語彙力カッコ笑い
事の発端は「回転寿司とは何でしょう?」という綾華の一言だった。話題になっているゲームと回転寿司のチェーン店がコラボして、オリジナルメニューやグッズを展開するのだと、クラスメイトが噂をしているのが耳に入ったのだという。
その時点で、トーマは一度軽く咽せてしまった。飲んでいた炭酸飲料を吹き出さなかっただけ良かったが、まさか綾華が回転寿司を知らないとは。しかし、神里家の令嬢ともあれば、回る寿司より回らない寿司を食す機会しか巡ってこないことにも納得がいく。
回転寿司とはどのようなところか。トーマが説明しようとしたところに追い打ちが入る。「わたしも知りたいです。お皿にのったお寿司がくるくる回るのかしら?」と、至って真剣に推測しようとしているせつなの発言に、今度こそ口の端から炭酸飲料を零してしまった。そうだ、せつなも神里家に仕える名家、いわゆるお嬢様に分類される家の出身だった。
「大丈夫?」と、ハンカチで口元を拭おうとしているせつなの手を掴み、トーマは言った。「今度の休日、みんなで回転寿司に行こう!」と。
そして、その話を聞きつけた綾人までも巻き込んで、四人で回転寿司に向かうことになったのだった。
来る休日。ネットで来店予約をしていた回転寿司店に入店してすぐに、綾華とせつなは「わぁっ」と小さく声を上げた。綾人ですら、物珍しそうに店内を見渡している。スマートフォンを使って受付を手早く済ませたトーマは、指定された席に向かって三人を先導する。
「これが回転寿司……」
「お兄様、見てください。本当にお寿司がレーンにのって回っています」
「なんだか、わくわくしてしまいますね」
「アハハッ! 掴みはバッチリみたいだね。それじゃあ、席に着くとしよう。オレは奥でタッチパネルを操作するよ」
「たっちぱねる……?」
「ああ。なにせ、回転寿司のメニューは豊富だからね。なかなか流れてこないネタは、タッチパネルを使って自分で注文するんだ」
「なるほど!」
「綾華。こっちで私と一緒に座ろう」
「はい。お兄様」
トーマと向かい合わせの席に座って手招いている綾人に導かれ、綾華は素直にその隣に腰を落とした。
トーマは既にタッチパネルの前の席に座っている。となると、空いている席は残り一つである。
「トーマさん。あの、お隣、失礼します」
「ああ。どうぞ、せつな」
ナイス、若。トーマが心の中で主の機転の速さを讃えていると、控えめに咲く花のような香りが隣に咲いた。
屋敷で一緒に暮らしている兄妹とは違い、トーマが学校以外の場所で、さらに言うと休日にせつなと顔を合わせる機会はほとんどない。もちろん、学園の制服ではなく、私服を見る機会もないに等しい。淑やかさと華やかさを兼ね揃えたロングスカートも、整った鎖骨が上品に見えるニットも、耳元で揺れるイヤリングも、せつな自身から香るものとは違う仄かな香りも、何もかもが新鮮だった。
平静を装いながら、トーマはタッチパネルを外して三人が見えるように向けた。にぎりや巻物、ドリンクはもちろん、期間限定メニューなど項目別に分けてある。綾華がにぎりの項目をタップすると、その日に注文できるネタが写真と値段付きでずらりと並んだ。
「驚きました。このお値段でお寿司をいただけるのですか?」
「しかも、にぎりといってもメニューが豊富のようだ。海老フライアボカドロール、炙りサーモンバジルチーズ、生ハム……」
「若はすぐ変わり種に注目するんですから」
「お兄様! お寿司以外にもケーキやパフェ、コーヒーもあります。まるでカフェですね」
「お嬢も。デザートは最後にしましょう。で、何を頼みます?」
トーマが聞くと、綾人と綾華は口を揃えて「大トロ」と言った。さすがは名家の兄妹。値段も見ずに一番高いネタから入るとは。
「せつなはどんなネタが好き?」
「わたしはあっさりしたものが好きです。ぶりとか、えんがわとか」
「いいね! じゃあ、注文しておくよ」
全員分の注文を済ませると、トーマはタッチパネルを戻して、休む暇なく次の作業に取り掛かった。
人数分の湯飲みを出し、そこへ粉末になっている緑茶を備え付けのスプーンを使って入れる。そして、レーンのすぐ手前にあるボタンを湯飲みでぐっと押すと、蛇口から熱湯が出てきて湯飲みの中を満たしていく。茶碗蒸しなどを食す用のスプーンでお湯を軽く混ぜていると、隣からせつなが問いかけてきた。
「あの、今トーマさん今作っているのは……?」
「これはお茶だよ。はい、どうぞ」
綾人、綾華、せつなの順に出来立ての緑茶を置いていくと、興味津々といった眼差しが湯飲みの中へと注がれる。そして、四人同時に湯飲みの縁に口をつけた。温かい緑茶が喉の奥に落ちていき、体の中がじんわりとあたたまる感覚。四人が同時に緩やかな息を吐き出すと、黒い皿にのった大トロが二皿レーンにのってきて、目の前で止まった。
「私たちの席の前で止まったね。これは取っても良いのかな?」
「ええ。若とお嬢が注文したものですから」
「お兄様。私が取ってもよろしいでしょうか?」
「ああ。いいよ」
レーン側に腰を落としているのは綾人だが、綾華の好奇心に満ちた眼差しを受けて軽く身を引いた。
おそるおそる、しかし楽しそうに、レーンから皿を取っている綾華の様子は、まるで初めて回転寿司に連れてきてもらった子供のように微笑ましい。もっとも、そんなことを口にしたら頬がぷうっと膨らんでしまうことになるのだろう。
トーマは心の中に本音を留めて、目の前のふたりが初めての回転寿司を口にするのを見守った。
備え付けの醤油と山葵を皿に垂らし、大トロを軽く付けてから口へと運ぶ。綾人と綾華は目をぱっちりと開き、顔を見合わせている。
「ふむ、これはなかなか……」
「美味しいです!」
「それはよかった。あっ、せつなのも来たよ。オレが取っても大丈夫かい?」
「ええ。ありがとう、トーマさん」
慣れた手つきで皿を取り、せつなの前にぶりとえんがわの皿を置くと、続いて別の皿がレーンの上で止まった。トーマはそれを取り、今度は自分の前に置いた。蓋を開けると、食欲をそそる美味しそうな香りと共に、湯気がふわりと広がる。三人の視線がトーマの手元へと注がれる。
「らーめん……?」
「ラーメンまでメニューにあるのですか? しかも、それを頼んだのは……」
「オレだよ。回転寿司はサイドメニューが結構充実しているから好きなんだ。ラーメンとか、フライドポテトとか、茶碗蒸しに天ぷら……」
「ずるいです、トーマ」
「私たちも注文しよう。タッチパネルを貸してごらん」
「どうぞ。でも、食べられる量を考えて、ですよ」
「わかっているよ」
一番渡してはいけない人物にタッチパネルが渡ろうとしている気もするが、命とあれば仕方がない。念を押してからタッチパネルを渡すと、本当にわかっているのかと疑わしいにこやかな笑みを返された。
一生懸命、そして真剣に、タッチパネルを操作する綾人と綾華に注意を向けつつ、トーマは隣のせつなに話しかけた。
「せつなは次に何を頼むんだい?」
「わたしは、先ほどから流れているものが気になって……あっ、通りすぎていきました」
せつなの視線はレーンの上を流れている巻物に注がれているようだ。しかし、視線で追いかけているうちにそれは隣のテーブルのほうへと流れて行ってしまう。食べたいのなら注文をすればいい話だが、流れているネタを取って食べてみたいという気持ちもよくわかる。
「来るよ。自分で取ってみる?」
「ええ。ちょっと失礼しますね」
せつなの目当ては誰に取られることもなく、再びトーマたちがいるテーブルに戻ってこようとしている。
トーマはせつなに合図を送り、綾人がそうしたように身を引いた。ふわり、と鼻先を甘い香りが掠める。堪能する間もなく「ああっ!」というせつなの声に現実に引き戻された。せつなの手には何もない。そして、巻物は再びレーンの上を流れて行ってしまった。
「あう……タイミングがわからなくて掴み損ないました……」
「……っっっ」
「わ、笑わないでください」
「ご、ごめ……っ、ち、違うんだ、笑っているんじゃなくて、かわいいなって……っっ」
「笑っていますっ」
運動神経はいいほうだし、普段から鈍いわけでもない。初めての場所で緊張しているのか、それとも他にせつなの動きを鈍らせる要因があるのか、それは本人のみぞ知る話だ。
ただ、目当ての寿司を取り損ねてしゅんとしている姿があまりにも愛らしいと、そう思うことは許してほしい。トーマの場合はそれが溢れて、身を震わせて笑いを堪えるという形になってしまったのだが。
なんとか息を整えると、ちょうど先ほどのものと同じネタが流れてきた。軽やかにそれを取り、せつなへと渡す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
「そういえば、山葵は使わなくて大丈夫かい?」
一皿目を取った時点で教えたらよかったのだが、回転寿司は基本的に何もかもがセルフサービスだ。緑茶を作るのも、箸や皿を用意するのも、そして山葵を使うのも。ファミリー層が多いため、子供も気軽に食べられるようにとほぼすべてのメニューが山葵抜きになっているのだが、せつなは何も言わずに山葵抜きのままの寿司を食していた。もしも知らなかったのなら、申し訳ない。
「……あの」
何かを言いかけては口を閉じ、目を泳がせ、そしてやっと意を決したかのように、せつなはトーマの耳元に唇を寄せた。
「ここだけの話、山葵が少し苦手で……な、内緒ですよ? 子供みたいだって笑わないでね……?」
「大丈夫。今それどころじゃないから」
トーマの不安は杞憂に終わったのだが、今は本当にそれどころではない。好きな相手が隣で食事をしているだけで舞い上がっているというのに、ぐっと近づいた距離感と、耳元で囁かれる甘い声に、心頭滅却するのに忙しい。
ふーっ、と長い息を吐き出して目を開ける。すると、いつの間にかレーンが大渋滞を起こしていた。海老フライアボカドロール、炙りサーモンバジルチーズ、生ハム、ショートケーキ、イチゴのパフェ、などなど。いくらレーンから取っても、次から次へと流れてくる。
誰の、いや、誰と誰の仕業なのかは、考えるまでもない。
「うわっ!? たくさん来た!?」
「おや。思ったよりも来るのが早かったね」
「楽しいです! みなさん、どんどん召し上がってくださいね。欲しいものがあったら私たちが注文しますから」
「ふふっ。いただきましょう、トーマさん」
「まったく」
自分で注文する楽しさを覚えてしまった兄妹を見て、トーマとせつなは目を合わせて笑いあった。
「回転寿司って美味しくて楽しいところなのね」
「だろう?」
(一生懸命/笑わないで/かわいい)2024.02.24