やさしさとはよべないなにか
『飼い猫ならば飼い主が迷子にならないよう縄で繋いでおいたらどうだ?』
マウティーマ稠林を目指して道を駆けながら、リヴィアはスメールシティで出くわしたアルハイゼンの言葉を思い出し、眉間にシワを寄せた。まず自分は猫ではなくカラカルの獣人だ、と抗議したいのが一つ。そして、別に飼われているわけではない、ということがもう一つ。不満を抱えながらも言い返すことなく言葉を飲み込んだのは、アルハイゼンがいう『飼い主』が庇いようがない問題児ということを知っているからだった。
七天神像を通り過ぎたところで、リヴィアの大きな尖った耳が小さな音を拾いピクリと動いた。音がしたほうへ顔を上げると、もう一度音を拾うためにくるりと耳の先を回転させる。獣人特有の耳の良さを発揮し、青白く光る巨大な木の上部にあるカサの向こう側に探し人の気配を探し当てた。
柄がバネ状になっているキノコを見付けると、軽くジャンプしてカサの中心を踏みつける。すると、トランポリンを踏んだようにリヴィアの体は高く跳ばされる。跳んだ先に生えているキノコを続けて踏み、さらに高く、青白く光る巨大な木の頂点まで跳び上がった。
そして、見付けた。
「リヴィ!」
リヴィアのことを唯一“リヴィ”と愛称で呼ぶ人物。アルハイゼン曰く“リヴィアの飼い主”――カーヴェは、巨大なカサの中心に座ったまま、眩しい笑顔をリヴィアに向けた。
跳び上がった高さに反して軽やかに着地し、相変わらずにこにこしながらこちらを見ているカーヴェの元に歩み寄る。
「やあ」
「やあ、じゃない。こんなところで何をしてるの」
「何って、デザインに行き詰まったから息抜きにきたんだ。ここからは僕の最高傑作が見える。初心に戻るにもちょうどいいだろう?」
確かにここマウティーマ稠林の巨大な木の上からは、カーヴェが手掛けたデザインの中でも最も有名であるアルカサルザライパレスがよく見える。妙論派の星。教令院の栄誉卒業生。スメールが誇る天才建築家。栄えある異名で謳われる彼でも行き詰まることがあるのだな、とリヴィアは頭の片隅でぼんやりと思った。
「それで? 息抜きに丸一日もかかっているの?」
「えっ」
「スメールシティでアルハイゼンに会った。聞けば昨日から帰ってないって、どういうこと?」
「い、いやぁ……ほら、僕は大人なんだから外泊くらい……」
「それが無断ということに問題がある。仮にも居候の身なんだから、家主に連絡くらいすべきだと思うけど……カーヴェ」
「え?」
「後ろに何を隠しているの」
リヴィアに指摘され、カーヴェはあからさまに肩を震わせ、視線を泳がせた。しかし、存外素直に“それ”をリヴィアの前に差し出した。
「別に隠しているわけじゃない」
「……キノコン?」
「そう、キノコンだ!」
見た目の特徴から恐らく草キノコンだろう。まるっこい体からは二本の短い足が生え、頭にはとんがり帽子のように大きなカサがついている。カサの下からリヴィアをじっと見上げている大きな目は、どこか不安そうに揺れていた。よく見ると、カサの先には白い布切れが巻いてある。そして、不格好に破れたカーヴェのシャツを結び付ければ、一つの答えを導き出すには十分すぎた。
「怪我をして上手く飛べずにうずくまっていたんだ。可哀想に」
「……もしかして、キノコンの怪我の手当てと世話をしていたっていうの?」
「さすがリヴィ! 僕のことを良くわかってる! その通りだけど、なにか問題でも?」
「……カーヴェ。知ってると思うけどキノコンは魔獣の一種。怪我が治ったら襲ってくるかもしれない」
「でも、人間に対して友好的なキノコンだっている。ほら、先日オルモス港でキノコンを戦わせる大会だって開催されただろ?」
「カーヴェ、でも」
「リヴィ」
静かに名前を呼ばれて口をつぐむ。言葉を失ってしまうほど整った顔立ちが微笑すると、カーヴェ自身がまるで神自らが手掛けた作品ではないかとさえ思ってしまう。
「僕は誰かが目の前で苦しんだり、傷付いたりしている姿を見たくないんだ。人間や動物はもちろん、敵意のない魔獣だって助けられるなら助けたい」
「……どうしてそこまで」
「誰かを助けたいと思う気持ちに理由が必要かい?」
本当に、どうしようもない。善行。自己犠牲。自己満足。献身。やさしさ。どの言葉を選んでも言い表せない。カーヴェが放つ光りは眩しすぎて、彼自身の身を焦がしてしまうような……そんな危うさがあった。
その輝きに、リヴィア自身が救われたこともまた事実なのだけれど。
「……はぁ」
「リヴィ!」
焦燥したカーヴェの声がリヴィアの背中を追いかけた。呆れたか、もしくは愛想を尽かされたのだと思ったのかもしれない。リヴィアは突然、カーヴェに背を向けて木の上から飛び降りたのだから無理もない。
しかし、リヴィアは地上に降り立つと瑞々しい桃色の果実を四つ摘み取り、再びキノコに跳び乗って木の上へと戻っていった。草キノコンを抱いているカーヴェは肩を落としていたが、リヴィアが戻ってきたことに気が付くとぱっと顔を上げた。
「リヴィ」
「お腹空いたでしょう。採ってきた」
「ザイトゥン桃! ありがとう、リヴィ! ほら、これを食べたらきっと治りが早くなるぞ!」
「どうしてそこでキノコンに渡すの! あたしはカーヴェのために採ってきたの!」
「は、はい!!」
堪忍袋の緒が切れたリヴィアが一喝すると、さすがのカーヴェもすぐさま返事をしてザイトゥン桃にかぶり付いた。しかし、一口だけかじったあとはすぐに草キノコンの口元に運んでやっているのだから、カーヴェという男の性質を覆すことは自分でもできないのだとリヴィアは悟った。
まったくの他人のために心を痛め、自分を犠牲にしてでも善行を施そうとする。カーヴェとはそういう男なのだ。放っておいたらきっと身を滅ぼしてしまう。
『飼い猫ならば飼い主が迷子にならないよう縄で繋いでおいたらどうだ?』
アルハイゼンに言われた言葉をもう一度思い浮かべながら、何度目かもわからないため息をつく。こういうときは甘味だ。疲れた思考は甘味を与えることで回復する。
リヴィアは採ってきたザイトゥン桃の一つを口へと運んだ。砂漠に住んでいては滅多に味わうことができない自然の甘味と瑞々しさが、口内いっぱいに広がっていく。そんな中でも、キノコンへの警戒は怠らない。いつ胞子を飛ばして攻撃するかわかったものでもない。
しかしキノコンは、カーヴェの腕の中でおとなしくザイトゥン桃を咀嚼している。全てを食べ終わると、キノコンはカーヴェの腕の中から抜け出して宙をプカプカと漂い、そして――今度はリヴィアの膝の上へと収まり、甘えるような眼差しを向けたのだった。
「な、なに?」
「ははは! どうやらリヴィにも懐いたみたいだな!」
「……嬉しくないけど」
「そうか? 僕たちに子供ができたみたいで可愛いじゃないか」
ぐちゃり。リヴィアの手の中で握り潰されたザイトゥン桃の果汁がそこら中に飛び散り、カーヴェの悲鳴と尻尾を逆立てて怒るリヴィアの声が森の中に木霊した。
――そして、カーヴェがキノコンを助けたその翌日。スメールシティにあるアルハイゼンの家の前には、大量のキノコの山が置かれていたのだった。
2023.02.22