冬に生まれたあたたかいひと
 新年を迎え、社奉行として抱えていた公務がようやく落ち着き始めた頃。休業日であるはずの木漏茶屋の焜炉には炎が上がり、前掛けをつけたせつなと綾華が慌ただしく厨房を行ったり来たりしていた。

「綾華ちゃん。包丁で手を切らないように気を付けてね」
「ふふふ、大丈夫です。包丁も刀も同じようなものですから」
「いえ、それはだいぶ違うと思う……」

 そんなやり取りを、厨房の外から見守る若草色の眼差しがあった。トーマだ。トーマは綾華が包丁を握ったり、せつなが火の前に立ったりするだけで、反射的に手を出してしまいそうになるのを堪えていた。

「心配かい?」
「若」
「せっかく二人がトーマのために料理をすると言っているのだから、今日はお言葉に甘えておきなさい。何せ、今日はトーマの誕生日なのだから」

 綾人には図星を突かれたトーマは気まずそうに頬をかき、黙り込んでしまった。
 普段から木漏茶屋で給仕として働いているせつなだけではなく、綾華まで厨房に立ち料理を振る舞おうとしている理由はただ一つ。今日が一月九日。神里家の家司であるトーマの誕生日だからである。
 神里家の当主である綾人はもちろん、綾華、そしてトーマもそれぞれ忙しい毎日を過ごしているが、毎年トーマの誕生日には必ず休みの予定を合わせ、三人でのんびりと過ごすことが定番となっていた。今年もまた、トーマの誕生日を祝う宴を開くため、せつなと綾華はご馳走の準備中なのだ。

「本当は私も仲間に入りたかったけれど、綾華から追い出されてしまったよ。『お兄様が一緒だと何を入れられるかわかりません』と」
「……懸命な判断だよ、お嬢」

 綾人は料理ができないわけではない。しかし、少々人と異なる味覚をしていることと、少しの好奇心が災いして『故意に』微妙な料理を作り出してしまうことがある。その度に料理の処理を行ってきたトーマは、誕生日に腹を痛めずに済んだことを密やかに感謝した。

「毎年、トーマの誕生日は私と綾華の三人で過ごしていたけれど、今年からせつなさんが加わってなおさら賑やかになりそうだね」
「……はい。本当に毎年、誕生日になると感謝が尽きません。オレを神里家の一員として見てくださり、本当にありがとうございます」
「トーマは他にやりたいことはないのかい?」
「えっ? オレは誕生日を祝ってもらえるだけで光栄で……」
「そうではなく、誕生日に私たち以外にも会いたい人がいるのでは? 誕生日は生まれたことを祝われるだけではなく、生まれたことやまわりの人に感謝をする日。トーマの性格上、後者の意味合いのほうを強く認識していると思っていたよ」
「……若には敵いませんね」

 綾人は口元を緩めると、厨房で忙しなく動いている背中に声を投げ掛けた。

「せつなさん」
「はい、なんでしょう」
「トーマが他に出掛けたいところがあるようです。一緒について行ってあげてくれますか」
「わ、若!?」
「わたしが、ですか? わたしは構いませんが、宴の料理が途中で……」
「心配いりません。私が変わりましょう」
「えっ!? お兄様が、ですか?」
「ふふふ。綾華。そんな顔をしなくとも、大切な家族の誕生日に妙なものを入れたりしませんよ。なので、安心して行ってきてください。せつなさん」
「……では、よろしくお願いいたします」

 本当にいいのだろうか、という面持ちでせつなは前掛けを畳み、綾人に手渡した。「お兄様、本当に変なものを入れないでくださいね」と、綾人に念を押す綾華の声を聞きながら、トーマとせつなは木漏茶屋を後にする。

「トーマさん、わたしが一緒でも大丈夫なの?」
「ああ。むしろ、一緒に来てくれて嬉しいよ。……本当に若には敵わないな。他にやりたいことがあることを見抜かれただけじゃなく、こうしてせつなと二人きりにしてくれるんだから」

 多忙を極める身である綾人と綾華と共に、誕生日を過ごすこと。それは故郷から離れて単身で稲妻に辿り着いたトーマにとって、とても贅沢な時間だった。それだけで満足で、幸福だと感じていた。
 しかし、今年はどうも少しだけ欲張りになってしまったらしい。左隣を歩いている少女――せつなと、恋人としての時間を過ごしたいと思ってしまった。家族で過ごす時間だけではなく、恋人と過ごす時間までも与えてくれた、綾人には隠し事はできないとつくづく思う。
 その恋人はというと、気恥ずかしさから頬を染めてしまった。恋人という関係になってしばらく経つというのに、トーマよりもやや年下ということや控えめな性格ということも合間って、せつなは未だに初心な反応をみせる。それがトーマにとっては可愛らしくもあり、これから先の関係にどう進めていこうかと頭を悩ませる問題でもあった。そんな悩みすら、愛しいものに違いはないのだが。

「と、トーマさんはどこに行きたいの?」
「えーっと、まずはオレの友達のところに行きたい。もちろん、魚肉や鳥肉を用意してね。オレが今日誕生日で、みんなのお陰でまた一つ歳を重ねられたことを、あいつらにも伝えたいからね」
「ふふっ。トーマさんらしいね。他には?」
「あとは、蛍とパイモンを誕生日のパーティーに呼びたいんだ。二人には世話になったし、長旅で疲れてるかもしれないだろ? パーティーで美味しいものをたくさん食べて、ゆっくり休んでほしいんだ」
「じゃあ、二人のことを探しに行かなきゃね」
「ああ。離島にいるっていう情報を聞いたから、友達のところに寄った後に行ってみよう」

 一歩。踏み出そうとしたトーマの腕がその場に留められ、足を再び地面に戻す。グローブ越しに伝わるせつなの手の感覚。華奢な指先が少しだけ震えているのがわかった。

「せつな?」
「あの……今日の主役のトーマさんに戻る前に、今だけ、わたしからのお祝いの言葉を伝えさせてもらえますか?」
「……ああ、もちろん」

 ホッとしたように頬を緩めるせつなを見て、自身の表情も同じように綻んでいくのがわかる。そんなに緊張しなくとも、許可を得なくとも、恋人という対等な関係なのだからもっと自然に振る舞ってくれたらいいのに、と思う。しかし、せつなの性格では、それも難しいのだろう。だから、彼女が絞り出してくれる精一杯の愛情を包容し、一滴も残らず受け止める。

「あなたがいなかったら、今のわたしはどこにもいませんでした。あなたがいてくれるから、わたしは今日という日を笑って生きていられるの。だから、生まれてきてくれて、わたしと出逢ってくれてありがとう。お誕生日おめでとう、トーマさん」

 恥ずかしがりやな彼女が伝えてくれた、飾り気のないありのままの感謝と祝福。どんなに高名な詩人がしたためた詩も、きっとこのシンプルな言葉には敵わない。
 じんわりと、せつなの想いが心の中に浸透していく感覚を噛み締めながら、トーマは「ありがとう、せつな」と、ようやく返した。

「誕生日を知ったのがつい最近で、贈り物をなにも準備していなくて申し訳ないけど……」
「そんなことない。オレにとっては、大切な人たちと過ごす楽しい時間が何よりも贈り物なんだ。それに、せつなは朝早くからお嬢と一緒にたくさん料理を作ってくれたじゃないか。おでんに、刺身に……オレ、食べるのが待ち遠しくってさ! 特に、せつなの月見蕎麦は絶品だからね! 楽しみだ!」
「うん。お蕎麦は宴の直前に作るから、楽しみにしてて」
「ああ! 今度お礼に、モンド料理を振る舞わせてくれよ。オレの故郷の味を、せつなにたくさん知ってほしいからさ」
「ふふっ。ありがとう。引き留めてごめんなさい。行きましょうか」

 離れていきそうになった指先を、追いかけるように絡めとる。せつなは戸惑うようにトーマを見上げ、上目遣いのまま首を傾げた。無意識に行っている仕草に、トーマがこんなにも内心をかき乱されているということを、せつな本人は知らないのだろう。

「その前に一つだけお願い事をしてもいいかい?」
「もちろん。わたしに叶えられること?」
「ああ。せつなだからお願いしたいこと。……このまま、手を繋いでいきたいな。せつなは恥ずかしがるかもしれないけど」

 思った通り、せつなは首から頭の先までをみるみるうちに真っ赤に染め上げてしまった。しかし、絡めた指が払われることはなく、むしろ控えめに込められた力がトーマのお願いを肯定していた。

「ありがとう! あ〜、今日は本当に最高の日だ! 行こう!」
「ええ」

 大切な友人を誘って、家族が揃った食卓を囲んで、美味しいものを食べながら談笑する。それだけで十分幸せだったのに、今年は愛しい存在が隣にいてくれるのだから、これ以上の願いなんてありはしないのだ。



2023.01.09

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