夜が明け、玄関にはひやりと冷たい早朝の空気が漂っていた。
朝食を済ませたスミレは、母のお下がりであるお気に入りの白無地のワンピースを揺らし、玄関先の祖母を振り返る。
「それじゃあ、いってきます」
「ふふ、いってらっしゃい。あんまり、遅くならないようにね」
皺だらけの手を振り、同じく皺の目立つ顔をにこやかに微笑ませる祖母。
馴れ馴れしいかなーーと、少し手を振り返すことに躊躇してしまい、スミレは小さく会釈をして外へ出る。
夏のはずなのに、どこかつんとした涼しげな空気。あと少しすれば群青の色を一面に晴れるであろう空を見上げ、スミレは歩き出した。
貸してもらったサンダルが、ぺたぺたと歩くたびに音を立てる。
予想通りに晴れた、澄み渡る群青の空。風に揺れるみずみずしい緑の葉。
都会で耳にうるさかった蝉の声は、夏の風景のひとつとしてすっぽりと感覚におさまる。
畑仕事をしていたご近所さんに挨拶をされながら進むスミレ。
歩くうちに景色は山の中のそれと変わっており、空気もどこか静かなものとなっていた。
「……あんまり、行きすぎないようにしなくちゃ」
鬱蒼とおいしげる葉が陽射しを遮り、森の中は薄暗い。すぐ近くの川の音はどこか不気味だ。
整備された道はあるが、随分昔のものらしく、草が茂っている。
目のはしに入った木の看板はかなり廃れており、何と書いてあるのかは解読できそうになかった。
サツキの言ったとおり、近付かない方が良い。
すぐに引き返そうと思ったスミレだが。
「……ん? 」
ーーーー目のはしにうつったのは、確かに人の影。
人にしてはやけに速く、そして黒い。
森の奥を駆けて行く人影は、子供の見たい知りたいを刺激するには十分である。
スミレの怖いもの見たさの冒険心は、いともたやすく弾けてしまった。
おずおずと、森の奥へ足を踏み入れるスミレ。
たしか、あの人影は右奥へ行ったはずだ。
ーーーーちょっとだけ、確かめるだけ。
心の中で、申し訳程度の言い訳を唱える。
ふと、昨日のサツキの言葉が脳裏に蘇るがーーーー気になったものは、どうしても確かめないと気が済まない。
結局、なによりも好奇心の優ってしまったスミレは、森の奥深くへと駆け出した。
*
痛くなるほどに目を凝らしながらほぼ原型をなくした道の跡を辿り、一体どのくらいの時間が経ったのだろうか。
何度か転けながらもただ道を探す作業がふっと途切れたと思えば、スミレは草の下に隠された木の根に盛大につまづいた。
最初に、爪先の痛み。そして一気に地面が近付いて、膝もとに焼けるような痛みがおそった。
「いっ……!! 」
生理現象とでもいうのか、目尻がぶわりと熱くなる。慌ててぎゅっと目をつむり涙を堪えた時、スミレは気付いた。
地面の感触が、ざらざらとした人工的なそれであるのだ。慌てて起き上がり確認すれば、それは神社などにある、石畳である。
スミレははっとして前を向く。石畳ーーということは、少なからず此処は人の手が入った場所。
ーーーースミレの考えたその通りで、前を向いたスミレの眼前には、古びた神社がぽつりと佇んでいた。
よかった、まだ日が登っている。木々の葉から漏れる木漏れ日にスミレは安堵する。
神社はこぢんまりとしており、剥がれかかった紫の屋根がよく目に立つ。自分の名前の由来となった花の色と同じで、スミレはすこし親近感を覚えた。
よく見れば、ここ一帯には同じ花が咲いていることにスミレは気付く。
教科書で見覚えのある花だが、よく思い出せない。星のような形でラッパ型、青紫の花弁。
不意に、背後でぱさりと音がした。
「っ?! 」
はっと後ろを振り向けば、まず目に入ったのは山菜の入った網かご。しかしそれは地面にぶちまけられており、それの持ち主らしい人はその網かごの後ろにいた。
まるで、昔の人のような格好だった。
あの花と同じような、薄い青紫の着物。裾部分には、あの花が描かれていて。
紫の帯、鶯色の羽織。
なによりも目立つのは、毛先にかけて灰色を混ぜた紫になる白髪と、顔全体を覆う「桔」と書かれた紙だった。
都会でも稀に、和服を着た人や奇抜な髪をした人は見る。この人もそういう類だろうか、と思ったがあまりに怪しすぎた。
網かごを落とした瞬間のままの格好で固まっているその人に、スミレは恐る恐る声をかけた。
「あの……」
「…………………………えっ?
わ、私ですか?! 」
「そう、ですけど……」
声からするに、青年のようだった。
優し気で凛とした、透き通るような声。
素っ頓狂な返事で慌てる彼は、高身長な分に酷く滑稽に見える。しかし、その裏表のなさそうな仕草がスミレには好印象を与えた。
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