「ただいま」
はじめの声が玄関から聞こえたのでダイニングからひょこっと顔を出した。
「はじめおかえりー」
「なんだ来てたのか」
靴を脱ぎながらそう言ったはじめの方に足を向けた。学校から家に帰った後、はじめの家に来ていた。おばさんもいつも歓迎してくれるし今日も夕飯の準備を手伝っていた。
「うん。今日の夕飯はお刺身だよー。ほらほら、早く手を洗ってきて!一緒に食べよ!」
「ああ、……ってお前もかよ」
「おばさんいいよって言ったもん」
「わかったから押すなって」
ぐいぐいとはじめの背中を押して、洗面所に押し込んだ。
「栞、醤油取ってくれ」
「はい」
「ん、さんきゅ」
私にとっては幸せ極まりないこの時間も、今日が最後かもしれない。そう思いながらお刺身を口に運んだ。
私はこの後、はじめに思いを伝えるのだ。
自分で今の関係を変える。いい意味でも、悪い意味でも。
後悔は、しないって決めた。
夕食を食べた後はいつものように二人ではじめの部屋で過ごした。
「お腹いっぱいー!」
そう言ってベッドに寝転べばはじめは溜め息をついた。
「寝んな太んぞ」
「もう太ってもいい……」
「後で太ったって文句言うなよ」
はじめはそう言って椅子に座り机に向き直った。バッグをゴソゴソして宿題のプリントを引っ張り出す。部活して、勉強して、偉いよなあ。私はその背中をじっと見つめた。ずっと見てきたはじめの背中。あの背中に飛びつけたら、どんなに幸せだろう。幼馴染とは言え過度なスキンシップはない。多分それが、私たちにとってちょうどいい距離だ。
「……ねえ、はじめ」
「なんだ」
「聞いて欲しいことが、あるんだけど」
私はそう言って体を起こした。ベッドのスプリングが軋む音がやけに耳についた。はじめがプリントから目を離し、こちらに視線を移す。
「何だよ改まって、……ってお前また、」
「あー違う違う!徹関係でいじめられてるとかじゃないよ」
「そうか、ならいい」
で?と私を促すはじめはきちんと私を見てくれている。それだけで嬉しい。ちゃんと、言わなきゃ。
「あのね、えっと、いきなりこんなこと言ってビックリするかもしれないけど、」
「ああ」
「私ね、はじめのこと、……」
「……俺?」
「う、ん。私、」
――はじめのことが、好き
自分の口から出た言葉なのに、あまり現実味がない。嫌な沈黙が訪れる。脈絡なく突然こんなことを言われてはじめは驚いただろう。
けれど、はじめの顔は赤くなるわけでもなく、いつも通りだ。それが、怖くもある。
はじめは少し考えた様子で口を開いた。
「……俺、それ勘違いできるほど鈍くねえけど」
「うん」
「冗談、とかじゃないよな」
「……うん。小さい頃から、ずっと好きだったの」
目を丸くしたはじめにやっぱり鈍いなあと内心笑ってしまった。
「それは、その、……」
「うん。私は、はじめとお付き合いしたいなって思ってる」
はじめが女の子に告白されたことがあるのは知ってる。でも、はじめがどんな風に女を振るのかを、私は知る由もない。ああ。もう、私分かってるんだ。聞きたくない。でも、期待してしまうのが人間だ。可能性がゼロじゃないのなら、幸せになれる未来を期待するでしょう?返事なんていらないからもう今ここでやめてしまいたい。さっきのナシ!って言いたい。けど、捨てきれない期待に縋るのも許して欲しい。
「あの、でも別にすぐに返事が欲しいわけじゃないから、」
「いや、今返事する」
はじめを見れば、特に悩む様子もなく、本当にいつも通りの顔をしていた。
「結論から言うと、」
私は深く息を吸った。分かったよ、はじめ。もう分かったから。でも、私から始めてしまったのだ。最後まで、責任をもって聞かなきゃ。
「……俺はお前とは付き合えない」
想定はしていた。覚悟も、していた。それでも、頭の中は真っ白になった。
「お前のことは好きだし、大事だ。けど幼馴染として、であって、その、付き合うとか、…そういうのじゃねえって思う」
「…………そっか」
絞り出した言葉は、ちゃんと声になっていただろうか。はじめの部屋にいるのに、初めて来た場所のように居心地が悪い。胸が苦しい。指先の感覚もない。喉の奥が腫れたように痛い。でも、私は今この瞬間を乗り越えなくてはならない。無理やり口角を上げ、はじめを見た。はじめは少しだけ眉を寄せて、口を開いた。
「……悪い」
「ううん!はじめは何も悪くないよ。私がその、勝手に好きになって、勝手に告白しただけで……」
「でも、」
「本当に大丈夫!こっちこそほんとにごめん!突然でびっくりさせたよね」
空元気とは、今の私のことを言うのだろう。泣いてしまうのは楽だ。でも、はじめのことを困らせたくはない。絶対に。
「わたし、帰るね!はじめの宿題の邪魔しちゃいけないし」
慌ただしく立ち上がり、扉に向かう。
「なあ、」
扉に手をかけた瞬間、はじめが私を呼び止めた。
「俺たち、これからもこのままだよな?」
振った女にそんな台詞を吐くなんて、どこまで残酷なんだろう。けれど、私たちには小さな頃から築いてきた立派な関係がある。このまま、と言うのはこのまま幼馴染の関係が続くよな、と言いたいのだろう。はじめにとって、それが幸せなら、私はそれに従うだけだ。
「もちろん!はじめと徹と私、三人で幼馴染だよ」
「……おう」
はじめが少しぎこちない笑顔を見せる。私も、上手く笑えているだろうか。
「栞」
「ん?」
「気をつけて帰れよ」
「うん、ありがと」
階段を下り、リビングにいるおばさんに夕食のお礼を言ってはじめの家を出た。そこから五秒も歩けばうちだ。
「ただいまー」
おかえりー、とリビングからお母さんの声が聞こえた。そのまま階段を上がり、自分の部屋に入る。私も、宿題やらないと。バッグからノートを取りだし、挟んであったプリントを広げた。椅子に座って、シャーペンを握り、プリントの右上に名前を書いた。
そこで、ダメだった。
視界がぼやけて、何も見えない。ポタ、とプリントの上に水滴が落ちる音が聞こえる。ああ、濡れちゃった。プリントを端に避け、そのまま机に突っ伏した。
私は、はじめに振られたんだ。
十年とかそんなんじゃないんだよ。気づいたら、はじめのことが好きだった。小さい頃から今まで、私の思い出には全部はじめがいる。だって、はじめは、私の幼馴染だから。ずっと隣に、いてくれたから。
これからの私は、“幼馴染”を全うしなくてはならない。はじめに彼女が出来たら、笑顔で喜んであげる。それで、今みたいに気軽に部活に顔を出したり、差し入れしたりしない。今日みたいに、はじめの部屋で二人きりなんて以ての外。
だって、私は、はじめの幼馴染だから。
それ以上でも、それ以下でもないのだ。彼の幸せを願うのが幼馴染だ。多分、幼馴染ってそういうものだ。
徹になんて言おう。私より板挟みになる徹の方が困るだろうなあ。
はじめに、私の気持ちを言わない方が良かったのかな。これは、正しい選択だったのかな。そんな考えが頭をぐるぐる回って、宿題のプリントは朝まで真っ白なままだった。
後悔しないって、決めたのに。
幼馴染、だから
“このまま”なんて
無理だよ、はじめ