真昼の月
「おや? トーマ。今日は休みを取っていなかったのかい?」

 通りかかった綾人の一言に、トーマは落ち葉を掃いていた手を止めた。
 今日は一日、神里屋敷を徹底的に掃除する日と決めていた。そもそも、休みを取りたいのであれば事前に申請するし、よっぽどの体調不良でもない限り当日に休みを取ることはない。だから、綾人が首を傾げて理由が、トーマにはわからなかったのだ。

「若。申し訳ありません。それはいったいどのような意味でしょう……?」
「今日はせつなさんの誕生日でしょう? トーマとせつなさんは恋仲と聞いていたから、てっきり二人で過ごすものと思っていたけれど」
「……せつなの誕生日?」
「ええ。そのつもりで、夜は屋敷で宴を開くつもりで……」

 トーマの様子がおかしいことにようやく気が付いた綾人は、眼をスッと伏せた。すると、どこからともなく現れた終末番の忍が一冊の資料を差し出した。綾人はそれを受けとると「ほら」と、トーマへ見せる。どうやら神里家に仕える使用人の名簿が綴じられたもののようである。
 名簿を受け取ったトーマは頁をめくり、五十音順になっている名簿の中からせつなの名前を見付けると、指先で一つずつ項目をなぞる。名前、性別、年齢、そして生年月日。――『八月十五日』。確かにそう記されていた。
 トーマは「ありがとうございます」と礼を述べ、綾人に名簿を返した。
 せつなの性格から考えると、自ら誕生日を主張するようなことはしないのだろうと納得できる。そして、誕生日に気が付かなかったからといって拗ねたり怒ったりするような性格でもない。そもそも祝われるべき日という認識が薄いのかもしれない。せつなは本当に控えめで、意見することが苦手で、甘えることが下手なのだ。彼女の誕生日を祝いたいと思うのであれば、さりげなくでも聞き出す必要があった。その点をすっかり失念していた自分自身に失望してしまう。

「トーマ。幸いなことに、今日の私の公務は事務処理のみ。トーマの手を借りるような業務はないよ。掃除であればいつでもできるし、午後から休みを取っても構わないけれど」
「いいのですか!?」
「ふふっ。いつも熱心に仕えてくれている家司が半休を取っても、誰にも文句は言わせないから大丈夫」
「っ、ありがとうございます!」

 顔には出していないつもりだったが、主である綾人にはお見通しだったようである。トーマが勢いよく頭を下げて感謝を伝えると、綾人は「早く行ってあげなさい」と微笑むものだから、一生この人には敵わないのだろうなと実感する。
 トーマは箒を倉に片付けると、急いで神里家から飛び出そうとした。が、肝心のせつなの居場所を知らないことに気が付き足を止める。
 確か、せつなの仕事は今日が休みであったことは記憶している。八重堂に本を買いに行っているか、森の奥で鍛練をしているか、自室で寛いでいるのかはわからない。一つ一つしらみ潰しに回ってみてもいいが、外れを引いたときの時間の無駄を考えるとその場で足踏みしてしまう。今は一刻も早く、せつなに逢いたい。
 門の前で頭を抱えていると、ちょうど屋敷に帰ってきた綾華がトーマに気付いた。

「トーマ。こんなところで何をしているのですか?」
「お嬢! せつなを見なかったかい!?」
「せつなさんですか? 今朝お見かけしたときは甘金島に向かうと仰っていましたが、トーマはせつなさんと一緒ではなかったのですか? 今日はせつなさんのお誕生日なのでてっきり……」
「ううっ、それを言われると胸が痛いから触れないでくれ……とにかく、甘金島に行ってみるよ。ありがとう、お嬢!」

 甘金島。社奉行の祭りがよく開催される場所であり、トーマにとってせつなとの想い出がつまった場所でもある。彼女と出逢い、彼女に想いを告げ、彼女と結ばれた場所。
 そこでいったい何をしているのだろう。何を考えているのだろう。誰と一緒にいるのだろう。
 その姿を脳の中に思い浮かべ続け、神里屋敷から鎮守の森を抜けて、紺田村を駆けて白狐の野を渡り、甘金島まで休みなく走った。
 昼に訪れる甘金島に人の気配はなかった。桜の花が美しく咲き、枝に留まった鳥が囀り、風が穏やかに流れている。トーマは顔の汗を乱暴に拭い、息を整えながら坂を上っていった。そして、そこで――月を見付けた。

「せつな!」
「えっ? トーマさん? っ、きゃ」

 振り向いたせつなの月光色の瞳に自身の姿が映るよりも早く、膝裏に手を差し入れて背中を支えながら抱き上げる。案の定、淡雪のような頬はみるみるうちに朱を走らせてしまったが、今は抗議を聞いてあげられる余裕はなかった。

「あの、トーマさん、下ろして……」
「下ろさない。せつな、どうして教えてくれなかったんだい? 今日はせつなの誕生日だって」
「えっと、特にそんな話題にならなかったので……自分から言うものでもないかと……」
「……やっぱり」
「トーマさん……?」
「せつなは今日、何人におめでとうって言われた?」
「えっ? 綾華ちゃんと、綾人さまと、梢さんと、それから……」
「あー……それ以上は大丈夫」

 神里家を率いる綾人と綾華が使用人の情報を把握しているのは当然である。せつなと共に過ごす時間が長い木漏茶屋の従業員が、話の流れで誕生日を知るということも、わかる。

「あの、トーマさん。もしかして、あの……怒っていますか?」
「いや、怒ってはないよ。ただ……オレ自身に対して不甲斐なさを感じているだけ」

 なんでもそつなく物事を処理することができる家司。人脈と社交性を持った離島の顔役。主に仇をなすものに対しては容赦のない神里の忠実な家来。世間に対する自身への印象は把握している。
 しかし、誰もこんなトーマの姿は知らないのだろう。たった一人の少女のことになると、悩んだり、勇気が出なかったり、嫉妬や独占欲といった感情に弄ばれてしまうなんて。

「オレは、恋人の誕生日を一番にお祝いしたかった」
「! トーマさん……」
「せつなが控えめな性格なことも、目立つのが得意じゃないことも知っているから、自分から誕生日のことを話さないのはわかるけど、でも……」

 自分自身のことなのに、うまく言葉にできない。ただわかるのは、せっかくの誕生日なのにせつなを困らせるつもりはないということ。それよりも、笑顔を見たいのだということ。
 トーマは「とにかく!」と話を切りあげ、こつん、と額を擦りよせた。

「誕生日おめでとう。せつなと出逢えて、こうして腕の中にいてくれることが本当に幸せだよ」
「……うん。ありがとう、トーマさん。わたしも、あなたに出逢えてとても、とっても、幸せです」

 花が綻ぶように。鳥が羽ばたくように。風が包むように。月が照らすように。美しく、嬉しそうに、せつなは微笑んだ。
 導かれるように唇を重ねる。このまま永遠に時が止まってしまえばいいのに。そんな、らしくない考えが頭に浮かぶくらいに、今この瞬間が幸せでたまらなかった。
 名残惜しく思いながら、触れるだけの口付けを終える。どうやらせつなの恥じらいは限界を超えているらしく、訴えかけるようにトーマを上目遣いで見上げている。そのままもう一度唇を落としたい気持ちを堪えつつ、せつなの体をゆっくりと下ろした。

「甘金島に来たのは、今までのことを振り返るためだったの。神の目を奪われたこと。トーマさんと綾華ちゃんに助けられたこと。……トーマさんから簪をいただいたこと。想いを告げてもらえたこと。辛いこともあったけれど、それらがあるからこそトーマさんたちに出逢えて今のわたしがあるのなら、辛いこと全てが無意味だったわけじゃないんだって思ったの。そして改めて、わたしに関わってくださっているみなさんへ感謝を伝えたいなって」

 自分自身が祝われるべき日だというのに、逆にまわりへの感謝を募らせていたというのだから、つくづく真面目で、真っ直ぐで、懸命な少女だと思う。だからこそ、きっと惹かれたのだろうけれど。

「あ、あの。トーマさん」
「なんだい?」
「綾華ちゃんが、夜は屋敷で宴を開くと言ってくれたの。だから、それまでは……あなたの時間をわたしにくれますか?」
「……ああ。もちろん」

 なにも用意できなかったのだから、そのくらいお安い御用というものだ。
 指先を絡めて見つめ合う。何をするでもなく、互いしか目に映らない、この時間が酷く心地いい。

「来年からはオレが一番にお祝いするからね」
「……トーマさんって、意外とヤキモチさんですか?」
「さあ? オレにもよくわからない。でも、せつながそう感じたのなら……そうかもしれないね」

 来年も、再来年も、刹那の生を終えて死が二人を分かつまで。もう絶対に一番の座は誰にも譲ってあげないと思う程度には。
 そう想ってしまうのも、きっと生涯で唯一、彼女に対してだけなのだ。

「誕生日おめでとう、せつな。大好きだよ」
「……はい。わたしも大好きです。トーマさん」

 空に浮かんでいる月は等しく地上を見守っているけれど。今目の前にある月は、朝も、夜も、昼だって、トーマだけを見つめているのだ。



2023.08.15

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