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「かのえ、ほら」
「え、」
「何やってんの、降りるよ」
「な、成宮くん……ここ、とんでもなく高いのでは」
成宮くんの白い外車から降ろされた場所は、私でも分かる超高級ホテルだった。
一度、陸上連盟のお偉いさん方が集まる立食パーティーで大広間は使ったことがあるのだが、最上階にあるらしいレストランは立ち入ったことがない。
「野暮なこと言ってんじゃないよ、俺を誰だと思っているのさ」
「成宮くんです」
「スーパーエース、成宮様ね」
「ああ、うん」
「普通に流さないでよ!」
右手で私の手を取り、左手に持っていたキーをホテルマンに渡す。別のホテルマンがやってきて、私たちを奥のエレベーターまで案内してくれた。押されたボタンは、やはり一番上である。
「……あれ」
「ふふん、思い出した?」
「誰もいない……」
「そっちかよ」
「えっもしかして」
「トーゼン、貸し切るよね」
何が当然なのかはサッパリ分からないが、もう彼の金銭感覚についていけない。メジャー契約が無事に済めばおそらく今以上の稼ぎになるが、私はついているのだろうか。
「まあ、使うのは個室だけど」
「このエリアまで貸し切る必要あった!?」
「だって騒がれたくないし」
「あんな告白した人が言う?」
「告白の時は牽制の意味もあったけど、もうそんなのも要らないでしょ」
取ってくれた手をするりと腰に回し、誰もいないレストランを歩いていく。通常ならば、特別個室へは裏通路があるらしい。しかし、せっかくならばとぐるりと窓際を歩いて個室まで進んでいく。
「わぁ……!」
「すっげー……綺麗なもんだね」
「ほんと、すごい……!」
「かのえって、少女趣味なとこあるよね」
「どういうことよ」
「可愛いってことだよ」
ぐるりと回ってたどり着いた短い階段をのぼり、分厚い扉をあけてもらう。ひらけた視界の先にあったのは、どこかでみた装飾だ。
「ここ一番高いんじゃない?夜景の見えるレストラン」
「でもこういうヨーロッパっぽい凝ったデザイン、どうせ好きでしょ」
「……あ!」
「よーやく分かった?」
「高校生の時に見ていた雑誌!」
「そうそう」
「お肉と同じページに載っていたとこ!」
「……ロマンチックの欠片もない思い出し方だな」
昔成宮くんと読んでいた雑誌に載っていた、すごく繊細なシャンデリア。そういえば先ほど歩いた夜景も、あの時みた景色と似ていたのかもしれない。
「一昨年くらいにリニューアルしたらしくてさ、シャンデリアあるのがこの特別個室だけになったんだよね〜でも夜景も見たいじゃん?だから貸し切っちゃった!」
「それでここまでのことを」
「ま、どっちにしろ誰かいるとこはイヤだったからなんだけどね」
文化祭の告白で、周りにやいのやいの言われるのは充分懲りたらしい。案内してくれたスタッフが引いてくれようとした椅子を成宮くんが引いてくれて、私はされるがままに腰かける。
「飲み物どうする?」
「わ、わからないです」
「赤で低めのって何が……じゃあそれで。俺はねー、」
来てくれたソムリエさんへ、慣れたように耳障りのいい単語を口にする成宮くん。所々で住んでいる世界が違うと感じることがあったが、今日は今までで一番それを感じている。私だってそれなりの生活をしてきたつもりだったのに。
「……成宮くんてさ、」
「ん?」
「こういうとこ、慣れているんだね」
「女子アナと二人きりで来たりしてないよ?」
「いや、そうでなく、」
昔、週刊誌に載った時のことを蒸し返したと思われたらしい。そうじゃない。それはもうよい。
「なんか、違う世界の住人みたいだなって」
「まー稼ぎ具合は桁違いだからね」
「こんな人と付き合ってきたのか……」
「”付き合っていく”んでしょ。あ、料理来た」
成宮くんと食事に行く時は、基本、私の食べたい物は聞かれない。彼の食べたい物を、私も食べる流れだ。お互い身体作りには気を使っていたから基本的に食べたいものは合うので、あんまり気にしてもいなかった。
「……とか言いつつ、かのえも案外慣れている気がする」
「? この上なく緊張しておりますが」
「日本人はそんな器用にナイフとフォークは使えないんだよ」
「鳴くんは日本人だもんね」
「ちょっと、今喧嘩売った?」
「あはは」
「否定してくれないわけ!?」
いつもの軽口で会話を進める。大きな皿に乗った料理は丁寧に説明をしてもらえたけど、緊張してあまり理解できていなかった。でもともかく、何を食べても美味しかった。
「っはー……すごい、これすごく美味しい」
「おかわりしとく?」
「そんな居酒屋じゃあるまいし」
「材料と仕込みと時間があればできるでしょ」
「遠慮しておくよ。これからも美味しい料理たくさん出てきそうだし」
いくら私たちしかいないからと言って、そこまでして頂くわけにもいかない。そもそも、まだ前菜だ。これからきっとメインディッシュもやってくる。
「……やっぱり貸し切っておいてよかったな」
「どうして?」
「ごはん食べている時のかのえ、頭弱そうに見えるから」
「えっ嘘でしょ」
「ほんと。昔から語彙力なくなるじゃん」
「えーはじめて言われた」
「みんな言わなかっただけじゃない?」
「じゃあ今から気を付ける」
「(無理だと思うなー……)」
幸せそうに食べると言ってもらえたことはあるが、「頭弱そう」ははじめてだ。少々ショックを受ける。そんな会話をしていれば、おそらくメインであろうお肉がやってきた。テーブルに置かれる前から、香ばしさが鼻をくすぐる。
「すごい、成宮くん、すごい」
「俺はすごいよ」
「成宮くんじゃない、お肉すごい」
「ちょー分厚いのにちょー柔らかいよね」
「そうそれ!すごい、奇跡、美味しい」
「……語彙力どこいった?」
「……今日は単語帳置いてきちゃったんだよね」
「なら仕方ないな」
「そう、仕方ないの」
ふふっ、お互い顔を合わせて笑う。やっぱり貸し切ってもらえてよかったかもしれない。家ならここまで料理に集中しないし、誰かいたらこんなにもバカみたいな会話できていなかったと思う。
「……なんか、普通に笑ってくれて安心した」
「どういうこと?」
「最初すげー気張ってたじゃん」
「そりゃこんなお店初めてだもの」
「ビビリのかのえちゃんだもんな」
「度胸の成宮ちゃんがいてくれたおかげで楽しいよ」
「へへっならよかった」
色々喋っている間にデザートも届いた。実は、このホテルに入っているケーキ屋さんは私のお気に入りで、自分へのご褒美で何度か買いに来たこともある。
今日はどれが置かれるのかとわくわくしていれば、見たことのないケーキが目の前に並べられた。
「……わ、なにこれ!」
「見ての通り、チョコレートケーキだよ」
「それは分かりますが……こんなの見たことない……!」
横に長い皿に並べられた、小さなケーキたち。両サイドの物は、確かバレンタイン期間限定で販売されていたものだったはず。だけど、真ん中のは初めて見た。
「えっすごい、オリジナル?」
「分かんないけど、どういうのがいいかって言っておいた」
「(お、おりじなるでは……!)」
もしかしたら私が知らないだけかもしれない。一口食べたらふわっと広がる甘さ。あとから少しくるカカオの苦味がたまらなく美味しい。
小さいケーキを、更に小さくちまちま食べていれば、成宮くんはすべて一口でほいほい食べていく。
「あー確かに美味いわこれ」
「な、何てもったいない食べ方……!」
「どうせ食べるんだったら、ペースなんて関係ないでしょ」
そう言いながら、私より先にフォークを置く。それでも私は大切に食べたくて、まだちまちまと食べていた。待っているのは苦手だろうに、私が食べる姿をにこにこしながら見てくる成宮くん。ちょっとだけ、恥ずかしくなってくる。
「あの、成宮くん」
「んー?」
「あんまり見られると、恥ずかしいのですが」
穴が開きそうなくらい見つめてくる彼に、穴があったら入りたくなってくる。
「かのえ見る以外に、することもないし」
「そこはほら!部屋の内装楽しむとか!」
「俺は別に部屋とかどうでもいーわ」
「く、口についたチョコレート取るとか!」
「げっ付いてる?」
ふと気付いて言ってみれば、ぎょっとする成宮くん。一口で食べちゃうからそんなことになるんだ。
「ちょっと鏡見てくるわ」
「どうぞごゆっくり」
席を立った成宮くんを見送って、あらためてチョコレートケーキを堪能する。端にあったケーキも、見たことこそあれタイミングが合わなくて買えなかったものだ。こういうとこにくると、そんなケーキまで出してもらえるんだなあ。
そういえば初めて鳴くんにこういうお店に連れてきてもらった時、何も分からなくて困っていたら全部教えてくれた。食券機もそうだっけ。使ったことないって言ったら、押させてくれて。あれは多少の子ども扱いが含まれていた気もするけど、でも、人のことバカにするくせに、そういうとこは茶化さないから、ずるいんだよなあ。
ようやくケーキを食べ終えて、ワイングラスを持ちながら、ぼんやりと成宮くんのことを考えていた。
「かのえ」
名前を呼ばれ、慌ててグラスを置く。先ほどまで近くにあったワインの香りがなくなったおかげで、気高く、強い香りにすぐ気付いた。
振り返れば、そこにいたのは真っ赤な薔薇の花束と、それに埋もれる成宮くんだった。
「わぁ……っ!」
「あげる」
あげる、そう言いながら花束を差し出してくれる。とりあえず立ち上がってみたものの、何となく手を伸ばせずにいた。
「……いいの?」
「むしろここで花束渡さないって選択肢ある!?」
「成宮くんなら『似合うでしょ?』って自慢して終わりってパターンも、」
「ねーよ!まあカルロより似合う自信はあるけどね!」
「なんで神谷くん?……ああ、引退日の」
「それと、高校生の時もね」
「高校……?」
うーん。何とか思い返してみたが、やはり思い出せない。
「カルロは正装して、薔薇持っているのが似合うって、」
「薔薇の花束持ってほしいっていうのが女子みんなの意見です」
「いや、でも花束は似合うと思う、これは私の意見」
成宮くんに言われて、ようやくぼんやり思い出した。高校2年生の時の思い出。
「あー、文化祭の衣装決める時の話?」
「そ、かのえが『神谷くんは絶対似合う』ってすげー推してたじゃん」
「そうだったかなあ……」
「で、俺はどうよ」
どうよ、と言いながら、多分片手でジャケットをピンと伸ばしているのだろうが、花束に埋もれてあまり見えない。でも。
「うん、すごく似合っている」
「ふふん、でしょ〜?」
「王子様って感じ」
「もうプリンスじゃないけどね〜」
「私も、クイーンじゃなくなったもんなあ」
とはいえ、理由は違う。
鳴くんは年齢を重ねて、プリンスからキングと呼ばれるようになった。
私は引退して、そんな呼び方をされることも、もうない。
「ともかく!受け取って!」
「わ、……はー……すごい……」
離れていても、とてもよい香りだった。自分の手元に来て、より一層それが伝わる。
「これ一体何本あるの?」
1つ1つの花自体は小ぶりではあるものの、パッと見ただけで数十本はある。こんなにも豪華な花束、初めてみた。思わず聞いてみれば、成宮くんはちょっと言いにくそうに口を開く。
「……108本」
「ひゃっ……!?そんなにも!?」
「うん」
「薔薇って高いのに……」
つい値段を心配してしまう私に、成宮くんが小さくため息をつく。
「……やっぱり、かのえは知らないよな」
「? 流石に詳しい値段は知らなけど、」
「そうじゃなくて……まあいいや」
何か言いかけて、でも結局成宮くんは言ってくれなかった。
(そういえば、引退の日に”最近花を調べた”って言っていたっけ)
もしかしたら、このたくさんの赤い薔薇にも意味があるのかもしれない。帰ったらまた調べよう。
なんて意識をずらして考えていたのだが、目の前にあるこの花束、何度見ても豪華だ。成宮くんには似合っていたけれど、私には不相応な気がしてならない。
なんて考えが読まれてしまったのか、花束を持ち直してじぃっと成宮くんの方を見ていれば、彼は優しい言葉をくれる。
「似合うじゃん」
「女王様だから?」
「ううん、女の子だから」
きょとんとして、彼を見る。女の子。そう言われたのが久しぶりなのは、単純に年齢だけの問題ではない。昔からあまり言われたことはなかった。
「かのえはさ、周りのことは心配するのに自分のことは無頓着で、」
(仕方ないから送ってあげるって言ってんの!)
(言ってないよ)
「そのくせ俺に対してはちょー失礼なこと言ってきて、」
(近くにいいなって人は?)
(成宮くんに告白はしたくないかな)
「わがまま言えるようになったのも、10年経ってようやくだし、」
(かのえ〜おひる何〜)
(成宮くんが玉子焼き作ってくれるって!)
「まだまだ素直じゃないとこたくさんあるけど、」
(俺の隣に誰がいても嫉妬しないって言っていたのかのえじゃん!)
(嫉妬するくらい好きになっちゃったんだから、しょうがないじゃない)
「何十年だって、待っていてあげる」
(ずっと前から好きでした。付き合ってください)
(私の隣にいてくれるのは、成宮くんがいい)
「だから、
――俺と、結婚してください」
跪いた彼が、小さな箱をあける。中にあったのは、指輪。
両手で花束を抱えていた私の左手を取り、それをするりと薬指にはめ込む。ぴったりだ。
「……なんでそんな泣いてんのさ」
「だ、だって……っ!」
「もー!こうならないように先言ったのに!」
「聞いていたけど、ご、ごはん食べるのに必死で……、いや忘れていたわけじゃ、ないんだけど……っ」
「ほら仕方ないなあ、鼻かんで」
「それ高いハンカチ……」
「洗えばいいから!ほら、ちーん」
言われるがままに顔にハンカチを押し付けられる。流石にこの状況でそうする勇気はないので、彼の手から離れた自分の左手で、ハンカチを受け取り涙を拭く。
「ぷぷっすげー顔」
「いーの、どうせ成宮くんしかみないし」
「……ねえ、もうかのえも成宮になるんですけど?」
「あ、そういえば」
言われて気付く。もう10年も彼のことを「成宮くん」と呼び続けたので、今更変えるのも恥ずかしい。
「……そのままじゃ駄目?」
「駄目!ぜったい!」
「め、めいくん」
「んふふ〜!もっかい!」
「鳴くん」
「んふふ〜!」
「……これいつまで続けるの?」
満足そうに笑う。そんなに喜んでもらえると、なんだかいいことした気分になる。私は名前を呼んだだけなのに。
「あ、そういえば今からホテルの人が写真撮ってくれるって」
「写真?」
「そう!一生の記念に残すからね〜!」
「げ、嘘でしょ」
「ほんと。世界一幸せって顔しなよ」
「えぇ……できるかなあ……」
「俺が隣にいるんだから、自然とできるって!あ、でも夜景の方がいいかなー、あっち行こ!」
ほら。私に手を差し出す。
扉をあければ、夜景に照らされて彼の白いスーツがきらきらしてみえる。きっと、この手がどこへだって連れていってくれそう。
「あ!忘れてた!」
「ん?」
個室を出たところで、突然立ち止まる。
「プロポーズの!返事!」
貰ってない!分かり切ったことだけど、言葉がほしい。その気持ちは、とても分かる。だから私も素直に告げた。
「私ね、鳴くんとならずっと――」
―FIN―
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