雪解けに咲く華のような
 青白い月が放つ淡い光が、神里屋敷の庭園を薄く照らしている。風が木の葉を擦れさせる音に交じって、砂利を踏む音がせつなの耳に届いた。

「お待たせいたしました。遅くに付き合わせてしまって申し訳ありません」
「ううん。綾華ちゃん、わたしにお願いしたいことって……」

 振り返ったせつなは綾華の姿を瞳に映すと、そのまま言葉を失ってしまった。現れた綾華は、いつも身に纏っている袴と鎧を脱ぎ、異国の服――いわゆる洋服に袖を通していた。スカートには流水紋や神里家の椿紋が刺繍され、タイツやブーツ、髪飾りや帽子など様々なところに花が咲いている。いつも帯飾りの真ん中に嵌まっている神の目は、蝶を模した大きなリボンの中心に輝いている。
 見惚れる、とは今せつなの目の前にいる人のためにあるのだろう。そう思ってしまうくらい可憐で、そこに春が訪れたようだった。

「綾華ちゃん、その衣装どうしたの? とても素敵……! まるで異国のお嬢様みたい」
「ふふふ。ありがとうございます。せつなさんがおっしゃる通り、こちらは娯楽小説の挿絵に登場するフォンテーヌの令嬢をイメージして作られたものです」
「フォンテーヌの! なるほど……でも、どうして綾華ちゃんがフォンテーヌの衣装を着ているの?」
「はい。……このことは他言無用にしていただきたいのですが……今、社奉行が主催している『演武伝心剣術大会』の『神使代行』役について、予想外のことが起きてしまいまして……」

 神使代行役の衣装を決める投票用紙が入った箱の取り違え。そして、その失態を公にしないために投票結果の衣装を着る選択を選んだこと。綾華が順を追って丁寧に説明する間、せつなは唖然として頷くことしかできなかった。
 演武伝心について、社奉行の一端を担うせつなはもちろんのこと内容を熟知していた。綾華が神使代行役として大会の優勝者と共に模擬試合を行い、さらには華麗な衣装を身に纏うことも。しかしまさか、神使代行の衣装が『娯楽小説に出てきた登場人物をイメージしたもの』になるとは思いもよらなかったのだ。

「……という経緯があり、今回は四季の風物詩をなぞらえた衣装ではなく、娯楽小説に登場する令嬢をイメージした衣装を着ることになったのです」
「そんな経緯があったのね……」
「はい。私は明日この衣装を着て演武伝心に出なければなりません。この衣装の元になった小説のお嬢さんは我が道を行くいたずらっ子なので、優雅な立ち振る舞いをすべきだ、とは考えなくても大丈夫なのですが、慣れない衣装を着ていることは事実です。そこで、私と同じく刀を扱うせつなさんに手合わせを願いたいのです」
「つまり、本番までにフォンテーヌの衣装で刀を振るうことに慣れたい、と」
「その通りです。そして衣装は当日まで非公開ですので、今回のことは社奉行の身内にしか頼めません」
「わかったわ。綾華ちゃんからのお願いだもの」
「ありがとうございます、せつなさん」
「でも、本番前に衣装が汚れでもしたら……」
「ふふふ。ご安心ください。稲妻神里流太刀術免許皆伝、神里綾華。相手がせつなさんとはいえ……そう簡単に、一太刀を受けるつもりはございませんから」

 可憐な雪鶴の眼差しに、絶対零度の冷たさが宿った。右手に召喚された霧切の廻光が戦闘用ではないフォンテーヌの衣装とはアンバランスで、綾華が秘めている実力を一層引き立てている。
 失言だった。相手はあの『神里綾華』なのだから。
 武者震いで震える右手に、せつなは月光が刃に宿った刀を召喚した。綾華と手合わせをすることはせつなにとっても価値があり、心を高ぶらせてくれる。

「いざ尋常に!」
「勝負!」

 刃が交わる高い音が、夜の帳を引き裂くように響き渡った。



「二人とも、そろそろ時間切れですよ」
「トーマ!」
「トーマさん!」

 どのくらいの時間、戦っていたのかはわからない。パンパンと手を叩く乾いた音と、トーマが止めに入る声で、二人は我に返って動きを止めた。いつのまにか、青白い月は夜空の高い位置まで昇っている。手合わせに夢中になりすぎて、せつなも綾華も時間が経つのを忘れてしまっていた。

「お嬢はそろそろ体を休めて明日に備えないと」
「そうですね。せつなさん、こんな時間までお付き合いいただきありがとうございました。明日は蛍さんと共に必ず勝利を掴み取りますので、トーマと一緒に模擬試合を観に来てくださいね」
「もちろん。応援しているね」
「ありがとうございます。ではお二人とも、おやすみなさい」

 にこやかな笑顔を残し、綾華は屋敷の中に戻っていった。あれだけ激しく動き回っていたというのに、息一つ乱した様子もない。普段は『白鷺の姫君』として立ち振る舞っている綾華の武人としての一面を久しぶりに実感した。彼女と肩を並べられるように、せつなはもっと鍛錬を重ねることを秘かに誓った。

「せつなもお疲れ様」
「ううん。むしろ、特別な衣装を着た綾華ちゃんを一番に見られて、手合わせまでできちゃったから得しちゃった。綾華ちゃん、すごく綺麗で可愛かったな……」

 トーマから差し出された手拭いで額に滲む汗を拭いながら、せつなは綾華の姿を瞼に浮かべた。同性の自分から見ても、本当に可愛らしかった。しかし、守ってあげたくなる可憐さに目を奪われていると、容赦のない氷の刃が飛んでくる。そのギャップがまた、綾華を慕う人間にとってはたまらないのだろうけれど。

「わたしもいつか他国の衣装を着てみたいな。例えば、璃月とか」
「璃月の衣装を着たせつなか……うん。璃月の衣装は華やかで品があるからせつなにもよく似合いそうだ」
「本当? ふふ、嬉しい」
「でも、個人的にはモンド衣装を推すよ! 稲妻とは全く違うデザインと性能の衣装だからすごく新鮮だと思うし、何よりもオレが見てみたい!」
「そ、そう? トーマさんが喜んでくれるなら、機会があったら着てみたいな」
「本当かい? ありがとう!」
「でもそのときは、トーマさんも一緒にモンドの衣装を着てね?」
「ああ、もちろんだよ!」

 トーマと密やかな約束を交わしながら、せつなは明日戦いへと向かう友人へと思いを馳せる。
 せつなと手合わせをしたとき、綾華はどこか楽しそうだった。優雅に、そして淑やかに。人前に出て刀を披露するとき、綾華は神里家の人間としていつも誰かから見られていることを意識していた。しかし、今回は違う。綾華は娯楽小説に出てくるいたずらっ子の令嬢の役を纏っている。人の目を気にする剣技はいらない。『白鷺の姫君』ではなく『綾華という一人の少女』として、心のままに、自由に、大胆に、刀を振るっていいのだ。

(頑張ってね、綾華ちゃん)

 きっと、観衆の誰もが綾華の新たな魅力に惹かれるのだろう。



2023.02.18

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