お菓子の家と未来の話

 テイワットが誇る知恵の国――スメール。その中でも世界中から学問が集まる叡智の結晶と謳われる中心都市――スメールシティ。人々の知恵は教令院が統括するアーカーシャにより管理され、アクセス権さえあれば誰もが欲しい情報をすぐに引き出せていた。それが、少し前までのスメールだった。
 自ら学ぶという思考を手放していた状況から脱して数ヶ月。あの頃に比べるとずいぶんと街を歩きやすくなったが、それでもリヴィアはこの都会が苦手だった。ここにいると、学びに対する格差を思い出してしまうのだ。スメールが知恵の国と呼ばれているとしても、リヴィアが生まれた砂漠地帯と教令院がある森林地帯とでは、人々に与えられる知識の差は歴然としていた。
 そして単純に、リヴィアは人ごみが嫌いだった。そんな彼女がスメールシティを訪れたのは、恋人のカーヴェに呼ばれているからだ。
 大樹の上に鎮座する教令院まで十分とかからないところに、カーヴェの家はある。もっともそれはカーヴェが所有しているものではなく、かつて彼と共同研究をしていた彼の後輩が有しているものだが。
 目的の家の前に立ち、数回ノックをする。するとその扉はいとも簡単に開き、一片の曇りのない笑顔がリヴィアを出迎えた。

「リヴィ! よく来たね!」
「……あたかも自分の家のように言うね、カーヴェ」
「さあ入ってくれ! アルハイゼンにはちゃんと許可を取っているから心配は無用だ」

 どうやら本当の家主――アルハイゼンは留守にしているらしく、いつもだったらすぐに飛んでくる嫌みとも正論ともとれる言葉が今日は聞こえてこなかった。
 一歩、リヴィアが家の中に足を踏み入れる。すると途端に視界が遮られ、リヴィアは反射的に両耳をピンと立ててしまった。

「なにするの!?」
「僕がいいと言うまで目を開けたらダメだぞ」

 触れている感触から察するに、どうやらカーヴェの両手で目元を覆い隠されているらしい。相手がカーヴェではなかったら鋭い犬歯で噛みつくか、もしくは自慢の脚力で蹴り飛ばしているところだった。
 躓かないように慎重に導かれる方向から察するに、カーヴェの部屋へと連れていかれているようである。目は開けないから手を離してほしい、歩きにくい。そう伝えようとした矢先に、背後から「ストップ」と聞こえてきて足を止めた。

「手を退かすよ。心の準備はいいか?」
「だから、なにが……」

 手を退かされて視界が開ける。暗闇に慣れていた瞳が焦点を結び、ここがカーヴェの部屋であることを再認識した。その証拠に、作業台の上には小さな家の模型が組み立てられている。しかし、優れた嗅覚を持っているリヴィアは部屋の中に微かに広がる甘い香りに気付き、目を細めて模型をじっと見つめた。

「これは家の模型……じゃない。甘い香り……? もしかして、全部お菓子でできてる……?」
「正解だ! 驚いてくれたみたいだな! 今日はホワイトデーだから、僕ならではのお返しを考えてみたんだ」

 ホワイトデー。それは確かバレンタインデーのお返しをする日だと、バレンタインデーという概念を教わったそのとき一緒にニィロウから教わった。もともとイベントごとに無頓着なリヴィアはバレンタインデーすら無視しようとしていたのだが、あまりにもニィロウが必死になって「カーヴェさんになにも渡さないの!?」と言うものだから、森からザイトゥン桃を一つ採ってきてカーヴェに渡した。それが一ヶ月前の話だった。
 たかがザイトゥン桃一個。森に行けば数メートル歩く度に生息しているような、珍しくもなんともない果実だ。それなのに、あのときのカーヴェは目を輝かせて喜んでくれたし、ホワイトデーである今日もカーヴェならではの贈り物を準備していてくれた。
 いつも鋭さを緩ませないリヴィアの表情が微かに綻んだその瞬間を、カーヴェは見逃さなかった。

「気に入ってくれたか?」
「……こんな言葉で一括りにしてはいけないけど……やっぱり、カーヴェはすごいよ。ありがとう。作るの大変だったでしょう」
「リヴィの最上級の笑顔が見られたんだから安いものだ。あ、材料費はきちんと自分で稼いだ分から出したから心配しなくていい」
「ドヤ顔で言うことではないと思うけど」

 呆れたらいいのか笑ったらいいのか。借金を抱えて居候させてもらっている身であることをカーヴェは自覚しているはずだが、時折その立場を忘れているような言動をとるものだから、やはり呆れるしかない。

「でも、食べるのがもったいないくらい綺麗だし、よくできてる。こういう家に住めたら幸せなんだろうね」
「そう思うか!? リヴィと一緒に暮らすならこういう家に住みたいって、そう考えながらデザインしたんだ」
「えっ?」
「リヴィは日向ぼっこが好きだから窓を大きめにとって自然光を取り込めるように。家族みんなで一緒に過ごしたいからリビングはそう広くはなくていい。小さいけれどあたたかい家がいいと思う。その代わり、庭は少し広めがいいな。リヴィとの間に子供が生まれたらきっとやんちゃな子になるだろうから。それから、リヴィの好きなザイトゥン桃を育てられるように花壇を……」

 歌うように、弾むように、カーヴェの口から希望に満ちた言葉ばかりが紡がれる。愛する者と共に過ごす未来を計画するその囀りが、リヴィアにはまるで愛の歌のように聞こえた。その横顔があまりにも眩しくて、美しかった。
 ふと、カーヴェの緋色の瞳と視線が絡む。つり目気味の目元が緩み、くるくると変わるカーヴェの表情が笑顔を作り出す。

「リヴィ」
「え?」
「気に入ってくれたみたいで嬉しいよ!」
「まだ何も言ってないけど」
「でも、尻尾が僕の腕に巻きついてるぞ」
「っ! こ、これは……!」

 無意識にカーヴェの腕にすり寄っていた尻尾を慌てて回収して、腕の中に閉じ込めた。いくら澄ました表情で取り繕うとしたところで、耳と尻尾は嘘をつくのが下手だから隠しようがない。

「だって、嬉しくないわけ、ないでしょ」

 カーヴェが歌う理想の未来の中に、自分自身がいること。家族を全て失ったリヴィアの、新しい家族になろうと言ってくれたこと。誰に対しても分け隔てなく施しを与えるカーヴェの「唯一」の立ち位置にいるということ。そのどれもがリヴィアにとって、果てのない砂漠に見つけたオアシスのように尊いものだった。

「……でも、それならなおさら現状をどうにかしてもらわないと。あなたが住んでいるここは本来誰の家?」
「なっ! 今その話題を出さなくてもいいだろう!?」
「今だからこそ出してるんだけど」
「うっ、わかってるよ……」
「ふふ、ごめん」
「……今の僕の手には何もないけれど、未来だけは全部君にあげることを約束するから」
「……ん。ありがとう、カーヴェ」

 今はお菓子の家でも、いつか本物の家を建てよう。大きな窓と、広い庭、そして一緒にくつろげるあたたかいリビング。小さな家にいっぱいの愛を閉じ込めて、家族を持たない二人が新しい家族になる、そんな未来が来ることを願って。



2023.03.16


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