風神の微笑

 風立ちの地。かつてモンドの英雄であるヴァネッサが天空の島に昇ったという言い伝えが残されている場所。風が流れる谷の真ん中には巨大なオークの樹が静かにそびえ立っている。その幹に背中を預けながら、カナリーは木漏れ日の中で風を感じていた。
 『よかったら、今度の休みに風立ちの地まで一緒に行かない?』というミカの誘いがなければ、モンド城を出てこの地を訪れることはなかっただろう。『お弁当を作ってくるよ』という一言まで付け加えてしまわれたら、首を横に振ることはできなかった。ミカの料理は、それはもう美味しいのだ。
 常に風を感じてしまうこの場所に来ることが、怖くなかったといえば、嘘になる。しかし、この地はカナリーをあたたかく迎え入れた。風は優しくカナリーの頬を撫で、葉の隙間から差し込む光は柔らかな影を落とし、風晶蝶は踊るように舞っている。酷く穏やかな気持ちだった。

「風が気持ちいいなぁ……」
「この地に吹くそよ風は止むことがない。だから、風を感じたいときはここに来るのが一番だよね」
「うん。私も冒険に出る前にはよくここに来て、今回の冒険もうまくいきますようにって、風神様にお願いしてたんだ。ここには七天神像と、モンドを守った英雄ヴァネッサが残したって言われているオークの木があるから」

 この地はモンドを象徴する場所、といっても過言ではないだろう。西風騎士団のジンもよくこの地を訪れると噂に聞くくらいだ。
 風を感じながら七天神像とオークの樹に祈りを捧げると、風神が見守ってくれる。そんな気が、していた。

「カナちゃん、あの」
「あっ」

 ミカの言葉を遮り、カナリーは巨木の向こう側を指さした。水辺の近くにはいくつかの元素石碑と呼ばれるギミックが、間隔を空けて並んでいる。

「ミカくん、あそこ! あんなところにギミックなんてあったっけ?」
「いや、僕が地図に記録している限りではないみたいだ」
「じゃあ、すぐに地図に描き加えておかなきゃ! ねっ?」
「う、うん。でも……」
「私のことは気にしないで! 少しくらい一人で待ってるよ」
「……わかった。なるべく早く戻ってくるね」

 カナリーのことを気にしながらも、ミカは総合型前進測量装置を抱えて元素石碑の元に向かった。
 ミカはいつだって優しい。それに、常に他人に視線を送り様子を気にかけてくれる。カナリーをこの地に誘ったのも、単なる暇潰しや気まぐれではないだろう。きっと、カナリーを励ますため。風に恐怖を覚えてしまったカナリーの背中を押すためだと、理解している。

「わかってる。モンドの風は、本当は優しいんだって。でも……」

 それでも、一度植え付けられた恐怖心は簡単に消えてくれない。暴風に巻き込まれて落下し、大怪我を負ったときのことを思い返すだけで、手が震えて仕方がない。
 誤魔化すように手のひらをぎゅっと握り込んだとき、カナリーの耳に鳥の鳴き声が届いた。ピイ、ピイ、と今にも消えてしまいそうに弱々しい声だった。
 立ち上がって、木の幹の輪郭を伝うように歩く。すると、ちょうど半周したところの地面に金色のヤマガラが落ちているのを見付けた。まだ目が開き切っていないし、羽は生え揃っていない。

「……ヤマガラだぁ。まだ赤ちゃんみたい。あなた、パパやママは?」

 当然ながらヤマガラの雛は何も答えない。しかし代わりに、頭上から親鳥と思われる声が降ってきた。絶え間なくピイピイと鳴いて落ち着きがない様子は、はぐれた子供を探している人間の親と重なるものがあった。

「もしかして、おうちから落ちちゃったのかな? どうしよう……」

 人間が雛に触れてしまえば、人の匂いを警戒した親鳥から育児放棄されることがある、と聞いたことがある。しかし、どちらにせよ目の前の命は放っておいたら消えてしまう。
 カナリーは意を決して靴を脱ぎ、ヤマガラの雛を手のひらですくい上げた。

「待ってて。私がおうちに連れて帰ってあげるから」

 ヤマガラの雛を肩に載せると、両手でオークの樹の窪みを掴む。そして、素足を樹に添えて力を込め、少しずつ登って行った。オークの樹は太くずっしりしているが、案外凹凸が多く登りやすかった。太い枝まで辿り着いたところでふうと息を吐くと、数メートル先に鳥の巣を見付けた。二羽の金のヤマガラがカナリーを見付けて鳴き声を上げると、肩でヤマガラの雛が小さく囀った。

「あれがあなたのおうちなのね? 待ってて。もう少しだから」

 ゆっくり、ゆっくりと四つん這いになって枝を進む。前進するにつれて枝は細くなって行き、バランスをとるのが難しくなっていく。
 不格好にぐらつきながらも枝の中心まで進んだとき、ふと、肩に載っていたヤマガラの雛が小さく羽ばたいた。もちろん、羽が生え揃っていない翼では飛べるはずがなく、枝の上にべちゃりと落ちてしまった。しかし、すぐに二本の足で立ち上がり、両親のもとにちょこちょこと歩いて行ったのだ。
 カナリーの不安をよそに、親鳥は雛を迎え入れた。不安そうだった鳴き声が弾むような声に変わったのを確認して、カナリーは胸を撫で下ろした。

「よかった。私も降りないと……」

 ドクン、と心臓が大きく跳ねた。ここがどこで、どういう状況に自分が置かれているのか、改めて思い知る。

「あまり下を見ないように……大丈夫、大丈夫……」

 一人きりになってしまったことで、じわじわと恐怖が甦ってくる。完全に体が動けなくなってしまう前に、カナリーは少しずつ後退を始めた。焦らないように、慌てないように、確実に、少しずつ、少しずつ。しかし、意識すればするほど、恐怖が手足に絡み付いてくる。

「あ」

 視線が揺れる。重心が落ちる。反射的に力を込めた両手は枝をしっかりと掴み、それ以上の落下を防ぐことはできた。今は、の話だが。

「っ、落ち、ちゃう……っ」

 ごく普通の少女が、二本の細腕で自分の体重を支え続けていられるはずがない。もって五分が限界だ。それまでに、どうすれば助かるのか必死に脳を回転させる。
 ミカが戻ってくるまで待つか? 戻ってきたとしても、ミカがここまで登って引き上げてくれるまで腕がもたないだろう。諦めて手を放して受け身を取ってみるか? 命は助かるかもしれないが、また落下の恐怖を味わってしまったらもう二度とモンド城から出られないだろう。
 いくつか方法を思い浮かべてはみても、すぐに弱気な感情にかき消されてしまう。そうしている間にも、指先から少しずつ力が失われていき、ずる、ずると体が下がっていく。

「カナちゃん!」
「っ、ミカくん」

 ミカが戻ってきてくれたと安堵した瞬間、一気に体が落ちた。指先の感覚はほとんどない。落下するのも時間の問題だった。縋るようにミカに視線を送ってみたが、ミカはまだオークの樹からだいぶ離れたところにいる。走ってきてくれたところで、きっと間に合わない。

「飛んで!」

 ミカはがむしゃらに走りながら声を張り上げた。カナリーはすぐさま首を横に振った。

「無理だよ、こわい……っ」
「カナちゃんならできる! それに、もしまたカナちゃんが落ちたとしても、僕が受け止める!」
「っ、ミカ、くん」

 それはまるで、眠れずに過ごした夜に、ようやく夜明けが訪れたような、そんな感覚だった。真っ暗な地平線が明るんでいき、太陽が顔を出し、空をブルーモーメントに染める。そんな、感覚。
 自分だけの決意では、ダメだった。いくら勇気を振り絞ろうとしてみても、鳥籠の中に慣れた翼を広げるには足りなかった。
 しかし、ミカの言葉なら。姉弟のようだといわれるくらいずっと一緒にいる、半身のような存在の言葉なら、信じられた。「できる」も「受け止める」も、疑うことなく信じられたのだ。

「……っ!」

 カナリーは自らの意志で両手を離した。そして、身体が落下を始める前に風の翼を広げる。
 その瞬間、神の微笑が小さな風となり、カナリーの翼を仰ぐように押し上げた。
 果てしなく広がる遥かな空。様々な香りが混じった風の匂い。地上では感じられない浮遊感。カナリーはかつて当たり前だった景色を、再びその瞳に映していた。
 両手を広げて、ゆっくりと滑空する。もう恐怖はなかった。そこに、同じように両手を広げて待ってくれているミカの姿があったから。
 全身を使って、ミカの腕の中に飛び込む。言葉通り、ミカはカナリーを抱きとめるとその場に腰を落とした。

「カナちゃん、大丈夫!? どこか怪我はない!?」
「……うん。大丈夫」
「よかった……本当によかった……!」
「ミカくん、私……」
「そうだ! カナちゃん! カナちゃんはちゃんと飛べたよ!」

 そう、飛んだ。飛べた、のだ。その実感がじわじわと湧き上がってきて、カナリーの瞳から涙となって溢れ出てきた。

「ミカくん。私、やっぱり……飛ぶことが……好き……っ!」

 ミカに抱きついてわんわんと泣き声を上げながら、自覚する。恐怖に翼を奪われようと、諦められないくらい、飛ぶことが、空が、風が好きだと。
 ミカはただ頷き、カナリーが落ち着くまで背中を撫でてくれていた。すん、すん、と鼻を啜りながら立ち上がると、泣き腫らしてぼんやりとした頭であることに気付く。ミカと視線は変わらなかったはずなのに、どうして今はミカの視線のほうが高いのだろう、と。

「……あれ? なんだろう、間に何か挟まってる?」
「カナちゃん、これは……!」

 胸元あたりに違和感を覚えたカナリーは、目を擦りながらミカから離れた。すると、カナリーとミカの体に挟まっていた何かが、支えをなくして落下する。地面と衝突する前にミカがそれを手のひらで受け止めた。翼のような形状をした金色の枠にはめ込まれているターコイズグリーンの石は、紛れもなく風元素の神の目だ。

「これ……もしかして……私の神の目……?」
「風神様がカナちゃんの勇気を見守っていてくれたのかもしれないね」
「……うんっ」

 遠回りしたけれど、長かったけれど、ようやく授けられた自由の証を、カナリーは力強く抱きしめたのだった。



2023.07.23