両翼の喪失
夜と朝の狭間。朝焼けが水平線を染める青の瞬間に、幼い頃の夢を見た。カナリーは右足に包帯を巻き直しながら、夢の中の想い出をゆっくりと思い返した。幼い頃、カナリーは今と同じように明るく天真爛漫だったが、少々落ち着きがないところがあるお転婆な女の子だった。そして幼馴染みのミカはというと、今と同じように洞察力に長けている優しい男の子だったが、今以上に控えめでいつも誰かの一歩後ろにいた。そんなミカのことを近所に住んでいたカナリーはいつも気にかけて、手を引いていろんな所へと連れ出していた。
だから、今もミカには自分が必要だ。カナリーは改めてそう認識し、家を出た。何かあったときのためにクロスボウを肩にかけることも忘れない。今日は久しぶりにモンドを探索しに行くミカについて行く日なのだ。万が一魔物に出くわしたら戦わなければならないし、ミカのことを守らないといけない。
大丈夫、大丈夫だと言い聞かせながら約束の場所へと向かう。
モンド城の噴水の広場にはすでにミカの姿があり、分厚い本のようなもの――総合型前進測量装置に視線を落としている。あの装置のことをカナリーはよくわかっていない。わかっていることといえば、あれは前進測量士であるミカの大切な相棒のようなものであり、地図を描く上で重要な装置だということくらいだった。
カナリーがミカに近付いていくと、足音に気が付いたミカが装置を閉じて顔を上げた。
「おはようっ! ミカくんっ!」
「おはよう、カナちゃん」
「ごめんねっ。少し遅れちゃった」
「ううん。僕が早く着きすぎただけだし、このくらい全然大丈夫だよ。それに今日、カナちゃんは僕がいない間に変わった場所を案内してくれるんだから」
二人の足は自然と城門のほうへと向かっていた。一歩、また一歩、モンド城の外の世界へ近付いていく。
「う、うん! でも、私が知っている情報はそんなにないんだ」
「少しでもすごく助かるよ。そういえば、モンドでは龍災があったんだよね?」
『龍災』という単語を耳にすると、カナリーの肩が微かに跳ねた。本人にすらわからないほどの、些細な同様。それを無意識のうちに抑え込んで、平静を努める。
「う、うん。そうだよ。よ、よく知ってるね」
「ガイア隊長から聞いたんだ。なんでも、風魔龍がその巨体と風でモンドを襲って、城内を混乱に陥れたとか。その事件を解決したのが栄誉騎士である旅人さん、だよね?」
「うん……」
「もしかしたら、その事件でモンドの地形が変わった場所があるかもしれない。強い風で崖が崩れたり、岩が落ちてきて道が塞がったりね。そういうところを記録して地図を更新したいんだ。……そういえば、カナちゃんは、そのとき大丈夫だった? モンドにいたんだよね?」
「わ、私は……」
心優しいミカのことだから、いつかは聞かれると思っていた。モンドが混乱に陥っていたそのとき、カナリーもその中に巻き込まれることはなかったのか、と。幼馴染みなのだからそのくらいわかる。
それでも、聞かれなければいいと思っていた。聞かれてしまえば、ミカを相手に嘘は付けないから。
「飛べなくなっちゃったの」
「えっ?」
カナリーはワンピースの裾を少しだけ持ち上げた。右足の膝よりも少し上の部分。スカートの丈に隠れるか、隠れないかのギリギリのところに、白い包帯が巻かれていた。
「その包帯……」
「私、冒険者協会に所属していたでしょう? 龍災が起きたあの日も、モンド城の外で冒険していたんだ。でも、風の翼で空を飛んでいるとき……」
そこまで口にしたそのとき、喉の奥から何かがこみあげてくる気配を感じて思わず膝をついた。胃の中身を吐き出すことはなかったが、上手く息が吸えずに意識が霞む。遠くでミカの声が聞こえる中で、あの日の出来事がフラッシュバックする。
落ち葉のように呆気なく舞い上げられた身体。折れて使い物にならなくなった翼。風が渦巻く中で何度も反転した視界。そして風が止んだ後、翼が折れた金糸雀はただ地へと落ちるのみ――。
「っ、やっぱりごめん!」
「あっ、カナちゃん! 待って!」
ミカの静止を振り切って、カナリーは走り出した。外は危険だ。だから、家の中へ、鳥籠の中へ戻らなきゃ。そこに自由はないけれど、その代わり、風は吹かない。もう二度と怖い思いをすることも、痛い思いをすることもないのだ。
* * *
走り去ったカナリーをミカはしばらく追いかけていたが、すぐに見えなくなって足を止めてしまった。運動神経が優れているとはいえ、カナリーは普通の女の子だ。西風騎士団に所属しているミカが本気を出して走ったら、もしかしたら追い付いたかもしれない。追い付いて、話の続きを促すことができたかもしれない。
それでも足を止めたのは、直接話を聞く勇気が出なかったから。またカナリーを混乱させてしまうことが、怖かったから。
「あんなカナちゃん、初めて見た……」
ミカは来た道を引き返しながら、思考を巡らせた。
カナリーは昔から運動神経がよかった。その能力があって、カナリーは若くして風の翼の飛行試験に合格し、飛行チャンピオンであるアンバーと切磋琢磨して飛行技術を磨いていたことを、ミカは記憶している。
それに、カナリーは空が好きだった。風を感じ、飛ぶことが好きだった。そんな彼女が「飛べなくなった」のは、一体どうしてだろう。
「カナちゃんに何があったんだろう」
そこまで考えて足を止めたミカの視界に、二人の人物の姿が見えた。
「あのお二人は、確か冒険者協会の……!」
ミカと彼らに面識はない。初対面の人と会話することが苦手なミカにとって、自ら知らない人に話しかけることは大きな勇気を必要とした。
「あの、すみません!」
しかし、今回ばかりは考えるよりも先に声をかけてしまっていた。絆創膏を鼻の頭に付けた少年――ベネットと、鴉を連れた眼帯の少女――フィッシュルは、冒険者協会の受付の前から去ろうとしていた足を止め、ミカのほうを振り返った。
「あの、僕は西風騎士団のミカと申します。お二人は冒険者協会の方、ですよね?」
「ああ! オレはベニー冒険団の団長、ベネットだ! こっちは……」
「わたくしは断罪の皇女、名はフィッシュルよ」
「ベネットさんに、フィッシュルさんですね。初めまして。あの、お聞きしたいことがあるのですがお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「あなた、なかなか礼儀をわきまえているわね。よろしい。このわたくしへの問いを許しましょう」
「何でも気軽に訪ねてください、とお嬢様はおっしゃっています」
「わっ!? 鳥が喋った……?」
「申し遅れました。私はオズ。フィッシュル様の眷属の鴉にございます」
「は、はい。ご丁寧にありがとうございます」
喋る鴉に動揺しつつも、二人に声をかけた目的を果たすためにミカは問う。冒険者協会の二人なら、きっとカナリーについてなにか知っているはずだ。
「あの、カナリーという女の子を知っていますか? お二人と同じようにモンドの冒険者協会に所属しているのですが……」
「カナリーか! もちろん知ってる! 何度か一緒に冒険したことがあったからな。オレの不運も笑い飛ばして明るい気持ちにさせてくれる子だ」
「金糸雀の少女のこと? かつては雄大な空を駆け、わたくしと運命を共にすることもあったわ」
「共に冒険する中で彼女の飛行の腕前にはたびたび助けられた。感謝している。という意味です」
やはり、二人はカナリーのことを知っていた。そして二人が話してくれた内容も、ミカが知るカナリーと一致している。
しかし、一点だけ気になったことがあった。それが顔に出ていたのか、ミカの目の前でベネットが首を傾げた。
「どうした? オレたち、何かおかしなことでも言ったか?」
「い、いいえ! ただ『冒険したことがあった』とか『運命を共にすることもあった』とか、お二人ともまるで昔のことのように話をされるのが少し気になって……」
「そりゃあな。カナリーはもう冒険者協会を辞めたから」
「えっ!? 冒険者協会を辞めた……!?」
そういえば、カナリーが口にしていた言葉も過去形だった。『私、冒険者協会に所属していたでしょう?』と。聞いたときは特に深い意味を持ち合わせているとは思わなかったが、まさか。
口を結んで黙り込んでしまったミカに、フィッシュルは肩に落ちた髪を優雅に払いながら問いかけた。
「あなたは金糸雀の少女とどのような関係なのかしら?」
「……僕はカナちゃんの幼馴染みで、昔からずっと一緒に過ごしてきました。でも、半年ほどモンドを離れていて、その間カナちゃんの身に何が起こったのか、僕は知りません……」
「半年か! そりゃあ知らなくて当然だ。カナリーが冒険者協会を辞めたのは龍災に巻き込まれて怪我したからなんだ」
「龍災に巻き込まれた……?」
「そう。黄金の翼が折れたとき、小鳥は地へと落ち二度と空を臨まなくなった。自らの意志で鳥籠の中にいることを選び、翼を休めては風に怯え、今ではかつて傍にあった空を見上げている……」
「風の翼で飛行中に暴風に巻き込まれて墜落して以来、彼女は恐怖から飛ぶこと諦め、冒険者協会を辞め、モンド城の中で静かに暮らすようになった。という意味です」
「……カナちゃんが……そんな……」
ミカにとっては簡単には信じられない話だった。ミカが知っているカナリーは、空が好きで、飛ぶことが好きだった。モンドの空を自由に駆けて、いろんな場所を冒険していた。西風騎士団に入るために勉強や訓練をしていたミカに、いろんな冒険の話を聞かせてくれた。それなのに。
「でもさ、幼馴染みなら知ってると思うけど、カナリーはあんなに飛ぶことが好きだっただろ? 本当は今も飛びたいんじゃないかって思うんだ。どうにかしてやれたらいいんだけどな……」
「安易に干渉してはいけないわ。わたくしのこの断罪の目が疼くの。彼女を連れ戻せば運命は繰り返す、と」
「心の傷を癒せていない彼女を無理やり連れ出すのは心配だ、とおっしゃっています」
「そう、ですよね……」
「オレたちはそろそろ行くけど……ミカだっけ。大丈夫か?」
「はい。お話を聞かせてくださりありがとうございました。失礼します」
ミカは深々と頭を下げると、城門から外へ出ていくベネットとフィッシュルの背中を見送った。
幼かったころの記憶が脳裏を霞める。カナリーはいつも笑顔で、空に浮かぶ太陽のような存在だった。そんな彼女にいつも助けられ、勇気付けられてきた。
「カナちゃんは昔から、引っ込み思案な僕の手を引いて、みんながいるところに連れ出してくれた。そんなカナちゃんのために、僕には何ができるのだろう……?」
空を見上げて問いかけてみても、風は何も物言わない。くるくると回る風車を眺めながら、ミカはいつまでも選ぶべき答えを探していた。
2023.06.05