想いと涙
そしてある晩、とうとう事件が起こった。というのも鳴戸にはある習慣があり、泥酔するまで飲みたい時は必ず龍宝の部屋に泊まることにしているようなのだ。というより、泊まること前提で飲みたいだけ飲む。
龍宝がいくら止めようとも聞かず、しこたま飲んではベッドを占領して朝までぐっすりコースというのがお決まりなのだが、その日の晩も然り。
組の息のかかったバーで飲んでいたのだが、侍らせていた女たちが驚くほどの量の酒を飲んでいたと思ったら案の定、すっかり酔っ払ってしまい帰りのタクシーの中でも龍宝に絡み尽くしてはその気にさせるような言葉を吐いたり、態度を見せたりともしかしたら鳴戸は自分を、と勘違いしてしまいそうなほどに誘い文句を口にしてきたりする。
理性が吹っ飛んでいきそうだと、毎回思う。
そんな車内での時間を過ごし、車から降りて自宅マンションの部屋へ着く頃にはすっかりと酔っ払った鳴戸が首に腕を回して絡んできて、甘えてくる。
内心、嬉しいはずなのだがどこかつらく、敢えて冷たい態度で距離を取る。
「ほら、親分靴脱いでください。土足で部屋はいけませんよ。右足上げてください」
「んー……」
徐に上がる右足から靴を引っこ抜くと、まるで脱がせと言わんばかりに左足が出てきて、溜息を吐きつつ左足からも靴を脱がせるとそのまま玄関に転がってしまう。
緩く巻き付いたネクタイに、カッターシャツのボタンは三つほど外されており、そこから覗く大きな喉仏がごぐっと上下し、どうやら水が飲みたいらしい。
こうやってすぐに勘づくことができるのは経験だろうか。しかし、きれいなラインだと思う。男らしく、立派な喉仏はこくこくと上下を繰り返し、鳴戸の手が徐に床をぱたぱたと叩いたと思ったら思い切り引き寄せられ、目の前には寝ぼけたような顔をした鳴戸がいる。
「龍宝ー……」
「おやぶん……」
ごぐっと龍宝ののどが鳴る。これ以上、傍に居ては危険だ。してはいけないことをしてしまう。今したいと思っていることをしてしまったら、何もかもが無くなってそして鳴戸もいなくなって独りになってしまう。
理性が叫ぶが、龍宝の衝動がそれに勝り頭の中からなにもかもが吹っ飛び、思い切り鳴戸の唇を奪ってしまう。
柔らかくて、熱いほどの唇は湿っていて心地よかった。
だがすぐに戻ってきた理性によって慌てて鳴戸から離れると、まるで信じられないといった表情を浮かべた鳴戸が明らかに動揺しているのが分かり、何とか言い逃れる口実を考えるが頭が上手く働いてくれない。
してはいけないことを、してしまった。
何か言葉を口に出したいが、どうしても出てくれずぱくぱくとただ動くだけで肝心の声が出ない。
鳴戸はそれを黙って見つめてきていて、その瞳を見ているうち、何故か涙が溢れ出てきて止まらなくなり、大量の涙が頬を伝ってあごに溜まりポタポタと床に落ちる。
「ふっ……ううっ……」
「龍宝……」
龍宝は何度も首を横に振り、下を向いて拳を強く握りしめる。
鳴戸の顔が見られない。なんという恥ずかしいことをしてしまったのだろう。無防備な人間の、しかも男の唇を奪うなど。
歯がカチカチと震え、涙も止めどなく溢れては龍宝の頬をびっしょりと濡らしてゆく。何とか止めたいと思うが、まるで堰を切ったように気持ちと涙が同時に溢れる頃、そっと手首に何かが当たり何かと思い目を開けると、鳴戸の手が絡みついていた。
「あのな、龍宝。俺は」
聞きたくないと思った。どうせ、この気持ちは否定される。無かったことにされてしまう。この気持ちは、大切に仕舞っておきたいのだ。鳴戸から断りの言葉を言い渡されたら想う気持ちまで奪われてしまう。
それだけは、どうしても避けたかった。
慌てて立ち上がり、その場から離れながら後ろの鳴戸に向かって声掛けする。
「っ……すみません。あの俺っ、風呂行ってきます。親分は寝ててください」
たったそれだけを言い置き、隠れるようにしてバスルームへと入り急いで全裸になり浴室へと飛び込む。
なんというばかなことをしてしまったのか。愚かな所業だ。黙っていれば、想っていられたものを、自分から手放すような真似をするなど、本当のばかだ。
後悔と共に頭から思い切り熱いシャワーを浴びる。ばしゃばしゃと熱い湯が顔に当たり、涙を洗い流してくれるが気持ちの中ではまだ号泣中だ。
気に入ってくれていた龍宝という居場所から、大切にしていた鳴戸が離れていってしまう。一時の欲望に負けた結果が罰としてそうならば受け入れるしかないのだが、どうしても未練が残る。
それを振り切るよう、両手で顔をしきりに擦っているとふと、視界の隅で何かが動いた。スリガラスの向こう側に肌色が見える。
そう思うか思わないかのうちに、いきなり浴室のドアが開き全裸の鳴戸が普通の顔をして入ってきてドアをピッタリと閉じてしまう。
「おやぶん……?」
情けない。声が震えてしまう。
鳴戸はずいずいと距離を詰めてきて、龍宝が逃げる形で後ろに足を着けたところでぐわっと両手が伸びてきてぎゅっと抱かれてしまう。するとふわっと鳴戸の肌のにおいがかおってきて、そのかおりがあまりにも心地よく、抵抗も忘れて混乱してしまう。
「おっ、おやぶんっ!? なにをっ……! は、離して、離してくださいっ!」
「なあ……今日だけな、龍宝。今日だけ」
一体、なにが今日だけなのか。それより、この抱擁は一体何なんだろう。触れている素肌が熱い。まるで燃えているようだ。