今宵、きみと、月を探して
 夏の夜の蒸した暑さがなくなり、涼しげな風が流れる季節に移り変わろうとしている頃。木漏茶屋での給仕の仕事を終え、帰り道を歩くせつなの足取りは、いつもよりもどこか速かった。
 今日はトーマが離島で仕事をしている日だ。だから、それぞれの仕事が終わったら待ち合わせをして一緒に帰ろうと、神里屋敷を出る前に約束を交わしていた。
 待ち合わせ場所は紺田村の分かれ道。あそこなら、もし自分が遅くなっても村の灯りがあって危なくないからと、トーマが提案してくれた場所だった。
 約束の場所に向かって、せつなは足を速めた。閉店間際に一日の収支が合わないという問題が発生したため、いつもより店を出るのが遅れてしまった。きっと、トーマはすでに待ち合わせ場所に着いているだろうと考えると、必然的に小走りになってしまう。

「えっ、トーマさん……?」

 稲妻城の入り口に咲いているひときわ大きい櫻の下に、トーマはいた。樹の幹に背中を預け、足元で鶏肉を頬張っている猫たちを穏やかな眼差しで眺めている。
 せつなの足音に気がつくと、トーマはパッと顔を上げて真昼の太陽のような笑顔を浮かべた。

「せつな。お疲れ様」
「お疲れ様です、トーマさん。あの、待ち合わせ場所って……?」
「うん。紺田村の先だよ。でも、オレの仕事が早く終わってね。早くせつなに逢いたかったからここまで迎えに来たんだ」
「そんな……遅くなってごめんなさい。たくさん待ってくれたのでしょう? 退屈、でしたよね」
「全然気にすることないよ! 見ての通り、友達との時間を楽しく過ごせたからね」

 同意を求めるようにトーマが視線を落とすと、猫たちは揃って満足そうな声で鳴いたあと、近くの家の軒下や屋根の上など、それぞれのお気に入りの場所に戻っていった。

「それに、せつなのことを考えながら待つ時間は退屈なんかじゃない。何を話しながら帰ろうかなとか、せつなはお昼ごはんに何を食べたのかなとか、そんなことを考える時間もオレは好きなんだ。だから、せつなが謝る必要は少しもないんだよ」
「っ、ありがとうございます」
「うん! 困った顔も嫌いじゃないけれど、やっぱりせつなは笑顔が一番可愛い」

 ぶわり。全身に熱が一気に広まっていく感覚がした。最近やっと過ごしやすい気候になってきたというのに、トーマといると、いつも、熱い。

「じゃあ、帰ろうか」
「は、はい」
「月を眺めながら帰ろうと思っていたんだけど、あいにく雲が月を隠してしまっているみたいだ」
「月? ……あ、今日は中秋の名月でしたね。木漏茶屋でも今日はお団子がよく売れたの」
「それはいいね! 月を見ながら美味しい団子を食べる。趣があって最高だ! オレが月見団子を作るからさ、屋敷に帰ったら一緒に食べない? せつなは賄いを食べてしまったかもしれないけれど……」
「食べます!」

 はっ、とせつなは慌てて口元を両手で押さえた。トーマが作ってくれるお団子は絶品なのだ。まあるく白いお団子を口の中に頬張る瞬間を想像してしまったら、つい大きな声を出してしまっていた。

「アハハッ! 了解。せっかくだからススキを用意して雰囲気を出すのもいいね」
「う、うん。それまでに雲が晴れてくれたらいいけれど。昼間は雲ひとつない快晴だったのにね」
「もしかしたら、雲は月を独り占めしたいのかもしれないよ」
「ふふふっ。トーマさんったら」
「本当だよ。月の美しさはオレもよく知っているからね。独り占めしたくなる気持ちはすごくわかる」

 隣を歩く若草色の眼差しは、真っ直ぐにせつなを映している。柔らかくて、優しい煌めき。せつなが大好きな瞳の輝きは、間違いなく自分だけに注がれている。

「もしこのまま雲に隠れて月が見えなくても、オレは平気かな。だって、オレの月はここにあるからね」

 伸ばされた指先が、月光色の瞳を閉じ込めている目じりに触れる。そのまま輪郭をなぞるように優しく撫でられると、魔法をかけられたかのように瞼が自然と落ちてしまう。頬に触れている熱以上に熱いものが、これから唇に降ってくる。そう考えるだけで、どんどん強くなっていく鼓動を少しでも誤魔化すために、両手を胸の上でぎゅっと結んだ。
 腰を折ったトーマの影が降ってこようとしたときに「あっ」と、どこか残念そうな声が聞こえてきて薄く瞼を持ち上げる。空を覆っていた雲が霞んでいき、満月が夜空の主役になっている。遠く離れたところで輝き続ける太陽の光を反射して、月は優しい光で地上を、トーマとせつなを照らしている。

「月が綺麗だね」
「月が綺麗ですね」

 重なったのは言葉だけではなかった。言葉に込めた恋人への想いも、そして、唇も。
 満月じゃなくてもいい。月が見えなくてもいい。それでもいいから、いつだって伝えたい。

 ――今宵も月が綺麗です、と。



2023.09.29

- ナノ -