小説 | ナノ


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「糸ヶ丘かのえ選手ですよね?」
「ん?」

お世話になったコーチがこっちにくるというので電車で向かった夕方、いつもと違う駅できょろきょろしていたら声をかけられた。

「はい、そうですが」
「やっぱり!本物だ!」

名前を呼ばれ振り向けば、大学生くらいの女の子が2人。

お団子ヘアの子はちょっと後ろに下がっていて、さっき声をかけてくれたショートカットの子が、いい笑顔で私にずいと近づいてきた。ジャージに大学名入っているから、やっぱり大学生で正解のようだ。

「私、成宮選手のこと稲実時代から応援していて!」
「それは、ありがとうございます」
「なので!握手してください!」
「えっ私と?」
「はい!」

この表情ならば、きっと過激なファンというわけではないだろう。素直に感謝を述べて手を差し出せば、彼女の手が止まる。

「えっ」
「?」
「糸ヶ丘選手、もしかして……?」
「あ、」

差し出した手にあった物に、彼女が反応する。しまった、まだ内々にしか言っていないのに。後ろに下がっていたお団子ヘアーの子も覗き込んできて「あ、」と小さく反応する。

「……まだ内緒ね」
「分かりました!」

あらためて手を差し出して、彼女と握手をする。変わったところに皮むけが多い。それを見ていると気付いたのか、彼女は自分のことを教えてくれる。

「ソフト部で投手してて、成宮選手みたいに三振とれる投手が目標なんです」
「ああそれで」
「えっ」
「投げるの頑張っているから、こんな指先にマメできちゃうんだね」

握手して、なんとなく馴染み深い気がした。大きな手と、指先にできたマメ。こんなところの皮が剥けるなんて、パッと思いつくのはやはりピッチャーだ。

「あ〜〜……成宮選手の気持ちが分かる……!」
「それは一体」
「彼女が人たらしなんだって、よく言っているので!」
「まだそんなことを言っているのね」


「ちょっと!何してんの!」


一瞬で駅前が騒がしくなる。鈍行しか止まらない小さな駅なのに、もしや。

きゃあきゃあと黄色い声の方を振りむけば、外車を路肩に止めた彼が、不機嫌そうに歩いてきた。

「あ、ごめん時間か」
「そうじゃなくて!手!離して!」
「ピッチャーやっててファンなんだって、写真撮る?」
「それ俺が言うセリフだよね!?あと俺プライベートでは撮ってないっていつも言ってるじゃん!でも応援ありがと!」

「あ、あのっ!」


先ほどまで一歩引いていたお団子ヘアの子が、ケータイを持って声をかけてくる。3人で一斉に彼女の方を見やれば、恥ずかしくなったのか耳を真っ赤にしてうつむいてしまう。

「ごめんねー、写真はキリないから断ってんだよね」
「その……成宮選手じゃなくて、」

尻すぼみになってしまって、よく聞こえなかった。近づいてもう一度言ってもらおうとすれば、ショートカットの子が続きを教えてくれる。

「この子陸上やってて、糸ヶ丘選手のファンなんです!糸ヶ丘選手は写真大丈夫ですよね?」
「む、無理なら全然断ってください!」
「ん?いいよ」
「ありがとうございます!ほらほら、はやく!」
「そっちの子も一緒に撮る?」
「いいんですか?やったー!」

ハイテンションでインカメラを準備して、シャッターを押そうとするピッチャーの子。しかし、3人でこの暗がりだとうまく取れないらしい。

「……もー貸して」
「ええっそんな成宮選手にカメラマンなんて!」
「俺たちも暇じゃないんだから、ほら」

今からはごはんを食べに行くだけなんだけどね。でも、あんまり長居して野次馬が増えても困るか。カメラマンは撮り直しも一切なく、1回だけシャッターを押してくれた。

「ほい」
「あ、ありがとうございます……!」
「どーいたしまして」

真っ赤にした耳を隠すような仕草をしながら、でもしっかり私たちの目を見てお礼を言ってくれる陸上部の女の子。さっきタイミングを逃したから、このタイミングで彼女と握手していれば、ソフト部の子は気軽に「来シーズンも応援してまーす!」と彼へ声をかけていた。

「成宮選手も糸ヶ丘選手も、ありがとうございました!」

じゃあ、と立ち去ろうとすれば、大きな声で見送られる。もう歩き始めていたところで、隣から小さく「ぷぷ、」と笑い声が聞こえた。


「どしたの」
「もう”糸ヶ丘選手”って呼ばれることもなくなるんだなーって」
「まあ、引退したし」
「そっちじゃないって、”選手”の方じゃないって」
「まだ籍は入れてないじゃない」
「もー!ロマンチックの欠片もないな!この婚約者は!」

ポケットに手をつっこみ、ぷんすか怒りながら歩く。ガラ悪いなあ。

「じゃあ、今から会う人たちには名前で呼んでもらおうかな」
「は?あいつらにはずっと名字で呼ばせるから」
「話の流れ、おかしくない?」
「よく考えたら、あいつらにかのえのこと名前で呼ばれるのヤだな」
「えー……」

車に乗り込み、エンジンをかける前に鳴くんはケータイを取り出した。今から向かう旨の連絡だろう。
そうしている間にも、右手がすっと伸びてきて、私の左手をなでる。

「鳴くん、指輪撫でるの好きだよね」
「だってようやく渡せたし!」

画面から顔をあげて嬉しそうな表情を見せてくれる彼に、仕方ないなあと言いながら、私も指をからめた。


今までなかった私の左手薬指の指輪と、鳴くんの右手に巻いた時計が、なんだかくすぐったかった。

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