豊穣の祭典

 ブリーズブリュー祭――秋風が大地を撫でる頃に開かれるモンドの行事。バドルドー祭や風花祭と同じく、モンドの伝統的な祭りのひとつである。秋の西風と一緒にモンドへ帰って来るといわれている風神――バルバトスを迎えるため、そして収穫の喜びを分かち合うため、人々はこの日にとっておきの美酒を開けるのだ。
 今年のブリーズブリュー祭は、西風教会と冒険者協会が協力し合い、ブリューフェアを開催することになっている。父と姉が冒険者協会に属しているカナリーの元にも協賛の依頼があり、カナリーは母親と一緒に畑で採れた野菜や果実を使った軽食やジュースを振る舞う予定だった。

「カナリー! そろそろ行くわよー!」
「あっ、ママだ。はーい!」

 玄関のほうから母親の声が聞こえて、カナリーは自室から大きな声で返事をした。
 確か、今年のブリーズブリュー祭の会場は清泉町の郊外だったはずだ。向かうにはもちろん、モンド城の門から外に出なければならない。
 カナリーの左胸の奥で、心臓がいつもよりも速く鼓動を刻んでいる気がする。目を閉じて意識を集中させてみると、すぐ耳元でその音が聞こえてくるようだった。

「……大丈夫。みんな一緒だし、それに……空は飛ばないんだから」

 カナリーは二つに結った髪を払って両頬を軽く叩くと、母親と共に家を出たのだった。

 清泉町は蒼風の高地の南東にある小さな町だ。石畳の道や二階建ての住居が建ち並ぶモンド城と違い、土舗装の道と小さな平屋で構成された町である。そんな小さな町のシンボルである一基の風車と自然にわき出る湖のまわりには、ブリーズブリュー祭のために用意された装飾品が飾られている。頭上を見上げれば三角が連なったフラッグと風船が蒼穹を彩り、地上を見渡せば様々な露店が祭りを一層賑わせている。祭りの中心に設置されたステージの上では、吟遊詩人たちが歌を口ずさみ楽器を奏でている。
 カナリーはというと、露店の下で母親と二人で忙しく働いていた。カナリーたちの露店が出している、家の畑で採れた野菜や果物から作られたジュースやサンドイッチは、祭りを見て回りながら片手に食べるのにちょうど良く、売り上げは上々だった。
 太陽が空の一番高いところを過ぎた頃。ようやく客足が落ち着いてきて、カナリーは笑顔を浮かべっぱなしだった顔の筋肉を緩めた。そのとき。

「カナちゃん」
「あっ、ミカくん! 来てくれたんだねっ!」
「うん。今、大丈夫そう?」
「うんっ! お客さんが少ないときを見計らって来てくれたんだよね? ありがとうっ!」

 様子を伺いながら露店の前に立ったのは、ミカだった。営業的な笑顔とは違い、自然と表情が綻んでいくのが自分でもわかった。
 カナリーは手作りのメニュー表をミカの前に差し出した。

「どうする? なにか飲み物でもどう?」
「そうだね。せっかくだから、いただこうかな。カナちゃん、オススメはある?」
「オススメはねー……これっ!」
「バケーションサイダー?」
「うんっ! でも、普通のバケーションサイダーとは少し違うから、見てて」

 カナリーはヴァルベリーを取り出すと、フルーツナイフで真ん中から半分にカットした。そしてその断面をフルーツボーラーでくり抜き、透明な容器の中に入れていく。他の果物でも同じことを繰り返していくうちに、透明な容器の中はまるで宝石箱のように様々な色のフルーツが詰まっていった。

「氷の代わりに、丸くくり抜いた果物を入れるの。夕暮れの実とググプラムはもちろん、ヴァルベリー、リンゴ、ラズベリー」
「カナちゃんが好きなものばかりだね」
「うんっ! あとは普通のバケーションサイダーと同じように、夕暮れの実とググプラムの果汁を絞ってグラデーションになるように注げば……」

 夕暮れの実の果汁、サイダー、そしブルーの果汁が順番に注がれる。そして最後に少しだけ混ぜてやると、果汁の境界線が溶け合い美しいグラデーションが完成する。まるで水平線から朝日が昇るときの空のように。

「カナリー特製のジュース『ブルーモーメント』完成っ! どうぞ、召し上がれ」
「ありがとう! いただきます」

 ミカが容器の縁に口を付け、傾ける様子をドキドキしながら見守る。ミカの瞳はすぐに輝き、口元は大きな弧を描いた。

「美味しい!」
「ほんと? よかったぁ」
「カナリー。ミカくん」
「あ、ママ」
「こ、こんにちは」

 カナリーの母親が声をかけると、ミカは礼儀正しく頭を下げた。「長い付き合いなんだからかしこまらなくていいのに」と、カナリーの母親は娘とよく似た笑顔を浮かべた。

「カナリー。ミカくんと一緒にまわってきたら?」
「えっ? いいの?」
「今はお客さんの波が落ち着いているから大丈夫。お祭り、楽しみにしていたでしょ?」
「うんっ! ママ、ありがとう! ミカくん、行こうっ!」
「ありがとうございます。すぐに戻りますので」
「いいのよ〜。ふふっ、ミカくんは相変わらず礼儀正しくていい子ね」

 カナリーはエプロンを外して、母親に見送られながら露店を出た。祭りの最中に溶け込んでいくと、様々な方向から焼き菓子やワインの香りが漂って来るし、どこを見ても祭りを楽しんでいる人たちの笑顔で溢れているのがわかる。

「今年のブリュー祭も賑やかだねっ! あっちはお菓子を売ってるし、こっちはハンドメイド品を売ってる。あ、アカツキワイナリーのワインもあるよ?」
「わ、ワインは遠慮しておくよ……」
「ふふふっ。ミカくん、お酒苦手だもんね」
「う、うん。少し口に入れただけで酔っぱらってしまうんだ……」
「カナリー! ミカ!」
「あ、蛍ちゃんにパイモンちゃん!」

 呼び止められて足を止める。カナリーとミカが同時に振り向くと、片方は表情を輝かせ、片方は緊張が顔に滲み出た。カナリーとミカの名前を呼んだのは、テイワットの各国を渡り歩いている旅人――蛍と、そのガイドを務めるパイモンだったのだ。

「二人ともモンドに戻ってきてたんだぁ!」
「おう! モンドでお祭りがあるって聞いたからな! お祭りあるところに美味しいものあり、美味しいものあるところにオイラあり、だ!」
「うんうん! ねぇ、よかったらあとからママが出してるお店に寄って? 蛍ちゃんは西風騎士団の栄誉騎士だもん。きっとサービスしてくれるよ」
「ありがとう」
「あの、カナちゃんはお二人と知り合い……?」

 蛍たちと親しげに話しているカナリーにミカが問いかけると、パイモンがその小さな体を間に割り込ませた。

「ミカ! この間ぶりだな!」
「えっ!? ぼ、僕のことを覚えていらっしゃるのですか?」
「当然だろ! ファルカ大団長の手紙を西風騎士団のみんなの前で読み上げていたミカ。蛍も覚えてるよな?」
「もちろん」
「わぁっ! ミカくんと蛍ちゃんたちも知り合いだったんだね」
「ぼ、僕がモンドを救った栄誉騎士と知り合いなんて、そんな、恐れ多いです……!」

 ミカは頬を真っ赤にして顔を伏せてしまった。心なしか、同じくらいの背丈のカナリーの背後に隠れようとしているように見えなくもない。やっぱり物心ついた頃からミカは変わっていないな、とカナリーは笑った。どこか安心したような、そんな顔で。

「もー、ミカくんったら」
「カナリー、大丈夫だよ。これがミカの性格なんでしょ?」
「うん。ミカくんは蛍ちゃんたちのことをすごく尊敬しているみたい」

 ミカは極端なあがり症で、初対面の人相手と話すときはいつも緊張した態度を取ってしまう。しかし、それを単なる人見知りと表現してしまうのは正しいとは言えない。ミカは常に人より一歩後ろに下がり、強者の姿をよく観察し、学ぶという姿勢を取っている。これは謙遜や卑下ではなく、ミカにとって一種の研鑽なのだ。この向上心こそがミカの武器でもある。それゆえ、一度打ち解けてしまえば初対面の頃が嘘のようにいろんなことを話してくれるようになるのだ。
 もっとも、今の様子だとミカが蛍たちに心を開くのはまだ先になりそうだけれど。

「お、お二人とカナちゃんはどういう関係で……?」
「お友達! 蛍ちゃんたちがモンドに滞在中に仲良くなったんだぁ。今はどこの国を旅してるの?」
「最近はスメールにいることが多いかな」
「スメールかぁ! モンドとは全然違う文化圏だよね! いいなぁ。今度ゆっくり旅のお話を聞かせてねっ!」
「……栄誉騎士とも友達になれるなんて、カナちゃんはすごいや……」
「ミカはカナリーの前だと普通に喋れるんだな。それに『カナちゃん』って呼ぶなんて、二人こそどういう関係だ?」
「え? えっと……」
「私とミカくんは幼馴染みだよっ!」]

 間髪入れずにカナリーは答えた。カナリーにとって、ミカは全力で自慢したい幼馴染みだから。

「家がご近所で、小さい頃から一緒にいるの。だからよく『姉弟みたいだ!』って言われるんだ。ねっ?」
「う、うん……そうだね……」
「なるほどな! それに、二人とも金の髪に青い瞳ってところも同じだし、ますます姉弟に見えてきたぜ!」
「本当? そんな風に見えるなんて、嬉しいな。ねっ? ミカくん!」

 明るい色の髪も、青い瞳も、純粋なモンド人であればそう珍しくもない。むしろありふれた色だ。同じ特徴を有する人間が数多くいる中で、ミカとカナリーが『姉弟のようだ』と例えられるほど似ている、もしくは仲が良さそうに見えるということは、カナリーにとって喜ばしいこと以外に他ならない。
 しかし、同意を求めるよう話を振っても、ミカは困ったように曖昧に笑うだけだった。どこか寂しげな瞳の理由がわからず、カナリーの胸が微かに騒めいたとき。
 
「……風?」

 一筋の風が、カナリーの隣を通り過ぎていった。風はカナリーの髪をさらい、宙をたなびかせる。
 しかしそれだけに留まらず、次の瞬間、地上の全てをさらってしまうかのような突風が、ブリーズブリュー祭の会場を吹き抜けていった。

「……っ!」

 足を踏ん張らなければ飛ばされてしまいそうになるほどの風圧。耳元で鳴り響く轟音。役に立たない視界は反射的に腕で覆い隠してしまう。
 数秒、いや、一瞬の出来事だった。「強い風だったね〜」と、会場にいる誰かが笑って流す程度のこと。飛ばされてしまうと瞬時に判断してとっさに蛍にしがみついたパイモンすら、目を丸くしただけで済んだ。

「ふぃ〜。ビックリしたぜ!」
「今の風は強かったね」
「もしかしたら、風神様がお祭りを楽しんでいるのかもしれませんね。……あれ? カナちゃん?」

 ミカがあたりを見回したが、カナリーは輪の中からいなくなっていた。最初の風を感知したときには踵を返し、突風が祭りを楽しむ人々の視界を奪っていたときには、すでに近くの民間の影にしゃがみこんで頭を抱え蹲っていた。
 祭りの音楽が遠くに聞こえる中で、一人で息を吸っては吐き出す。何度かそうしているうちに、鼓動が緩やかになってきたことがわかった。

「ふう……少し、落ち着いた、かも」
「大丈夫?」

 少年とも少女ともとれるような高い澄んだ声が降ってきて、顔を上げる。そこにいた人物はやはり、少年なのか少女なのかすぐには判別できない出で立ちだった。すらりとした細い足を覆っている白タイツと、胸元の大きなリボン、帽子を飾っているセシリアの花、ターコイズ色のくりっとした瞳、そして両側のもみあげはおさげ髪だ。これらの特徴は一般的に考えると少女のものとして挙げられるが、角ばった手や僅かに隆起した喉は少年としてのそれだった。

「少し顔色が悪いみたい。休んだほうがいいよ?」
「えっと、あなた……」
「ボクはウェンティ。歌とお酒を愛する吟遊詩人さ。お手をどうぞ?」
「あ、ありがとう」

 親切心を素直に受け取り、差し出された手を取って立ち上がった。握った手の感覚から、やはり男だということを察する。カナリーがお礼を言おうと口を開きかけたとき、少年――ウェンティはその眼差しをカナリーへと注いだ。

「君は風がこわいの?」

 カナリーは大きく目を見開き、握っていた手を思わず引っ込めてしまった。
 風がこわい? そんなはずがない。風と自由の国であるモンドに生まれたというのに、風がこわいなんて笑い話があるものか。
 ここは空じゃない。二本の足はちゃんと地面についている。だから大丈夫、こわくない、大丈夫。

「カナちゃん!」

 相反する感情がカナリーの中で渦を巻いていたとき、それを払うかのようなタイミングでミカの声が響いた。
 やっぱり、ミカを見ると心が落ち着く。昔からそこにあるという不変的な存在が安心感へと繋がっているのだろうと納得し、カナリーは安堵の息をついた。

「こんなところにいた。どうしたの?」
「ミカくん。えっと……少し歩き疲れちゃって休憩してたんだ。蛍ちゃんとパイモンちゃんは?」
「お二人は他の人に話しかけられて行ってしまったけど……」
「そっか。さすが顔が広いね。私たちもそろそろ戻ろっか」
「う、うん……」

 ミカと並んで来た道を戻る途中、カナリーは一度だけ振り返った。ウェンティと名乗った吟遊詩人の姿はもうそこになく、微かな風の残り香だけがセシリアの花を揺らしていた。



2023.05.12