結氷の勇気

 初めて一人で秘境に入った日のことを今でも覚えている。スライムを倒し、風の翼を使ってトラップを越え、悪戦苦闘してギミックを解き、ようやく辿り着いた秘境の最奥には、重厚な装飾が施された宝箱が静かにそこに在った。まるで冒険者に見付けてもらえるのを待っていたかのように、カナリーが触れた瞬間、宝箱は呆気なく開いた。中に入っていたのは、モラが詰まった袋。魔鉱と呼ばれる鉱石。そして――鳥籠の形をした魔法具。いわゆる法器と呼ばれるものだ。
 法器は通常、武器そのものに元素力が宿っていない限り、元素力を使役できる人間――つまり、神の目を持つ者しか扱うことはできない。神の目を持たず、人より少し飛行に長けているカナリーにはその法器を扱えない。しかし、初めて一人で冒険して手に入れることができた宝物を、カナリーはお守りとして部屋の窓辺に飾っていた。
 いつかその宝物と共に空を駆け巡る日が来たら、と。

「カナリー!」

 彼方を漂っていた思考が現実へと呼び戻され、はっと顔を上げる。レストラン鹿狩りのテラス席で、カナリーと共に丸テーブルを囲んでいるバーバラとノエルは、心配そうにカナリーの様子を伺っていた。

「どうしたの? ぼーっとしてたよ?」
「どこかお体の具合が悪いのでしょうか?」
「う、ううん。大丈夫だよ! ありがとう。バーバラちゃん、ノエルちゃん」
「お待たせしました。午後のパンケーキです」
「うわぁ!」
「美味しそう!」
「ありがとうございます。サラさん」

 サラが運んできてくれたパンケーキを前にして、三人は小さく歓声を上げた。こんがりとした焼き色が付いたパンケーキには、甘い香りを漂わせるメープルシロップがかけられている。パンケーキの中央にはラズベリーが飾り付けられていて、彩りを演出している。フォークでパンケーキを押さえながら、ナイフで切り分けて口へと運ぶと、甘く柔らかな食感が口の中いっぱいに広がった。

「ん〜っ! 美味しい! やっぱり甘いものは最高だねっ!」
「はい。そうですね」
「バーバラちゃんは、今日は辛いものじゃなくてよかったの? スパイシーフィッシュとか、そういうの好きだよね?」
「いいの。今日は女子会だもん。女子会には甘いものじゃないと!」
「そういうもの、なのでしょうか?」
「そういうもの! それに、私は甘いものも好きだもん。例えば、ノエルが作ってくれるお菓子とか!」
「うんうん! ノエルちゃん、お菓子作り上手だもんね! ふわふわパンケーキなんか絶品だもん!」
「そ、そんな……ありがとうございます」
「ふふっ。最近みんなどう? なにか変わったこととかあった?」
「私は毎日いつも通りです。お掃除、お洗濯、お茶の準備にガイアさまのお使いなど……まだまだ、本物の騎士への道は遠いです。でも、全て騎士になるための大切な任務だと思っています」
「私のほうも最近は変わったことはないかな〜。怪我をして教会に来る人の治療をしたり、エンジェルズシェアに公演に行ったり、風神様に祈りを捧げたりね」
「そっかぁ。でも、いつも通りってことは平和ってことだもんね! それっていいことだよ!」

 甘くて可愛いものを食べながら、同世代の友人と談笑する。この時間がカナリーは好きだった。特に実のある話をする必要はなく、ただ顔を見て楽しい時間を過ごすことができればそれでいい。それだけで、いい。

「カナリーは? 最近何かあった?」
「私? 私も相変わらずかな〜。ママのお手伝いをしてお野菜を収穫したり、露店で出すお料理の練習をしたり……」
「そういえば、カナリーは例の幼馴染みとはどうなったの?」

 バーバラの声色と目の色が、若干変わったような気がするのは気のせいだろうか。何かを期待している、そんな表情だ。

「幼馴染みって、ミカくんのこと?」
「そう! 西風騎士団、遊撃小隊の前進測量士……だったよね? 少し前にモンドに帰ってきたんでしょう?」
「うん。そうだよ」
「その人と、こう……なにかないの?」
「なにかって、なにが?」

 いったい何を期待されているのだろうと、首を傾げてパンケーキを咀嚼しながらミカの顔を思い浮かべる。すると、今の今まで忘れていたことが急に浮上してきた。

「あ! そういえば……」
「うんうん」
「この前、モンドの地形が変わったところがないか一緒に探しに行く約束をしていたの。でも……ちょっと私の都合が悪くなって、すっぽかす形になっちゃったから謝らなくちゃ」
「うーん、私が聞きたかったのはそういうことじゃないんだけどなぁ……」
「クレーせんぱ〜い! 待ってくださ〜い!」
「あっ!」

 噂をすれば、だ。カナリーたちが声のするほうへ視線を送ると、ミカが小さな女の子――クレーを追いかけて、鹿狩り前の広場を駆け抜けていくところだった。
 カナリーは残っているパンケーキを急いで口の中に頬張ると、自分が食べた分のモラをテーブルに置いた。そしていそいそと立ち上がり、椅子に掛けていたクロスボウを肩に担いだ。

「ミカくんだ! ふたりとも、ごめんなさい! 今日はこれで抜けてもいい?」
「はい。ミカさまによろしくお伝えください」
「その代わり、いつかいい報告を期待して待ってるからね〜!」
「う、うん? わかった!」

 最後まで首を傾げながらも、カナリーはバーバラとノエルに手を振りながら鹿狩りを後にして、急いでミカの後ろ姿を追いかけた。モンド城の門を潜るときに、心臓が小さく締め付けられるような緊張感を覚えたが、橋の先でミカに追い付くとすぐにいつもの調子を取り戻すことができた。

「ミカくん!」
「えっ、カナちゃん?」
「こんにちはっ! 姿が見えたから追いかけてきちゃった。えっと、その赤い子は確か……西風騎士団、火花騎士のクレーちゃん!」
「お姉ちゃん、ミカお兄ちゃんのお知り合い?」
「うん。私はカナリー。ミカくんの幼馴染みなんだ」
「カナリーお姉ちゃん。はじめまして。クレーだよ! よろしくね!」
「よろしく、クレーちゃん」

 膝を折り、視線を合わせて挨拶をする。若き火花騎士の噂はかねがね聞いていたが、こんなにも小さな女の子だということを改めて認識すると、本当に彼女が騎士なのだろうかという疑問が湧いてくる。クレーという少女があまりにも無垢で愛らしいから、こんな少女でも戦場に赴くときがあるといわれても、現実味が感じられなかった。

「ふたりは何をしていたの?」
「クレー先輩の新しい武器の実験をするために、ドラゴンスパインの麓に向かうところだったんだ」
「さっきも思ったけど……クレー『先輩』?」
「うん。クレー先輩は僕よりも早く騎士になった先輩で、ファルカ大団長とも対等に渡り合える『強者』らしいんだ」
「ええっ!? こんなに小さいのに!?」
「ミカお兄ちゃん。早く行こう。クレー、早くドカーンって試したい!」
「は、はい。思う存分試してください! もし地形が変わったとしても、僕が地図を描き直しますから!」

 どうやら、ふたりは本当にドラゴンスパインに向かうようである。ドラゴンスパインといえばモンドの南東に広がっている広大な山のことで、雪に覆われた古代遺跡が山頂にあるという噂だ。しかし、人間が生存できないほどの極寒の地域であり、生息する魔物のレベルが高く、モンドの中で最も危険な場所ともいわれている。ドラゴンスパインに続く道の途中には冒険者の拠点があるが、雪山に挑む冒険者は少なく、足を踏み入れたとしても遭難してしまう冒険者だって多い。
 そんな危険なところに、ミカが行こうとしている。となると、カナリーがとる行動は決まっていた。

「ミカくん。私も一緒に行っていい?」
「え? カナちゃんも?」
「うん。だって、心配だもん。それに、この前一緒にお出掛けする約束をしていたのに、私が帰っちゃったから……ごめんなさい」
「そんなこと気にしなくていいのに」
「ううん。私が一緒に行きたいの! ……ダメ?」
「ダメじゃないけれど……カナちゃんはモンド城の外に出ても大丈夫?」

 は、とカナリーが目を見開くと、ミカは気まずそうに視線を落とした。

「ごめん。冒険者協会のかたに話を聞いたんだ」
「そっか。……気にかけてくれてありがとう。でも、大丈夫だよ。モンド城の外に出ると言っても、空を飛ぶわけじゃないんだから」
「でも……」
「ミカお兄ちゃん! カナリーお姉ちゃん! 早く〜!」
「ほら、クレーちゃんが待ってる。私は大丈夫だから行こうっ」
「う、うん。じゃあ、なるべく魔物がいないルートを通っていこう。僕についてきて」
「そうだね。ミカくん、ありがとっ」

 大丈夫、大丈夫だと、何度も心の中で唱えながらモンド城から離れていく。いつ何が起こってもいいように、クロスボウからは決して手を放さずに。
 しかし、地図を手にしたミカの導き通りに進むと、本当に魔物と出くわすことなくドラゴンスパインの麓に辿り着くことができた。前進測量士としてのミカの能力にカナリーが改めて感心していると、ミカは大きな湖の前で足を止めた。

「この辺がいいかな」
「ミカお兄ちゃん、ドカーンってやってもいい?」
「さっきから思ってたんだけど、クレーちゃんの武器っていったい……」

 火花騎士というくらいだから、アンバーのように炎の矢を扱うのだろうか。それとも、ベネットのように火花を散らしながら片手剣を振るうのだろうか。
 様々な可能性を考えていたが、目の前で強烈な閃光が弾け、直後に轟音が響き渡ったとき、カナリーはそのどれもが的外れであったことを悟った。クレーは本の形状をした法器を手元に召喚した直後、生み出した爆弾を湖目掛けて放り投げたのだ。水飛沫が高くまで上がり、周辺を水浸しにする。輪郭が崩れた湖は、一回りほど大きくなってしまった。

「す、すごい……っ! 湖が沈んじゃった!」
「これは、やっぱり地図を描き直さないと……っ、カナちゃん! クレー先輩! 伏せて!」

 緊迫したミカの声が、雪原に響き渡った。反射的に身を屈めると、鋭い矢じりが飛んできて木の幹に突き刺さった。
 どうやらクレーの爆弾は、湖だけでなくヒルチャールの集落まで爆破してしまったらしい。怒りの矛先が向かうのはもちろん、彼女だ。

「ヒルチャールの群れ……っ。ミカくん、クレーちゃん、逃げ……」
「弾けろ〜!」

 カナリーの声は爆風と爆音によりかき消された。クレーは次々と爆弾を召喚しては、襲ってくるヒルチャールに投げつけている。まるで爆弾の実験をするように、楽しそうに。

「ひ、ヒルチャールたちが吹き飛んだ……」
「カナちゃん!」
「え?」

 自身の体が黒い影に覆われていることに気が付いたカナリーは、ゆっくりと振り向いた。そこには、巨大な斧を持っているヒルチャール暴徒の、姿が。

「っ、つ……!」

 瞬時にクロスボウを構えて矢を発射したが、斧に簡単に弾かれてしまった。その刃はカナリーに狙いを定め、振り下ろされようとしている。
 キン! と、目を閉じたカナリーの耳に鋭い音が聞こえてきた。ゆっくりと瞼を持ち上げると、そこには身丈以上の長さの槍で斧を受け止めたミカの姿があった。
 ヒルチャール暴徒はいったん斧を引っ込めて、再度大きく振り上げた。斧が振り下ろされる前に、ミカは横へと飛びのき、槍を振り上げてヒルチャール暴徒を怯ませる。間髪入れずに左手にクロスボウを持つと、二発の矢をヒルチャール暴徒の体に撃ち込み、止めに槍を突き立てた。ヒルチャール暴徒の体はぼろぼろと崩れていき、真白な雪に吸い込まれるように消えてしまった。

「すごい……クレーちゃん、あんなに小さいのにヒルチャールたちを簡単に倒してる……ミカくんも、クロスボウだけじゃなくて槍まで使えるようになったんだ……」

 ぎゅ、と自身のクロスボウを握りしめる。幼いころからミカの手を引かなければいけないと、ミカを守らないといけないと、ずっと思っていたのに。いつの間にか、ミカはこんなにも遠くに進んでいた。

「なにも変わってないのは……私だけだ……っ」

 いつまでも恐怖に囚われて、過去にしがみ付いていた。鳥籠の中で生きていれば安全だけれど、決して前に進むことはできないのだと、この日カナリーは思い知ったのだった。



2023.07.18