優しい熱に溶かされる
「待つんだお嬢さん」
「えっ」

 耳慣れた声の聞きなれない言葉に、せつなは思わず足を止めた。真昼の空に浮かぶ月よりもまんまるになってしまった瞳が捉えたのは、眉を眉間の中央に寄せた青年の姿だった。

「トーマさん……?」

 新緑の瞳は今日も優しく煌めいて見えるのに、何故かその視線はいつもより鋭い。滅多に向けられることのない視線の温度に、軋むように心臓が痛んで、そっと胸に手を当てた。逸らさずに、けれども不安に揺らぐ月白の瞳がトーマを映す。

「うっ」

 身長差からどうしたって自分を見上げることになる。柔らかな光を内包した瞳が上目遣いにトーマへいたいけな視線を向けた。声を詰まらせ僅かにたじろいだトーマだったが、何かを振り払うように首を左右に振る。

「どこへ行こうとしているのかな」
「いつも通り木漏茶屋へ向かうところですが、なにかありましたか?」
「……もしかして、自覚、ない?」
「?」
 何か問題を起こしてしまったのだろうか。トーマからの指摘に心当たりは無く、無意識に、こてん、と頭が右へ傾いた。

「うぐっ、仕草にまで影響が出てるじゃないか。ちょっと失礼するよ」

 ため息をひとつ溢したトーマがおもむろにせつなへ指を伸ばした。その行く末を視線だけで追っていたせつなの頬に、柔らかく冷んやりとしたものが触れる。

「どうかな」
「……ひんやりとして、きもちがいいです」
「うん、いつもと逆だね。せつなはオレの手を温かくて優しい手だと言ってくれるだろう? それを冷たく感じるってことは」

 そこで一度言葉を止めたトーマが身を屈めて、ゆっくりとせつなに体を近づける。自分の顔に影ができる様子をぼんやりと眺めていたせつなの耳に、ひときわ低くトーマの声が響いた。

「熱があるんだよ」

 瞳を細めて、薄く微笑む。穏やかで、爽やかな笑み。なのにどこか有無を言わせぬ迫力があって。

「っ!?」

 そこまで脳裏に浮かんだところでトーマの姿が視界から消えた。そして驚く間も無く体を襲った浮遊感にぎゅっと瞼を強く閉じる。次に眼を開けたときせつなの視界に映ったのは、健康的な肌色の首筋と黒いシャツと銀色のネックレスだった。

「あの、トーマさん……!」
「熱で潤んだ瞳に、いつもより幼い仕草。頬だってもともとが色白だから、少し色づいただけでも男心に……って、とにかく! 今日のせつなは、このまま部屋に戻ってゆっくり休むのが仕事だ」

 いつもより近くから聴こえてくる声に胸の痛みは消えはしたが、代わりに胸の奥まで熱くなる。今ならトーマに言われたことがせつなにもはっきりとわかった。確かに頭も頬も胸の奥も、身体の全てが熱かった。

「……わかりました。今日はちゃんとお休みします。だから降ろしてくださいトーマさん」

 膝裏に当たるトーマの手の感触は、気遣いと優しさから来る行為だと分かっていても、どうしたって意識してしまう。そんな場所を、そもそも直接肌に触れられることすら慣れていないというのに。
 熱とは別の理由で体を震わせるせつなを見下ろして、トーマが微笑む。瞳を柔らかく緩ませて、穏やかに、爽やかに。けれどもやはり、どこか有無を言わせぬ威圧を孕んで。

「言っただろう。『このまま部屋に戻って』って。熱があるのに気づかない頑張り屋さんは、このままオレが連行します。それに」

 先ほどから続く既視感をなぞるように、再び言葉を止めたトーマだったが、先ほどとは一転して、淡く頬を染めながら小声でぽつりと、せつなにだけ届くような声音で呟いたら。

「それに、こんな時くらい彼氏であるオレを頼ってほしい」

 残念ながら、せつなの熱は、当分治まりそうになかった。






「………」
「もう少しで到着するから我慢してくれるかい」
「………っ」
「せつな? もしかして、具合が悪くなってきた? 揺らすのも可哀想だからゆっくり歩いていたんだけど、先を急いだ方がいいかな」
「ちがうの、その……」
「うん?」
「……重く、ないですか……?」
「あははっ。もしかしてそんなことを気にしてずっと黙っていたのかい」

 トーマが笑い飛ばした内容は女の子なら誰もが気にすることだった。自分をこうして抱き上げているのが、想いを寄せる男性ならなおのこと。乙女心は繊細で男性には理解が難しいことも多い。だけどそんなに笑わなくてもいいのでは。普段であれば、わざとむくれた顔を作って苦情のひとつくらいは溢すせつなであったが、今日の彼女は無意識に不調を抑え込んでいたとはいえ立派な病人だ。病は体だけではなく、心までも弱らせる。じわり、視界が揺らいで目頭が熱くなる。いっそこのまま彼の服に涙を吸わせてしまおうか。病人を揶揄ういじわるさんへそれくらいしたって許されると思う。そんなことをぼんやりと考えていたせつなの耳に、再びトーマの声が落とされた。

「そうだなぁ、軽くはないよ。だってこの両腕で抱えているのは、せつななんだから。守られるばかりの女の子じゃないと分かっていても、オレがこの手で守りたいと、大切にしたいと思っている特別な女の子だ」

 声は優しく降り注ぐ。春の木漏れ日、命が芽吹く希望の色。その瞳が、トーマを意識して俯くせつなへ柔らかな眼差しを向ける。

「だから決して軽くない。でも、せつながここにいるんだと教えてくれる、愛しい重さだよ」
「っ、ぁ、うう……」
「あっ、えっ、せつな!? どうしたんだ首まで真っ赤になっているじゃないかっ!?」



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