※『Hekiraku』らなさんへ捧げもの。
※クラテスちゃん(お相手:楓原万葉)が出てきます。
* * *
南十字船隊の船医として働いているクラテスの朝は早い。
まずやることといえば、乗組員全員の体調確認だ。船酔いをしている人には薬を渡し、怪我をしている人の包帯を変え、運動不足の人にはストレッチを勧め、二日酔いが抜けていない人へは少しばかりの小言と共に野菜スープを食べるように促し、最後に上司の銀杏へと報告をする。海の上では何が起こるかわからないし、不幸な出来事に見舞われても対応できることには限界がある。日ごろから体調の管理と体力作りを推奨することで、乗組員の病気や怪我を未然に防ぐことも医師としての立派な仕事だ。
手元のカルテにチェックを入れながら甲板を歩く。残るはあと一人だ。
(あとは万葉さんだけ、か。さーて、どこにいるんでしょうか)
楓原万葉。稲妻を追われていたところを匿い、そのまま死兆星号に乗船することになった、どこか浮世離れした雰囲気を持つ浪人。温厚な性格をしているが流れる風のように掴みどころがなく、ふらりと姿を消してしまうことも少なくはない。海の上であれば船中を探せばどこかにいるのだが、今は璃月の璃月港に停泊中だ。もしかしたら上陸して港の奥まで足を運んでいるのかもしれないし、あるいは港を出て風の赴くままあたりを散策している可能性もある。
万葉は強い。戦いにおいても、精神的な意味でも。怪我や病気をして帰ってくるという可能性はないに等しいが、だからといって放っておいていいことにはならない。
はあ、とクラテスは大きなため息をついた。
(まったく、何の前触れもなくいなくなるのはやめてもらいたいな。残されたほうのことも考えて……)
そこまで考えて、わだかまりを紛らわすように回していた羽根ペンの動きを止める。
(私も……寂しい思いをさせたのかもしれない)
モンドで生まれたクラテスは幼くして医療免許を取り、旅をしながら医者として様々な患者を診てきた。その中で、医者として避けられない死別とは違う別れも多く経験してきた。
クラテスの治療のおかげで病気を完治させた子供は、彼女が町を離れるときに涙を流してくれた。常用薬を処方していた老人は、次の町に行くと告げたとき声を絞り出して引き留めてくれた。
今までの旅を客観的に振り返ってみると、かつてのクラテスの姿はどこか万葉の姿と重なって見えた。そして今のクラテスは、かつて彼女が診ていた患者と同じなのだ。
クラテスの中に、氷のように固く冷たいなにかが引っ掛かる。
(……どこに行っちゃったんだろう、万葉さん)
もしかしたらもう会えなくなるかもしれないと、漠然とした不安がクラテスの胸をかき乱した。その瞬間。
「……草笛?」
高く澄んだ旋律が風に乗り、クラテスの元へと運ばれてきた。まさかと思い梯子に手をかけて、マストを上っていく。
そして辿り着いた見張り台に、万葉はいた。万葉はどこかあどけなさが残る瞳を丸く見開き、唇から葉を離した。
「クラテス殿。このようなところまで来て、どうしたでござるか?」
「どうしたか、じゃないですよ! 朝の健康観察! あとは万葉さんだけですからね!」
「ああ、すっかり忘れていたでござる。面目ない」
「まったく。ここまで来られるくらいですから、体調は問題なさそうですね」
カルテに丸を付けて、顔を上げる。すると、すぐ目の前には万葉の顔があって、紅葉色の瞳にはクラテスが映っていた。
「クラテス殿。顔色がよくないようであるが……」
たった今自分もそう思っていたところだと、クラテスはカルテで顔を隠す。
本当に、酷い顔をしていた。それこそ、まるで三徹した後のような。医者がこれでは健康を推進するに説得力がないと思いつつ、その原因である本人から言われると否定したくもなる。
「な、なんでもないです。大丈夫です」
「大丈夫、ということは、やはり何かあったのであろう?」
墓穴を掘ってしまった。動揺していて頭の回転が鈍っているのかもしれない。
観念したクラテスはカルテを下げて、万葉と顔を合わせた。しかし、視線はまだ落としたままだ。
「……万葉さんがいなくなったと思ったから」
風と沈黙が万葉とクラテスの間を流れる。やはり言わなければよかっただろうかと、沈黙に耐えかねたクラテスが様子を伺うように顔を上げた。
「左様、でござるな。朝からクラテス殿の手を煩わせてしまって申し訳ない」
「ち、違うんです! 仕事ができなくて困ったからとか、そういう意味じゃなくて」
純粋に、万葉がいなくなったと思ったのが怖かった。寂しかった。そこまで言わずとも、察しのいい万葉には伝わっているだろう。その証拠に、万葉は再び目を見開いた後――優しく頬を撫でる風のように、表情を綻ばせた。
「心配無用でござる。どこかへ行くときは必ずクラテス殿に報告する故」
「……本当ですか?」
「もちろんでござる。そしてちゃんと、拙者はここに帰ってくるでござるよ」
心の奥につっかえていた大きな氷の塊が、あたたかい風に撫でられて溶けていくような、そんな感覚。
風のような彼のことを縛ることも捉えることもできないし、クラテス自身もそれは望んでいないけれど。風はここを帰る場所に選んでくれた。それだけで十分だ。
ふ、とクラテスは肩の力を抜いて微笑んだ。
「少しだけ草笛を聞いていてもいいですか?」
「もちろんでござる」
万葉は頷くと、葉を唇にあてて震わせる。クラテスは見張り台の手すりに背を預け、心地よさそうに瞼を落とした。
死兆星号に響き渡る草笛は、今だけはたった一人のために鳴り響いている。
2023.04.03