14 ※注意

※いつものことながら何でも許せる方のみどうぞ
※苦情は一切受け付けません









そしてとうとう土曜日となった。

が、私の生活リズムは変わらない。雨風が喧しく窓を叩きつける中、私はぱちりと目を覚まし、暗い視界の中、枕元の懐中時計で確認して見れば時刻は五時。いつもの通りジョギングに行こうと身体を起こしたその瞬間、慣れぬ鈍痛が腹部を貫き、身体を支える力が抜け、私はごろりとベッドに転がった。



「っ……!」



やばい、変な物でも中ったか。にしてはズクズクと、鈍く緩やかな痛みである。決して我慢できないほどではないが、立ち続けるのは厳しいくらいの、絶妙な痛みだった。……仕方ない、筋トレは今日はお休みだな。今日は重要な試合なんだ、大事を取ってもう少し横になっていよう。枕元で丸くなっているシュバルツをゆっくりと抱き上げて、痛みを訴えるお腹に乗せ、その上から毛布を被って再び目を閉じる。

次に目を覚ました時は八時を回っていた。試合は十時からなので、そろそろ起きないとまずいだろう。ゆっくりと身体を起こすも、やはりまだ鈍痛が続いている。心なしか気分が悪い気もする。頭も痛いし……なんだこれ。いや、やっぱ気持ち悪いというか……んんー、気圧の変化に弱くなったのか、それとも風邪の前兆だろうか。



「(けど―――医務室には、とても行けない)」



具合が悪いなんてマダム・ポンフリーに告げてみろ、確実に入院させられてしまう。クィディッチの試合なんて以ての外だろう。マダム・ポンフリーはマクゴナガル先生とは違い、情に訴えて通じる相手でもないし、となると、やっぱ医務室には行けないなあ。

起きあがり、軽くストレッチをしてみる。んー……ほんと、我慢出来ないほどではない。ズキズキズクズクと訴える痛みは治まることはないが、まあ一応ウッドに伝えておくぐらいはしておくか。痛みに少しだけ顔を歪めながら、パジャマからローブに着替えていると、女子寮のドアが開いてハーマイオニーがクルックシャンクスを抱き抱えて入ってきた。



「おはよう、アシュリー。珍しいわね、あなたがこんな時間まで寝てるなんて」

「おはよ。そうね、確かに……気が緩んでるのかも」



伸びをしながら挨拶を交わす。確かに、私より先に誰かが起きているのは珍しい。いつもは私からおはようと挨拶をするので、誰かからそう言われるのは、どこかくすぐったくも感じる。

が、鈍痛は治まるところを知らず。訴える声を止めないお腹をバレないようにさすりながら、シュバルツをローブのフードに入れて立ち上がった。朝食を取ろうと二人で降り、談話室でロンと合流して、喧しいカドガン卿の喧嘩腰な台詞を背に、三人で大広間に向かう。その間、いつものように笑顔を張り付けているので、誰からも体調を尋ねられることはない。いやあ、私の面の皮も厚くなったものだ。



「おはよう、アシュリー」

「アンジェリーナ、おはよう」



チェイサーのアンジェリーナとハイタッチを交わして私は席に着く。オートミールを食べれば多少は回復するかな、と思ったが全くそんなことはなく。痛みに呻きたい気持ちをぐっと堪えてかき込んでいると、いつものように大広間の天窓からふくろうの群れが入ってきた。当然そこにヴァイスの姿はない。ヴァイスは滅法人見知りをするので、私には滅多に手紙が来ない。まあ、寂しさを感じるようなおセンチな人間でもないので、少しでも腹の痛みが治まるようにと紅茶を飲んでいると、私の肩に白く重たい物がどっしりと乗っかり、ホーホーと嬉しそうに翼を羽ばたかせた。

ヴァイスだ。珍しく、足に手紙を括りつけている。あのヴァイスが、ホグワーツで、仕事をしてるなんて。初めて……とは言わないが、中々珍しい。紅茶のカップをテーブルに置いて、ヴァイスの脚に括りつけられた手紙を外してふくろうフーズを与えると、ヴァイスは嬉しそうに私の膝に降り、膝の上で食事を始めた。温かい……お腹の痛みが和らいでいくようだった。



「ヴァイスが手紙運んでくるなんて、珍しいこともあるなぁ」

「ほんと、私も数回ぐらいしか見たこと無いわ」

「おかげでブクブク太っちゃって……」



ロンとハーマイオニーが珍しげに私の膝で食事をするヴァイスを見つめる中、私は括りつけられた手紙を開いてみる。差出人は、なんとドビーだった。痛みにお腹を擦りながら、驚き声を上げる。



「っ……、あら、ドビーからだわ」

「へえ! そういや、文通してるって言ってたっけ!」

「そうそう。夏も何回かやり取りしててね。どれどれ……」



ドビーからの手紙はいつも長くはない。意外にも字を書くのが上手なのが、いつものドビーから想像できなくてちょっとおかしくなってしまう。そんなことを思いながら、手紙を開く。中身は、就職活動はまだまだ難航してるけど色んな人に会えて楽しいということが最初に綴られており、その次に綴られていたスペルに思わず二度見した。



『シリウス・ブラックがホグワーツに向かったと聞きました』



オーウ、誰から聞いたんだ。情報源は書かれてないが、まあ十中八九ダンブルドアだろう。私は慌てて続きを読む。

ドビーからは、シリウス・ブラックは恐ろしい闇の魔術を取得しているから油断はしないようにということ。ダンブルドアがいるとはいえ、十分に注意するようという旨。もし何かあったら、すぐに手紙を送るように、ということが綴られていた。



「なんだって?」

「シリウス・ブラックのことよ。気をつけてって」

「そういえば、ブラックを最初に見つけたのはドビーだったのよね」

「ええ。にしても、ドビーが心配で乗り込んでくるとか言い出さなくてよかったわ。またブラッジャーに叩き落とされるなんて、ゴメンだもの」

「笑えない冗談だ」



ドン、と隣に腰を下ろしたのはウッドだったので、私は慌てて手紙をローブに隠した。ウッドの顔色は荒れ狂った空模様より悪く、目の前に出されたトーストに手をつけようともしない。



「ウッド、何か食べたら?」

「ああ……―――今日は荒れるぞ」



私の進めに、ウッドはどこか力なく頷きながら、トーストに手を伸ばす。いつになく弱気なウッドに、斜め向かいに居たアリシアとケイティが顔を顰めた。



「オリバー、心配するのは止めて」

「ちょっとぐらいの雨はへっちゃらよ」



しかし、雨は「ちょっとぐらい」に留まらないことを私は知っている。みんなで朝食を取ってから、チームメイトは一足早く更衣室へ向かう。グリフィンドール生の声援を背中に、最後尾を歩くウッドのローブをちょいちょいと摘まんだ。歩きながらウッドは、精悍な顔を少し顰めて振り返る。



「どうした、アシュリー」

「ウッド。……ごめんなさい、体調が少し」

「何!?」

「我慢できない痛みではないわ。……でも、万全とは言えないのは確かなの。シーカーだし誰かと連携を組むわけじゃないからそこは大丈夫だと思うんだけど、あなたには伝えておいた方が良いかなって」



今この瞬間に医務室に行くことが得策でないことぐらい、ウッドも分かっているだろう。だからこそ、ウッドにだけ伝えたのだ。これが他の人であれば、すぐさまクィディッチよりも私の体調を優先させただろう。けどウッドは違う。多少の体調不良程度、気合でどうにかしろという根性論を出すような男だ。それが凶と出る場合もあるだろうが、私にとっては吉だった。

案の定、一瞬考える素振りを見せるウッドだが、すぐに私を真っ直ぐに見つめる。その瞳に燃える闘志は、少しも燻ぶって居なくて。



「体調管理を怠るなんて、君らしくもない」

「……返す言葉もないわ」

「この件、他の誰かに話したか?」

「話す訳ないでしょ。勝ちたいのは、私だって同じなんだから」

「……本当に、大丈夫なんだな」

「ええ」



嘘ではない。自分の体調は自分が一番よく知っている。

前も言ったが、見縊っているつもりはない。けれど、どう贔屓目に見ても、ハッフルパフはスリザリンほど手を焼く相手じゃない。それはクィディッチの腕前の話だけではない。早い話、反則も厭わない奴らを相手取るのは中々骨が折れるということで。誠実を地で行き、おまけに模範生が服を着て歩いているようなセドリック・ディゴリーのチームメイトだ、スニッチを掴むこと以外に気を揉む必要は無いだろう、と思っていた。こう言ってしまえばあれだが、今日はスリザリン相手じゃなくて良かったのかもしれない。

唯一気がかりなのはディメンターの襲来だ。けれど、その未来を知っているのと知ってないのとでは心構えも違う。袖に杖さえ忍ばせていれば、問題ないと思う。



「分かった。君を信じるぞ、アシュリー」

「その信頼に応えられるよう、頑張るわ」



決して晴れやかな顔とは言い難いが、決意を固めた男の顔をしたウッドが拳を突き出してきたので、私もまた、拳を突き出してこつんとぶつけた。さあ、急がなきゃ。

急ぎ足で更衣室へ向かい、紅のユニフォームに着替える。ずくずくと痛む腹は痛みが益々増していくが、やはり歩けないほどではない。何度も大怪我を経験しておいた所為か、痛みに対する感覚が麻痺しているのかもしれないが。



「あ」

「にゃあ」



しまった、シュバルツをフードに押し込んだままだったのを忘れていた。スキャバーズのこともあり、あまりシュバルツをその辺に歩かせたくはないし、かといってこの寒い更衣室に押し込めておくものなあ。着替えも途中のまま困っていると、更衣室のドアがぱっと開いて、ハーマイオニーが現れた。



「ハーマイオニー!」

「アシュリー、頑張ってね!」



声援に来てくれたらしいが、丁度いい。シュバルツを預かっててもらおうと、チームメイトには見えないよう、シュバルツを片手に乗せたまま、ハーマイオニーに差し出す。



「シュバルツ、預かっててくれる?」

「ええ、いいわ。おいで、シュバルツ」



人見知りしないシュバルツは、素直にハーマイオニーのフードの中に隠れる。それからハーマイオニーは去っていき、私はさっさと着替える。杖を袖に忍ばせるのも忘れず、ウッドの激励を耳に傾け、乾ききったユニフォームや顔面に叩きつける濁流のような雨を一身に受け、私たちは箒に跨って飛び上がった。



「みなさん、正々堂々と戦いましょう」



フーチ先生の掛け声と共に、ウッドとセドリックが握手を交わす。セドリックはにこやかだったが、ウッドは終始、硬い表情のままだった。吹き荒ぶ風に選手たちは箒に跨ったままフラフラ滑空し、競技場を埋め尽くすほどの生徒たちの歓声も風と雨によってかき消されていく。私はハリーと違って決して目が悪い訳ではないが、それでも向かいで飛ぶハッフルパフの選手全員もれなくカナリア・イエローの塊にしか見えないほどだ。こんな天気で卵より小さく、ブラッジャーより早く飛ぶスニッチを見つけろだなんて、中々厳しい戦いが強いられそうだと思った。

フーチ先生が何かを言っているが雨風に遮られて殆ど聞こえない。が、先生が唇にホイッスルを咥えたので、ようやく試合開始なのだと分かる。そして微かに聞こえる鋭い笛の音に、選手たちは一斉に飛び上がった。試合開始だ。



「ぐっ……!」



私は一気に急上昇したが、ニンバス2000が風に煽られて大きく揺らぎ、その拍子に腹が捩れて腹部に鈍い痛みが走る。柄をしっかりと握り締め、箒にしがみ付くように体制を低く保ちながら風の抵抗を小さくしながらスニッチを探す為に目を凝らす。

試合開始から五分もすれば頭からつま先までびしょ濡れになり、身体が凍えて手がかじかむ。数十メートル下の方では、紅と黄色の塊がくっついたり離れたりしながら行き交ってるのが辛うじて見える。その間を縫うように飛び交い、輪から抜けるように飛び立つ、それを繰り返してスニッチを探すが見つからない。時間が経過するにつれて空はどんどん暗くなり、夜が来てしまったかのような視界の中、雨に風に煽られながら削れていく体力と徐々に痛み増す腹部を引っ提げたまましばらくそのまま飛んでいると、タイムアウトがかかった。ホイッスルの音色と共に選手たちは降下していくので、私もそれに従う。



「タイム・アウトを要求した!」

「スコアはどうなってる?」

「我々が五十点リードだ。だが、スニッチを早く取らないと夜にもつれ込むぞ」

「勘弁願いたいわね―――、っ!」



ズキリ、と今日一番の痛みを上げる腹部に、私は思わず表情を固くする。が、それに気付いたのは目の前に居るウッドだけだった。他はびしょ濡れの顔をタオルで拭ったりしていて、こちらを見てはいない。



「おい、アシュリー!」



フーチ先生の目もあってか、小声で呼び掛けてくるウッドを、私は片手で制した。……流石に足やら腰やらを折った時の方が痛かったけれど、今の痛みも中々のものだった。大きく目を見開いた顔を見られたのがウッドだけで良かった……。

ウッドは所在無さげに立ち尽くしている。ここで医務室に駆け込めば、没収試合となって負けてしまう。かといって、激痛に顔を歪める選手を前に甘えるなと声を荒げる程、ウッドも人を捨ててはいないらしく。キャプテンとして、チームメイトとして、そして何よりグリフィンドールの勝利を願う者として、ウッドが私にかける言葉はあまりに少ない。



「ごめっ……こんな、大事な日に」

「いや。アシュリー、いや……」

「まだ、飛べるわ」

「……」

「飛ぶしかない。そうでしょう?」



クィディッチは、スニッチを掴まなければ試合は終わらない。私か、セドリックか。どちらかがスニッチを掴まなければ、何時間でも何日も、果ては何年かかっても試合は続く。シーカーに補欠が用意できない現状下で、選べる選択肢は一つしかない。

どこか、思い詰めた顔をしたウッドを前に、少しだけ肩の力が抜ける。流石の彼も、痛みを訴える人間を前には強く言い出せないんだなあ。いやまあ、人としては当然だよね。私はウッドを何だと思ってんだ。

私はもう一度、拳を前に突き出した。



「キャプテン、行こう」

「……ああ」

「絶対、勝つんだから」

「―――ああ!」



二人でこつんと拳ををぶつけ合った。

しまっていこう、というウッドの号令と共に、チームメイトたちは頷き合って、箒を手に取った。痛みに顔を顰めながら、私は防水呪文のかかったゴーグルを指に引っ掛け、私はびしょびしょになったニンバスの柄を握り締めた。

雨は弱まることはなく、寧ろ益々強まって顔面を叩きつけてくる。遂には遠くの方で雷が轟く音まで聞こえてきて、夜までもつれこんだら洒落にならないことを痛感する。けれど、遠くで落ちる雷のおかげで、ほとんど闇に閉ざされたフィールドが、一瞬でも明るくなることだけは幸いだった。ぐんと高度を上げてみれば、上も下もよーく見えた。



「!」



そして三回目の稲光で照らされた上空で―――見つけた。隙間なく落つる篠突く雨の中、きらきらと瞬く羽根を羽ばたかせるスニッチを。私はぐらつくニンバス2000の柄を真っ直ぐ上空に向け、弾丸のように飛び上がった。少し間を置いて、誰かが私の後を追ってくる。恐らくセドリックだろうけど、振り返っている暇はない。ぐんぐんと高度を上昇させ、槍のように降り注ぐ雨を自ら受けに行きながら、天に向かって真っ直ぐ手を伸ばす。ああ、去年もこんな感じだったな、なんて思った。

―――その時だった。雨風に遮られつつはあるが、熱気迸る生徒たちの歓声や、選手たちの勝ちへと執着する闘志渦巻く空気が、ガラリと変わった。まるでスイッチをぱちんと切ったかのように、熱を産み出す空気は消え、変わりに凍てつくような沈黙が流れ込む。寄せては返すような冷たい波が、私の冷え切った身体をひたひたと満たしていく。



「(来た、か―――)」



自分が今、箒に乗っている感覚さえも消されてしまいそうだった。そうなれば落下も免れないので、しっかり脚で箒を挟んで固定してから、私はスニッチから目を離し、裾に手を突っ込んで杖を引っ張りだした。そうして下を見下ろして―――私は、思わず息を飲んだ。

少なくとも百体。もはやこの状態からフィールドが見えなくなるほど、吸魂鬼の群れが渦巻いている。擦り切れたマントを翻し、視界を埋め尽くす程飛びまわっている吸魂鬼たちは、ゆっくりと私を捕捉し、近付いてくる。落ちつけ、集中しろ。杖を握る手にじわりと汗が滲む。



『アシュリーだけは……どうか、アシュリーだけは!』

『退け、馬鹿な女め! さあ、退くんだ……!』



泣き叫ぶ女と、血も凍らせる男の声が交互に脳内に木霊する。ずくり、と痛んだのは何処だっただろう。ガンガンと脳内に響く悲鳴と笑い声に、一瞬目の前が霞んだ。違う、やめろ、私は負けない。その為の知識で、その為の杖だ。集中しろ、神経を乱すな。考えることはただ一つ。幸福を、この程度の吸魂鬼をかき消すような、圧倒的な幸せの形を―――。



『私を、私を代わりに殺して―――』



しあわせ、を。

白い靄だけがぐるぐると脳裏を埋めていく。その向こうから、泣いている女の声が響き渡る。―――違う、違う、違う!幸せを思い描くんだ、幸せなことを!ホグワーツの手紙を受け取った日の事を、ダイアゴン横丁を目の当たりにしたあの感動を、杖を握り締めた時のあの興奮を、初めて箒に乗った感覚を、思い出せ、思い出すんだ!!



「エクスペクト―――」



大きく杖を振り上げて呪文を口にしかけたその時だった。ズクリ、とまるで腹部を槍に貫かれたかのような熱い痛みが走った。大きく目を見開いて、がくりと上半身を大きく屈したのと同時に、大勢の吸魂鬼が蛆の沸いた干乾びた手をこちらに伸ばしてきた。



「は、なせ―――」



呪文を、早く呪文を―――。

全てがぐちゃぐちゃになって、全てが痛みに変わって、そうして全てが白い霧の向こうに消えていく。遠くにママの声と、あの男の声と、そして今は遠き日の親友の声が聞こえたような気がした。何故か目の前に"赤"がちらついたような気がしたけれど、もう目を開けていられなかった。それからの記憶は、電源を消したテレビのように、ぶつりと途絶えて、無くなっていた。





***





「地面が柔らかくてラッキーだった」

「絶対死んだと思ったわ」

「アシュリーは呪われてるんだわ。選手を辞めるべきよ!」

「冗談止せ、アシュリー以上のシーカーが居るかよ」

「だからって……!」



痛い。もはやお腹だけじゃない。まるで全身をコンクリートに打ち付けたかのように、あちこちが軋んでズクズクと痛む。ああ畜生、どうして未来を知っていながらこうなるんだ。あんなに格好付けたってのに、ウッドになんて言い訳をしよう。そんなことをぐるぐると考えながら、脳裏にこびりついたママとあいつの声を頭を振って振り切りながら、私はゆっくりと身体を起こした。



「アシュリー!」



私を呼んだのは、フレッドかジョージのどちらかだった。もはや見慣れた医務室に横たわっていたらしく、ゆっくりと辺りを見回すと、顔を青くしたチームメイトたちとロンと、泣き腫らした目をしたハーマイオニーが目視できた。全員が全員、今しがたプールに突き落とされましたとでも言わんばかりにびしょ濡れだった。



「気分はどうだ?」

「とりあえず、全身が痛むわ」

「だろうな。……君は箒から落ちた。ざっと二十メートルほどな」

「みんな、あなたが死んだと思ったわ」



アリシアがそう言うと、目を真っ赤にしたハーマイオニーが大きくしゃくり上げた。去年といい、私の試合は箒から叩き落ちなければ事が進まないのか。



「試合、負けた?」

「ああ、ディゴリーがスニッチを取った」

「……そう」

「ディメンターの群れの中から、君がフィールドに落ちた直後だった。あいつは試合中止を呼び掛けた。やり直しを望んだ。でも、向こうが勝った。ウッドも認めた。フェアで、クリーンに、な」

「……ウッド、どうしてる?」

「シャワー室だ」

「……溺死しないように、見張ってて」



シャワールームに籠っているであろうキャプテンを思いながらそう呟くと、ああ、とフレッドだかジョージだかが返事をした。

正直、私もショックだった。過信していた、のだろう。未来さえ知っていれば、あの試合も勝てると思っていた。いくら吸魂鬼に耐性のない私だって、杖さえあれば何とかなると思っていた。いくら体調が万全でなかったとしても、逆境に追い込まれれば守護霊の呪文も使えると思っていた。いつも、いつだって、私にはその力があった。最悪の状況を覆す、まるでヒーローのような力があった。あると、思っていた。



「―――駄目、だったか」



過信していた。過信、しすぎていた。ああ、忘れるところだった。私はただの女なのだ。ただ、知っている世界に、知っている登場人物に生まれ変わってしまっただけの、ただの女に過ぎないのだ。そんな簡単なことを、忘れていた。そんな単純なことを、見失っていた。何故ならいつもいつだって、私は何事も切り抜けてきた。だからそんな力があると思ってしまったのだ。ハリー以上に、もっと十全に、もっと万全に事を進めることのできる力があるのだと。

けれど、そうじゃない。そうじゃなかった。私は満足に守護霊の呪文を唱えることも儘ならないまま、気を失った。その後、どうなったか分からないほどに、前後不覚になったまま、箒から落ちるという、無様な姿を晒して。……情けない、本当に情けない。



「なあ、そう落ち込むなよアシュリー」

「そうだ、これまで一度だってスニッチを逃したことはないんだから」

「それに、これでおしまいって訳じゃない」

「ああ。僕らは百点差で負けた。いいか、だからハッフルパフがレイブンクローに負けて、僕たちがレイブンクローとスリザリンを破れば、優勝は頂きだ」



私の顔を見て、双子が慰めるように声をかけてくれた。……私、そんなに酷い顔をしているのだろうか。確かに鏡こそ見ていないが、血の気のない顔をしている、と言われれば頷けるほど体調が悪いのは確かだが。



「因みに、ハッフルパフがレイブンクローを破る可能性は?」

「皆無だ。今年のレイブンクローは強すぎる」

「あとはスリザリンがハッフルパフに負ける可能性だが……まあ、それも無いだろう。スリザリンは、どんな手を使っても駒を進めるさ」

「そりゃあ、安心だわ」



半ば投げやりのように言ってしまったが、フレッドだかジョージだかの言葉はその通りだと思った。グリフィンドールが負けた今、優勝候補に躍り出たのは他でもない、スリザリンだ。強敵であるグリフィンドールが優勝杯から遠ざかった今、絶好のチャンスを逃す筈もないだろう。どんな手を使っても、だ。



「なあ、気負うなよアシュリー」

「誰も君の事を責めちゃいない。命があっただけでも儲けもんだ」

「……アリガト」



クィディッチでのシーカーの役割は重い。シーカー次第で勝敗が決まるのだ。勝てば英雄扱いでも、負ければ戦犯扱いだ。それを知らなかったわけではないけれど、初めて付いた黒星は思いの外、私に重く圧し掛かった。けれど励ましてくれるチームメイトに私はぎこちなく笑みを浮かべて、次の戦いに向けて決意を改めた。

やがて十分もすれば、マダム・ポンフリーがすっ飛んできてチームメイトを追い出した。あんなゲームがあるから、とプリプリ怒るマダム・ポンフリーの背中を見つめ、ロンとハーマイオニーが改めて私のベッドサイドの椅子に腰かけた。



「ダンブルドアは本気で怒ってたわ。あなたが落ちた時、競技場に駆け込んで、杖を振った。そしたらあなたが地面にぶつかる前に、スピードが遅くなった。それからダンブルドアは吸魂鬼に杖を向けて」

「守護霊の呪文を唱えた、のね」

「ええ。吸魂鬼は競技場から出て行ったわ。……ダンブルドアは、あいつらが学校の敷地内に入ってきたことにカンカンだったわ。そう怒ってるのが聞こえたの」

「それからダンブルドアは魔法で担架を出して君を乗せた。浮かぶ担架に付き添って、ダンブルドアは君を運んだ。みんな君が……」



死んだと思った、かな。トレローニー先生の予言は予想外にあちこちに伝播しているらしい。ロックハートといいトレローニーといい、どうして魔法界の連中は聞いた情報をそのまま鵜呑みにするんだろう。少しは疑うということを覚えた方がいいと思うけどなあ。



「あ、そうだ……」

「その、あなたのニンバスなんだけど」



……やっぱり、とは言いたくなかった。ロンとハーマイオニーは思いつめた顔で、足元にあったバッグを持ち上げ、上半身だけ起こした私の膝の上に置いた。



「あのね、あなたが落ちた時、ニンバスは吹き飛んだの。そして、そしてね、ぶつかったの。ぶつかったのよ、ああ、アシュリー、あの、暴れ柳に」



それ以上は、ハーマイオニーも言えなかった。バッグの中には無残に木くずと化した、我が忠実な友にして、そして最後の試合は敗北で終わったニンバス2000の亡骸がそこに合ったのだ。

……知っていた未来だった。知り過ぎていた未来だった。けれど、ああ、出来ることなら一番避けたい未来だった。誰が死んだわけではない。ああ、ニンバス2000は確かに箒だ。生きている筈もない、ただの魔法がかけられただけの箒だ。けれど、ニンバスと共に空を駆けた記憶が甦ると、胸が締め付けられるように痛んだ。軋む身体を厭わず、バッグごとニンバスを抱き締める私に、ロンとハーマイオニーは黙ったままで。



「……ごめん。ごめんなあ」



マホガニーの柄に金色で『ニンバス2000』と綴られた欠片をバッグから拾い上げ、私はただただ、謝ることしかできなかった。

そんな、重い沈黙だけが支配する空間を切り裂いたのは、マダム・ポンフリーが扉を開けた音だった。険しい顔を携えたまま、ゴブレットになみなみと注がれたどす黒い液体を持ってやってきている。



「あー、ウィーズリー」



マダム・ポンフリーは少しだけ言い辛そうにロンの名前を呼んだ。どうして自分が、と不審そうな顔でマダムを見上げるロン。



「あなたは寮にお戻りなさい」

「僕だけ? どうして、」

「ウィーズリー」



マダムは多く語らず、威圧感だけを押し出す。ロンはそんなマダムに怯み、渋々と思い腰を上げ、私をちらりと一瞥してから、背を向けて医務室から去っていった。ぱたりと閉じられた扉を確認してから、マダムは私にどす黒い液体の入ったゴブレットを差し出した。



「ミス・ポッター。何故医務室に来なかったのです」

「う……」



体調不良はお見通しらしい。項垂れる私に、ハーマイオニーは信じられない、とばかりにキッと私を睨みつけた。



「アシュリー!」

「し、仕方ないじゃない! シーカーに補欠は居ないんだし!」



それにウッドには知らせておいたし、と呟くと、ハーマイオニーはウッドったら、と大きな声を出した。余計なことを言ってしまったかもしれないと思ったがもう遅い。目を真っ赤にしながらこめかみに筋を立てるハーマイオニーに、シャワー室にいるであろうウッドに謝罪の念を飛ばしていると、マダム・ポンフリーは大仰に溜息をついた。



「過ぎたことです、ミス・グレンジャー。次はこうならないよう、しっかりと見張っておくように」

「はい!」



良い返事をするハーマイオニー。余計なことをと思わないでもないが、自業自得なので私からは何も言えない。黙ったままこれ以上何事もないよう祈るしかない。



「それにしても、随分遅かった[・・・・]のですね」



するとマダム・ポンフリーは、少しだけ意外そうに眉を顰めながら、カルテをちらりと見やってから私の顔を見つめた。なんのことだろう、私はハーマイオニーと顔を見合わせてから、首を傾げた。



「まあ、貴女は身長も体重も十三歳女子の平均値に遠く及びませんから、当然と言えば当然なのでしょうが」

「……?」

「ミス・ポッター。あなた、まさか気付いていないのですか」

「何の話ですか?」



へ、と首を反対に傾げると、マダム・ポンフリーは信じられないとばかりに私を見つめた。一体、何の話をしているのだろう。決して惚けている訳ではないと分かったのか、マダムは大きくため息をつくと、ゆっくりと息を吸って、こう言った。



「あなた、生理なんですよ」



……ゆーあー、はびんぐ、あ、ぴりおど、?

聞き慣れない言い回しに、一瞬思考が停止する。マダム・ポンフリーのクソ真面目なその声を脳内で反芻して、ようやく脳みその片隅から訳を引っ張りだして、その意味を解釈する。生理。生理。せいり……ええ?



「生理!?」

「まだ来ていなかったの!?」



私とハーマイオニーの驚く声が重なった。マダムはもう一度、信じられないとかぶりを振った。

生理、はあ、生理だったのか。どーりで変にお腹が痛いわけだ。生前は月に一度来て当たり前だった自然現象をすっかり忘れていたなんて、と思わないでもないが、この身に産まれて十三年も経ったのだ。十三年―――決して短い時間ではない。身に染みた生活感が一変する、くらいには。生理、と独り言ちて、我が身に起こったこととは思えないほど他人事のように息を吐いた。



「そっかあ、もうそんな年かあ」

「何言ってるのよ。寧ろ、遅いくらいよ!」



確かに。十三歳で初潮は結構遅い方ではないか。……それが、この一向に伸びる気配が無い身長に関係しているとは信じたくないけれど、まあ身長に比例するとはよく言うしなあ。

しっかし、この腹部の痛みは生理痛だったのか。生前はそこまで酷い方じゃなかった、というのも気付かなかった理由の一つだ。ズクズクと、もう立つことさえ気だるく思えるほど痛む腹に、どうしたもんかと顔を顰めていると、マダム・ポンフリーがずずいとどす黒い液体の入ったゴブレットを差し出す。ま、まさか。



「お飲みなさい。痛みが和らぎます」



……これは所謂、頭痛・生理痛に良く効く部類の薬なのだろう。それは分かる。しかし何だこの量、なんだこの色、なんだこのトロみ。匂いはどことなくゴムっぽいのは気のせいだと思いたい。おずおずとそのゴブレットを受け取る。厳しい目のマダムが早く飲めと言わんばかりに見下ろしてくるので、覚悟を決めてゴブレットに口を付けてほんの少し喉に流し込む。



「ブホッ!!」

「アシュリー!」



思わず吹き出した。ま、まっず……ッ!!

顔面に叩きつけるようなアンモニア臭とゴムの臭いが襲いかかり、鼻から抜けるようなゴムの苦みに思いっきり吹き出してしまった。その後襲ってくるのは、バチバチとまるで火花が散るような強烈な舌への刺激。あまりの不味さに気落ちしていたあれもこれもが全て吹っ飛んたほどだった。

にしても不味い、不味すぎる。何だこの比類なき不味さ。しかし、初めて口にする味、ではなかった。記憶のどこか、遠い昔に同じようなものを味わったことがある気がする。何だろう、こんなクソ不味い味、一度味わったら忘れられないだろ―――あ。



「サルミアッキだ……」

「え?」

「サルミアッキの味がする……ッ!!」



通称、マグル界では世界一不味いとされるフィンランドの飴、サルミアッキ。生理のことは忘れても、比類なき不味さは魂の海馬に焼きついて離れないらしい。すぐに味の元を思い出した私は、信じられないとゴブレットの中身とマダムを見比べる。しかし、マダムからはさっさと飲めと無言の圧力。

ヤケだ、と私は目をギュッと瞑り、ゴブレットの中身を喉に押し込む。粘り気のある液体が喉絡みつき、アンモニア臭とゴムの味と、もはやよく分からない刺激的な苦みが舌に焼き付く。何度も嘔吐き、胃液ごと吐きそうになるところを何とか堪え、ようやくゴブレットの中身をカラにした。投げ捨てるようにマダムにゴブレットを渡すと、マダムはさっさと背を向けて医務室を出て行った。



「なにあの不味さ、あんなの毎月飲めっての!?」

「有名よ、マダム特製の鎮痛薬の味は。だから誰も飲みたがらないの」



だろうな、と口に出さずに思う。確かにお腹の痛みは避けたいところだが、またアレを飲まなければならないと思うと痛みを我慢した方が百倍マシだった。

にしても、これから戦いが始まるってのに、こんな負荷を背負わなければならないなんて、女の身体ってのは不便なものだ。……戦局と状況次第では、また幾度とアレを飲まなければならないことは目に見えているので、私はがっくりと肩を落とした。しかし、まあ、魔法界らしく即効性はあるようで、みるみるうちに腹部の鈍い痛みは消えていく。素晴らしい薬だ、しかし二度と飲みたくない。



「ほんと、気が重いったらないわ……」

「女の宿命ね。諦めなさい」



赤い目をしたハーマイオニーが、苦笑交じりでそう言う。次に生理来た時は大人しく寮で寝ていようと心に決め、そういや魔法界の生理用品ってどんなんだろうと思いながら、慰めの言葉をかけてくれるハーマイオニーと共に、夜まで過ごしたのだった。





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夢主は英語で聞いて日本語で物を考えてる


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