15

そうしてこの身体に産まれて初めて訪れた生理と戦いながら、私はまた一週間入院するはめになった。新学期が始まってまだ二ヶ月しか経っていないのになんだってこうなるのか、と苦手な古代ルーン文字学と天文学の宿題を積み上げながら、私はため息を零すのだった。

この間、たくさんの人がお見舞いに訪れた。ロンやハーマイオニーは宿題を携えて毎日見舞いに来てくれたし、クィディッチのチームメイトも今度はウッドを連れて見舞いに来た。骸骨のような顔をしたウッドに「君を責めてはいない」と言われた時は流石に罪悪感で押し潰されそうになったが、ドラコが見舞いにとハニーデュークスの新作チョコレートボンボンをくれたので、少しだけ元気が出た。他にもジニーやラベンダーたちといったグリフィンドール生を始め、ハグリッドやアーニー・マクミランといったハッフルパフ生も見舞いに来てくれた。ハッフルパフ生は今回の勝利を快く思っていないらしく、来年こそは真っ向勝負で勝ちたいと告げられた。

そんな入院生活も六日目に差し掛かったところで、次の見舞い客が訪れた。私はベッドの上で、上半身だけ起こしてベッドテーブルの上でガリガリと書き進めていた古代ルーン文字でびっしり埋まった羊皮紙から顔を上げた。そこには、暗い顔をしたセドリック・ディゴリーがいた。



「もう五百年は会ってなかった気がするわ」

「……君が忙しそうにしてるからさ」



確かに、新学期に入って、やれ入院したりやれ監視されたりやれ入院したりと今年は今まで以上に忙しない。好きで忙しいわけじゃないんだけどな、と肩を竦める。



「にしても遅いじゃない。私、明日退院するのよ?」

「はは、手痛いな。……僕だって、気まずさくらい感じるよ」

「真面目な人ね。あなたの気に病むことなんて、何一つ無いのに」



お見舞い、と蜂蜜味のヌガーの詰め合わせが入った小箱を受け取り、ニッコリ笑ってセドリックを出迎える。セドリックはおずおずとベッドサイドのスツールに腰を下ろした。セドリックの表情は、まだ晴れない。自分の膝を見つめ、悔しそうに眉を顰めている。



「……あの時、先にスニッチを見つけたのは君だった。吸魂鬼の邪魔さえ入らなければ、スニッチを取っていたのは僕じゃない、君だった筈だ」

「それはあくまで推論よ。実際は私は箒から落ちて、スニッチを取ったのはあなただった。勝ったのはハッフルパフで、負けたのはグリフィンドール。その事実は覆らないんだから、その話はもうおしまい!」



ぱちん、と両手を叩いてそう言うと、セドリックはほんの一瞬だけ目を見開いた。いやね、最初こそ流石の私も気落ちしていたが、生理の終了と共に気持ちも回復へ向かっていた。単純なものである。にこやかに笑う私の横で、セドリックは気落ちしたまま表情を動かさない。



「それに、君はニンバス2000まで失って……」

「……あれは事故よ。もう、どうしようもないことだわ」

「もう、直らないのかい?」

「暴れ柳に木っ端微塵にされちゃって。退院したらしっかり追善するわ」



サイドテーブルに置かれたニンバス2000と銘打たれた欠片を指でつまみ、手のひらで転がしながらそんなことを言う。なんとなく、この欠片だけは手放す気になれず、手元に置いておいたのだ。セドリックは私の掌の中で転がるニンバスの欠片を見つめている。



「……それ、ニンバスの?」

「ええ。……形見って訳じゃないけど、何となく手放し難くって」

「それ、少しの間でいいから僕に預けてくれないか」

「これを?」

「頼む。絶対に悪いようにしないと神に誓うよ」



セドリックは、真剣だった。重々しい色を秘めた灰色の瞳が、ようやく私を真っ直ぐに見つめた。セドリックが何を考えているのか、私には分からない。負わなくても良い責任を背負い、苦しんでいるセドリックがニンバスの欠片をどうしようとしているのだろう。けれど、そこまで真剣に言われてしまうと断り切れず、私はおずおずと金の文字でニンバス2000と書かれた欠片をセドリックに差し出した。



「ありがとう。近いうちに、ちゃんと返すよ」

「え、ええ」



セドリックはニンバスの破片を受け取ると、大切そうにわざわざ手触りのよさそうな薄い水色のハンカチにくるんでローブに仕舞った。それからちらりと、サイドテーブルに積まれた古代ルーン文字学の教科書を見やり、セドリックはようやくいつものように微笑んだ。その顔に、私もほっと胸を撫で下ろす。



「随分難航しているようだね」

「面白いのは確かなんだけど、言語を一つ習得しろって言うのは、中々難しいわね。でも間違いなく実になるって確信してるわ!」

「ああ、そうだろうね。確かに三年時は言語学習で終えてしまうけど、それさえ超えれば後は実技ばかりだ。きっと君も気に入ると思うよ」

「楽しみに頑張るわね。期末が通れば、の話だけど」

「アシュリーなら大丈夫さ。でも、もし、行き詰ったら僕を頼ってくれていい。……その、少しでも君の力になりたいからね」



そう言って、柔らかく微笑むセドリック。なんて良い人なんだ、あと二十歳若ければ確実に恋に落ちる音が聞こえたことだろう。まだ見ぬ彼の恋人の存在を、素直に羨ましく思う。それと同時に、そういえば不本意極まりない噂が流されていないだろうかと思い出し、それを尋ねる。



「そういえばセドリック、あなた大丈夫?」

「え?」

「それがその……あー、あのね、あまり言いたくないんだけど、その、私とあなたの仲をね、そのー、変に邪推している人がいるみたいで……」

「あ―――」

「も、勿論、片っ端から否定して回ってるわ! でも、こう人が多いと中々ね……一応、私はマグルに好きな人がいるって言って回ってるんだけど」



浸透してんだかしてないんだか。中には好きな人が居ても構わないから告白したいと言う奴もいたし、この作戦、あまり上手くいってないのかもしれないな。考え込む私を余所に、セドリックはすごく気まずそうな顔をしていた。頬は少しだけ赤らんでおり、困ったように眉尻を下げていた。



「だからその、あなたにも迷惑がかかってるんじゃないかって思って」

「僕は平気だよ。平気だけど……その、君も大変なんだね。そんな、そのー……そんな、嘘を、ついてまで」

「ま、うん。仕方ないって割り切ってるわ」

「……アシュリーは強いな」

「だったら、いいんだけど」



過信しすぎるな、と私は身を持って知った。あり余る力は人を驕らせる。それをこのタイミングで思い出す事が出来たのは、文字通り、怪我の功名といったところだろう。人は愚かだ、その自覚を忘れてしまうほどには。だからこそ、こうしてまだ取り返しのつくタイミングでの失敗は、私にとっては好都合とも言える。勿論、あのウッドの虚ろな顔を思い出せば、手放しで喜べる案件ではないけれど。

そんなことを思いながら、ぼうっと窓の外を眺める。傾いた日から、そろそろ夕食の時間が来ることを窺わせる。そんな中、今まで黙っていたセドリックが、ぽつりと私の名前を呼んだ。



「え?」

「アシュリー。僕―――その、君に言いたい事があって」

「なあに?」



窓の外から視線を外し、くるりとセドリックに目を向ける。徐々に赤みがかる夕日に照らされた顔は彫が深く、精巧な彫像のような印象を受ける。それは、浮かべている表情がどこか強張っているのも理由のひとつかもしれない。けれど澄んだ灰色の瞳は、じっと私を見つめていて。ぱちぱち、と二度瞬いて、私はセドリックに向かって首を傾げた。しばしの沈黙が流れるも、セドリックはその先の言葉を紡がない。私はもう一度、ゆっくりと瞬いた。

するとその時。



「にゃん!」

「わ!」

「うわあ!?」



ベッドの下で丸くなっていた筈のシュバルツがいきなり飛び出してきたかと思うと、ぴょんと私のベッドの上に飛び乗った。セドリックは驚き一瞬スツールごと飛び上がった、ような気がした。シュバルツは少しだけ毛を逆立てながら、黙ってセドリックを見つめている。

相も変わらず、入院中はずっとシュバルツはマダムから身を隠しながらも、ずっと私の傍に居てくれた。昼間はベッドの下で丸くなり、夜はベッドの中で私を暖めてくれた。特に、薬で相殺出来たとはいえ生理で重くなった腰に、シュバルツの体温は効果てきめんだった。私が何も言わなくてもずっと傍に居てくれる彼には感謝してもし足りない。本当に、なんて可愛い子なんだろうか。



「ね、猫?」

「そ。私の新しい家族、シュバルツっていうの」

「君、ふくろう飼ってなかったっけ?」

「色々あったのよ」



背筋をぴんと伸ばしたシュバルツの背中を指で撫ぜながらその辺は割愛する。それから誤魔化すように下手くそなウインクを飛ばすと、真面目で誠実な監督生様はどこか呆れたように溜息をついたあと、君らしい、と苦笑を洩らした。



「あ、そういえばさっき、何か言いかけてなかった?」

「……いや、いいんだ。急ぎじゃない」

「そう? ならいいんだけど」



セドリックがそう言うなら、と私はアッサリと引いてみせた。それからしばらく、二人でお見舞い品のお菓子を食べながら、ゆるゆるとした会話を続けた。授業のこと、友達のこと、このお菓子はイマイチなど―――そんな、取るに足らない、下らない会話を楽しんだ。

お見舞い品の蛙チョコレートを取り上げて、セドリックが懐かしそうに目を細めた。



「懐かしいなあ。小さい頃、カードを集めてたんだ」

「セドリックも? 意外ね」

「どうしても欲しいカードがあってね。中々当たらなくって、親に泣いてせがんだりしたんだ。……懐かしいなあ。あのカード、結局当たらなかったんだよ」

「誰のカードだったの?」

「パラケルススさ。ホグワーツにも胸像があるだろう?」



どっかで耳にした事のある名前に、一瞬首を傾げたがすぐに思い出した。そうだ、確かニコラス・フラメルにアゾット剣を借りパクされた人―――だっけ。いや、魔法史でも何度も見かけるほど著名な名前なんだけど、いかんせんフラメルの言葉の印象が強すぎた。

医学者にして哲学者、そして著名な錬金術師の一人。本名はフィリップス・アウレオルス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム。通りの良いパラケルススは、フォン・ホーエンハイムをギリシア・ラテン風に言い変えたもの、らしい。梅毒といった治療にルーンを刻んだ鉱物を使った療法を導入したことでも有名だ。これほどまでに著名だった魔法使いだったが、その死因は未だ謎に包まれている。一五四一年、ザルツブルクで亡くなった彼は一説には毒殺、一説には崖から突き落とされたなど様々な死因が挙げられており、魔法史の授業でもその死因についてのレポートを書いたのは記憶に新しい。



「子どもの頃からパラケルススが好きだったの? 随分渋い子どもだったのね」

「そ、そうかな……」



確かに有名で著名、有能な人物だったが、日本だったら杉田玄白が大好きです、と言ってる様なもんだ。もっと子どもって、こう、有名な魔法戦士とか、あるいは闇の魔法使いみたいな、力が強くて、白黒ハッキリ分かり易いものに憧れると思ってたんだけど。

二人で蛙チョコレートの包みを開けながら、そんなことを思う。



「もしかしたら、このカードがパラケルススかもしれないわね?」

「ははっ、そうなったら子どもの頃の夢が一つ叶ったことになるな」



可愛い夢が叶うかどうか、いざ確かめようと蛙チョコレートを開く。セドリックのカードは―――あ、ダメだ、魔女のモルガナ。所謂、コモンカードってやつだ。こんなもんさ、と蛙チョコを頬張るセドリックに微笑みながら私もカードを確かめる。女性だ。残念、パラケルススではないな。

カードの中の女性を見つめる。とても、美しい女性だった。一瞬、ヴィーラかと思うほど、その女性は完成された美しさを持っていた。透き通るようなたっぷりとしたシルバーブロンド、湖畔のようなブルーの瞳、月のように柔らかな頬笑みを浮かべる妙齢の女性。一体どんな魔女だろうと、カードを裏返す。そこに記されていた名前は―――。



「ペレネレ・フラメル……」



その姓に、嫌ってほど見覚えがある。なるほど、そうか。この人がニコラス・フラメルの奥さんか。あのガテン系のオッサンと六百年連れ添ったとはとても思えないほど美しく、品があり、優しそうな魔女だった。とても六百年生きたようには見えないが、そういやニコラス・フラメルがホムンクルスがどうとか言ってたな、この人もそうなのだろうか。なるほど、それならこの完成され過ぎた美しさにも納得がいくというもの。



「すごいな、アシュリー。レアカードだ」

「あら、そうなの?」



感心したように言うセドリックに、そんな有名な人なのかと私はカードの裏の経歴を眺めた。

ペレネレ(ペレネル)・フラメル。夫であるニコラス・フラメルと共に錬金術の研究を行い、賢者の石の精製を目指した。若かりし頃にフラメルとボーバトン魔法アカデミーで出会い、恋に落ち、結婚。現在実子は居らず、ペレネレは数え切れないほどの魔法生物をペットとして飼育し、我が子のように可愛がっている。愛ゆえに生体錬金術の開拓者としても名を馳せ、研究の際、多くの新種の生物が創造され、魔法界に解き放たれた。一九六五年の実験的飼育禁止令が施行されなければ、我々は魔法史に登場する魔法使いの名前よりも多くの魔法生物を飼育学の授業で学んだかもしれない―――。



「ペレネレが結婚したのが、ハグリッドじゃなくて良かったわ」

「どうかこの先、二人が出会わないよう祈るばかりだ」

「にゃー」



……夫が夫なら、妻も妻ってか。夫とは違う方向で振り切っているらしいペレネレ・フラメルに、私とセドリックはカードを眺めながらそう言うと、シュバルツは同意だとばかりに鳴き声を上げてみせた。あまりにもタイミングがいい鳴き声だったので、私とセドリックは顔を見合わせて、吹き出してしまった。シュバルツはどこか機嫌を損ねたように尻尾を振って、丸くなってしまった。ああもう、可愛いなあ。

しばらくは、そんな些細な会話を楽しんだ。けれど、夕食の時間が近づいてくると、セドリックは外の景色を見てから、ゆっくりと立ち上がった。



「そろそろ戻るよ。お大事に、アシュリー」

「ええ、ありがとうセドリック。次の試合、ハッフルパフとレイブンクローでしょう? 頑張ってね」

「それ、君が言うのかい?」

「友人の応援くらい、許されても良いと思うけど」

「君も人が良い」

「あなたほどじゃないわ」



そんなやり取りをした後、手をひらひらと振って、にこやかなセドリックを見送る。ニンバスの破片といいさっき言いかけた事と良い、今日のセドリックはよく分からなかったなあ、とシュバルツを撫でると、シュバルツはどこか勝ち誇ったように、それから甘えた声で鳴いて見せた。

さて、その後順調に退院した私はいつも通りの生活に戻っていった。筋トレ、予習、授業、復習、そしてクィディッチの練習に忙しない私だったが、少し良いことがあった。私が《死神犬》に取り憑いているといった馬鹿げた噂話の所為で、私が廊下を歩くたびにヒソヒソと囁き声が付いて回ったのだ。この噂に恐れをなしたのか、私の周りに見知らぬ人が集まることはあまりなくなった。つまり告白もパタリと途絶え、パーシーの監視の目も緩み出した。もうこれだけで、私はスキップしたくなるほど機嫌がよくなっていた。



「よーやく肩の力が抜けた、ってカンジだわ」

「《死神犬》の噂がついて回ってるのに?」

「人間が付いて回るより百倍マシだわ」

「君ってホント、逞しいなあ」

「にゃー」

「ホラ、シュバルツもそう言ってるぜ」

「ちょっと」



いつものようにシュバルツをフードに入れたままそんな話を交えながら、三人で昼食を終えて闇の魔術に対する防衛術の教室へ向かう。そういえば、ルーピン先生はもう復帰したのだろうか。彼の境遇を考えると、生理に頭を痛める自分が馬鹿らしくなってくるな、とぼんやり考えながら教室に入る。目の下にクマを引っ提げながらもルーピン先生はもう復帰していて、教室内のグリフィンドール生たちを安堵させていた。チャイムが鳴って授業が始まるや否や、生徒たちはこぞってルーピン先生が病気の間、スネイプがどんな授業をしたのかという不平不満をぶちまけていた。

全員がプリプリ怒っている姿を見て、ルーピン先生は楽しそうに微笑んだ。



「よろしい、よろしい! 私からスネイプ先生にお話ししておこう。レポートは書かなくてよろしい」



先にレポートを書いていたらしいハーマイオニー以外はみんな両手を上げて喜んだ。それから始まった授業は相変わらず面白く、今日は《おいでおいで妖精》について学んだ。ガラスケースに入った《おいでおいで妖精》を観察しながらルーピン先生の解説を受けている間に終業のベルが鳴り響いた。みんな足取り軽く教室から出て行くのに習って私たちも荷物をまとめて出ていこうとすると、ルーピン先生が私を見た。それに気付いて私も振り返ったので、ばちりと鳶色の目が合った。



「ああ、アシュリー。ちょっと残ってくれないか。話があるんだ」

「分かりました」



ニヤつくロンとハーマイオニーの背中を手のひらで一発ずつ引っ叩いてから、私はルーピン先生と共に教室に残る。二人っきりだった―――いやシュバルツもいるから二人と一匹か。先生が《おいでおいで妖精》が入ったガラスケースを布で覆うのを、ぼんやりと眺めていた。



「試合の事、聞いたよ。箒は残念だったね、修理は出来ないのかい?」

「暴れ柳にやられてしまいまして」



退院後、ハグリッドの小屋の近くでニンバス2000の亡骸はセドリックに預けた破片以外は燃やして追善した。これでいいのかどうかは分からないけど、うだうだ手元に残しておくよりは綺麗さっぱり燃やしてしまった方が後腐れないかな、と思ったのだ。

そんなニンバスの終わりを告げると、ルーピン先生は溜息をついた。



「あの暴れ柳は私がホグワーツに入学した年に植えられたんだ。懐かしいものだ、みんなで木に近付いて幹に触れられるかどうかゲームをしたものだよ」

「私も去年、暴れ柳には手酷くやられましたよ」

「マクゴナガル先生が教えてくれたよ。空飛ぶ車を飛ばしてホグワーツにやってきた挙句、暴れ柳に突っ込んだんだろう? 全く、君は話題に事欠かない子だね」



そういえばそんなこともあったなあ。もう一年も経ったのかと、私は、かなり生命の危機を感じたあの瞬間を思い出した。……うん、中々恐ろしい体験をしたものだ。今の所、人生における危険度第六位ぐらいにランクインしてる。ルーピン先生はくつくつと楽しげに笑っている。



「私の学友も随分ヤンチャをしていたが、汽車以外の方法で学校に来ようとは思いもよらなかっただろうな。君のしたことを知ったら、うんと悔しがったろうに」



いや別にやりたくてやったわけじゃ……と言い訳をしようとしたが、ルーピン先生があまりに楽しそうに笑うもんだから、まあいっかと思ってしまう辺り、私も大概甘い。妙にもごもご動くシュバルツの鼓動を背中に感じつつ、懐かしさに細められた鳶色の瞳が、私を通して誰を見ているかなど言うまでもないから。

けれど、そうやって寂しげに影を落とすルーピン先生は、万全でない体調も相俟って見てはいられない。私は慌てて、話題を逸らした。



「先生は、吸魂鬼のことはお聞きになりました?」

「……ああ、聞いたよ」



その言葉に、ルーピン先生はちらりと私を見つめ、懐古の瞳を切り代えて、どこか暗い影を落とす。



「校長があんなに怒ったのは誰も見たことが無いと思うね。吸魂鬼たちは日増しに落ち付かなくなっていたんだ。校内に入れないことに、腹を立ててね」

「……獲物を求めていた、ということでしょうか」

「ああ。クィディッチ競技場に集まる大観衆に抗い切れなかったのだろう。あの大興奮、感情の高まり……奴らにとっては御馳走だ」



吸魂鬼。忌々しい、この世で最もおぞましい生物―――いや、生きているのかも怪しいか。幽霊のようにこの世を漂う死者の成り損ない。生きた人間から希望と魂を抜き取ることだけを目的に、死ぬことさえ出来ないまま彷徨い続ける躯の器。



「奴らが傍に来ると―――母の、最期の声が聞こえるんです」



そんな、どこか重たげな雰囲気に当てられてか、ぽつりとそんなことを告げてしまった。

気にするなと切り替えたくとも、やはりあの絶命の音色は脳裏にこびりついたまま離れない。優しいママがあの男に命乞いをする声、それを払い除ける邪悪な声、高笑いと絹を裂くような悲鳴、瞼の裏には緑色の光が甦る。十二年も前のことなのに、何故か鮮明に覚えているような気がして。ルーピン先生は、私にそっと手を伸ばして肩に触れた。とんとん、と両手で私の両肩を軽く撫で、しっかりとした瞳で私を見つめる。



「アシュリー、君は何一つ恥じることはない。あんなことがあったんだ、それに去年や一昨年だって、君は散々な目に遭っている、そうだろう? 君のような目に遭えば、どんな人間だって箒から落ちても不思議はないさ」

「……でも私は、追い払えると思ったんです。私は守護霊の呪文を知っていました、私はアレの対処方法を知っていたんです。……でも、出来なかった。私は未熟だった。それに気付けなかったんです、先生」



今思い出しても、悔しさで涙が滲み出る出来事だ。自分を過信していた、そのせいで守護霊の呪文もロクに練習していないのに使えると思い込んだ。そんな己が恥ずかしくて、私は思わず俯いてしまう。



「アシュリー、恥じる必要はない。守護霊の呪文は、OWLレベルを遥かに超える高度な呪文だ。本来なら、十三歳の魔女に扱える代物ではない」

「でも、出来ると思ったんです。……吸魂鬼が傍に来るたびに、いちいち引っくり返ったり、あまつさえ気に当てられて奇行に走るなんてこと、もうゴメンなんです。私、あんなのに、負けたくない」



吸魂鬼―――ではなく、自分に、なのかもしれない。生きると、生き残ると誓った私を狂わせる吸魂鬼。またあの恐怖に負けてしまうかもしれないと思うと、いても立ってもいられない。“私”が抱く恐怖に一度打ち勝ったとはいえ、何時また屈するかも分からない。それが怖い。その瞬間が来てしまうかもしれないという可能性を、私は恐れている。



「ルーピン先生、私、ちゃんと守護霊の呪文を使えるようになりたいんです。先生、どうかご教授願えませんか。ほんの少しだけでも良いんです、自分一人でも練習します。普段の学習を手を抜いたりはしません、だから!」

「フーム……」



ルーピン先生は、またもや鳶色の瞳に陰を落とす。私の肩から手を離し、ゆっくりと考え込むように顎に手を当てる。私はじいっと、ルーピン先生の年の割に老けこんだ顔を見上げる。優しそうな顔立ちは思案に暮れたまま、動かない。

やがてルーピン先生はゆっくりと頷いた。



「よろしい。なんとかやってみよう。だが、来学期まで待ってもらえるかい。クリスマスの休暇の前に、やっておかなければならないことが山ほどあってね」

「ありがとうございます!!」

「構わないよ。学習意欲の高い生徒は大歓迎だからね」



そうやって、私はルーピン先生と特別授業の約束を取り付けた。それまでに自分でも練習しておかなきゃと思いながら、足取り軽やかに寮に戻った。ニヤつくロンとハーマイオニーも気にならないほどに機嫌がよくなった私を見て、二人がはにわみたいな顔をしたのが、とても笑えた。

さて、そんなこんなで月日は流れて十一月末。レイブンクローがハッフルパフをペシャンコに潰してくれたおかげでグリフィンドールは優勝杯争いに舞い戻った。ウッドはあの狂ったような熱気を取り戻し、雨雪交じりの空の中、私たちは激励を背中に練習に励むことになったが、誰も熱気を損なわなかった。私はニンバスを失った痛手はあったが、何とか学校の箒で練習を続けていた。

そんなある日の日曜日。私は一人、ある場所に来ていた。



「(……よし)」



背中にシュバルツは忘れていないが、久々に一人で昼間っから行動していた。バッグにはパパたちの残した羊皮紙のメモと、《動物もどき》にについて教書をコピーした羊皮紙が詰まっている。

人の目がまばらになった頃合いを見て、私はようやく《動物もどき》になる為の魔法を使おうとしていたのだ。鼻息荒く、私は深呼吸をひとつして、周りに誰もいないことを確認してから、三階の女子トイレへと足を踏み入れた。誰も寄りつかないことで有名な、嘆きのマートルが住みつくトイレである。



「アラ、あんた今日は一人なの」

「ええ。お邪魔するわね、マートル」



トイレの窓枠付近でふよふよ浮いてるマートルは、ぱっと見機嫌は良さそうだ。私は勝手知ったるこのトイレにやってくると、いそいそと羊皮紙の山を広げ始める。マートルは興味を持ったのか、単に話し相手が欲しかったのか、私の肩口から羊皮紙を覗き込む。ひやりとした空気が近付いてきて、フードの中のシュバルツがびっくりして飛び出してきた。



「おっと。シュバルツ、いい子だから大人しくしててね〜」

「……にゃあ」



秘密の部屋への入り口になった手洗い台によじ登るシュバルツを横目に、私は羊皮紙を見やすいように広げていく。マートルは、へえ、と意外にも楽しそうにニヤりと笑った。



「……あんた《動物もどき》になるの?」

「ええ、そのつもり」

「違法なんじゃないの?」

「それ、私に言う?」



そう言うと、マートルはそれもそうね、と涼しい顔で言った。去年、この空間で散々鍋をかき回して作ったポリジュース薬だって、使い方次第では法に触れるだろうしね。

……そういや、マートルにこのことを知られている、ってよくよく考えたら不味いんじゃないだろうか。マートルが誰かにチクれば、私は法的処置を通して罰を受けることになってしまう。幽霊相手に忘却術なども使えないし。参ったなあ、と腕を組むと、マートルは私の表情を読み取ったのか、フンとつまらなそうに鼻を鳴らした。



「告げ口したりしないわよ」

「……あら、そうなの?」

「ゴーストはね、基本的に生者に干渉しちゃいけないの」

「そんなルールがあるの?」

「そういうわけじゃないけど」



マートルはそう言って、手洗い台に腰をかけて膝を抱えた。スカートの中が見えないように手で押さえている辺り、意外にも彼女には女性らしいところがあるようだ、と言ったら呪われそうだな。

にしても、ゴーストが生者に干渉しちゃいけないってどういうことだろう。よくよく考えると、そもそもゴーストってなんなんだろう。いや、広義的には理解している。魔法使いだけに許された、死を回避する手段。魔法使いは地上に自らの痕跡を残すことが出来るので、死んでからも生きていた自分がかつて辿った所を影の薄い姿で歩くことが出来る。完全な死を恐れた者、あるいは生に余程の執着を見せたものだけがゴーストと化すが、この道を選ぶ魔法使いは多くはない。移動の早さからか先生や監督生の伝令に使われているのは知っているけど……。

羊皮紙を捲る手を止めて、私はマートルを見上げて言葉の続きを待った。



「……だって考えてもみて。おこがましいとは思わない?」

「何が?」

「私たちはもう死んでるの。あんたたちと違って、世界のレールからはみ出してる。そんなあたしたちがあんたたちのやることなすこと、口出しちゃいけないの。口出して……惑わせちゃ、いけないのよ」

「惑わせる、かあ」

「そうよ。そりゃあ、あんたのしてることは良くないことなんでしょうよ。でも、それを先生や誰かに告げることで、あんたのやりたいことが出来なくなる。私たちみたいなゴーストが、生者の行動を介入するなんて、出来ない。したくない。……したく、ないわ」



そう言うマートルの顔は相変わらず色がないので読み取り辛いが、彼女も彼女なりに、矜持があるようだった。レンズ越しに見える濁った瞳は、何を込めているのか分からない。

死んだ自分が介入したくない、か。そういう意味では、私はマートルの矜持を真っ向から否定していることになる。この身体は生きてはいるが、私とて一度死んだ身だ。それが彼女の言葉を借りるならおこがましくも生者の、もっと言えば在るべき世界のレールをあっちこっちに捻じ曲げている。その行為に対して、私は何ら疑問を抱かなかった。何故なら私は生きている。理由はどうあれ、経緯はどうあれ、私は死んで、生まれ変わって、良く良く見知った世界の中で生きている。己が人生の為に、己が人生の先の為に、己が人生から派生する全てを守る為に多くの敵を屠ろうとするこの行為は、他の誰かから見たら悪逆極まりないことなのだろうか。

……まあでも、結局は私が『したい』か『したくない』かに集約されるのだから、他人の矜持や正義感に耳を傾ける筋合いもない、か。私はそう結論付けて、眉を顰めて膝を抱えるマートルを振り返る。



「……例えそれが、誰かを殺めることになっても?」

「それは時と場合によるわ」

「ふふ、なにそれ」

「私、あんたのこと嫌いじゃないの」

「苦手なんじゃないっけ?」

「そんなこと言ったかしら」



くすりと笑うと、マートルはもう一度フンと鼻を鳴らす。マートルの言葉に嘘偽りが無ければ、マートルはマートルなりに私の事を気に入ってくれているから、見逃してくれている、と受け取っても良いのだろうか。どこで苦手意識が反転したのか分からないが、少しだけ嬉しくなっていると、マートルは厭味ったらしそうにニヤりと笑った。



「ああでも、あんたが死ぬことになるなら大歓迎」

「マートル、私に死んでほしいの?」

「死んだら私のトイレに住まわせてあげるわ」

「へえ、ゴーストになるなら考えておくわね。……そういえば、マートルは、どうしてゴーストに?」



作業の片手間に、世間話のつもりで聞いたつもりだった。しかし、言ってしまってから、こういう繊細なことを癇癪持ちのマートルに投げつけるのはいささか不躾だったかもしれない。しまったなあ、と思いながら振り返ると、マートルは私の想像に反して、意外にも嬉しそうに顔を綻ばせていた。



「復讐したかったから」

「……ああ、苛めてた人に取り憑いてたんだっけ」

「アラ、良く知ってたわね」



ケタケタ笑うマートル。機嫌を損ねなかっただけ良いだろうと、私は笑っていいのか良くないのかイマイチ計りかねるその話題に、曖昧に微笑んでおいた。



「でも、それももう終わっちゃったのよね」

「じゃあマートルは、何の為にホグワーツにいるの?」

「……それを、ゴーストに聞くわけ?」

「……っ、ごめん」



そっか、そうだった。ゴーストは、死を恐れた者が辿りつく手段。多くの魔法使いは選びたがらない道。マートルが今尚此処に居るということは、謂わばそう言うことだ。取ってつけたように謝ると、彼女は機嫌を損ねたのか、それとも会話に飽きたのか、ふよふよとトイレの壁をすり抜けて窓枠に向かって飛んでいく。そして、一瞬だけ、立ち止まる。



「―――そういえば、前にも聞かれたわ」

「……私に似てる、って人に?」



マートルは答えなかった。そのまま飛んでいってしまい、私の疑問は空に消えた。一瞬ぼうっとしてしまったが、私が此処に来た本来の理由を思い出し、慌てて銀の懐中時計を見やる。うん、まだ夕食まで数時間はある。この時間で、少しは進めておかなければ。

さて、《動物もどき》について学び始めて二年と二カ月。理論と方法については粗方理解出来た。《動物もどき》は魔法ではない―――そんな、恐らくパパが残したヒントがきっかけで、私は容易に答えに辿りつくことが出来た。



「(パパ、ありがとう)」



魔法でないなら、《動物もどき》とは何なのか。答えは一つ、『能力』だ。魔法界には、杖や魔法薬を用いて使う魔法の他に、マグルでも魔法使いでもありえない力を持つ者が時たまに産まれたりする。有名なのを上げるとすれば、『七変化』がそれに当たる。『七変化』とは、完全に先天性の『能力』で、自分の見た目を杖も魔法薬も無しに変えることのできる『能力』だ。後天的に身につけることの叶わなその『能力』は、その能力者に取って呼吸をするにも等しいこと、即ち、“備わっていて当たり前”の器官だ。マグルだろうが魔法使いだろうが、生きる為に酸素を取り入れる必要があって。酸素を取り入れる為に呼吸という行為が必要で、呼吸をする為に肺が、気管が備わっている。それと同じように、彼らは『七変化』という能力を備えている。《動物もどき》も、それと同じなのだ。ただ一つ違うのは、それが先天性なのか、後天性なのかだ。

《動物もどき》は後天性の能力だ。では、どうやってその能力を身につけるのか、といった所でようやく魔法が登場する。要するに、この能力を身につける為に魔法を使うのだ。身につける、という言い方には少々語弊が生じるかな。身につける、のではない。呼吸をするのに肺が必要なように、歩く為には脚が必要なように、《動物もどき》になる為には、『《動物もどき》になれる身体が必要』。即ち、そんな身体に変化させなければならないのだ。



「……フーッ」



羊皮紙をよく読んで、私は左腕を捲って右手で杖を取り出す。

《動物もどき》になれる身体に変化させる―――即ち、身体の構造そのものを、変化させなければならない、ということ。どんな動物になるか分からないが、この腕が、この脚が、この胴が動物に模せるよう、細胞一つ一つ、皮膚の一つ一つを組み替えて、『《動物もどき》の身体』に造り変えるのだ。なるほど学んでみれば、魔法省の許可なしに出来ないワケである。手足ならまだしも、脳まで弄るとなると、下手打てば死さえ免れられない。それくらいに複雑で難しい魔法なのだ。人間の身体の構造を書き換えるということは。

けれど、そのリスクに見合うほどのリターンがあることを、私は知っている。結果的に虫になろうがネズミになろうが、後々追われる身になることを考えれば、付けられる仮面は少しでも多い方がいい。だからこそリスクを承知で、私は学び、そして今日、此処へ足を運んだ。



「……にゃあ」

「シュバルツ、じっとしてて。私の左腕の生命線がかかってるから」



どこか心配そうな鳴き声に聞こえたのは、私の都合の良い解釈になってしまうだろうか。ドキドキと高鳴る心臓は、興奮から来るのか、恐怖から来るのかは分からない。もう一度ゆっくりと呼吸して、全神経を集中させる。

大丈夫、守護霊の時のぶっつけ本番とは違う。二年以上のの歳月をかけて、私は此処へと辿りついた。大丈夫、きっと出来る。シュバルツの透明な瞳に見守られながら、私は杖を振り上げて、左腕に向かって呪文を唱えた。



「アニマ・カンバメント」



ぐにゃり、と左腕が一瞬歪んだ気がした。

その瞬間、信じられない激痛が左腕を貫いた。思わず悲鳴を上げそうになった所をぐっと唇を噛み締め、悲鳴を呑み込む。激痛のあまり立ってもいられず、冷たい石のタイルの上にドサリと転がった。ぐつぐつと、左腕の皮膚の底で何かが茹だっている感覚だ。ボコボコと皮膚が、いや、細胞の一つ一つが活性化し、泡立っている。その一つ一つが弾けるたびに脳幹を貫くような痛みが走り、じわりと脂汗が滲み、あまりの激痛に吐き気さえ催してくる。



「う、ぐェ、えええ……ッ!!」



腕が捩じ切れそうだ、痛みのあまり意識さえ混濁してくる。杖がからんと指から零れ落ちるのも厭わず、ひたすら腕への痛みが途絶えるのを待つ。グツグツボコボコメキメキバキバキと、細胞が弾け、骨が成長しては皮膚を突き破りそうになり、皮膚が伸縮してはぐにゃりと時空が捩じ切れるような感覚に、いちいち意識を飛ばしそうなほどの痛みが走る。ああ、くそ、だめ―――もう、耐えられな、い。





***





「にゃあ、にゃーあ! にゃあ!」

「ん……」



ぺちぺちと叩かれる頬がくすぐったく、ゆっくりと目を開く。私の眼前にはシュバルツがいて、尻尾を振りながら、その短い前足で私の頬をぺしぺしと叩いている姿が見えた。冷たいタイルの温度を肌に感じ、私は横たえていた身体をゆっくりと起こす。

ええと、私……ああ、そう、マートルと話して、それから《動物もどき》の呪文を使って、すごく左腕が痛くなって、それから―――ああそうだ、私、確か痛みのあまり気を失ったんだった。全く情けないと思いつつも、正直バジリスクの毒よりも痛みを感じたなあと思い返しつつゆっくりと左腕に力を入れて身体を起こそうとした。その時だった、いつも感じていた脂肪一つない腕の感覚ではない何かを感じて、はて、と私は左腕を見つめて―――思わず、固まった。



「……ワォ」



そんな言葉しか、出なかった。

私の左腕―――正確には、二の腕から先に人らしい指と手のひらはついていなかった。黒々とした毛に覆われた巨大な前足と、ぎらつく鉤爪がひっついていた。ゆっくりと左手を動かす感覚で、手をぐっと握り、開くよう脳に信号を送ると、私の目の前で鉤爪がぎゅっと縮こまり、そしてゆっくりと開かれた。意思通りに動く、鳥か何かの腕、じゃない、足に、私は茫然としながらも、やがて興奮がフツフツと湧き出てきた。



「すっげえ……」



試しにと、人間の腕に戻るよう脳内に信号を送る。すると、私の左腕はぐにゃりと捻れたかと思うと、元のか細い人間の腕に戻っていた。ぱちぱち、と瞬いて、もう一度鳥の前足に成るよう意思を込めると、再び腕は鳥の前足に成る。痛みはなく、疲労もなく、呼吸をするくらい簡単に、私の腕は足に、足は腕にコンバートする。



「すっげ……」



感動と興奮のあまり、語彙力が退化してしまったようだ。いっそ、感動のあまり涙も出そうだ。二年、羊皮紙と本と戦った甲斐が、ようやく実ったのだ。二年、禁書の棚に忍び込んだこと、サインを貰いに行ったこと、授業中に内職してまで学んだこと、ダーズリー一家でも夜な夜な羊皮紙を読み漁ったこと、そんな日々が脳裏を駆け巡り、私はついに湧き上がる喜びを抑えることが出来ず、私は思わず飛び上がった。



「っしゃあ!!」



出来た、出来た、出来たのだ!二年間学び続けたあの日々は、無駄じゃなかった!ついに私も、此処まで来ることが出来たのだ!!

まだ左手一本変化させただけだ。手足はともかく臓器がある胴や脳に手を加えるのはまだ恐怖や躊躇いがあるのは嘘ではない。それでも、この一歩はとても大きい。気絶するほどの痛みを受けようとも、構うものか。どんどん進めよう、どんどん変化させよう。私は《動物もどき》になるんだ!



「にゃーあー! にゃあー!」



そんな私の足元で、シュバルツが珍しく大きな声で鳴いている。シュバルツも一緒に喜んでくれるのかな、と思ったのも束の間、彼が咥えている銀色の鎖に私は一気に現実に引き戻された。慌てて時計を拾い上げてぱちりと開く。柔らかな音色と共に表示される時間は消灯五分前を差していて。



「やっば!」



シュバルツに手を伸ばして肩に乗せ、広げた羊皮紙を回収して鞄に詰め込んでから私はダッシュで嘆きのマートルのトイレから飛び出した。けれど、焦りはあれどこの足取りは軽やかで。廊下と階段を駆け上がる中、途中途中で飛び上がりそうになる思いを堪えながら、私は夕食を食べ忘れたことも気にせずに、息一つ乱さずに、るんるん気分で寮に帰ったのだった。





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アニマ・カンバメント=animal+Cambiamento(伊)
の、造語



【追記】
執筆当時は動物もどきのカラクリが不明だったのでテキトーこいてました。
修正面倒大変なので、後々こじつけます。


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