06.息をとめて

手を覆っているガーゼをなぞる。

あの日、私は失神から目覚めた後に拳を作り思いっきり壁を殴ってしまった。
自分に恐怖を植え付けてきたザンザスの顔が何度も思い出され、どうにかかき消したかったからだ。
骨にびりびりと鈍い痛みが広がり、手の甲の山になっている部分は殴った衝撃で血がうっすらと出ていた。うっすらと出た血を見つめ痛みに意識を持っていけば、痛みで指が僅かに震える。この血がもっと出ていれば私はあの時の事を思い出さないで済むのかもしれない。
手の甲を走る静脈は握っていたせいでぷっくりとしている。
ここに一つ刃を立てたらどうなるんだろう。皮膚の下から赤い血が出てきて、痛くてたまらないだろう。

ああ、忘れたい、消したい、無くしたい。


『疲れた一日だったわね』

刃物が部屋にないかと探そうとしていた時だ。
部屋にノックが響き渡り、何も悪い事をしていないのに私は酷く動揺した。
偶然にもルッスーリアがやってきたのだ。
壁に打ち付けて怪我をした事を知られまいと、手を後ろにして隠したけれども平静を装うには怪しすぎたのか、ルッスーリアに手の甲の怪我がばれてしまった。

『救急箱、ここに置いたの私なのよ』

そう言って救急箱から手際よく必要な物を取り出して、出来たばかりの傷が手当されていったのだ。私の頭の中に出来上がった赤い線は現れる事等なかったし、意識下で渦巻いていた黒い砂嵐はがルッスーリアによって鎮められていった。

『ミルクティーは好きかしら?』

部屋に暖房を入れてなかったのにミルクティーから湯気があまり見えなかった。
とっくに冷めたのかと思っていたがどうやら彼が部屋の温度を調整してくれたらしい。

『一昨日はどんな日だったかしら?』

『・・・酷い日だったよ』

ぶっきらぼうに返してしまった自分に怒ってやりたい。
言い訳とすれば、辛い思いをした時にそばに人がいるのに慣れていなくて思わずそう言ってしまったのだ。悲しい所を見せるのがひどく恥ずかしかった。
我ながら随分な返し方だっと思う。なのに、ルッスーリアは優しく微笑んでくれた。

『そうね。きらが大きな声を出してくれてよかった。立派だったわ。
勿論、思うところは色々あると思うわ。でもまずは辛かったって事を受け止めましょう、辛かったわね。怖かったでしょう 』

この後に私は知ることになったのだが、気絶してしまった私を部屋まで連れて行ってくれたのはルッスーリアだったのだ。本当にどうしてあんな風に答えてしまったの。
彼の厚意を無下にしているも関わらず、腕をまわし抱きしめてくれた時、私は堪えきれず泣いてしまった。堰を切ったかのようにだった。全てが胸の底から溢れる様だった。
辛かった、恐ろしかった。私の全てが奪われるかと思った。ああ、怖かった。

『よく頑張ったわ、偉いわ』

声をあげて泣く私をルッスーリアは泣き止むまで背中をさすって、抱きしめてくれた。
泣いても泣いても、その時感情を思い出すと涙は止まらない。
そして同時に人に慰められるのはこんなに暖かな事なのかと衝撃を受けた。

悲しみを共有してくれる、いや、私にはそう感じた。
寄りかかれる人がいるだけでこんなにも自分は安心出来るのかと。
側にいてくれる人がいて、その優しさが嬉しくてまた泣いてしまった。

意外と自分に力があった様で、時折ガーゼ下から鈍い痛みが伝わる。
どうやら怪我の治りがあまり早くないらしく包帯が手放せない。
それでもルッスーリアとの事を思い出すと心はぽんやりと暖かい。


「おはようございます」

「おはようでーす」

「あ、きらさん、おすでーす」

アマレッティを取りにキッチンへ向かうべく階段を降りようとすると、
ぞろぞろと大会議室に向かう隊服を着た人間達が私を追い越すように階段を下りてきた。
一体どうして階段で、ルッスーリアに慰めてもらったのを思い出していたんだ。
それにしても、こんなにいっぱい隊員っているんだ。どのくらいの階級が、このヴァリアーにあるのか私にはわからないが、とりあえず人が減るまでここで待とう。


「あっ」

「ごめんなさい!」

私よりも若いであろう男の子が流れに逆らい駆け上ってきたが、避けきれずにぶつかってしまう。酷く焦っていたのは忘れ物でもしたからだろうか。
下から早くしろよと言われていたのできっとそうだろう。

「おい」

声がした方を振りくと、後ろにいたのはザンザスだった。

「とろとろしてんじゃねえよ」

ザンザスと話したのは実に2週間半ぶりで、12月の初旬など既に終えていた。
階段の踊り場にある窓ガラスからの太陽は彼が遮り逆光になっている。

口なんか聞きたくないと思い前を向き階段を降りようとするが頭が付いてこない。
髪の毛が後ろにひかれるのだ。こいつ今度は人の髪を引っ張ってるのか。

「てめぇの髪がボタンに絡まってんだよ」

まただ。私の考えを見透かしたかの様に、実に迷惑そうな声でザンザスはそういった。

「じゃあもう切ってください」

とろとろすんなっていうけど、じゃあぶつかった時によけなさいよ。とは思ったものの彼に言えずそう言い返してしまう。

ザンザスなんかと話したくなかったのに、この髪の毛をどうにかしなければこの苛立ちは収まらないしこの場から離れる事などできない。

「ハサミなんか持ってねえよ」

「解きます」

ああ言えばこう言う男だ。いやまあでもこの男がハサミを持ち歩くとは思えない。
ザンザスのシャツに手をかけるなんて癪だ。誠に残念ながらであったが、両手で第三ボタンに触れ、ほどこうとする。
頭上ではあというため息をつかれる。私だって溜息つきたいよ!

この状況を脱する為に、一生懸命に髪の毛をほどこうと努力した。
しかし、やろうとすればするほど髪の毛は絡まっていく様に見える。
絡まっているのか、どうにもできないのかどっちなのかわからない。

「俺がやる。持ってろ」

彼も十分イライラしていた様で有無を言わさず、ザンザスの書類を渡される。
そして首を少しもたげて自身のボタンと私の髪の毛のからまりに触れた。
骨ばった手で、一つ一つの関節がしっかりとした長い指だ。
御曹司だから手が綺麗なのかなと思ったが、そうでもない。
この世界にいて手が綺麗な事はないか。
こんなにも苛立っているのに、手の動きを見ていると男らしい手に何だかどきどきしてしまう自分がいた。


あれ、でも、もしかして私のせいで会議に遅れてしまうのでは、とザンザスの手を見ながら気付く。それだったら申し訳ないかもしれない。いや、でも私はもっと酷い事されたから、これぐらい当たり前じゃないかななんて考えたいたら、するりと髪の毛が落ちた。

「うそ」

どうやってあの絡まりを解いたのだろう。
感心する間もなく、ザンザスに引ったくられる様にして書類を腕の中から奪われた。
階段を駆け下り会議室へと向かって行ってしまった。
そしてすぐに扉が派手にしまる音がした。

髪の毛の絡まりがとれてからはあっという間だったが、ザンザスのシャツのボタンが少しだけほつれてしまったのを私は見逃さなかった。


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