。力無く四肢を投げ出しており、まるで出会った頃のような姿だ。



「ど、どうしたの!?」

「うなあ……」



具合が悪い、のだろうか。いつものピンと背を伸ばすシュバルツとは思えないほど、ぐったりしている。ど、どど、どうしよう。私は動物には詳しくないんだ。ええとええと、こういう時は誰に言えばいいんだ?ペットの病気もマダム・ポンフリーが何とかしてくれるのだろうか?一人でアワアワしていると、隣のベッドのハーマイオニーが起き出してきた。このところ終始機嫌が悪いハーマイオニーも、流石に寝起きまでは悪くないようで。困り果てた私を見て、ハーマイオニーは眉を顰めてこちらに来てくれた。



「おはよう、アシュリー。どうしたの?」

「あ、あ、おはよ。あのね、あのね、シュバルツの様子が変なの」

「シュバルツが?」

「そうなの! 昨日までは元気だったのに……! どうしよう、こういう時、誰に頼ればいいのかしら……ハグリッドは忙しいだろうし……やっぱり、マダム・ポンフリー?」



バックビークの弁護の為に奔走してるのは何も私たちだけではない。彼の無罪を誰よりも願っているのは、他でもないハグリッドなのだから。ハグリッドはあの巨体を斜めにして慣れぬ図書室に通い、本を読んでいる姿をよく見かける。そんなハグリッドに頼むのは、何かこう、憚られるというか……。

困る私に、ハーマイオニーも頭を悩ませた。



「そうねえ……とりあえず、様子を見てみたら? 明日になっても治らないようなら、ハグリッドに頼んでみましょ」

「そんなんで大丈夫かしら……」

「大体、あなたはシュバルツを連れ回しすぎなのよ。あんなに毎日毎日フードの中に押し込んでたら、そりゃあ具合も悪くなるわ!」

「うう……だって……」



大体シュバルツ嫌がらなかったし、そもそもスキャバーズが……と思ったが、実際体調を崩したシュバルツを前にすると、何も言えなくなってしまう。

とりあえず、シュバルツを今日一日寮のベッドに寝かせておくことにした。この様子ならスキャバーズを襲いに行くこともないだろうし、女子寮のドアも少しだけ開けておいた。トイレとか困るしね。昨日、厨房から持ってきたシュバルツの茹でただけのチキンを皿に置いてから、私とハーマイオニーは着替えて談話室に下りた。



「……ん?」



談話室に下りた途端何やら、甘い匂いが漂っていきた。こんな朝っぱらからお菓子パーティでもしてるのかと思ったがそんな様子はない。みな不思議そうにこの甘い匂いの正体を探るべく、鼻をヒクつかせていた。私たちも首を傾げながら、これまた不思議そうな顔をしたロンと合流して大広間に朝食を取りに行く。そして樫の木で出来た大きな扉を開けた時、まるで匂いの塊が飛んでぶつかってきたのかと思うほど、甘い香りが私たちを包んだ。

そしてその瞬間、今日が何日なのかを思い出したのだった。



「うわあ……」

「スッゲエ……」



大広間はハート型の紙吹雪が舞っており、壁には小さな妖精が羽根をはためかせており、その一匹一匹の羽ばたきが煌いてオーナメントになっていた。空に見える天井には、雲間を縫うようにパステルピンクの文字で「Happy Valentine」と綴られており、誰もがポカンと口を開いて天井を見上げていた。四つの長テーブルにはいつもの朝食はなく、見渡す限りケーキだのクッキーだのが積み上がっている。



「バ、バレンタイン……?」

「ああ、そういうこと」



ハーマイオニーはクスクスと笑いながら席に着いた。その瞬間、ポン!と音を立てて、手のひらサイズの小さな箱がハーマイオニーの目の前に出現した。私もロンもポカンとしながら、その小さな箱を開封するハーマイオニーを見つめた。箱の中には、ハート型の四つのチョコレートが入っていた。



「マグルではね、バレンタインの日にカードや花束をチョコレートに添えるの」

「チョコレートを? なんで?」

「元々チョコレート業界が、チョコを売る為にそういった習わしを考案したのが始まりね。確か発祥は一八六八年にイギリスのキャドバリー社が―――」

「あーあー分かった! 分かったよ!」



ハーマイオニーの解説をバッサリ遮りながら、ロンは変なの、と言わんばかりに首を傾げながら席に着く。ハーマイオニー同様、目の前にチョコの箱が出現した。私も席に着くと、チョコの箱が現れた。

バレンタインにチョコ。日本やダーズリー一家に居た頃はよく見かけた光景だが、魔法界じゃマグルのチョコレート業界の陰謀は浸透しておらず、バレンタインといえばカードや花を贈り合うのが定番、といったところだった。でも何だってこんな行事取り入れたんだ、と私も不思議に思いながらゴブレットに手を伸ばしてかぼちゃジュースを飲―――あれ、これ、かぼちゃジュースじゃねえな。



「これ、チョコレートだわ」

「ほんとかい? ……うわ、ほんとだ!」



一口飲んで、口いっぱいに広がるどろりとした温かなショコラ・ショーに、ゴブレットを見つめた。いやまあ、甘いものは好きだけども……と、目の前に広がるチョコレートケーキ、ケーキ、ケーキ、そしてパン―――恐らく菓子パン―――とパンとパンの山、そして申し訳程度のフルーツとクッキーが彩るテーブルを見て、流石の私も辟易した。これは、きつい。甘いものが好きな私でも、きつい。

余所のテーブルをちらりと見ると、生徒の多くは嬉しそうにケーキに手を伸ばしていたが、甘いものが苦手そうな男子生徒たちは表情を強張らせ、震える手でなけなしのフルーツを皿に盛っていた。教師陣はもっと困った顔をしていた。年が年の人も多いし、朝からこの大量のケーキは重すぎるのだろう、マクゴナガル先生やフリットウィック先生は顔を見合わせて困惑しており、スネイプもいつもの土気色の顔で、黙々とフルーツを摂取している。逆にハグリッドやルーピン先生は嬉々としてチョコミントパイを山分けしている。

そんな中、ようやくダンブルドアが立ち上がった。



「おはよう、諸君! ハッピー・バレンタイン!」



去年を思い出させる挨拶にギクリと肩を震わせたが、ダンブルドアは特に何もする様子はない。白ひげをレースのリボンで結い上げていること以外はいつもと変わらぬダンブルドアを、生徒たちは―――特に魔法界生まれの生徒たちが、ポカンと見上げた。



「驚かせてしもうたかのう。マグルの世界では、バレンタイン・カードの他に、チョコレートを贈るのが習わしとルーピン先生から聞いてのう。そんな素晴らしい風習とあらば、是非ともホグワーツに取り入れねばと思ったのじゃ!」



多分生徒の二割ぐらいが、何余計な入れ知恵を、と思ったことだろう。私は一人、ルーピン先生は自分の欲望の為にそんな入れ知恵をしたのではないかと、今度はチョコレート・プリンに手を付ける先生を見ながらそう邪推したが……や、先生はそんな人じゃないよね。ウンウン。私の気の所為だ。この所、薄暗いニュースばっかだったし、ホグワーツを明るくしようというルーピン先生の気遣いに決まってるよね、ウンウン。



「これらのケーキやチョコレートは、諸君らへわしからのバレンタイン・チョコレートじゃ。さあさあ、朝の時間は短い、諸君、存分にかっ食らえ!」



ダンブルドアがパン、と手を叩くと、長テーブルの皿の上のケーキが一新された。ガトー・ショコラに始まり、キャラメルとバナナのブラウニー、チョコレートとマロンのタルト、アールグレイの香りがするトリュフ、ショコラマドレーヌ、カフェモカのクランブル、チョコラータ・ティラミスなどなどが出現し、多くの生徒は歓声を上げ、一部の生徒がげんなりと溜息を零した。

かく言う私も、その一人だった。



「うう、太る……絶対太る……!」

「女の子ってなんで体重を気にしたがるんだ?」

「それ、私たち以外に言ったら蜂の巣にされるわよ、ロン!」

「いっそ私が鉢の巣にしてあげようか?」

「ワー、コノケーキオイシー!」



私たちから凄まれたロンが、目を逸らしてザッハトルテに手を付けた。飲み物から食べ物までチョコレート塗れにされてしまうと流石の私も段々と胃に―――アレ……?段々……と、アレ?胃に来ない……だと……っ!?



「(若いってすごい!)」



ならばと私は少しだけ多めに、パリブレストに手を伸ばした。

シュー部分を切り分けて食べていると、いつものように天窓が開いてふくろうの群れが手紙を運んできた。が、その量は今日はいつもの比じゃない。まあ、今日はバレンタインだしなあ、と思いながらナイフとフォークを置いて、ローブから杖を引っ張りだして叫んだ。



「プロテゴ!!」



その瞬間、ドサドサドササッ、と私の頭上で大きな音が鳴り響いた。盾の呪文が発動し、ふくろうたちが落とした荷物、あるいはふくろう自身をガードしてみせたのだ。……ふう、危ない。私のパリブレストが粉々にされるところだった。盾の呪文で弾かれ、ボトボトと床に落下した手紙やらカードやら小箱やら花束やらを杖を一振いして浮かび上げて、もう一度くるくると杖先を回す。すると、その手紙やらカードやら小箱やら花束やらはそのまま空中に吸い込まれるように消えて無くなっていった。

鮮やかな手際で処理―――じゃない、荷物を片付ける私に、ロンは感心したように頷いた。ほっぺたにチョコレートクリームがついているが彼は気付いてるだろうか。



「今年もすごいな」

「……ま、クリスマスのことを考えれば、こうなるとは思ってたわ」



声を顰めて、二人にしか聞こえない声量で言う。

バレンタイン。此処イギリスでは男性からも女性からもカードやら花束やらを贈り合う風習があるけれど、私には関係ない行事だ―――あげる分には、という意味で。去年も一昨年も、それなりにカードなりなんなりと貰っていたが、今年はその倍はある。それは純粋に私を想っての贈り物もあるだろうが、クリスマスのことを考えれば全部が全部そうとは思えない。どーせそれらの贈り物には差出人は記されていないし、そもそも私にこういった贈り物をするような人に知り合いはいない。大人しく闇に屠るのが一番とさっさと片付けた。それを見たハーマイオニーが、言い辛そうに顔を上げた。



「アシュリー。今のその……どうしたの? 捨てたの?」

「まさか。寮の部屋に送っただけよ。捨てるだなんて、とんでもない」

「(捨てたな)」

「(捨てたわね)」



優しく良い子なアシュリーが、みんなからの贈り物を捨てるワケないだろうとにこやかに笑うと、ロンとハーマイオニーは顔を見合わせたから溜息をついて、チョコとナッツのキャラメルブラウニーを山分けし始めた。君たちほんといい度胸してるね。

From your ValentineやらBe my Valentineやらと綴られたカードに一喜一憂する生徒たちをぐるりと見渡して、若いなあと零す。そんな生産性のないカードよりも、ダンブルドアが用意してくれたチョコレートとケーキの山の方が、よほど身の為になるというもの。うめえうめえと、私たちはケーキの山を切り崩すのに精を奮ったのだった。

―――が、浮かれていたのも束の間。



「なあ、アシュリー・ポッター。少しいいかい?」

「……はい」



それからバレンタイン・デーの一日はどこもかしこも浮ついた空気が流れ、ロンもどこかソワソワしだし、ハーマイオニーは顔を顰め、私はと言えば、呼び止められる回数が格段に増えたことに辟易していた。少し歩けば色んな人に声をかけられ、足を止められてしまう。面倒くさいにもほどがある、今日一日透明マントを着て歩きたい気分になった。肩を落とし、花束を持って立ち去っていく男たちの背中を見て申し訳ないと思わないでもなかったが、授業の移動中に何度も呼び止められたらそりゃあ鬱陶しくも思うわ。

今も、話したこともないハッフルパフの七年生をバッサリとフッて、きゃあきゃあとざわめく廊下をとぼとぼ去っていく背中を見送って、私は人知れず溜息を吐いた。が、ちんたらやってる暇はない。次はスネイプの授業だ、遅刻するわけにはいかないと、私は足早に地下牢の教室へ急ぐ。すると―――。



「あら、ドラコ」

「っ、アシュリー……!?」



一階の玄関ホールに足を踏み入れた時、鞄を持ったドラコを見つけて呼び止めた。ドラコは珍しく、腰巾着のクラッブもゴイルも連れず、一人で居る。



「どうしたの、一人?」

「ああ。……全く、ダンブルドアも妙な行事を考えてくれる」

「あー、そういうこと」



彼もまた、バレンタインということで呼び出されていたようだ。顔立ちが飛び抜けて整っている、とは言わないが、ドラコだって十分将来性のある顔はしている、と思う。おまけに成績も悪くないし、実家は純血貴族でその嫡男。性格はまあさておいて、それなりにモテるということだろうか。が、ドラコは至極面倒くさそうな顔をしたので、私と似たようなことを考えているのだろうと思った。



「大変ね、あなたも」

「……まあ、君ほどじゃないだろうな」

「大きな声じゃ言えないけどね」

「アシュリー……」



少し呆れたような顔をしたドラコ。うん、いつも通りの彼だ。

魔法薬はスリザリンとの合同授業なので、二人で揃って地下牢へ急ぐ。たんたんたん、と軽やかに階段を下っている最中に、そういえば、と思い出したことがあったので、横のドラコを見上げる。



「あ、ねえドラコ。クリスマスのことなんだけど」

「―――あ、ああ」

「ごめんなさいね。お父様、さぞ怒ってたでしょう?」

「……」

「嘘の吐けない人ね」



ドラコの青白い顔が更に青くなったので、私はくすくす笑ってそう言った。ドラコは驚いて言葉を詰まらせ、何か言いたげな顔をしたが、その先はつっかえて出そうにない。

……仕方ない。



「私、もうあなたに関わらない方がいい?」

「そんな―――そんな、ことは」

「あなたがそう望むのなら、そうする。望まないのであれば、お父様の見えない所でいつもみたいにお話ししたりしましょう? ……どうする?」



実に分かり易い、それでいて残酷すぎる二択を提示すると、案の定ドラコは言葉を詰まらせた。父の、家の、純血主義者としての矜持を選ぶか、抱いて三年経つ恋心を優先させるか。たかが十三歳の少年に突き付ける選択としては、些か酷すぎるかもしれない。

けれど―――そう、ドラコとて、いつまでも子どもではいられない。例え“今”、選択が出来なかったとしても、いつかはその時が来る。親を取るのか私を取るのか、その選択を強いられる瞬間が必ず訪れる。……もう、三年生。来年にはヴォルデモートが甦り、闇陣営は活発化する。その時こそが、選択の時だ。その時になって悩まれても、もう遅い。



「今、選べとは言わないわ。けれどいつかは、そうなる日が来る」

「……」

「あなたも分かってるのでしょう。私も、いつかその日が来ると思ってる」

「……その日が来たら、僕と君は―――どうなる」

「……分かってるくせに」

「……」



そう言うと、ドラコは気まずそうに押し黙った。

私もドラコも分かってる。もう数年もすれば、こうして肩を並べて歩くことさえも儘ならなくなる。言葉を交わし、顔を見て、微笑むことが許されなくなる。私はダンブルドアと共に闇を打ち滅ぼす者として、ドラコは闇と共に歩み非魔法族を葬る者として、決して交わらないステージに、それぞれ引き摺り上げられる。

が、正直なところ、ドラコがどちらを選ぼうと、私にしてみればあまり変わらない。敵に回るのならばそれでもいい、原作通りでやりやすいし。けれど味方になるのなら、まあそれに越したことは無い、ぐらいの気持ちだ。味方が多いに越したことはないが、私の見る限り、ドラコは敵に回って非常に厄介な人間、というわけでもない。彼の人となりや能力は把握しているつもりだし、この先の展開も知っている。彼が敵に回るデメリットは他に比べていくらか少ないから、私は無理矢理ドラコを抱き込もうとも思わないし、かといって突き放そうとも思わない。

けれど―――。



「私は私の敵に、一切の容赦はしないわ」



誰とは言わないけれど、ね。

けれど聡いドラコには全て伝わったようで。早足で地下牢へ向かう私たちの間に、それ以上の会話は生まれることはなく、厨房で作られただろうチョコレートの甘い香りが薄暗いスネイプの地下牢まで流れ込んできているにも拘らず、ただただ冷たい空気が流れていくだけだった。





***





さて、午後の授業も終わり、私とロンとハーマイオニーはいつものように図書室でバックビークの弁護に関する本を探してから、夕食を取る。しかしハーマイオニーは宿題があるからと夕食を簡単に切り上げて、先に寮に戻ってしまった。そろそろほんとに倒れるんじゃないか、という話をグリフィンドール生たちと交えながら、私とロンは寮に戻るべく席を立った。いつもならこの後も図書室へ向かうところだが、外をうろついていると声をかけられる為、今日は一刻も早く寮に帰りたかったのだ。

そんな私の心情を知ってか、ロンがポンと私の肩に手を置いた。



「今日は一日災難だったなあ、アシュリー」

「ほんとよ。授業は遅刻しそうになるし、色んな人からジロジロ見られるし、あれこれプレゼントを押し付けられそうになるし、バックビークの弁護資料は見つからないし、シュバルツは具合悪くなっちゃうし……」

「なんだ、シュバルツ具合悪いのか?」

「そーなの。今、寮で寝かせてるの」

「寮で……?」



愚痴る私の横で、ロンはぐっと顔を顰めた。私がシュバルツの監視をしていないことに対して、憤りを感じているらしい。



「ちょちょ、怒らないでよ! 今日のシュバルツ、すごく具合が悪そうだったの! グッタリしてるし、とても連れては歩けないわよ!!」

「けどアシュリー、スキャバーズだって病気なんだぞ!」

「シュバルツだって具合悪いの! 大体、ロンってばいっつもスキャバーズを連れて歩いてるじゃない! シュバルツは寮にいるんだし、何の問題があるの!」

「スキャバーズは寮だよ! 最近は外に出るのも嫌がるんだ! どうするんだよアシュリー、あの毛玉たちにスキャバーズが襲われでもしたら!」

「心配しすぎよ!」



二人して愛するペットに対してギャイギャイ言い合いながら、寮に戻る為にカツカツと階段を登っていく。グリフィンドール塔へ続く廊下に出ると、カドガン卿の肖像画の前に、ネビル・ロングボトムが立ち往生していた。喚くカドガン卿に必死に懇願しているが、聞き入れてもらえないようだ。



「ネビル、何してるの?」

「ああっ、アシュリー、ロン! いいところに! ぼ、僕、合言葉を書き留めておいたメモを、どこかに落としちゃったみたいなんだ!!」

「下手な作り話だ!」



今にも泣きそうなネビルの言葉を、カドガン卿が切り捨てた。私たちはまたか、といった風に互いの顔を見合わせた。ネビルは普段から合言葉に関しては困り果てていた。けれど肖像画がカドガン卿に変わってからは、ネビルは輪をかけて混乱していた。カドガン卿は一日に二度も三度も合言葉を変えたり、そうじゃなきゃメモを取らないと覚えられないほど長い合言葉を思い付いたりしたからだ。

仕方ない、とロンが面倒くさそうに一歩前に出た。



「『オヅボディキンズ』」



残念無念、と言わんばかりにカドガン卿はしぶしぶ前に倒れ、私たちを談話室へ招き入れた。ネビルはお礼を言いながら談話室に駆け込んで行き、私とロンは先程の言い争いも忘れて、カドガン卿に対する愚痴を零しながら談話室に入った。談話室には相変わらず本の山に囲まれたハーマイオニーが暖炉の前のテーブルを占領しているのが見えた。それを見たロンが、溜息を吐いた。



「僕も魔法史レポート、片付けるかな。アシュリー、手伝ってくれよ」

「来週の天文学のレポートを手伝ってくれるならね」

「サンキュー!」



そう言って、ロンは男子寮に駆け上がっていった。買収完了。

私はロンを待つ為に、ハーマイオニーが占領する長テーブルの向かいに腰をかけた。ハーマイオニーは今、数占い学の信じられないほど長いレポートと格闘しているらしく、生乾きのインクが暖炉の火に照らされてテラテラと光っている。その隣は今から手を付けるのであろうマグル学の作文と、古代ルーン文字の原文が並べられている。



「大変そうね」

「そうでもないわ」

「嘘。顔色が悪いわよ、ハーマイオニー」

「あなたに言われたくないわ」



痛い返しだ。ハーマイオニーはレポートに集中していて、こちらに顔を向けようともしない。向かいから眺めるハーマイオニーの顔は大きく窪んでおり、とても不健康そうに見える。そろそろ注意するべきかと口を開きかけたその時、

男子寮から押し殺したような叫び声が階段を伝って響き渡ってきた。



「なに?」

「え?」

「どうした?」



誰もが驚き、談話室がシーンと水を打ったように静まり返った。みな、石になったように男子寮へ続く階段に釘付けになった。それから、ダダダダダッ、という慌ただしい足音が響いてきた。それがだんだん大きくなって―――やがて、階段からロンが転げ落ちるように現れた。ベッドの白いシーツを引き摺っている。



「見ろ!!」



見たこと無いほど怒り狂ったロンが、シーツを引き摺ったまま“私たち”の方に向かって牙を向いている。流石のハーマイオニーも顔を上げ、ぽかんとした表情をしている。ロンはもう一度叫んでから、シーツを激しく振っている。



「スキャバーズが! 見ろ! スキャバーズが!!」



私たちを睨みつけているロンに、ハーマイオニーは仰け反るようにしてロンから離れ、私は逆にロンを落ちつけようとロンに近付いた。しかし、ロンは火が付いたように怒り狂っており、手を伸ばすと振り払われた。



「ロ、ロン、落ち付いて。一体何が―――」

「血だ!!」



そう吠えて、私に突き付けられたシーツには、何やら赤いものが付着している。ハーマイオニーも私も、誰も彼もがロンの怒りに当てられ思考が停止して、ただただ呆然としていた。



「スキャバーズがいなくなった! それで、床に何があったか分かるか?!」

「い、いいえ」



ハーマイオニーの声は、震えていた。ロンはハーマイオニーが広げている数占い学のレポート用紙の上に何かを投げつけた。ああ、見るまでもない―――否、目を凝らしいてよく見てみれば、ハーマイオニーだけでなく、私でさえ言葉を失ってしまった。とげとげしい文字の上に投げつけられたのは長いオレンジの猫の毛と、

短い艶やかな、黒猫の毛だった。


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