簪に込めた未来
 太陽が沈み切り、代わりに月が空の主役になって数時間が経った。空虚な音を立てる腹をさすって空腹を宥めながら、花見坂を上り木漏茶屋を目指す。
 茶屋の灯りが見えてくると、自然と表情が綻んできた。この戸を開けたら、あたたかい笑顔が迎えてくれるはずだ。

「こんばんは。せつな、いるかい?」
「あ、トーマさん。いらっしゃいませ」

 ほら、やっぱり。一日の仕事疲れも、指先の冷たさも、愛しい人が――せつなが少し微笑んでくれるだけで、じんわりと溶けていく。

「閉店間際にごめん。食べていっても大丈夫かい?」
「ええ、もちろん。こちらへどうぞ」

 馴染みのあるカウンター席に腰を落とし、すぐに「市井おでんをお願いするよ」と注文を入れる。せつなはそれを予想していたかのように「かしこまりました」と微笑んで、土鍋に一人前分のおでんをよそい、トーマの前に置いた。
 あたたかい湯気と出汁のいい香りがトーマの食欲をそそり、喉が上下に動く。手を合わせてから箸を割り、鍋の中心に箸先を差し入れて大根を挟み、持ち上げた。長いこと煮込まれた大根は黄金色に染まり、口を大きく開けて頬張ると、出汁のうま味が口の中いっぱいにじゅわりと広がった。

「くぅ〜っ! 美味い! あったまるなぁ」
「お仕事お疲れ様です。今は綾人様と綾華ちゃんがいないから、いつもより大変でしょう?」
「まあね。璃月最大の祭りである『海灯祭』に招かれた若とお嬢が社奉行を空けて二日目。留守を預かる身としては気を抜けないけれど、他国の祭りを視察することは社奉行にとって有意義なことだからね。二人にはこちらを気にせずに公務に集中してほしいよ」
「そうね。それに、仕事の一環かもしれないけれど海灯祭を満喫してきてほしいな。綾華ちゃん、すごく楽しみにしていたみたいだから」
「うん。海灯祭中の璃月港は霄灯で鮮やかに飾られて、屋台には璃月の名物料理やいろんな出し物が並ぶんだ。そして、夜になると放たれた霄灯が空を埋め尽くすと言われている。まるで夢みたいに美しい景色らしいよ」
「わぁ……素敵ね。わたしもいつか行ってみたいなぁ。わたし、稲妻の外に出たことがないから、きっとどこへ行っても楽しいと思うの」

 むぐむぐ、と咀嚼しながら、トーマはせつなの言葉の意味を考えた。
 せつなのことだ。どこかへ連れていってほしいとか、一緒に外国へ旅行に行きたいとか、深い意味を言葉の裏に潜めていることはないだろう。しかし、それを口実にすることはできる。
 口の中のものを飲み下すと、トーマは会話を続ける。あくまでもさりげなく、自然な流れになるように。

「それなら、今度一緒にモンドに行こうよ! 時期が合えば『風花祭ウィンドブルーム祭』っていう、風と花と愛が溢れたモンドならではの祭りを楽しむことができる。せつなはモンド料理が好きだったよね? もっといろんな本場のモンド料理を食べさせてあげたいんだ。それからオレはときどき、モンドにいる母さんに手紙を出すんだけど、そのときせつなのことも話すんだ。母さんはどうやらせつなのことを気に入っているみたいだから、会ってもらえたら喜ぶと思うんだけど……」

 そこまでを一気に喋り終えると、我に返って口をつぐむ。いささか強引過ぎただろうか、とトーマは笑顔を浮かべながらも内心では焦りを感じていた。もっとスマートに、年上らしくありたいのに、恋人を前にすると余裕を失ってしまうときがある。
 引かれてはいないだろうか、と様子を伺う。せつなは数回瞬いた後、表情いっぱいに嬉しさを滲ませて笑った。

「モンド……! 海の向こうのすごく遠いところよね。いつか行ってみたいな。すごく楽しそうなお祭りだし、なによりもトーマさんの故郷だもの。少し緊張するけれど、トーマさんのお母さまにもぜひご挨拶させていただきたいな」
「本当かい? よかった。じゃあ、決まりだね! いつか絶対に二人で行こう。約束だよ」
「はい。約束ね」

 トーマは小指を絡ませ合いながら、安堵の息をついた。
 きっと、せつなはトーマの言葉をそのままの意味でしか受け取っていない。しかし、トーマは違う。休みを合わせて一緒にモンドに行き、故郷を案内して、家族に紹介する。その一連の行動全てが、トーマにとっては同じ時間を楽しく過ごすだけではなく、自分のルーツを知ってもらうためであり、せつなとの未来を見据えたものでもある。
 せつながトーマの真意に気が付くのは、きっともう少し先の話。しかし、そのときはきっと、今よりももっと、美しい笑顔で綻んでくれるという確信がある。
 手を伸ばし、想いを告げた日に贈った月下美人の簪に触れる。この簪に込めた意味を形にした未来を、いつか迎えられることを願って。



2023.01.25

- ナノ -