先輩、覚えていましたか?

 片付けが終わったあと、赤葦は、クッションを借りる形でベッド下の床に座っていた。名前はベッドの上を指差したけれど、さすがに丁重にお断りした。この先輩、気力や生活感の他に、危機感も欠落しているらしい。
 とりあえず、名前の体勢が『寝転がる』から『座る』に変わったのはいいが、出来ればベッドから降りて欲しいし、キャミソールとショートパンツのままなのもいただけない。言葉にこそ出さないが。

「あの」
「んー?」

 その代わり、片付けながら考えていた疑問を訊いてみることにした。

「俺のこと覚えていてくれたんですか?」

 一応後輩には当たるものの、直系ではないし、会ったのは一度きりだ。会話なんて二言あるかないかである。梟谷は部員数が多いし、木兎たちのような直系の後輩ならばともかく、すれ違いで入学した旧1年なんて覚えていないだろう。実際赤葦も、名前だったから覚えていただけで、他のOB達は名前と顔が一致しない。
 だからこそ、名前の家に行く道すがら、名前が覚えていなくても仕方がないと考えていた。
 しかし、玄関で『お久しぶりです』と挨拶をした時、名前は『久しぶり』と返してくれた。社交辞令と言われたらそれまでだが、もしかしたら覚えていてくれたのかもしれないと、淡い期待を抱くには十分だったのだ。
 赤葦は名前の言葉を待った。

「覚えてたよー」

 返答に口元が緩みそうになったが、引き締めて「記憶力いいんですね」と言う。こういう時、あまり表情がオモテに出ない性格でよかったなんて思う。
 少し嫌な言い方だったかもしれないと、言ってから自省したが、名前は気にする素振りは見せず、「そうかな?」と軽く笑った。

「1年全員覚えてたんすか?」
「まさか。でも君は覚えていた。赤葦京治くん」

 先程までの、間延びするようなゆったりとした喋り方ではなく、1文字1文字をしっかりと紡いだような物言いだ。しかもフルネームときた。おかげで、せっかく押し殺した自惚れが顔を出してしまう。それを再度、まるでワニの頭を叩くように戻して、「そうですか」と短く答えた。しかし、そんな赤葦の心意気を崩すように、名前が追い打ちをかけていく。

「随分と綺麗にセットアップする子だなって思っていたよ」
「……、……ありがとうございます……俺のプレイ見たことあったんですね」
「うん」

 これにはさすがにお礼と言及せざるを得ない。
 昨年の夏合宿、赤葦は、ほかの1年よりもコートに立つ機会が多かった。それでも、当時梟谷には正セッターの3年がいたし、試合形式の練習では、スタメンは基本その3年生だったから、名前の目につくような目立ったプレイはしていないはずだ。しかし、名前は赤葦のセットアップを見ていたと言う。

「昨年の夏合宿、あまり目立った記憶はないんですが……」
「あ、そっかー。あかーしくん知らないか」
「なにがですか?」
「私、今年の春高見に行ってるんだよね。何回戦目か忘れたけどあかーしくんのトス見たよ」
「春高……」

 今年1月に行われた春の高校バレーのことだ。赤葦はサブセッターとしてユニフォームを貰い、オレンジコートに立った。その時当たった相手校のブロックと当時の正セッターの相性が悪く、一旦赤葦と交代する形でベンチに下がったことがある。多分その試合を言っているのだろう。

「見蕩れちゃった」

 名前の表情は、大事な宝物を思い浮かべるように慈愛に満ちていて、赤葦の心臓が跳ねる。名前の言葉の真意を咀嚼しながら、口元を引き締めた。分かっている。見蕩れたと言ってくれたのはバレーのプレイのことだし、プレイを褒められるのは嬉しい。しかし、一瞬過ぎったのは邪な感情である。
 そもそもこの体勢も悪いと思う。ベッドに座っている名前と床に座っている赤葦。いくら身長差があるとはいえ、名前を見上げる形になる。更に、ショートパンツから伸びる足とか、キャミソールから見える鎖骨とか、勘違いを助長させる要因でしかない。
 こんなことならば、布団にくるまっていてもらった方が良かった。ただ、今更『やっぱり布団の中にいてくれませんか?』なんて言えない。
 自分は割と淡白というか、バレーと米と好物にしか興味がないと思っていたが、思春期特有の欲はそれなりにあったんだと気づきを得た。できれば気づきたくなかったけれど。

「そういえばあかーしくん夜ご飯は? お腹すいてないの?」
「あ、そうでしたね。そろそろお暇します」

 片付けやらで忘れていたが、既に21時を回っている。一応名前の家に行く前におにぎりを食べたし、親には遅くなる旨を伝えているので問題は無いが、意味もなく長く居座るわけにもいかない。
 赤葦は、立ち上がり、端に寄せていたカバンを手に取った。名前も立ち上がる。

「名字先輩は夜ご飯食べました?」

 赤葦がこの家に着いた時には19時30分を過ぎていたので既に済ませている可能性もあるが、明らかに寝起きだった彼女が食べているとは思えなかった。案の定、名前は「まだだよ」と答える。

「名字先輩もきちんとご飯食べてくださいね」
「はーい」
「つーか夜ご飯あるんですか?」
「カップラーメンならまあ……あ、あと昨日買った惣菜の残りもあったはず……」

 明らかに不摂生だ。この様子だと、コンビニ或いはスーパーで買った弁当か、カップラーメンのサイクルな気がしてならない。たしかに、先輩たちが心配していたひとつに、『放っておいたら食事を疎かにしがち』があったはずだ。

「自炊とかは?」
「チャーハンくらいなら作れるよ。多分」
「多分……。チャーハンでもいいからきちんとしたご飯を食べてください」
「はーい」
「あと大学も行くこと」
「うん、起きられるように頑張るね」
 
 食事ついでに大学のことも言ってしまったが、名前は特に気にしている様子はなかった。普通ならば余計なお世話だと反論するだろうに、片付け時といい、無気力というよりも無頓着なのかもしれない。

 今度こそ、赤葦はリュックを背負い、エナメルバッグを肩にかけて名前の部屋を退出した。その後ろを名前が着いてきていたので、足も自然とゆっくりになる。階段を降りて、玄関へ。三和土に並べた靴を履いて、爪先を地面に当てて踵を整えて、「お邪魔しました」と挨拶をしようとした時だった。

「あかーしくん」

 名前のゆるりとした声が赤葦を呼ぶ。

「はい」
「今日は来てくれてありがとう。久しぶりにあかーしくんに会えて嬉しかった」
「……いえ、こちらこそ」
「もし良かったら、またきて?」
「……っ」

 けぶるような上下の長い睫毛が交わって、瞼が煌々とした眼球を隠してしまう。そんな綺麗な笑みだ。この笑みを見るだけで、またここに来たいと思ってしまうのだから、この人はずるいと思う。

「名字先輩がきちんとご飯を食べたら来ます」
「ならちゃんと食べなきゃだね」

 ほらやっぱり、ずるい。