魅せて魅せられ、恋い焦がれ
 その日の夜、せつなは神里屋敷の門の前でそわそわと落ち着かない様子だった。ときどき時間を確認し、あたりを見回してなにかを探すような素振りを見せている。

「お荷物です〜!」
「綺良々ちゃん!」

 せつなが声がしたほうを向くと、石階段を駆け上がってきた配達箱と目が合った。配達箱には目以外に四本の手足と先が分かれた尻尾、それから耳が生えている。正体を知らない人間が見たら妖怪か何かと思うかもしれないが、それで正解だ。せつなが綺良々と呼んだ不思議な生き物は、くるりと宙で一回転したかと思うと、たちまち猫又の少女に姿を変えた。

「せつなお姉さん〜!」
「待っていたわ。配達お疲れ様。夜遅くにごめんなさいね」
「いいんですよ〜! 配達にきたのに留守だった、ということになるより時間指定していただけるほうが助かりますから。はい、どうぞ。せつなお姉さんにモンドからの荷物だよ」

 綺良々は狛荷屋という稲妻の有名な配達会社の配達員である。大妖怪として振舞うよりも、人間社会に溶け込むことを好いている彼女は、こうして稲妻だけでなく国外からの荷物も届けてくれるのだ。
 せつなは確かにモンドからあるものを取り寄せた。しかし、綺良々が両手で抱えている配達箱は想像より一回りも二回りも大きかったし、その重さも外観に比例するものだった。

「あら……? 思っていたよりも少し大きい気がするわね……?」
「そう? でも、宛て先は神里屋敷になっているから、せつなお姉さんの荷物だと思うよ?」
「そうね。ありがとう、綺良々ちゃん」
「どういたしまして。では、こちらにサインをください」
「……はい。これでいい?」
「ありがとうございます! では、わたしはこれで……」
「あっ!」

 宅配箱の姿に戻った綺良々を引き留めて、せつなは言い淀みながらも口を開いた。

「あっ、あの……綺良々ちゃん」
「にゃん?」
「いつもの、やってもいい?」
「もちろん! でもその代わり、高評価をお願いしますね!」
「ありがとう」

 せつなは荷物をいったん足元に置いて、宅配箱の天面から飛び出たふたつの耳をふにふにと撫でた。この感触、犬猫好きにはたまらない。至福である。耳元を掻くように少し強めに撫でてやると、綺良々も気持ちよさそうに目を細めていた。

「では、今後も狛荷屋をどうぞご贔屓に〜!」

 綺良々は鎮守の森方向へと軽やかに駆けていった。その姿が完全に見えなくなるのを待ってから、せつなはいそいそと屋敷の中へと入り自室へと戻る。
 ピシャリ、と襖を閉める音が響くと、この部屋は世界から切り取られた空間になる。せつなが何をしようと誰も何も言わないし、誰も何も知らない。

「さて、と」

 荷物を化粧台の上に置き、逸る気持ちを押さえながら開封していく。

「取り寄せちゃった……モンドで大人気と噂の錬金薬……!」

 せつながその噂を聞きつけたのは偶然だった。つい先日までモンドに滞在していたという北斗の話を、離島で聞いたのがきっかけだった。なんでも、蛍とパイモンがモンドで錬金薬を作って売っているのだという。しかも、需要に合った効能のものを狙って作ることができるというのだから、せつなの関心を引いたのだった。

(北斗さんの話では、様々な効能があるということだったけれど……わたしが欲しいのは魅力に特化したもの……! これで、少しでもトーマさんの隣に並んでも恥ずかしくない、素敵な女性に近づけたらいいな)

 恋人であるトーマは自分にはもったいないくらい素敵な男性だと、せつなはそう評価している。それでも、璃月旅行を経て、せつなは自分自身に対する自信のなさを、少しずつ埋めることができるようになった。
 わたしなんか、と卑下したり控えめな評価をしたりしてしまうことは、まだゼロではない。しかし、捨てられたと思い込んでいた両親から、確かに愛を注がれていたのだという事実を知り、自分を出せるようになってきたのだ。
 だから、今よりもっと魅力的な女性になって、いつか本当の意味でトーマと結ばれたい……そんな願いから取り寄せたのが、この錬金薬を使った品物たちだった。

(わぁ、いろんな商品が入ってる。ひとりでは使いきれないかもしれないわね)

 蛍への手紙には希望する効能だけを綴っていたが、様々な場面で使えるようにという気遣いか、はたまた宣伝を兼ねているのか、送られてきた商品はひとつだけではなかった。

(これは、ぼでぃーくりーむ? 肌に塗る軟膏のようなもので、保湿効果もあるのね。梢さんが手荒れを気にしていたからお裾分けしてもよさそう。こっちは練り香水。強い香りがつくものは仕事柄使えないから、綾華ちゃんに贈ろうかな)

 品物と説明書きを照らし合わせながら使い方を確認していると、緩衝材に包まれた大きななにかが荷物の底に隠れていた。添付されている手紙にはこう書かれていた。

「あろまおいるとお酒……?」

 蒲公英が描かれたパッケージのボトルの中には、美しい琥珀色の液体が揺らめいている。が、セットになっているアロマオイルというものはせつなにとって聞き覚えのない単語だった。
 説明書きを読んでみると、香りから錬金薬の効果を取り込むものらしい。手拭いに染み込ませたり、風呂の中に垂らしたり、空気に吹きかけたり、使い方は様々らしいが今回は付属のアロマポットを使ってみることにした。
 蝋燭に火をつけて、アロマポットに設置する。そして、水を入れた受け皿にアロマオイルを数滴垂らして、あたたまるのを待つ。
 しばらく待っていると、甘く濃厚な香りが部屋の中に満ちていった。

「いい香り……でも、これで本当に魅力的になれるのかしら」
「せつな、起きているのかい?」
「っ、トーマさん!?」

 時刻は五ツ半を過ぎている。せつなと同じように、神里屋敷に住んでいる従者たちのほとんどは自室に戻り、夜の守衛を任されている者は持ち場についている時間だ。だから、部屋の外からトーマの声が聞こえてきたとき、せつなの肩は小さく跳ねてしまった。
 姿見で軽く前髪を整えてから障子窓を開けた。そこにいたトーマは普段より軽装だった。上着を着ておらず、愛用の喜多院十文字を片手に、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。

「こ、こんな時間にどうしたの?」
「鍛練の帰りにせつなの部屋の前を通ったらいい香りがしたから、なんだろうと思ったんだ」
「外まで漂っていたの? ごめんなさい、すぐ消しますね」
「いや。せつなの部屋は離れにあるし、それに変な香りじゃないから大丈夫だよ。花のようないい香りがするね」
「あろまおいる、というらしいの。モンドで噂になっている錬金薬を混ぜたものみたい」
「モンドの錬金薬?」

 モンドという単語に、トーマの目がいっそうの煌めきを宿した。せつなが「入る?」と問うと「いいのかい?」と、さらに表情が輝いた。
 この時間に部屋の中へ招き入れることを、はしたないと思われないだろうか。そんな不安が頭をよぎったが、トーマは何も気にしていない様子である。トーマはせつなの部屋に入ってすぐに蒲公英酒を見つけると、それを興奮気味に手にとりしげしげと眺めている。

「これって、アカツキワイナリーの蒲公英酒じゃないか!?」
「ええ。お手紙によると、あろまおいるを使うときに飲むとより効果が増す……と書いてあるわ」
「へぇ」
「……トーマさん、もしかして飲みたいの?」
「……故郷のお酒だ。飲みたくない、と言えば嘘になる。でもオレは……」

 トーマが言葉を詰まらせるのも仕方がなかった。トーマはモンド出身でありながら、酒が苦手なのだ。味という意味でもそうだし、酔いやすいという意味でもそうである。しかし、懐かしい故郷の香りが漂う酒に惹かれていることは、その表情から見てとれる。
 酒の席でトーマが酔い潰れたところを、せつなは見たことがない。酒に弱い自覚があるトーマは普段から意識的に飲まないようにしているのと、付き合いや仕事で飲むにしても酔いが回る前に自制しているのだ。
 だから、せつなは知らないのだ。酔いが回った大の男が、どうなってしまうのか。

「少しなら大丈夫かもしれませんよ? ほら、小さな杯に少しだけ」
「……そうだね。お酒は体によくないけど、少しなら大丈夫かもしれない。一杯だけいただけるかい?」
「ええ。そもそもわたしはまだお酒は飲めないから」
「おっと。そうだったね」

 トーマは一度せつなの部屋をあとにすると、しばらくして手に小さなお猪口を持って帰ってきた。座椅子を並べて、隣りあって腰掛ける。「モンドのお酒をこれでいただくのも変だけどね」と笑いながら差し出されたお猪口に、せつなはボトルを傾ける。お猪口にはすぐに満々と注がれた蒲公英酒でいっぱいになった。

「じゃあ、いただきます」

 お猪口におさまっている蒲公英酒は、量としてはごく僅か。酒好きであれば一口で飲み干してしまう量だが、酒が苦手と公言しているトーマにとってはいかほどだろうと、ハラハラしつつせつなは見守った。
 ――ごくり。トーマの隆起した喉が上下に動く。トーマは深く息を吐き出しながらお猪口を台の上に置いた。お猪口の中は空になっている。

「どうですか?」
「……ごめん。やっぱりお酒は苦手かもしれない……」
「ふふっ。無理しないで」
「でも……故郷の香りがする」

 哀愁と懐古が滲んだトーマの表情。故郷を想うときに見せる、優しくも寂し気な横顔。すぐそこにいるのに、なぜかトーマのことを遠くに感じる。
 思わずトーマの腕に触れると、直に感じた肌の熱さにハッとした。まるで病に侵されたときのように、熱い。

「なんだか熱いな……一杯しか飲んでないのに……それに少し頭がくらくらするような……」
「トーマさん、大丈夫ですか? お水を持ってきて……」

 すぐに立ち上がろうとしたせつなだったが、逆に腕を掴まれて体勢を崩す。抱きとめられたトーマの体温が移り、せつなの体温までもが上がっていく。

「ここにいて、せつな」

 耳元で囁かれた声が酷く甘い。触れられている部分が溶けてしまいそうに熱い。瞳に映るトーマの姿が、眩しくて、愛おしくて、仕方がない。
 そう思っているのはきっとトーマも同じだ。熱に浮かされたような甘く熱い眼差しが、その答えだ。
 

「どうしてだろう……今日はせつなのことがいつも以上に魅力的に見えて仕方がないんだ……」
「わたしも、トーマさんの声を聞くだけで、心臓が壊れそうです……」
「……せつな」

 これもアロマオイルの中に秘められた錬金薬の効果かもしれない。でも、それでも構わないと、せつなは瞼を落とした。
 むせ返るような甘い香りに包まれたふたりは、香り以上に甘い口づけを交わした。体温を移しあうようにしっとりと重ねていると、悪戯な音を立てていったん熱が離れていく。しかしすぐに、唇で唇をはむような軽い口づけが小刻みに繰り返され、あまりの気持ちよさに力が抜ける。体はトーマの左腕に、後頭部は右腕にがっしりと固定されて、引くことも休むこともできず、ただ施される口づけに酔いしれていた。

「……っ」

 薄く開いてしまった唇からなまあたたかい何かがせつなの中へと侵入してきた。それがトーマの舌だと気がついたのは、口の中に酒の味が広がってからだった。
 いつもよりも深く、うんと甘く、ほんの少しだけ理性が溶けた荒々しい口づけ。なんとかついていきながら「もしかして」と心の奥でこの先を期待してしまった。
 まだ未知に対する不安はある。しかし、トーマに愛されているという自覚と、身を委ねる覚悟はとうに持ち合わせていた。
 トーマならば。トーマだから。大丈夫だと、心からそう思えた。
 それなのに、せつなの意志に反して身体は正直だった。トーマの唇が首筋へと落ちると、自然と体が強張り、震えた。拒絶からくる震えではないが、湿度が絡んだ艶っぽさとも違う。
 我に返ったのはせつなではなく、トーマのほうだった。両手でせつなの肩を優しく押して、身体を離す。金糸を紡いだ太めの眉は申し訳なさそうに八の字になっていたが、若草色の瞳の奥にはまだ熱が燻っていた。

「いきなり、ごめん」
「だ、大丈夫です。少しびっくりしただけで。あの、もうわたしは……」

 必死に言葉を紡ぐ唇に、触れるだけの口づけを落とされた。名残惜しそうに親指でせつなの唇をなぞり、トーマは微笑む。

「酒と錬金薬の力を借りるなんて、かっこ悪いだろ? また今度、仕切りなおさせて」
「っ、トーマさん……はい。ありがとう」

 どこまでも誠実で。どこまでも律儀で。どこまでも大切にしてくれるひと。終わりのない愛情を、せつなという器にぴったりのところまで注いでくれるひと。そんなトーマのことを心から好きだと改めて実感した。せつなにとっての大切なことを、その場の雰囲気と感情に流されず、同じように大切に想ってくれていることが、こんなにも嬉しい。
 しかし、それはそれとしても、だ。トーマの身体の熱さは大丈夫なのだろうか。目は相変わらず泳いでいるし、なぜかやや前屈み気味になっている。具合が悪くなっているのでなければいいけれど。

「でも、あの、大丈夫ですか? お酒を飲んでいるからか、わたしよりも錬金薬の効果が……」
「問題はそこなんだ……ちょっと外に出て風にあたって頭を冷やしてくるよ……」
「と、トーマさん!? そっちは窓です! 気を確かに!」
「ちょっと若のところへ行って……元素爆発で頭から雨を降らせてくれるよう頼んで……もしくはお嬢の桜吹雪で心頭滅却……」
「トーマさん〜!?」

 大人気の錬金薬。効きすぎるというのも困りものである。しかしトーマの場合、理性が溶けかけた理由はだいたい酒の弱さのせいであるし、そもそも始めからすっかりせつなに魅了されてしまっているのだから、錬金薬はあまり関係のないことだったのかもしれない。
 いつだって、魅せて、魅せられて、互いを想い恋い焦がれている。せつなが錬金薬を取り寄せることは、もう今後はないのだろう。



2024.03.20

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