或る日のなんでもない出来事
『社奉行当主である神里綾人と、白鷺の姫君の神里綾華が稲妻を留守にしている』

 社奉行所に潜入して工作員として暗躍している仲間から情報をもらったのは、一週間ほど前のことだった。しかし、念には念を入れてと、様々な情報や人が交錯する離島でさらなる手札を集めているうちに、男は一人の青年と知り合うことに成功した。名前はトーマ。外国出身でありながら、離島の顔役であり、社奉行の家司として当主から信頼を寄せられている青年である。

「いやぁ。まさか神里様の右腕となるお人と知り合えるとは、私は運がいい」
「それはこちらも同様です。貴方が提案してくださった取引は、社奉行にとって良い方向へと繋がるでしょう。あいにく当主は不在ですが、私に詳しいお話をお聞かせ願えますか? そして、後日改めて、当主を含めた会談の場を設けましょう」
「ええ。ぜひともよろしくお願いいたします。トーマさん」

 社奉行当主の右腕ともいえる人物の懐にこうも容易く飛び込むことができるとは。話を重ねたところ、トーマは楽観的で人を疑うことを知らない性格のようである。男が『祭事で使用する装飾について神里家と取引をしたい』と偽りの取引を持ち掛けたところ二つ返事で頷き、話し合いのためにこうして屋敷へと招待しようとしているのだから。
 笑えるくらい簡単な仕事だ。神里家の弱点を掴むどころか、当主を暗殺するための手札を整えることができるかもしれない。そうすれば、大将からの評価が上がり幹部への出世も夢ではない。
 男は口角を上げそうになるのを耐えながら、尽きることないトーマの世間話に相槌を打っていた。しかし、離島を出て分かれ道に差し掛かったところで、首を捻ることになった。トーマが選んだのは神里屋敷へと続く左の道ではなく、紺田村や稲妻城がある右の道だったのだ。

「おや? こちらは稲妻城の方向では? 神里様のお屋敷は鎮守の森を越えた先にあると伺っておりましたが」
「はい。せっかくですので、美味しいものをいただきながらお話をしたいと考えております。社奉行のみが利用できる茶屋がありますので、そちらへご案内させてください」
「なるほど……わかりました。そうしましょう」

 少し考えた末に男は頷き、右の道へ進むトーマの隣に並んだ。
 確かに、いくらトーマが友好的とはいえ互いに知り合ったばかりの初対面だ。緊張をほぐしながら交流を深めるために、会食は手っ取り早い方法である。しかも、社奉行御用達の茶屋となると、また違う種の情報を入手することができるかもしれない。
 期待と思惑を胸の中に潜めながら、男はトーマの案内で木漏茶屋の敷居を跨いだ。表に立っている女性店員は丁寧に一礼すると、男のために木漏茶屋の戸を引いた。トーマに続いて茶屋の中に入ると、カウンター席の向こう側にいる女性店員が可憐な笑みで男を迎えた。

「いらっしゃいませ。あら? トーマさん。お客様でしょうか?」
「せつな。この方は神里家にとって有益な取引を提案してくださったんだ。丁寧なおもてなしをお願いしたい」
「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」

 茶屋の女性店員――せつなは男の一歩斜め前を歩き、長い廊下を進んでいく。ちょうど昼時だからか、どの部屋からも客の気配がする。男にとっては都合がよかった。これならば、忙しない店員の目を掻い潜り、茶屋内の調査ができるかもしれない。
 せつなが案内したのは茶屋の最奥に位置する部屋だった。部屋の真ん中には掘り炬燵式の食卓が設置されている。案内されたとおりに腰かけると、窓からは稲妻城内で咲き誇っている美しい櫻の樹が見えた。行燈の柔らかな灯りと、飾られているまん丸な狸の置物に思わず気が緩みそうになってしまった。

「失礼いたします」

 音も立てずに茶器が目の前に置かれた。中に注がれている茶の色は新緑色でも煎茶色でもなく、淡い薄桜色だった。さらには櫻の花が一輪そのまま浮かんでおり、透き通った花弁を綻ばせている。思わずため息が漏れるような美しさだった。

「これは美しい」
「櫻の花を塩漬けにした櫻茶になります。お湯の中で花開く様子や、櫻の香りを楽しまれながらご試飲ください」

 せつなから言われたとおりに櫻の香を堪能したあと、男は茶器の縁に口をつけた。櫻の塩漬けということもあり少々癖のある味だが、飲めないことはない。これも信頼を得るための手段だと言い聞かせながら全て飲み干す。空になった茶器を机の上に置くと、向かいに座っているトーマが早速と言わんばかりに口を開いた。

「では、先ほどの件ですが……」

 トーマが何かを話していることはわかる。しかし、なぜか話の内容が頭に入ってこない。意識が朦朧として、瞼が重くなっていく。
 がくん。落ちた頭を慌てて持ち上げると、心配そうにこちらを見やる若草色の瞳があった。

「どうかなさいましたか?」
「申し訳ありません……私としたことが、ぼんやりしているようで」
「ここまでご足労頂きましたから、お疲れになるのも無理はありません。私はしばらく席を外しますので、少し休憩されてからお話ししましょう」
「ええ。ありがとうございます」

 これはかえって好都合だ。トーマが離席している間に、様々なことができる。迷ったふりをして茶屋の中を探っても良し。他の客の会話を盗み聞きしても良し。なにをするにしても、神里家の情報を仕入れることができるはずだ。
 しかし。トーマが茶室を出てタンッ、と戸が閉まったのと同時に、男の意識は完全に途切れてしまったのだった。


 * * *


「社奉行も舐められたものだ。まさかここまで無能な刺客を送り込まれるとは」

 食卓に伏して眠ってしまった男を見下ろしながら、トーマはため息交じりに零した。その声色にいつもの明るさはなく、表情も無に等しい。それはトーマの隣に並んでいるせつなも同様だった。

「トーマさんの話術の賜物ではないでしょうか?」
「ははっ。ありがとう。せつなが用意してくれた睡眠薬入りのお茶もよく効いているようだ。薬が盛られているとは、まったく疑っていなかったみたいだね」
「お茶に薬を混ぜたのはわたしですが、もとは終末番のかたが用意してくださったのです」
「終末番といえば……早柚。もういいよ」

 部屋の隅に飾られている狸の置物に向かってトーマが声をかけると、小さな破裂音と共に白い煙が立ち上った。煙はすぐに晴れ、狸の置物が消えた代わりに現れたのは終末番の忍び――早柚だった。早柚の忍術を目の当たりにしたトーマの顔には少しばかりの表情が戻り、若草色の瞳を瞬かせた。

「いいなぁ。そろそろ本気でオレに忍術を教えてくれる気になったかい?」
「……神の目を持っているくせにどうしてそこまで忍術を学びたがるのか、拙には理解できぬ。ふわぁ」

 大きな欠伸を一つ零すと、早柚はこの状況になっても眠りから覚めない男を一別した。

「こやつを連れて行けばいい?」
「ああ。離島でしばらく泳がせて様子を見ていたけれど、間違いない。神里家の地位を狙う勢力の刺客だ。社奉行に潜んでいた工作員ともども、これから先の処理は終末番に任せるよ」
「……ふわぁ〜。早いところ終わらせて、拙は寝る」

 瞬く間に現れた終末番の忍びたちが、男を取り囲む。そしてまた瞬きをしている間に、早柚と男を含む終末番たちは消えてしまった。

「全て任せてしまって大丈夫かしら」
「ああ。オレにはオレの、せつなにはせつなの役割がある。ここから先のことは、終末番の役目だ」

 終末番。神里家の傘下にある、忍びの集団。その実力は雷電将軍の直属である奥詰衆にも匹敵すると言われており、公にできない機密事項を適切に処理するためにある。情報収集や盗みなどから、死体の偽造や毒薬の調合まで、命ともあれば何でもこなす。必要であれば拷問や、敵の命を討ち取ることさえも厭わない。
 一見すると、社奉行は華やかな組織に見えるかもしれないし、その見識は間違っていない。だからこそ、綾華が白鷺の姫君と呼ばれているのだろうから。しかし、それは社奉行に仕える一人一人が忠義を尽くしているからこそ、成り立つものである。神事や娯楽文芸などの華やいだ世界の裏では、仄暗い闇に対処しなければ一族は滅ぶだけ。それを綾人はもちろんのこと、彼を支える家来たちも許さない。当主の留守中ともなればなおさらのことだ。

「さあ、オレたちはここを綺麗にしてから離島に向かおう。そろそろ若たちが乗った船が着くころだ」
「フォンテーヌから戻ってこられるのね。綾華ちゃんがフォンテーヌの美味しい珈琲やお菓子をお土産に持って帰ってくれると、出発前に話してくれたの。だから、美味しい珈琲の淹れ方を調べて練習していたのだけれど、上手くいくといいな」
「それは楽しみだ! さ、行こう。せつな」

 何事もなかったかのように場を片付け、トーマとせつなは茶室を後にした。ふたりにとってはこれも社奉行としての日常の一幕。飛んでいた羽虫を適切に処分しただけに過ぎないのだから。



2023.12.29

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