紫苑の導き
「トーマ!」

 久方ぶりに聞く友人の声を耳にしたトーマは、落ち葉を集めるために箒を動かしていた手を止めた。
 神里家の屋敷に入ることを許されている異郷の者はそう多くいない。しかし、テイワットのどの国にも属さない装いをしている彼ら、テイワットの各地を旅している旅人――蛍とパイモンはその中の数少ない人物である。彼らが稲妻を訪れたのは、トーマの記憶の中では数ヵ月ぶりのことだった。

「やぁ、蛍! 元気だったかい? 本当に久しぶりだね。お嬢たちも君に会いたがっていたよ」
「うん。綾華と綾人にはさっき会ってきたよ。トーマも元気だった?」
「この通りさ! パイモンは?」
「へへっ! オイラも元気だけど……木漏茶屋の美味しい甘味を食べたらもーっと元気になるだろうな!」
「アハハッ! 君たちなら社奉行はいつだって大歓迎さ! ぜひ木漏茶屋にも立ち寄ってみてくれ。せつなも喜ぶと思う」
「そうしようぜ! 蛍!」
「じゃあ、トーマにひとつお願い」
「お願い?」
「この子を預かっていてほしい」

 蛍がそう言うと、その背後から、両手にすっぽりと収まる手鞠サイズのなにかが飛び出してきた。
 夜が始まったばかりの空のような紫色の体の中には、月のような小さな光を飼っている。丸い体からぴょこんと出ている二本の触覚は、兎の耳のようにも見える。そしてこの不思議な生き物は、蛍とパイモンのまわりをふよふよと漂い、興味深そうにまわりを見回しているようだ。
 ふむ、とトーマは顎に手を当てて、不思議な生き物を観察した。

「これは……稲妻の各地を飛んでいる雷霊に似ているけれど、少し違うね。稲妻の雷霊は、近づくと目にも止まらぬ速さで飛んでいってしまうけれど、この子はのんびり屋さんみたいだ」
「仙霊の仲間みたいなんだけど、可愛いでしょ? 縁があって一緒に旅することになったんだ」
「オイラたちのあとをふわふわ飛んでついてきてくれるんだぜ!」
「なるほど。ペットみたいなものかな?」
「ふふふ、そうかも。普段、人が多いところへ行くときは瓶の中に入ってもらうんだけど、稲妻に来てから外に出たがるようになって……」
「雷霊に似ているから、もしかしたら稲妻の空気感が気持ちいいのかもしれないよな!」
「だからね、木漏茶屋に寄っている間はトーマに預かっていてほしいんだ。ペットと思われたら中に入れてもらえないかもしれないし」
「そういうことか。わかった。オレが責任を持って見ているよ」

 紫色の仙霊は蛍とトーマの間をあっちへこっちへと、様子を伺うように飛んでいる。蛍はクスリと笑うと、仙霊の頭部を優しく撫でた。

「大丈夫。この人はいい人だから。すぐに戻ってくるから待っていて」
「蛍。ちなみに、この子に名前はあるのかい?」
「わからない。でも、名前がないと不便だから私たちは“紫苑”って呼んでる」
「紫苑……いい名前だ。君にピッタリだね」

 紫苑とは花の名前であり、青みがかった薄い紫色の名前でもある。
 蛍たちから贈られた名前を気に入っているのか、紫色の仙霊――紫苑は触角をぴんと伸ばし、トーマの元に飛んでいき頬にすり寄った。耳を擽るような、聞いたことのない鳴き声まで聞かせてくれた。

「アハハッ! くすぐったいよ」
「トーマ、早速気に入られたみたいだな!」
「ふふっ。この子も他の仙霊と同じように、宝物が眠っている場所に導いてくれることがあるんだ。もしかしたら、トーマのこと連れていってくれるかもしれないね」
「じゃあ、オイラたち行ってくるな!」
「ああ! いってらっしゃい!」

 神里屋敷の門を出て、鎮守の森へと続く階段を下っていくふたりを見送ったあと、トーマは紫苑と向き直った。

「さてと。改めて、オレの名前はトーマ。よろしく、紫苑」

 人間と握手をするように、そっと手を差しだす。トーマの仕草に気がついた紫苑は、触角をその指先に絡めようとした。しかし、僅かに触れ合った瞬間、弾かれたような小さな痛みを指先に感じたトーマは、思わず手を引っ込めてしまった。

「っと、静電気? ……なるほど、雷元素と同じ特性を持っているのか」

 稲妻を飛び回る雷霊は、触れると雷元素を付与するほどの元素力を帯びている。雷霊ほどではないが、紫苑も人を軽く痺れさせる程度には帯電しているようだ。
 紫苑の触角は、見る見るうちに萎れてしまった。紫苑には表情もなければ、言葉も通じないというのに、手に取るようにその感情が伝わってくる。

「ああ、そう落ち込まないでくれ。大丈夫。少しビックリしただけで痛くないよ。オレの知り合いにも雷元素を持った子がいてさ、慣れているから心配いらないよ。ほらね」

 今度は少しだけ大胆に手を伸ばす。触手を強く、しかし優しく包むように触れると、静電気は起こらない。
 これでふたりは、晴れて友達となった。元気を取り戻した紫苑は、トーマのまわりを跳ねるように飛び始めた。

「オレは屋敷の掃除をするけれど、ついてくるかい?」

 こくり、と頷いた紫苑を「こっちだよ」と屋敷の中へと案内する。今日は障子の木枠に積もった埃を落とそうと思っていたところだった。
 神里家の家司として、初めて掃除を任されたときから愛用しているはたきを手にする。たくさんの「戦場」を共に歩んできたこのはたきは、トーマにとって「戦友」のようなものだった。
 そのはたきを使って、積もっている埃をさっと払う。上のほうが終わったら、次は少し下へと移る。そうすることで、埃を残さず綺麗にすることができる。
 トーマがはたきを使っていると、紫苑ははためく布のまわりを飛び、ときおりちょっかいを出すようにじゃれついた。

「アハハッ! はたきを気に入ったみたいだね。猫じゃらしのようなものと思っているのかな? でも、あまり近づくと……」

 ぼふっ! 埃の塊を頭からかぶってしまい、紫苑はみいみいと悲しげに鳴いた。

「ほら、埃が降ってきた。おいで。綺麗にしてあげるよ」

 トーマが幼い子をあやすような声色で手招くと、紫苑は素直に腕の中へとおさまった。そして、水で絞った綺麗な布で体を拭いてやると、腕の中でその輪郭を微かに緩めてくつろいでいるようだった。

「うん。綺麗になった」

 元気を取り戻した紫苑は、歌うような鳴き声を上げた。撫でて、というように手のひらにすり寄ってくるものだから、口元が自然と緩んでしまう。
 稲妻城の城下町に住んでいる犬や猫の姿を思い浮かべながら、トーマは呟いた。

「ありがとう……そう言ってくれているのかな? なんだか君を見ていると、オレの友達を思い出すよ。言葉が通じなくても、なんとなく言っていることがわかる気がするんだ」

 紫苑には犬や猫と違って表情どころか顔、目すらもないが、それでもわかる。嬉しいときや悲しいときの仕草や、寂しいときや甘えたいときの声色は、こんなにも違う。
 自分の気持ちをを懸命に、人間に伝えようとしてくれている姿が、ひどく愛おしく感じる。
 
「さあ、今度はあっちを掃除しにいくよ! ついておいで」

 もし紫苑が触角を使って軽い物を持つことができるのなら、小さなはたきを用意してあげてもいいかもしれない。きっと全身で喜びを表現して、頼もしい掃除の相棒になってくれるのだろう。



 ――蛍たちが神里屋敷に帰ってきたのは、空が茜色に染まり始めたころだった。蛍たちが戻ってきた気配を感じとると、紫苑はトーマの肩に体を預けて、三人の会話をじっと見守りはじめた。

「トーマ、ただいま〜!」
「おかえり。美味しいものを食べられたかい?」
「おう! 市井おでんだろ、三色団子だろ、卵焼きだろ、それから……」
「アハハッ! 満足したみたいでよかったよ」
「でも、せつなには会えなかった。今日は届け物に出かけていて、帰りは少し遅くなるみたい」
「そうか。……それは残念だったね」

 この時間になってもせつなが木漏茶屋に戻っていないということは、蛍の言う通り、神里屋敷に戻るのは日が暮れてからになるのかもしれない。出かけ先から直帰を許されているのならば迎えに行きたいところだが、あいにく出かけ先をトーマは知らない。

「そうそう、紫苑の様子も変わりないよ。ほら、紫苑。君の友達が帰ってきたよ」

 トーマの肩でおとなしくしていた紫苑は、声をかけられてようやくそこを離れた。ぽすん、と蛍の頭の上におさまるのと同時に、切なげな鳴き声が小さく響いた。

「あれ? なんだか紫苑の元気がないみたい」
「ええっ!? さっきまであんなに元気に飛び回っていたのに、どうしたんだい?」
「もしかして、オイラたちに置いていかれたと思ったのか? 紫苑、寂しかったのか?」
「……うん。でも、寂しいのは私たちが離れたことじゃないみたい」

 蛍は紫苑を手のひらで包み込むと、トーマの目の前へと差し出した。

「紫苑?」
「トーマと別れることを惜しんでいるんじゃないかな」
「……はは、そんなに好いてくれるなんて光栄だよ。なぁ、紫苑。オレは稲妻にいるからいつでもおいで。また一緒に掃除したり友達と遊んだりしよう」

 そう言って、トーマは紫苑の前に小指を差し出した。紫苑の触角と、トーマの小指が触れ合うと、小さな電気がふたりの間で弾ける。それはふたりだけの約束が交わされた証だった。

「ハハッ! くすぐったいって……っ、紫苑?」

 トーマに頬ずりしたかと思うと、紫苑はすぐに傍を離れて神里屋敷の外へ向かって飛んでいった。急いで追いかけると、門の下で浮遊している紫苑の姿を見つけた。しかし、トーマたちが追いつくと、紫苑は再び進み始めた。まるで、ついておいでとどこかへ案内しているように。

「不思議な動きをしているけど、あれはいったい……?」
「お宝だ!」
「えっ?」
「紫苑はお宝を見つけたとき、あの動きをしてオイラたちに教えてくれるんだ」
「もしかしたら、トーマに宝物の在り処を教えたいのかも。ついていってみたら?」
「……わかった。紫苑、今いくよ!」

 宝物と聞いて、トーマの中に眠っている少年の心が疼く。
 紫苑はいったいどこへ導いてくれているのだろう。金銀財宝が眠った宝箱の在り処? それとも、まだ発見されていない秘境への入り口?
 宝物が何なのかは正直、重要ではない。仙霊に導かれるというこの体験こそが、トーマにとっての宝物に違いないのだから。

「この先をずっと進むと鳴神大社だけど、こっちに宝物があるのかい?」

 神里屋敷を出てから、紫苑はずっと坂道を上り続けているが、一向に止まる気配はない。
 日は沈み、紫苑の体と同じ色をした夜が訪れ始めている。すると、紫苑は何かの気配を感知したかのように、坂の上まで一気に飛んで行ってしまった。

「ああっ、待ってくれ! そんなに速く飛んだらはぐれてしまうよ!」

 普通の仙霊が人を導いたあと、還るべき台座に収まることで宝物が現れる。しかし、台座を持たない紫苑は坂の上で旋回し、跳ねるように飛んでトーマに合図を送っている。

「宝物はあそこか。いったいなに……が……」

 トーマが坂のてっぺんまで駆け上がると、紫苑はある人物の――せつなのまわりをくるりくるりと飛んでいた。星月明かりの中を、舞い散る桜と共に、舞うように、踊るように。その姿を追いかけていた月光色の瞳が、トーマの姿を映した瞬間にいっそう柔らかく綻ぶ。

「あら? トーマさん」
「せつな、どうしてこんなところに?」
「今日は鳴神大社へ届け物に出かけていたの」
「ああ……そういうことか」
「それよりも、見てください。この子、仙霊の仲間でしょうか? 普段見かける子と少し違う気もするけれど……」

 そこまで聞こえたあと、せつなの言葉はトーマの胸の中へと吸い込まれてしまった。

「と、トーマさん!? あのあの、ここは外で……!」

 腕の中から恥ずかしそうに抗議する声が聞こえる気もするが、まわりには誰もいない……正確には紫苑しかいないのだから、今日のところは許してほしい。なんといっても、今しがた冒険者のような素晴らしい体験をしたばかりなのだから、高揚する気持ちと愛しさを抑えきれない。

「ありがとう、紫苑! 君は確かに、オレにとって最高の宝物を探してくれたよ!」

 トーマがそう言うと、紫苑は誇らしげに宙でくるんと回ったのだった。



2024.01.18

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