08:春をさまよう透明の証明
イタリアの名家が所有していると言う島が見える。
お腹いっぱいになり、お昼寝でもしたい所だったがランチパーティーの後はボッロメエ諸島を巡る予定が組み込まれていた。

着岸し、デッキが降ろされるや否やフェリーから足早にスクアーロとルッスーリアが降りる。ディーノもスクアーロの後を追う様にして降りていった。きらはロマーリオが後ろにいるから、軽やかな身のこなしをできるのを知らない。
てっきり皆で島を観光すると思っていた彼女は豆鉄砲を食らった鳩の様な顔をして、ザンザスを見つめた。

「着いて来い」

呆れた様に言うザンザスは先に降り、きらも後を追い小さな島へ上陸した。
道のほとんどがコンクリートで補整された島だった。
それでも湖にこぼれそうな程島には自然でいっぱいだ。
長い冬を堪え、春の訪れに喜ぶ緑に婚約者は目を奪われながらも歩を進める。

よく手入れされた立派な庭園を持ったルネッサンス風の宮殿に入る事にしたが、ザンザスは過去に来た事があるらしく特段興味がないのは十分伺えた。
それでも何もかもが初めてのきらにとっては楽しい時間となった。

「ここに来たことあるんですか?」

「昔にな。何度も来るとこじゃねえ」

サングラスを胸元にしまいぶっきらぼうに答えると、後に続く言葉はなかった。
会話が終わってしまう、それでは困るときらはこの宮殿や島についてザンザスに聞いた。勿論、嫌な顔などせずきちんと答えてくれるのだが、彼女の努力も虚しく会話はあまり続かなかった。続かないのは別に珍しい事ではないが、会話が続かない事をやけに焦ってしまうのも、会話が終わった後の沈黙も不気味で気がかりだったのだ。
ほんの少しだけ足早に歩いてる筈なのに、何故だか彼の背中が酷く遠くに見えた。
庭園を優雅に歩くクジャクの美しい羽を鑑賞する余裕などきらの中からとっくになくなっていた。

彼女を不安にさせている男であるザンザスは別に怒ってはいなかった。

だが自分の事を怖いと言われ、動揺しなかったと言えば嘘になる。
前までは怖いと思われていようがどうでも良かった。寧ろその状態にさせ反故を目標としていたのに、今ではこんなにも靄がかかる様な気持ちになるなんて予想外だった。靄を払わなくてはいけないのに、払い方がわからなかった。きらにはこの心の内を知られたくないと思ってしまったのだ。

艶やかな春などどうでもいい、今の自分を悟られまいとザンザスは過去にも見た景色に懐かしさなど感じずに景色を後ろへとやる。
知らぬ間に歩く速度が上がっている事に彼は気づいていなかった。

きらはその速さに着いていくのに精一杯だ。
靴がスニーカーでもザンザスの後を着いていくのにのは難しいだろう。
足の長さが違うのにどうやって距離を稼げばいいの、いや、これは怒っていのるかなと再び彼女の中で不安がむくむくと起きた。どうして離れようとするんだろう、と声が出た。

「待って!」

今までのきらなら不安に負けて声を張り上げる事も出来なかっただろう。
嵐が過ぎるまでじっと堪えていただろう。気持ちを抑え込み、相手からの好転の言葉を待っていた。
それでも声を張り上げたのは自分で自分の背中を押してやりたかったからだ。

立ち止まったザンザスはゆっくりと振り返り、きらを見るべく視線を下げた。
自分よりも下の階段にいる婚約者は口を横に真一文字に結び、一段飛ばしで登ってきている。

ザンザスの明るいネイビー色のスーツにはブーゲンビリアの花びらが落ちていた。
トンネルの様にしてブーゲンビリアは階段を空から覆い隠しており、春の訪れを感じずにはいられない場所だ。きらにとってはため息をこぼしたいくらいに美しい景色なのに、百獣の王の様な男は花々の下で婚約者をあまり待ちたくない様だった。

「ここを抜けたら、坂道を下ってフェリーに戻る」

集合時間まではまだ間に合うはずなのに、どうして急いているのかきらには疑問だった。もしかして自分と一緒に居たくないのだろうか、嫌気がさしたのだろうか。それとも、口づけを断った事がいけなかったのだろうか。色んな不安ながきらの脳内で駆け巡った。

じゃあ、口づけをねだれば、彼はどうなるのだろう。あと一段登ればというところでザンザスは背中をきらに見せようとする。
しかし彼女の血色の良い指がザンザスのジャケットに向かってのび、掴んだ。

「口づけだけなら、怖くないから」

ザンザスが目を見張った。ジャケットの裾はきらに小さくつままれていた。
彼女以外にこれをやられたら怒っただろう。
ゆるやかな階段のせいできらがいつもより少し小さく見える。口づけだけなら、と告げる彼女の頬は桃色に染まり、瞳は少しだけ揺れている。きらにとっては一大事だった。はっきりと、ザンザスへの好意の言葉を述べた様なものである。

そして恐れていたのはザンザスではなかった。
自分を信じてやれなかったのだ。ザンザスを信じようとする、自分を疑い自分で恐れを作っていたんだと思った。

彼女の手がすとんと裾から落ち、ザンザスと同じ視線に立とうと近づいて彼を見上げる。
ザンザスは何も言わず、きらを見つめているだけだ。
湖面の揺れる音が聞こえなければ二人以外の人間の気配すら感じられない。まるでブーゲンビリアのトンネルに閉じ込められた様だった。春の穏やかな午後なのに何も言わないザンザスにきらは次第に恥ずかしくなり、自分が愚か者に思えた。
さっきまでの威勢の良いきらはどこにもいなかった。自分を信じてもこうやって行動するのはまだ早かったのかもしれないと。

「あの、やっぱり忘れてくださ」

あと一文字、あと少し早ければ、この勇敢な婚約者は自身の発言を撤回出来たかもしれない。

そして、撤回が出来ないかわりにきらは目を閉じた。ザンザスが乱れた彼女の前髪を直したのだ。

「びびってんじゃねえか」

「・・・平気です・・・」

視線を横にやるきらは恥ずかしさでいっぱいだった。
口づけだなんて、言わなければ良かったと自分を責めた。
けれどもそんな思考を無くすようにザンザスはきらに視線を合わせる様促した。
自分の心を焦がす女がここまで言ったのだ。応える以外の応えはザンザスの中には無かった。

「こっちを見ろ」

きらは顎をザンザスに掴まれたが、目だけは合わせない様に必死だった。
ならば、と顎をほんの少し持ち上げる。驚き逆らう事も出来なかったきらは素直にザンザスの赤い瞳に視線を合わせた。たちまち息が詰まりそうなほどに胸が高鳴る。ザンザスはこんなに余裕があるのに、自分はまだまだお子ちゃまだと思った。
ザンザスがきらの顎から手を離し、頬に添えてからはあっという間だった。

赤い瞳が近づいてくる。宝石箱で一番に輝くルビー色だ、ときらは思いながら瞼を下ろした。
そっと唇を当てる口づけだった。

あの時にされた噛みつかれるような口づけとは全く違った。きらを気遣うような、そんな口づけだった。勿論、きら本人にもそれは伝わり心臓のあたりがきゅうっとしまる。
唇を離され、ザンザスの赤い瞳にはゆるやかな微熱が瞳こもっていて、ルビーの色がさらに強くなっている様に彼女には見えた。

「・・・怖くないです」

彼に触れて欲しい、でも恥ずかしいというせめぎ合いがきらから溢れていた。
熟すにはまだ早いけれども、食欲をそそるには十分麗しいさくらんぼの様だった。

ザンザスはきらの言葉に返事をせず、また唇を重ねた。今度は啄ばむような口づけで、ザンザスの手がくびれを掴んだ。彼との距離を失い、大きくてしなやかな体がきらを抱きしめた。
こんなに近いと自分の鼓動が本当に聞こえるかもしれないと不安になったが、彼女はただただザンザスの口づけについていくので精一杯だった。

きらの精一杯さは、自分二の腕に置かれた手からザンザス本人に伝わっていた。
自分の口づけに応えようとしているこの女は確かに自分の婚約者であると実感していた。
ゆっくりと広く燃え上がる腹の底の欲望に気づく。きらのくびれを象る様に手には力が僅かにこもる。可能ならこのまま花の溢れる壁に押し付けて、この欲望の火を彼女に移したいと。でもザンザスは今この自分を靄を払って、心を満たしてくれる口づけだけで十分だった。


春の女神がもっとブーゲンビリアの首を下に垂らし、もっと葉を大きくすれば良かったのかもしれないと後悔していた。
その事を知っているのはブーゲンビリアだけだったし、自分たちの下で確かに愛を育み絆を絡めている二人を知っているのもこの花々だけだった。


prev / next
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -