15.最善を尽くす





「君」

右側からかかる声に一瞬間を置いてゆっくりと振り向く。下から見上げるように目を合わせれば、男の顔が少しだけ高揚した。

「一人?」
「ええ、そうなの。友達にすっぽかされちゃって」

バーのカウンターで、カクテルを片手に時間を持て余している少し頬の赤い女がいれば、誰かしら声をかけてくる。私は声をかけてきた男に微笑んだ。

現世に来て暫くが経ち、義骸にも慣れてきた。
私は諜報の経験を積むため、死神業務の空き時間は人間に紛れ込みハニートラップの練習をしている。駅前や居酒屋に始まりクラブや高級ホテルのバーなど様々なタイプの男性を相手にし、その気にさせ、ホテルの前やお店を出た道中でうまく撒く、という手順を繰り返していた。そして、反復して自分の足りないところを探す。
私は乱菊さんみたいに見た目だけで男性を落とせるような女ではない。武器が少ない私はテクニックや駆け引きで勝負するしかないのだ。

「“おにいさん”も一人なの?」
「いや、友だちと飲んでたんだけど、君が綺麗だったから」
「ふふ、そんな歯の浮くセリフ言われたの初めて」

露出した格好には似つかわしくないようにくすくすと笑う。男の人ってこういうギャップが何故好きなのか分からないけれど、幼さを少し見せると成功率が上がる。

「もしこの後予定がないなら、どうかな」
「飲み直す、ってこと?」
「近くにこことは違う雰囲気のいいバーがあるんだ」
「うーん」

男の人に押せば折れると思わせる程度に悩む素振りをする。そういえば、と彼の目を見つめて口を開いた。

「貴方の“お友達”はいいの?」
「ああ、そいつも別の女の子捕まえて消えちゃってさ」
「お互いひとりにされちゃったのね。じゃあ慰め合いましょ」

初対面の彼の腕に自分の腕を滑り込ませ、ゆっくりと絡める。それに彼も気を良くしたようだ。

「行こうか」
「ええ」

カツカツと自分のハイヒールの音がする。組んだ腕に少し体重を掛け、彼に寄り添う。ここからが私の“訓練”の本番だ。次の店で撒く。その気にさせてから。
こういった練習が“前回”の任務のように、長期に渡り一人の調査をする際に役に立つかは分からない。でも今の私は数をこなすことが必要だ。もっと慣れなくては、この仕事に。
対象に合わせ、服装やメイクを変えたり、自分が持ちうる全ての知識と技術を注ぎ込み、経験則を活かして“訓練”を重ねる。見せたくもない男に、したくない笑顔を浮かべる。


最善を尽くす
それが今の私に出来る“最善”なの
 
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