緋櫻色のしょくらあと
 二月十四日。他国ではバレンタインデーといって、様々な形で愛を祝う日だという。愛といっても友愛、親愛など様々だが、バレンタインデーを意識する人々の多くは、想いを寄せている異性へとその愛を伝える切欠にすることが多い。
 テイワットの島国である稲妻にも、バレンタインデーという概念は海を越えて渡ってきて、今やひとつの文化として根付いている。稲妻城を行き交う人々はどこか落ち着かない様子であり、トーマもそのうちの一人だった。
 稲妻におけるバレンタインデーは、主に女性が男性へ愛と共に贈り物をする日とされている。トーマには既に恋人がいるが、両想いだからこそ、恥ずかしがりやの恋人は普段より少しだけ積極的になってくれるかもしれないという、仄かな期待があった。
 別に、贈り物がほしいわけではない。ただ、バレンタインデーという愛の日を恋人と楽しむことができたら、と思ったのだ。

「やあ、せつな! お疲れさま!」
「お疲れさまです、トーマさん」

 両想いになってからというもの、昼食はほとんど木漏茶屋でとるようになってしまった。昼食というのは口実で、そこで働く恋人――せつなの顔を見たいというだけなのだが。

「今日は何にしますか?」
「そうだなぁ。日替わり定食をもらおうかな」
「かしこまりました」

 この笑顔を見るだけで、日溜まりにじんわりとあたためられるように、緩んでいく。

「そういえば、せつなは今日が何の日か知ってるかい?」

 カウンター席に座って太郎丸を撫でてやりながら、トーマは何でもないように問いかけた。
 年上らしく、余裕を持っていたい気持ちもあったが、やはりせつなを前にするとうまくいかない。言いたいことを上手く伝えられなかったり、かと思えば格好の悪いことを口走ったり、想いが溢れ出して言葉よりも体が動いてしまったり。
 今だってそうだ。バレンタインデーという日を、二人で楽しみたい。そんな想いが言葉として先走ってしまった。
 カウンターの向こう側にいるせつなはご飯をよそう手を止めずに、僅かに首を傾げてみせた。

「今日……? 何かあったの?」
「え……まさか、知らない?」
「……大切な会食の予約が入っていたのは明日だから、違う……あっ、確か南十字船隊の北斗さんのお誕生日でしたね!」

 まさか、そのまさからしい。至って真面目であるせつなを疑うという選択肢が、トーマの中にはなかった。せつなは本当に、バレンタインデーを知らないのだ。
 思い返せば、おかしくはない話だった。せつなは元々、稲妻の果ての孤島の出身。外国はもちろんのこと、稲妻の中心地である稲妻城との交易もほとんどない小さな村で育った。バレンタインデーという元々は外国の文化が、稲妻の辺境までは浸透していないのだとしたら、せつながバレンタインデーを知らないというのも説明がつく。
 さて、どう答えるべきだろうか。せつなから受け取った盆の上に並んだ小鉢の中身をつつきながら、トーマは笑顔の裏側で思考を巡らせていた。
 今日がバレンタインデーという日であることを説明したら、せつなを困らせてしまうことは目に見えている。真面目で律儀な恋人は、バレンタインデーを知らなかったことを謝罪し、慌てて贈り物を用意しようとするだろう。二人でバレンタインデーを楽しみたいと思う気持ちはあるが、せつなに負担をかけたいわけではない。
 トーマはニヤリと笑って、小鉢の中から甘辛く煮られた小魚をつまみ上げた。

「正解は煮干しの日! ほら、今日は二月十四日だろう?」
「煮干し……二月十四日……あっ、語呂合わせね!」
「そういうこと!」
「全然気が付きませんでした! ふふっ、教えてくれてありがとう。トーマさん」

 こんな些細な話題でも、真剣に考えて、素直な反応を示してくれる。「せつなが好きだ」という気持ちを改めて確認しると同時に、想いが上乗せされていく。それだけできっと十分なのだと満たされながら、トーマはあたたかな食事を口へと運ぶのだった。


 * * *


 その日の夜。バレンタインデーももうじき終わりを迎える。いつもだったら、知り合いや友人からもらう、いわゆる“義理チョコ”を消費していたことだろう。しかし今日は何となく受け取る気になれず、腹の調子がよくないからとか、虫歯ができているからとか、それらしい理由をつけてやんわりと断った。
 読んでいた本を閉じると、乾いた音がトーマの自室に響いた。そろそろ寝ようと行灯の明かりを消そうとした、そのとき。部屋の外に人の気配を感じて、顔を上げる。

「トーマさん、まだ起きていますか……?」
「せつな?」

 襖の向こう側から聞こえてきたのは、紛れもなくせつなの声だった。簡単に寝衣を整えて、おかしなところはないか姿見で確認してから、襖を横へと滑らせる。
 やはり、そこにいたのはせつなだった。体の後ろで手を組み、少しだけ居心地悪そうにもじもじしている。あと一時間もすれば日付が変わる時間だというのに、珍しい。

「こんな時間にどうしたんだい?」
「えっと……」
「とりあえず、部屋の中にどうぞ。廊下は冷えるだろう」

 トーマが一歩足を引いて道を作ると、せつなは「お邪魔します」と礼儀正しく頭を下げて、部屋の中に入った。
 せつながトーマの部屋に足を踏み入れるのは、初めてではない。しかし“この時間に”トーマの部屋を訪れるのは初めてだった。せつな自身はそのことを特に意識していないようだが、トーマはそうもいかない。眠ろうと思って整えていた寝具を見ないようにしながら、座布団を出してせつなに座るよう促した。

「それで? 何かあったのかな?」
「あの……ごめんなさい!」
「えっ?」

 トーマの顔を見るなり、せつなは勢いよく頭を下げた。

「わたし、今日がバレンタインデーということを知らなくて……そもそもバレンタインデーが何なのかを知らなかったのだけど……」
「あー……」
「木漏茶屋の甘味が期間限定で“しょこらあと”に変わっていて、何かあるのかなとは思っていたの。トーマさんの様子も気になったから、トーマさんが帰ったあとに梢さんに話を聞いたら、バレンタインデーのことを教えてくれて……」

 つまり『トーマがバレンタインデーを意識してせつなに会いに来た』ということを、ようやくせつなは察したのだ。
 バレンタインデーは女性から男性に愛を伝える日。恋人同士であるならば期待しないほうが不自然だ。その期待に添えなかったばかりか、気を遣わせてしまったこと。そして、一緒にバレンタインデーを過ごせなかったことを、せつなは後悔していた。
 しかし、今こうしてトーマの元を訪れたということは。後悔をそのままにしないため、ということに他ならない。

「わたしも、トーマさんとバレンタインデーの想い出を作りたいって思ったの」
「せつな……」
「だから、あの、遅くなってしまったけれど……わたしの気持ち、受け取ってもらえますか……?」
「えっ、もしかしてわざわざ用意してくれたのかい?」

 せつなが後ろ手に隠し持っていた小さな包みが、トーマの目の前に差し出された。
 紙箱に若草色のリボンがかけられただけの、簡単なラッピング。しかし、トーマにとってはどんな宝箱を開けるよりも胸を高鳴らせた。
 リボンの端を摘まみ、ゆっくりと引く。しゅるり、と擦れる音を立ててリボンが解けた。そして、紙箱の蓋を持ち上げるとそこには、桜色の花が咲いていた。

「チョコレートだ……! でも、色が普通のチョコレートと違うね」
「実は、一度溶かした“ほわいとちょこれえと”に緋櫻毬を混ぜて桜色にしてから、桜の型に流し込んでもう一度固めたの。木漏茶屋に残った材料で準備したから、少しでも特別なものにしたくて……」

 トーマは桜の形をしたチョコレートをひとつ摘まみ上げた。
 きっと、仕事が終わったあとに大急ぎで作ってくれたのだろう。木漏茶屋の厨房に一人残って、トーマのためにせっせとチョコレートを作るせつなの姿を思い浮かべるだけで、胸が一杯になる。
 もったいないと思いつつも、口に放る。チョコレートは舌の熱ですぐに輪郭を溶かし、優しい甘みがトーマの口内に広がっていく。

「ん、美味い!」
「本当? よかった……!」
「アハハ! そんなに安心しなくても、すごく美味しいよ」
「安心します。料理上手のトーマさんに手作りのものを贈るのって、いつもすごく緊張するんですからね」

 緊張気味だったせつなの表情が解れ、昼間も見た笑顔がようやく戻ってきた。あのとき溢れ出そうとした愛しい気持ちを、今は我慢しない。囀ずる口元を隠している手をとり、軽く引く。「きゃっ」と小さな声を上げたせつなの体は、トーマの腕の中で受け止められた。

「ありがとう、せつな。本当に嬉しいよ。今までで一番幸せなバレンタインデーだ」

 本当に、心からそう思った。何十個と貰う社交辞令のチョコレートよりも、本命から貰うたった一つだけのチョコレートが、こんなにも嬉しい。
 腕の中におさまったせつなの体温が、幸せの温度となってじわじわと浸透していく。溺れているわけでもないのに、トーマの胸元をきゅっと掴んだ小さな手に庇護欲を覚えるのと同時に、その先を見てしまうのも仕方がなかった。

「でも、こんな時間にオレの部屋まで来るのはどうかと思うよ」
「あ……ごめんなさい。非常識な時間でした……せっかくだから今日のうちに渡したくて……」
「違う違う、そうじゃなくて」

 せつなの耳元の髪を流して、唇を寄せて囁く。

「オレも男だから、この先を期待してしまうよ……ってこと」

 本当に今日、二人の仲を進めるつもりはないけれど。自分は男で、せつなは女。恋人同士なのだということを、改めて認識してほしかった。
 静寂が部屋の中に降り積もる。せつなはピクリとも動かないし、何も口にしない。まさか幻滅されてしまっただろうかと、トーマは恐る恐る体を離し、せつなの顔を覗き込んだ。

「せつな?」
「……」
「……せつな? せつなー!?」

 熱湯を浴びたかのように頭の先から爪先までを真っ赤にして、せつなは目を回していた。どうやらせつなにとっては刺激が強すぎたようである。これは前途多難だなと苦笑しながら、トーマは緋櫻色に染まったせつなの頬に唇を寄せた。
 さあ、一ヶ月後はどんなお返しを贈ろうか。トーマは今から幸せな悩みと向き合うのだった。



2023.02.15

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