真実を咲かせる花

潮風の香り。キャモメの鳴き声。水飛沫をあげて進む連絡船。波乗りや空を飛ぶでは感じられない船の良さを楽しみながら、ミオシティから鋼鉄島を目指す。
ゲンさんに会うのは久しぶりだった。ナギサシティとミオシティというシンオウ地方の両端にそれぞれ住んでいることもあって、何か用事でもなければお互いのもとを訪れることはほとんどないから。
こうも久しぶりだと、少し緊張する。けれど、それは胸がキリキリ痛むようなものではなく、ドキドキと高揚するような緊張感。ああ、楽しみだな。

船を降りて少し歩くと、ゲンさんの家はすぐに見えてきた。同時に、近付くにつれて食欲をそそる良い香りが漂ってきた。
迷惑になっては悪いからと、お昼時は外したつもりだった。もしかしたら、遅めの昼食をとっている、とも考えられる。
でも、お世辞にも生活力があるとは言い難いゲンさんの家から、その香りが漂ってきているということに、悪いとは思いつつ違和感を覚えてしまった。

「……もしかして」

ドアをノックしようとしたところで、ふと、ひとつの可能性を思い付いた。もしかして、ゲンさんに恋人が出来て、その恋人が家で料理を作っているのではないか、と。
念のために、事前に家を訪れることは連絡していたし、ゲンさんもそれを了承してくれた。でも、せっかく恋人と二人でいるところに入り込むのはどうなのかしら。ゲンさんが良くても、相手の女性が不快に思うことだって考えられる。今回はやめておこうかしら。
ドアの前で悶々としていると、私が立っている側へとドアが開いた。いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべて現れたのは、もちろんゲンさんだった。

「やあ、レインちゃん」
「ゲンさん」
「久しぶりだね。遠いところをわざわざありがとう」
「いえ、ミオ図書館に本を借りたくて来たついでなので。元気そうでよかった」
「レインちゃんも元気そうだね。さ、中へどうぞ。出来立てのスコーンがあるんだ。せっかくだから食べていくと良いよ」
「え、あの、でも」

言われるがままに中に通され、ダイニングキッチンへと案内される。ドアが開けられるその瞬間、私の表情は緊張で強張っていたと思う。
だって、そこにはゲンさんの恋人が。

「こんにちは」

恋人……が?
今の私は相当間抜けな顔をしていると思う。ポカンと口を開けたままとりあえず頭を下げると、そこにいた人物はテーブルにスコーンをはじめとする洋菓子を並べていた手を止めて同じ動作を返した。優雅で上品な、流れるような一礼だった。
部屋の中にいたのはスーツ……というより、執事服のようなものを纏っている初老の男性だった。

「初めまして。私、キンモクと申します」
「は、初めまして。レインです」
「レイン様ですね。ゲン様よりお話は伺っております。お口に合うか分かりませんが、どうぞ召し上がってください」
「え!これ、キンモクさんが……?」

洋菓子を並べていた時点でまさかと思ってはいたけれど、この美味しそうなお菓子の数々はキンモクさんが作ったものらしい。まるで既製品のように綺麗な出来映えだった。良い意味で、初老の男性が作ったものには見えなかった。
そして、イスを引いたキンモクさんは私にそこへ座るよう促した。それがあまりにも自然な動作だったので、なにも違和感を覚えずに腰を下ろしてしまった、けれど。
私が困惑していることに気付いたゲンさんは、少し面白がってさえいるようにクスクスと笑った。

「彼はキンモクさん。ホウエン地方から波導の修行をするために来られたんだ」
「波導の修行を……?」
「はい」
「キンモクさんも波導使いなんですか?」
「いえ……私にはどうしてもやらねばならないことがあるのです。それを成すためには波導が必要でして……ある時、シンオウ地方に波導使いがいるという噂を聞き付けて、ゲン様のところまで来たのですよ」
「あの時はビックリしましたよ。でも、正直なところ、話し相手が出来て助かっています」
「ほっほ。それはよかった」
「それにね、レインちゃん。キンモクさんは執事をしていたらしい。だから、波導について教えるお礼の代わりにと、身の回りのことをやって下さっているんだよ」
「そういうことだったんですね」

温かい飲み物がティーカップに注がれていく。甘く優しく、どこか懐かしさを感じるような仄かな香り。
湯気の向こうで、キンモクさんは柔らかな笑みを浮かべている。彼の人柄が感じられるような表情だと思った。

「レイン様もかつてここで波導の修行をされたとお聞きしました」
「あ、はい。そうなんです。ミオシティのジムリーダーに負けてしまったときに、ここでポケモンバトルと波導の修行をしました。なんだか懐かしいな。大変なときもあったけど、楽しくて」
「そうだね。レインちゃんが海に落ちかけて、ラプラスに首根っこをくわえられて助けられたことは今でも覚えているよ」
「そ!そういうことは忘れてください……!」
「ふふっ」
「キンモクさんまで……!」
「いえ、失礼しました。お二人とも仲がよろしいのですね。まるで兄妹のように」

兄妹のようにと、そう口にしたキンモクさんの優しげな眼差しに、柔らかな笑みに、一瞬、影が落ちたような気がした。まるで、どこか遠くを見るような眼差しと、自責するような笑み。

「あの」
「はい?」

もしかしたらこれっきりの出逢いになるのかもしれない。これから先に関わりを持つことはないかもしれない。
それでも私は、この人にこんな物悲しい表情をして欲しくないと思ってしまった。

「私では頼りにならないかもしれないけれど……でも、何か出来ることがあったら教えてください。ゲンさんは波導使いとしてとてもすごい人だから、私なんか出る幕じゃないかもしれないけど、それでも」
「いいえ……ありがとうございます、レイン様」

キンモクさんの表情は先程までのものに戻っていた。この表情が作られたものではなく、自然と浮かぶものになりますように。
淹れてくれた飲み物のように穏やかに温かく笑う彼の願いが、どうか、叶いますように。




金木犀の花言葉:真実
2020.2.29



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