きらは目を疑った。
腕を掴み、殴りかかってきた男はその青年だったのだ。振り向きざまに頬を平手で強く打たれ、そのはずみできらは地面へと倒れ込む。
口の中が切れ、鉄の味が広がった。あまりの痛みに顔をゆがめる。
「走るのは得意なんですかね」
青年は誰に聞くわけでもなく、独り言の様に言った。白い息があがっているのが見え、走って追いかけてきたのかと思うときらはぞっとした。
「起きてもらえます?」
そういうと青年はうさぎの耳を掴み、持ち上げるかのようにきらの前髪を掴み上半身を起こした。痛みに耐え兼た悲鳴が上がったが、青年はそんなのお構いなしだ。
「ザンザスは来ませんよ、絶対に。もう少ししたら息絶えるでしょう」
上がり切らないきらの額に自分の額をぴったりとくっつけて、わざとらしく青年は話す。痛みに体が震え婚約者は青年の言葉に何も反応が出来なかった。
ザンザスが息絶える?と思うと、彼の動かない手と足、人形の様に固まった姿が脳内に浮かび上がり、泣いて嘘だと言いたい気持ちになる。ただの激しい妄想だ、と思い気持ちを鎮めようとするも、突然下ろされた試練の緞帳に理解が追いつく事がきらは出来ない。
何の反応もしなかった事が不満だったのか理由はわからないけれども、青年の表情が突然変わった。初めて会った時の柔和な青年などどこにもいない。
額を少し離したかと思えば、思いっきりきらの額に自分の額をぶつけてきた。
割れる様な頭の中に響き渡る様な、激しい痛みが襲った。
痛みにもがき苦しむきらを見つめながら青年は前髪を解放した。
また地面に倒れ込んだきらは額を押さえ痛みにうずくまった。
目をつむりたい程の痛みだったが、目をつむると痛みがより倍になる気がするのは何故だろうか。ゆっくりと瞬きをして、痛みを和らげようと深く息を吸った。早く起き上がって、この青年から逃げなければと焦りが襲う。
「誰にも愛されない婚約者かあ」
顔を歪ませるきらを見て青年はぞくぞくとした。足で右に倒れたきらの肩を蹴り、天を仰がせた。緑色の輝くドレスには土が付いてしまっている。
そのまま馬乗りになりまた平手で強く頬を打つと、きらの痛ましい悲鳴があがった。自分に請い求めればすぐに解放してやってもいいのに、としか青年は思わない。
きらはひどく後悔した。女がやってきた時、腹が立ったが我慢すればよかったのだと。感情を押し殺し、嵐を過ぎるのが待てばよかったのだと。額は痛いし、髪の毛も抜けた気がする。打たれたせいで口の中は鉄の味がしたし、青年が来るまでに感じていた自分の中の強い炎の明かりはとっくに消えてしまった。悲しくなってきらはまた涙をこぼしす。
泣いている彼女を楽しむかのように青年はネクタイを外した。
「僕を始めとする、僕のファミリーはラッキーなんですよ。
兄だけが不幸にもそうではなかった。でも、こうしてあなたを捕まえれたのはラッキーです」
どういうこと?ときらは思った。
ザンザスも同じように馬乗りをしてきた過去があるが、この青年は信じられないくらいきらにとって恐ろしいものだった。
自分の全てを本当に奪ってきそうなのだ。
ネクタイを首の下にしかれる。男の手は恐ろしい程に冷たく、このネクタイがどう使われるかぐらいは恐怖と後悔に苛まれているきらでもはっきりとわかった。
「ザンザスがいなければ、ボンゴレは僕のファミリーのものだった。
あいつさえいなければ僕たちは栄華を極めれたんですよ」
青年の顔はあまりよく見えなかったが、恐ろしい悪魔のような形相をしている気がした。
自分の命が握られているという感覚は十分きらを怯えさせた。
なにか一つでも誤れば、この紐で命がなくなるかもしれない、と不安が広がった。
この男はザンザスへの憎しみを自分にぶつけている。どうして私はいつもこうなのだと、どうして私はいつも他人の憎しみを受けなければならないのかと神に乞うように泣いた。
思えば思うほど胸が苦しいくらいにきらは涙が溢れてきた。欲しいものはいつだって手に入らないし、いつだって手をすり抜けていく。自分は感情を押しつぶさなければ上手く生きていけないのだ。感情を現してしまうのは駄目なのだ。どうして、あの会場を出てしまったのだろう。バカなきら、と自身を激しく詰った。
「悲しい?悲しいでしょうね。
だーれも来ませんよ。あなたを助けにね。だからこそザンザスとお似合いなんでしょうねえ」
ははっと愛想笑いをする青年は怯えているきらの様子を見て楽しんでいた。涙で歪んだ視界に映る青年は地獄から這い出してきた悪魔にしか見えなかった。だとしても、何も知らないこの青年に言われる筋合いなどないと彼女は声にならない悲鳴をあげる。
「ザンザスなんて男がボスって笑えますよ、苦労知らずの低能男が。
そんな男に娶られるあなたが哀れだ。まあ、もう死んでいますが」
青年は再び額をぴたりとくっつけて、そう言ってきたのだ。
この青年を信じてしまった自分はなんて愚か者だったんだ、と悔しくて涙が溢れてくる。
ザンザスは死んでなんかいないし、部下たちからの信頼を知らないのは低能のお前だ、と言いたい気持ちに駆られた。けれどもきらの首元にある青年の手がきらを不安にさせ、ただ涙するだけだった。
そして、他人に想像力を求めたのが悪いのだと自分を責めた。
私が正しかったことなどない、私が悪いのだ。いつだっ私が、だから、ずっと、こうして苦しんでいるのだときらは自分を思い悲しんだ。それでもなおザンザスの無事を確かめたいという気持ちは残っていた。
「嘘つかないで、死んだなんて」
「嘘じゃないですよ。それにあんな雑種生きてる方が無駄だ」
きらの唇が震え、涙が止まっているのを青年は確認した。
どうやってこの女をいたぶろうかと静かに考えていた。考えるあまり、きらの瞳の奥に灯された炎を見失ったのだ。
彼女なりの精いっぱいの抵抗だった。この青年はすごく嫌がるだろうとわかって、きらは額をあわせてくる青年の顔に向かって唾を吐いた。血交じりの唾液だった。
青年が驚き口をぽかん、と開ける。頬に飛ばされた唾はどんどん冷たくなり、不快感を与えた。目の前にいるザンザスの婚約者は青年を見つめ、青年の動向を観察した。
自分の立場の方が上なのにこの女は、と怒りがこみ上げてきた。ザンザスさえ、いなければ自分達のファミリーはもっと巨大になりこの世界を牛耳っていたのに、とザンザスに向けられるの憎しみがきらへと向いた。青年には血を流す覚悟が出来ていた。
「調子乗ってんじゃねえよ!!!!くそ女が!!!!」
青年が拳を大きく振り上げ、きらは祈る様に瞳をつむった。