月下に咲く調べ
 せつなが海祇島を訪れたのは今回が初めてのことだった。鬼族の荒瀧一斗を中心として開催される“イリデッセンスビッグツアー”への協賛として、木漏茶屋が臨時出店することになり、せつなが従業員として派遣されることになった。その案を社奉行当主に提案したトーマと共に、この地を訪れたのだった。
 岩礁と巨大な貝殻で囲まれた宮殿。月明かりのような光を宿した池。宙を浮遊する水泡。同じ稲妻という国なのに、鳴神島の景色とはこうも違うものなのかと、せつなは感嘆の息を漏らした。

「せつな。手桶はこのあたりでいいかい?」
「あっ、はい。トーマさん。たくさん荷物を運んでくださってありがとうございます」
「このくらいどうってことないよ! もともと木漏茶屋から小隊を派遣することを提案したのはオレだし、フォンテーヌの音楽と融合した一斗殿のお祭りがどのようなものになるのか視察したかったからね。いずれにせよ、海祇島を訪れるつもりだったんだから、気にしないで」
「はい。ありがとう。それにしても、海祇島ってとても綺麗なところなのね。まるでお伽噺の世界みたい」
「せつなは海祇島に来るのは初めて?」
「ええ」
「そっか。それならラッキーだったよ。せつなが経験する初めての景色を一緒に見ていられるんだからね」
「はい。わたしも、トーマさんと一緒に来られてよかった」
「じーっ……」

 はっ、とトーマとせつなは我に返った。小さな休憩所の片隅には、まるまるとしただるまの置物が飾られている。瞼が半分閉じられた大きな目は、まるで命を宿しているかのように一点を、トーマとせつなを凝視しているように見えた。ただの置物なのだからそんなはずないと、この置物の正体を知らない人は誰もが笑い飛ばすことだろう。
 しかし、トーマとせつなは知っている。この奇妙なだるまの正体が同じ社奉行に所属する終末番の少女――早柚であることを。木漏茶屋の臨時休憩所の飾りに化けて、祭りの偵察と情報収集を任されているということを。
 せつなは一瞬で頬を朱色に染め上げると、トーマから離れてそそくさと休憩所の準備を再開した。ふたりきりではないということを忘れかけていた挙句、甘い空気を垂れ流しそうになってしまうなんて、穴があったら入りたいとその背中に書いてあるようだった。
 その様子を見たトーマは苦笑しながらも、緩む頬を隠さなかった。同じ社奉行に忠誠を誓うふたりだが、その一方で恋仲でもある。想いを通わせてしばらく経つが、いつまでも初々しい反応を見せてくれる恋人は、いじらしくて可愛らしい。

「せつなは本当に恥ずかしがり屋さんだね」
「うう……早柚ちゃんがいることを忘れていました……さすが終末番。気配を消すことがお上手で……」
「アハハッ! じゃあオレは残りの荷物を持ってくるから、少し離れるよ」
「はい。よろしくお願いします」

 トーマの姿が見えなくなったことを確認すると、せつなは両手でパタパタと頬を仰いだ。この熱が、トーマが戻ってくるまでに冷めますように。
 そのとき、遠くからせつなの名前を呼ぶ高い声が響き渡った。

「せつな! ずっと探していたのにこんなところにいたのか!」
「パイモンちゃんに蛍ちゃん!」

 久しぶりに見た顔ぶれに、せつなは安堵から表情を綻ばせた。パイモンは小さな手を大きく振り、蛍はその後ろをゆっくり歩いてせつなたちの前で歩みを止めた。

「ふたりとも、本当に久しぶり。元気そうでよかった」
「ああ! すーっごく元気だぜ!」
「せつなはここで何をしているの?」
「荒瀧さんが開催される“いりでっせんすびっぐつあー”に、助っ人として木漏茶屋が派遣されることになったの。だから、こうして準備をしているのだけど……ふたりはわたしのことを探していたの?」
「うん。せつなは神楽が得意だって聞いたから、音楽祭に招待したかったんだ。歌でもダンスでも、楽器の演奏でもいいからぜひ舞台に上がってほしかったけど……」
「そういうことだったの。ごめんなさい。当日は忙しくなるかもしれないから、今回は遠慮しておくね。でも、ここからお祭りを楽しませて」
「もちろんだぜ! 当日はオイラも歌うから、せつなも見逃さないようにしていてくれよな!」
「ありがとう、パイモンちゃん」

 せつなの視線が蛍の手元に落ちる。カタツムリのようにくるんと丸められた管が特徴的な、楽器らしきものを持っている。唄口があることから、おそらく笛のように息を吹き込んで音を鳴らす楽器だということまでは推察できたが、せつなもそこまで音楽に明るいわけではない。神楽で使う範囲内の知識しか持ち合わせていないが、今回の音楽祭のテーマを思い出すとある可能性を閃いた。

「その楽器は……稲妻では見ないわね。もしかしてフォンテーヌの楽器?」
「そう。ホルンっていう楽器。招待するときにその人の好きな曲を演奏してるんだ」
「へへっ。せつなは招待する前から海祇島に来ていたから、その必要はなかったな。次に行こうぜ!」
「うん。せつな、またね」
「ええ。お祭りの準備、頑張ってね」

 せつなは小さく手を振りながら蛍たちの背中を見送った。姿が見えなくなるとその手を下ろし、独り言のように呟く。

「好きな曲、か……」

 音楽に対してそこまで明るいわけではないが、かといって苦手でも嫌いでもない。むしろ好きな部類だった。
 好きな曲と聞いて思い浮かぶものはいくつかある。最も身近な音楽といえば、祭りの最中に聞こえてくる笛や太鼓が奏でる音楽だが……せつなの脳裏には異国の旋律が浮かんでいた。懐かしく、切なく、優しい、子守歌。歌詞は覚えていないが、旋律はまだ記憶に残っている。たどたどしく鼻歌にのせてみると、少しだけ目の奥がツンと滲んだような気がした。
 そのとき、せつなの背後で枝を踏んだ小さな音が聞こえた。瞬きをするよりも速く振り向くと、目を見開いてかたまっているトーマと視線が絡んだ。

「ひゃっ!? と、トーマさん」
「ごめんごめん。驚かせたかい?」
「わたしのほうこそ、ごめんなさい。敵襲かと……」
「せつな!?」
「ふふっ。冗談です。あっ、残りの荷物をありがとうございます。受け取りますね」
「ああ」

 トーマから最後の荷物を受け取ったせつなは、何事もなかったかのように再び設営を始めた。少しの間だけ胸を満たしていた哀愁のことは、すっかり頭の中から消えてしまっていた。

 ――そして、音楽祭当日を迎えた。提灯の明かりとスポットライトで照らされたステージが、神秘に満ちた海祇島の景色の中に浮かんでいる。フォンテーヌと稲妻の文化が織りなされて完成した舞台の上で、音楽を愛する者たちが様々な“ロック”を披露していく。歌。踊り。歌劇。楽器の演奏。そして祭りの大トリを飾ったのが『最強オニカブトムシに転生して世界をひっくり返してやった』という、今回の祭りのテーマソングを歌った荒瀧一斗とパイモンだった。このときばかりは、せつなもトーマから手を引かれて休憩所を離れ、一緒になって手拍子を送ったり、曲に合わせて腕を左右に揺らしたり、一斗とパイモンが互いに煽るようなやり取りを見せた際には腹を抱えて笑いあったり、楽しい時間を過ごした。
 そして、祭りの後。明かりが消えた会場は、祭りが終わったあと特有の空気に包まれていた。人が去り、屋台と提灯の明かりが一つずつ消えていく。この瞬間の寂しさは、何度祭りを経験しても慣れることはないだろう。
 会場から少し離れた場所で、せつなは夜空を見上げていた。偶然にも今夜は満月だった。青白い月がぽっかりと浮かび、夜の主役を飾っている。散りばめられた星たちはまるでライトのように煌めいている。
 祭りの後の寂しさとは少し違う寂しさを、せつなは想い出していた。鼻歌を歌えば、紛らわすことができるだろうか。
 せつなはスッと息を吸い込んだ。しかし、そのあとせつなの口から紡がれるはずだった音は、背後からやってきた人物に引き継がれた。

「トーマさん……」

 トーマは手に異国の楽器を持っていた。しかし、蛍が持っていたフォンテーヌの楽器ではない。四本の弦が張られた古い琴は、璃月の楽器だ。トーマの指先が弦を弾き、懐かしく、切なく、優しい旋律を生み出している。以前せつなが歌った鼻歌通り、トーマの手で奏でられている。
 最後まで弾き終えると、トーマは安堵したように深く息を吐いた。

「よかった。最後まで弾けた」
「トーマさん、その曲は……」
「せつなが好きな曲、だろう? 違ったかい?」
「……確かにわたしが好きな曲です。亡くなったお母さまがわたしに歌ってくれていた子守唄……もしかして、この前少し聴いただけで、この数日ずっと練習してくれたの?」

 トーマは頬をかきながらはにかんだ。その笑顔が。想いが。もう一度この曲を聴くことができた以上に、こんなにも嬉しい。いとおしい。

「ありがとうございます、トーマさん。……もう一度、聴かせてくれますか」

 返事の代わりに微笑みを返し、トーマの指先が再び弦を弾く。優しい旋律とトーマの愛情に身を委ねて、せつなは瞼を落とした。その頬をあたたかい涙が伝い落ちていることを知っているのは、夜空に浮かんでいる月だけだった。



2024.05.13

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