緋櫻色のここあばたー
※『緋櫻色のしょくらぁと』とふんわり繋がっています。



「せつなさん、今日はなにかいいことがあったのですか?」
「え?」

 日差しが柔らかくなり、春の香りを感じるようになってきた頃。いつも通り木漏茶屋で給仕として働いていたせつなは、昼食をとりにやってきた綾華の一言でピタリと動きを止めた。拭き上げた食器を片付けようと伸ばした両手を頬へと持っていき、図星をつかれて染まった頬を隠すように包む。

「か、顔に出ちゃってた……?」
「ふふふ。はい」
「……トーマさんが、仕事が終わったら会えないかって言ってくれたの。今日はお昼で上がるから」
「それは……デートですね」
「でぇと……うん。そう、なるのかな」
「どちらで? あ、覗きに行こうとは思っていませんのでご安心ください」
「ふふ、綾華ちゃんったら。いつもの櫻の木の下。ほら、犬ちゃんや猫ちゃんたちがいるところ」
「ああ、トーマに懐いている動物たちがいる、あそこですね」
「そうなの」

 急須と同じ色の茶器の中へとくとくと緑茶を淹れて、食事を終えた綾華の前に出す。茶器の中で揺れるまろやかな若草色には、先ほどとは打って変わって表情を曇らせたせつなの姿が映っている。

「そんな人目に付くところで堂々と逢っていいのかなって、たまに思うけれど……」
「それはどういう意味でしょう? 社奉行同士の恋愛はご法度ではありませんが……」

 せつなとトーマの友人である綾華はもちろんのこと、社奉行当主の綾人ですら二人の仲を知っている。とはいっても、せつな自身が報告したわけではない。トーマと想いが通じあってしばらく経ったあとに、公務から帰ってきた綾人から突然話題を振られたものだから、あのときは心臓が飛び出る思いをしたことを覚えている。いつか報告はしておかねばと思いつつ機を逃し続けていたことは事実だし、機会があったからといってせつな自身うまく報告できたとは思っていない。トーマとの仲を知られていたことに驚きはしたが、助かったという思いの方が大きかった。
 つまり、トーマとせつなの仲は社奉行の中で公認なのである。にも関わらず、せつなの心の片隅には小さな不安が巣食っていた。

「そうではなくて、わたしがトーマさんの隣にいて迷惑にならないのかな、って。たまに、ね。思ってしまうの。わたしは人見知りするし、変なところで頑固だし、美人でも何でもないし……そんなわたしが、社交的で明るくて誰とでも仲良くなれるトーマさんの恋人でいいのかな、って」
「せつなさん……」
「わかっているわ。そんなことを考えたらトーマさんに失礼だって。でも、いくら綾人さまに認めていただいたとはいえ、わたしと一緒にいることでトーマさんが変な風に言われたりしないかなと、思う自分もいて……」

 そこまで話し終えると、せつなは我に返って綾華を見た。整った眉は微かに下がり、薄氷色の瞳はせつなのことを心配そうに見つめている。せつなは盆で顔を隠すようにしながら、小さく頭を下げた。

「うー……自分でも何を悩んでいるのかわからなくなっちゃった。変なことを話しちゃってごめんなさい」
「いいえ。……可愛らしいです、せつなさん」
「えっ?」
「想いを寄せる相手と自分自身の想いの間で悩む姿は、恋する乙女なら当然でしょうから」
「……恋」

 恋。綾華の口が紡いだ言葉を反復して、自分の中に落としこむ。せつなが抱えている煩いが、恋によるものならば。きっとそれは、世界一幸福な病だ。

「同性の私から見てもせつなさんは十分魅力的と思いますが、きっと私の意見よりもせつなさんを安心させてくれる人のところへ早く行くべきです」
「それって……」
「ほら、そろそろ終業の時間では?」
「あ。でも、綾華ちゃんがまだ……」
「私は食後の甘味をいただいてから帰りますのでお気になさらず。……頑張ってくださいね」
「……うん。ありがとう、綾華ちゃん」

 時計の針が午後二時を回った。綾華に別れを告げ、梢に「お先に失礼します」と挨拶をしたあと、従業員用の休憩室に駆け込んで着替えを済ませる。いつもだったら賄いをいただいてから帰るところだが、今日は空腹を満たすよりも、一刻も早くトーマに逢いたかった。
 裏口から木漏茶屋を出て、小走りに道を駆けていく。石階段を一つ飛ばしに下りたい衝動を堪えて、一段ずつ下りていく。
 和傘が並んでいる露天を通りすぎ、八重堂の前に差し掛かったとき、せつなの前を歩いていた男がふと立ち止まった。停止するという信号を脳が発する前に、せつなはそのまま男の背中に顔をぶつけてしまうことになった。

「きゃっ」
「あっ、申し訳ない。少しぼうっとしていたようだ」
「いいえ。こちらこそ」

 ぶつけて赤くなっていないだろうか、と鼻先を隠すように手を持っていく。指の隙間から見えた男の顔にせつなは見覚えがあり、それは相手も同じだったようだ。

「君は確か木漏茶屋の……」
「はい。せつなと申します」
「僕は順吉。作家だ」
「あ、もしかして八重堂に本を出版されている、あの『順吉』さんですか?」
「僕のことを知っているのかい? それは嬉しいな」
「はい。登場人物の設定や展開が独創的で、いつも新刊を楽しみにしています」
「ありがとう! ……読者の期待に応えたいところだが、少し行き詰っていてね。次は若者の恋愛を主軸にした話を書こうと思っているんだが……」

 作家の男――順吉はまるで品定めでもするように、上から下までせつなをじっくりと眺めた。少しの居心地の悪さを覚えつつ、急いでいるからとその場を立ち去ろうとする前に、順吉はまるで「閃いた!」と言わんばかりに目を輝かせた。

「君! 僕のファンなら僕を助けると思って、取材を受けてもらえるかな?」
「え、しゅ、取材!? でも、わたしには提供できるようなお話は何も……ましてや恋愛と言われたら……」
「とぼけても無駄だよ。君は同じ社奉行のトーマと恋仲らしいじゃないか」
「え」
「若いっていいねぇ」
「あの、それはどちらで……」

 どきん、どきん。まるで耳元で心臓が音を立てているようだ。
 『木漏茶屋のあの子とトーマさんがお付き合いをしているんですって』
 『ええ、どうしてあんなパッとしない子と? トーマさんならもっと素敵な人がいるでしょうに』
 そんな話を誰かから耳にしたのではないかと、被害妄想じみた不安がせつなを襲う。しかし、順吉はせつなが予想もしていなかった名前を口にした。

「誰からも何も、彼自身から聞いたんだよ」
「トーマさん、から?」
「ああ。といっても、ネタを仕入れようとして『君もいい年頃だしそういう相手はいないのかい?』って聞いたのは僕だけどね。トーマはすぐに君の名前を出して答えたよ。『せつなは可愛くて気立てがよくて何に対しても真面目で一生懸命な女性だよ。オレから好きになって、頑張って振り向いてもらったんだ』ってね」
「……トーマさん」

 もしかしたら、とせつなの脳裏に一つの可能性が浮かんできた。綾人に自分たちの仲を報告していたのもトーマなのではないか、と。いや、きっとそれだけではない。目の前にいる順吉と同じように、話を振られたらトーマはきっと包み隠さず『オレの恋人はせつなだ』と答えているに違いない。
 トーマにとって、せつなの存在が迷惑なんてあり得ない。むしろその逆で、無意識かはたまた意識的にか、周りに惚気てしまう程度には誇らしい存在なのだということを思い知ってしまった。
 気恥ずかしい。けれど、それ以上に……嬉しかった。

「そうだ。君たちを題材にした話を書くのはどうだろう。タイトルは……そうだな。『わたしの恋人はスパダリ家司』とか、どうだい?」
「すぱだり……?」
「最近の若い子向けの小説はこういうタイトルのほうがウケるんだ。もう少し年齢層を上げるなら……『春雷恋歌』なんかどうだろう。内容は……」
「ストップ!」

 心臓が跳ねると同時に肩を引き寄せられた。どこかで機会を伺っていたかのようなタイミングで現れたトーマを見て、まるで恋愛小説のワンシーンみたいだなどと思ってしまう。

「トーマさん……」
「順吉さん。オレに取材をするのはともかく、せつなを困らせるのはダメですよ」
「む。確かに、女性相手に少し突っ込みすぎたな。すまない」
「い、いいえ。大丈夫です。でも、あの、題材にされるのはやっぱり恥ずかしいので……」
「順吉さん。今度オレがいいネタを持ってくるんで、それで手を打ってもらえないかな?」
「本当かい? トーマの話は面白いからなぁ。なにかインスピレーションが得られるかもしれない。よし、そうしよう!」
「じゃあ、そういうことで。行こう、せつな」
「は、はい」
「あ、待ってくれ。すぐに聞かせてもらえないのかい?」
「流行に敏感な作家なら、今日が何の日か知っているでしょう? 邪魔はなしですよ」

 トーマが悪戯っ子のようににっかりと笑ってそう言うと、順吉は思い当たる節があるようでそれ以上は深入りしてこなかった。
 ようやく解放されたと、せつなは密やかに息をついた。手を引かれたままいつもの櫻の木の下までやってくると、ようやくトーマは足を止めた。樹の影に腰を下ろすと、トーマはせつなの顔を覗き込んだ。

「せつな、大丈夫?」
「は、はい。ありがとう、トーマさん。ふう、まだ顔が熱くて……」

 両手でパタパタと風を送り、頬の熱を冷まそうとするせつなを見て、トーマは微かに眉を下げた。

「ごめん。せつなとのことを勝手に話して、迷惑だったかな?」
「ううん、そんなことはないわ。わたしのほうこそ、迷惑だったりしない?」
「まさか! どうしてそうなるんだい?」
「だって……トーマさんの恋人がわたしなんかって知れ渡ったら……」
「せつな『なんか』じゃないよ。……せつなはたまに自分のことを自信なさげに話すけれど、オレにとってはこれ以上他にいないくらい素敵な女性だ。大声で『この子がオレの恋人です!』って紹介して回りたいくらいにね」
「えっ!? ふ、ふふっ。トーマさん、大げさすぎます」
「大げさなんかじゃないよ! でも、せつなが笑ってくれてよかった。アハハ!」

 じんわりと、せつなの胸の中があたたかくなっていく。まるで炎が灯ったように。
 トーマはこういう人なのだ。不安を無理矢理燃やし去ってしまうのではなく、一つずつ炎であたためて溶かしてしまう。そんな、優しい不安の取り除き方をしてくれる人。

「今日はホワイトデーだろ? せつながくれたチョコレートのお礼に、いろんな味のココアバターを作ってきたんだ。受け取ってくれるかい?」
「……ほわいとでー?」

 聞きなれない言葉に首を傾げると、トーマは「まさか」とでも言いたげにせつなを見つめた。

「ホワイトデーはバレンタインデーのお返しを贈る日なんだけど、もしかして……」
「……ごめんなさい、今知りました」
「アハハッ! せつならしいね」
「ううう、ごめんなさい。でも、すごく嬉しいです……! ありがとう、トーマさん」
「どういたしまして」
「開けてもいい?」
「もちろん」

 両手のひらの中に落とされた巾着の結び目を摘まみ、するりと解く。巾着の口が緩んだ瞬間に、ココアバターの甘い香りが解き放たれてせつなを包み込んだ。緋櫻色に染まったもの。木の実が練り込まれているもの。お酒の香りが漂ってくるもの。様々な種類のココアバターが入った巾着が、せつなにはまるで宝石箱のように映った。

「きれい。それに美味しそう」
「しかも、これはただのココアバターじゃないんだ。蒲公英酒や夕暮れの実、それからミント。いろんな材料を入れて作ったとっておきさ」
「わぁ、すごい! まるで鍋遊びみたいね」
「だろう? でも、鍋遊びと違って今回は外れなしだ。オレが保証するよ。どの味が最初にあたるか試してみるかい?」
「そうね。せっかくだし、今いただこうかな」
「そうこなくちゃ! さあ、どれにする?」
「ふふっ。トーマさんのほうが楽しそう」
「せつなのリアクションを早く見たいからね」
「じゃあ、これにしようかな」
「ピンク色の……これだね」
「あ……」

 せつなが選んだココアバターは、トーマの指先に摘まみ上げられた。目の前に差し出されたココアバターと、期待に目を輝かせるトーマの若草色の瞳を交互に見やる。そして、トーマの意図をようやく理解した。

「はい、あーん」

 身体中の血が沸騰しているのではないかと思うくらい、熱い。ようやく開けることができた口の中に、ココアバターの甘味が広がっていく。でもその前に、ココアバターではないものが、トーマの指先が唇に振れた感触がどうしても忘れられず、やっとの思いで喉を上下に動かすことができた。

「どう? 美味しいかい?」
「おいしい、とおもう、けど、あじがよくわかりません……」
「アハハッ! 面白いこと言うね!」
「だって、トーマさんが……!」
「あ、せつな。唇についてる」

 せつなのそれよりも一回り以上大きな手のひらが頬を包み、親指の腹がせつなの唇の輪郭をなぞる。親指をそのまま舌先で舐めると、トーマはくしゃりとした笑顔を浮かべた。

「これは緋櫻毬を混ぜ込んだやつだね。せつながくれたチョコレートを参考にしたんだ。……ん、甘い」

 その笑顔一つが、せつなの胸の中にたくさんの感情を生む。恥ずかしい。嬉しい。楽しい。可愛い。……愛おしい。それらを全て引っくるめて、きっと人はこの感情をこう呼ぶのだ。

「トーマさん」
「ん?」
「わたし……トーマさんの恋人になれて、幸せ、です」
「せつな……ああ、オレもだよ」
「わたし、自分に自信を持てるようにもっと素敵な女性になるから。だから、見ていてくださいね」
「もちろんさ! でも、そうなると恋敵が増えるなぁ」
「そんな。わたしはトーマさん以外考えられません」
「せつなはそうかもしれないけれど、周りの視線はそんなこと関係ないだろ。まいったなぁ。これ以上綺麗になられたら、どうしたらいい?」
「……だとしたら、全部トーマさんのためだから。責任、とってください」

 少しだけ、大胆なことを言ってしまった自覚はある。普段なら絶対に言えないのに、ホワイトデーが後押ししてくれたのかもしれない。
 どきん、どきん。高鳴る心臓も、緋櫻色に染まった頬も、潤んだ眼差しも、きっと隠せはしない。伸びてきたトーマの手が髪を撫でて、そのまま頬へと滑り落ち、せつなの華奢な顎を軽く持ち上げた。

「せつな、目を閉じて」
「……は、い」

 瞼を落とす。きっと誰も見ていないから大丈夫。櫻の花びらが二人の秘め事を隠してくれる。

「好きだよ、せつな」

 唇に触れた柔らかさとぬくもりは、せつなの口内に広がっているココアバターの味と同じくらい、甘かった。



2023.03.14

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