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雨止みのスズラン


 フキヨセシティの冬は寒い。イッシュ地方で雪がちらつく地域は少ないが、フキヨセシティはその中の数少ない地域のひとつだ。まだ積雪するほどの寒さはないが、早朝は冷え込んだ空気が息を白くさせるほど冬の気配が近付いていた。
 花屋としてはもうすぐ忙しい季節に差し掛かる。寒い時期のほうが切り花の持ちがいいためよく売れ客足が増える、というのももちろんあるのだが、なんせ冬はイベントが多い。クリスマスが終わったら正月がやって来るし、一息ついたと思ったらバレンタインデーがやって来る。花屋になってまだ数年だが、12月に入ったあたりから、この時期ばかりはアネモネも気絶したほうが楽なのでは、と思いたくなるときがある。それほどまでに多忙を極める時期なのだ。

「そろそろ繁忙期か……」
「ピィー」
「シキジカの体毛が茶色くなってからが本番だ。今年も頑張ろうな」

 シキジカの、橙に色付いた紅葉のような色の体毛はまだ季節が秋という証だ。缶コーヒーを飲んで一息つける時間があるうちはまだ余裕がある。記憶が飛ぶほどの忙しさがやって来る前に、充分に備えておかなければ。
 そろそろ休憩を終えて店に出よう。アネモネが空になった缶を潰してゴミ箱に捨てたのと、スマートフォンが音を立てたのはほぼ同時だった。

「……姉さん?」

 身近な人からの着信のはずなのに、画面に表示された『エイル』という名前に違和感を覚えてしまった。それほどまでに、姉からの連絡が久しがったのだ。物心ついてからは頻繁にやり取りをし合うこともなく、数年ぶりのような気にさえなる。
 少しだけ、緊張する。アネモネは乾いた唇を開き、言葉を紡ぐ。

「もしもし……姉さん?」
『アネモネ?久しぶりだね』
「……」

 電話越しに聞いた実の姉の声は、呆気ないほど記憶の中のものと変わっていなかった。もっと疲れているとか、元気がないとか、そういう声色を想像していたアネモネは安堵の息を吐くと同時に、今本当に姉と話しているのだという事実を実感していた。

『おーい。聞こえてる?』
「あ、うん。聞こえてるよ」
『ほんと?喋らないから電波が悪いのかと思っちゃった。フキヨセって森に囲まれてて電波の入りが悪いときがあるから』
「いや、なんというか……本当に姉さんだって思って」
『なあに?それ。人を死んだみたいに言わないでよ』
「半分そんなものだったろ。ポケモンと一緒に舞台に立ちたい。その夢を叶えるためにシンオウ地方に行くって突然出ていって、もうすぐ一年だっけ?その間、全然音沙汰なかったし。おれも……あの人たちだって一応心配してるんだぞ」

 あの人たち。アネモネがそう口にした時、電話口の空気が一瞬だけ固くなったのは気のせいではない。

『……うん。ごめん。お父さんからも連絡があったよ。お前が目指しているのは、少し人より得意なくらいで上手くいく世界じゃないって、相変わらずキツイことばかり言われちゃったけど』
「あー……あの人も不器用と言うか、子供の立場になって考えないところがあるからなぁ」

 そのとき、店先でドアベルがカランと鳴ったことに気付いたアネモネはシキジカに目配せをする。シキジカはコクリと頷くと、接客のためにアネモネの傍を離れた。仕事中のため来客を優先しなければならないのは重々承知しているが、滅多にない姉からの電話を安易に切るという選択肢もアネモネにはなかったのだ。

「で、連絡してきたってことは何か進展があったのか?」
『あ、そっか。お仕事中だよね?忙しい時にごめんね』
「それはいいから。何?話したいことがあるんだろ?」
『うん……わたしね、イッシュ地方でデビューが決まるかもしれないの』
「……へ!?本当に!?」
『うん』

 エイルは幼い頃からポケモンと共に舞台の上に立つことを夢見ていた。ポケドル、ポケモンミュージカル女優、ポケウッド俳優。どんな道でもいい。スポットライトを浴びて、見る人の心を動かすような演技をしたい。たくさんの人に認められたい。そのために、オーディションの不合格通知という無慈悲な現実を何度も突きつけられても、そのたびに歯を食いしばって立ち上がり、血を吐くような努力を重ね、夢を追いかけ続けていた。
 その夢が、エイルの目の前に迫っている。努力が報われそうだとエイルは言っているのだ。

『シンオウ地方のポケモンコンテストに出てたらスカウトされたんだ。下積みを頑張ってみないとわからないって言われたけど……私はそれにかけてみたい』
「そっか……あ、おめでとう!」
『ふふ。ありがとう』
「姉さんも、やっと、夢に手が届きそうなんだな」
『うん……わたしね、辛かったんだ。父さんのプレッシャーもそうだけど、自分だけ夢を叶えられなくて、情けなくて……でも、みんなは夢を叶えてて……すごく輝いて見えた』
「……」
『あはは……最低だよね。みんなが夢を叶えてるのに素直に祝福できなくて……自分でも嫌な性格してるってわかってる。でも、どうしても耐えられなくて……』
「嫌な性格とかじゃなくって、姉さんがそれだけ真剣に夢を追いかけてるってことだと思うよ。おれは」

 弟のアネモネは花屋になり、そして、幼馴染のフウロは大空を自由に飛ぶパイロットになった。さらにはひこう使いのジムリーダーにも就任した。
 夢を叶えたふたりを間近で見て、エイルの心は焦燥感や嫉妬や羨望に塗れ、そんなことを思ってしまう罪悪感で押し潰されてしまった。自分の心を守るための手段として、エイルはイッシュを出ていったのだった。

『ありがとう。でも、わたしはもう大丈夫だから。イッシュ地方に帰ってくるね』
「おー……みんな待ってるぞ。おれも、父さんも母さんも、フウロも」

 思わず、昔のように名前を呼び捨てで呼んでしまった。口にしたあとその事実に気付いたアネモネの頬に熱が集まる。その気配が伝わってしまったのか、クスクスと可笑しそうに笑う声が聞こえてきた。

『アネモネはフウロに好きって伝えた?』
「はっ!?なんでその話になるんだよ!?おれのことはいいだろ!」
『ふふ。その様子だとまだみたいだね?』
「余計なお世話だ!」
『……言える時に言っておいたほうがいいよ。恋人同士だっていつ何があるかわからないんだから、まだ伝えていないならなおさら』
「……姉さん?」
『じゃあ、また改めて帰る日にちは連絡するね』
「あ、ああ」

 含みのある言い方の真意を、アネモネは理解できずに通話は終わった。地に足がついていないような、ふわふわした気分だ。姉が帰ってくることは素直に嬉しかったのだ。物心ついてから会話は減ったと言えど、唯一の姉弟であることに変わりはないのだから。

 スマートフォンをエプロンのポケットにしまい込んだアネモネは慌てて店先へと向かう。シキジカの愛嬌のある接客は客に人気とはいえ、花束を作ったり金銭をやり取りするには物理的に難しい。開口一番に、待たせてしまったことを詫びようとしたアネモネだったが、来客を見たら全く別の言葉が出てきてしまった。 

「父さん」

 店を訪れていたのはアネモネの実の父親──ヴァンだった。シキジカと話していたヴァンが顔を上げて視線を向けると、微かに緊張で指先が強ばる。アネモネにとって父親とはそういう存在なのだ。それでも、何でもない風を装う。

「仕事帰り?」
「ああ」
「おれの店に来るなんて珍しいじゃん」
「……小さな花束を作ってくれないか。家の中がパッと明るくなるような。花の種類はアネモネに任せる」
「わかった。ちょっと待ってて」

 気分が明るくなるような色と言えば、黄色やオレンジ色の類だろう。頭の中でイメージを浮かばせて、店の中の切り花を選び、手にとっていく。そして、リボンなどのラッピング資材を準備して、イメージを花束として形にする。その一連の動作に迷いはなかった。ヴァンは息子の成長に目を細めつつも口を開く。

「エイルから連絡がきたよ」
「……ん。さっき、おれのところにもきた。姉さん、帰ってくるんだってな」
「ああ。イッシュ地方の芸能事務所にスカウトされたらしい」

 そのことを話しにわざわざ店を訪れたのだろうか。アネモネはヴァンの意図を読めずにいた。
 ポケモンの研究職に就いているヴァンは、アネモネとエイルも自分と同じ道を歩くことを望んでいたし、そのための教育を施してきた。アネモネが研究者ではなく花屋になると言ったときは、棘を含んだ言葉を吐き出されたものだ。それから、アネモネは家を出てアパートを借り一人暮らしをしている。
 どうせ次に吐かれる言葉も毒なのだろうと、アネモネは半ば諦めていた。しかし。

「手、荒れてるな」
「え?ああ。水や土を触るし、基本は力仕事だから仕方ないよ」
「……そうか」
「……何?花屋なんて不安定で収入も少ない汚れ仕事をよく続けるな、って?」
「いや……それでも、アネモネはやっぱりこの仕事が好きなんだな、と思ったんだ」
「……父さん?」
「アネモネもエイルも、父さんが道を整えなくても自分で夢に向かって歩いて頑張ったんだな」

 思わず花束を作る手を止めて顔を上げる。予想外の言葉だった。毒を吐かれるばかりか、棘のひとつすらない柔らかな言葉をかけられたのはいつぶりだろう。少なくとも、アネモネの記憶の中にはないくらい幼い頃のことだった。
 ヴァンは後悔と愛慕を滲ませた視線をアネモネの手元に向けている。直接目を見られなかったのは、そこに罪悪感があるからだろうか。

「なかなか夢を叶えられない自分が惨めで、夢を叶えたお前や友達の姿を見るのが辛いから……そう言ってエイルは出ていったけど、あの子も強い子だったんだな」
「……姉さんほど根性のある人間はそういないよ。おれは程々にやってたけど、姉さんは勉強も自分の夢を叶える努力も、小さい頃からずっと死ぬ気で頑張り続けてるんだからさ」
「……そうか。父さんはそれに気付くこともできずに、お前たちにとって辛い言葉ばかりかけていたな。程々にと言ったが……アネモネが自分の力量以上のことにチャレンジしないのも父さんが原因なんだろう?」

 ヴァンはいつも言っていた。真面目に生きなさい。常に努力しなさい。しっかり勉強しなさい。そうすれば失敗しないから。傷付くことなく幸せな道を歩めるから。
 ヴァンにとってそれは子供の幸せを願うものであったが、エイルはそれをプレッシャーとして捉え、アネモネは失敗することはいけないことだと捉えるようになってしまった。子供のことを愛し心配するあまりに吐き出される言葉は毒となり、ふたりの自由を奪ってしまった。
 その事実をアネモネは否定しない。しかし、非難したりもしない。

「……それでも、おれは父さんや母さんに感謝してるよ」

 家の中を息苦しく感じることはあったけれど、それでも、ここまで育ててくれたことと不器用な愛情を与えてくれたことをアネモネは忘れていない。エイルの帰省を切欠に、家族全体の空気がいいものになるはず。そうなればいいと、願っている。きっとヴァンもそう願っているからこそ、今日アネモネの店に花束を頼みに来たのだから。
 出来上がった花束を渡すとヴァンは「ありがとう」と目を細め、穏やかな笑みを残して店をあとにした。その後ろ姿を見送るアネモネもまた、穏やかな笑みを浮かべていた。

「そういえば……フウロさん、今日は遅いな」

 独り言は空気に溶けて消えた。ジムにチャレンジャーが訪れたとか、他に用事が出来たとか、そういうのとを考えるのが自然の流れだ。しかし、何故か胸騒ぎがしたのだ。
 その胸騒ぎが的中したと証明するものが店先に落ちていた。白い羽根だ。

「シキジカ!ちょっと店番任せた!」

 そう叫ぶやいなや、アネモネは走り出したのだ。
 店先に落ちていた白い羽根は、ひこうタイプのポケモンのもの。もっと言うと、スワンナのものだ。そして、スワンナを手持ちとするトレーナーで、なおかつあの時間帯にアネモネの店を訪れるはずだった人物に心当たりがあるのは、ただひとり。

 アネモネはフキヨセシティを出て、北へ走った。目指すはタワーオブヘブンの頂上だ。あそこは、彼女が好きな空に近い場所だから。
 螺旋階段を登った先にて、視界が開ける。夕暮れ色に染まりつつある空を見上げて、スワンナとともに佇んでいる後ろ姿に声をかける。

「フウロ!」

 グローブに覆われた手を引いて振り向かせると、蒼穹を映したような瞳には涙が浮かんでいた。

「アネモネくん……」
「はぁ……っ。もしかして、話……」
「っ、ヴァンさんが話してたの……アタシのせい?アタシのせいでエイルはイッシュを出てシンオウに行ったの?」

 フウロはアネモネとヴァンの会話を聞いてしまっていたのだ。そしてエイルが消えてしまった責を背負い込んでしまった。
 アネモネは静かに首を振る。そんなはずがない。フウロだって、同じように夢を叶えるためにがむしゃらになって、ようやく掴み取ったのだ。それが悪なんて、有り得ない。

「確かに、夢を叶えたおれたちの姿を見るのが辛かったって姉さんは言ってたけど、それは姉さんの気持ちの問題だから。おれも、もちろんフウロさんも何も悪くない……姉さんだってきっとそう言うはずだよ」

 だから、そんな顔をしないで欲しい。目に涙をいっぱいに溜めて、それがこぼれ落ちないように空を見上げて。泣くのならせめて、ひとりにならないで欲しい。そんな気持ちを込めて握った手を、弱々しく握り返してフウロは微笑む。

「……ありがとう。アネモネくん。でも、エイルの気持ちを考えないでジムリーダーやパイロットの仕事のことを話したりして、アタシも少し無神経だったかもしれない。エイルが帰ってきたら、ちゃんと話をしてみるわね。それまでに詳しいことをアネモネくんのお母さん……シエルさんに聞いてみようと思う」
「そうだね。たぶん、姉さんのことは母さんが一番詳しいし、それに姉さんもフウロさんと話すのをきっと楽しみにしてると思う」
「そうかな?そうだと……嬉しいな」
「うん」
「アネモネくん。こんな時間だけど、今からまたお店に行ってもいい?」
「もちろん。今日は何にする?」
「今日はね……スズラン!あとね」
「ん?」
「昔とは違うって言われてたけど、アタシ、やっぱりさっきみたいにフウロって呼んで欲しいな。ダメ?」
「……ダメじゃない」

 パッと花が咲いたように笑うフウロの蒼穹からは雨が止んだ。店に戻るまで、繋いだふたりの手が解かれることはなかった。



スズラン
花言葉『再び幸せが訪れる』2020.12.25





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