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「なんで」
「……んだよ」
「あれ、私のこと、」
覚えているのか。そう聞きたかったのに、上手く言葉が出ない。だって覚えていないと思っていたから。向こうは向こうで、私が固まるなんて思っていなかったのか、頭をガシガシと掻いて言い淀んでいた。
「ったく、なんで覚えてないと思ったんだよ」
「だって何も言ってこないし」
「それはかのえもだろ」
それはそうだ。でもこちらは年下だし、忘れられていたら失礼な後輩になってしまう。それと十年前、別れ際に殴られたのをちょっとだけ引きずっているっていうのも、正直ある。
「よく分かりましたね」
「キモいから敬語やめろ」
「なんで分かったの」
しれっとタメ口になって、そして人通りの少ない部室棟の裏まで歩く。積もる話もあると思ったのは向こうも同じようで、黙ってついてきてくれた。
「そりゃ分かるだろ、名前同じだし」
「そっちじゃなくて」
「ん?」
誰も来ないであろう中庭へ続く通路の、短い階段に腰掛ける。座ればいいのに、兄は私の正面に立ったまま。
「私が気付いてないって、思わなかったの」
偶然にも母の旧姓を覚えていたから分かったものの、普通なら彼が兄だと気付けないと思う。誰も洋一なんて呼んでいないし、身長も大きくなって顔もきつくなっている。そもそも、他部の先輩なんて関わる機会もない。
「自販機で喋っただろ」
「あの微妙なジュース売っているとこ?」
「ああ、微妙な味の」
「あん時にお前、下唇噛んでいたから」
「……下唇?」
思わず自分の唇に触れる。何か変な仕草だったのかと不安になりながら見ていれば、小さく息をはいて、説明をしてくれた。
「かのえは昔から、隠し事あると唇噛むよな」
「えっ嘘」
「マジ」
「もー、なんで今更言うの」
「言うタイミングなかったんだよ」
そういえば昔から、私が拗ねた時に気付くのは兄が最初だった。私の癖を、便利に使っていたんだろう。
今更、なんて言ったけれど、小さい頃に直さなくてよかったのかも。直していたら、今こうして喋る機会もつくれなかったかもしれない。
「何笑ってんだ」
「思いのほか、普通に喋れているなあと」
「そりゃ別れたのは親同士で、俺らは何もねえだろ」
「……ほう?」
何もなかったという兄を、少しばかり睨む。私が怒っているのもすぐ分かったようで、逆に睨まれてしまった。
「んだよ」
「最後の日、私のこと殴ったのに」
「あー……それは悪かった」
「痛かったなー、車乗ってからもずっと泣いてたし」
「悪かったっつってんだろ」
ばつが悪そうに謝ってくる。口調が荒いから、他の人からすれば謝罪には思えないかも。そんな兄をみて、充分反省していると思った私はへらへら笑った。
「つーかフォームいいのか」
「あ、忘れてた」
「俺ら午後練あるんだけど」
「うーん、なら今日は諦めようかな」
そもそもフォームを見てもらう必要なんて最初からなかった。浅田くんが心配するから無視しないで置こうと思っただけだし。多分、兄も気付いているだろう。
「つーか見る意味あんのか」
「んー、正直ない」
「ならいいだろ」
「……そっか」
だけど、せっかく仲直り(というか、兄が怒っていないと分かった)のだから、また会えたらなあ。そう思ったのに。
存外あっさりと拒否されてショックを受けつつも、部活のために地元を出てきた人の時間を奪えはしない。気にしていない振りをして、立ち上がる。
「……おい、かのえ」
「うん?」
「別にいつでも話しかけてこい」
そう言いながら、兄はしゃくれさせた自分の下唇を指さした。
「あ、」
「その癖、直んねえな」
「ま、まだ言われたばっかりだから!」
癖のせいで、またバレてしまった。だけど私が何を言いたかったのかまで分かるのは、彼が兄だからだ。
「直ってなかったら笑ってやるよ」
「そっちこそ、喧嘩してても止めてあげれないからね」
「バーカ、もうしてねえよ」
ばつが悪いのか、また頭をガシガシと掻く。兄は照れると、頭を掻くのだ。きっと、それは私以外も知っている癖。
「おい、ケツ」
「ん?」
「汚れてんぞ。白いジャージだから目立つ」
「……女子に対してその言い方止めなよ」
「他の女子には言わねえっての」
さっき慌てて立ち上がったから、砂が取れていなかったらしい。陸上部、なんでこんな色のジャージなんだろう。なんて、心の中でジャージに文句をつけながら、私はもう一度丁寧に砂を払っていく。
「じゃ、また声かけるね」
「おう」
「練習頑張って」
「お前もな」
ひらひらと手を振って見送る。野球部は大変だな。私も帰ってごはんを食べたら走ろうかな。ぐんと伸びをして、少しばかり気合を入れた。
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