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02


ぼくは名前に甘いという自覚はある。上司の娘だからじゃあない。
初めて会った時から、妹みたいなやつだった。年のわりに冷静で、男女関係なくしっかりした物言いをすると、幹部連中には可愛がられていたようだし、気立てのよさから仲間内でも疎まれてはいない。彼女の評価には、どこか期待が込められていた。
しかしぼくにはどうも、彼女は子供っぽすぎるように見えた。彼女の周りといえば、組織の人間が多いのだからスレたやつらばかり集まっている。そういう連中に何とか舐められまいとする意地が、彼女の中に見え隠れてしているのが、ぼくには分かっていた。
名前はぼくより年上のはずだったが、無理に肩肘を張って、大人びた言葉を選びながら、強気に背伸びをしている姿は、大人に囲まれた子供のようであり、仲間とつるむ兄についていく妹のようでもあり、或いは、貴族の社交界の中に放り込まれた成り上がりを彷彿とさせ、放ってはおけない、庇護欲のようなものが湧き上がっていることに気づいた。
ぼくは彼女の中に、一瞬でも、過去を見つけたような気がしたのだ。それはかつてナランチャに抱いたものと似ているようで、決定的に異なっていた。名前は仲間というよりも、やはり、妹だったのだ。

「いた」
客間に入って辺りを窺っていた名前が、ぼくに聞こえるくらいに、小さく呟いた。長い広間の奥に、人の行き来の激しい集まりがある。それが、名前の目的の主催者らしかった。
「少しでいいの、恋人のふりをして……お願い」
見上げてくる彼女を見つめ返した。本当は、“ふり”でもミスタとしたかったのだろう。
名前がどうしてミスタに執着するのか、なんとなく分かっていた。いつも気負っている彼女には、ミスタのように自由であけすけで、何事にも後腐れのない生き方は、強く惹かれるものがあるに違いなかった。
しかしあいつにも都合があれば、結局は相手にされないので、毎度のように、最終的にぼくが頼られる羽目になる。ぼくとはいきつけのバールが同じということもあったせいなのか、もしくは父親からよく名前でも聞いていて、勝手な親近感でも湧いていたのかもしれない。
名前はいつの間にやら、聞いてもいない悩みを吐き出しては、「どうしたらいいと思う?」などと助言を要求してくるようになった。
彼女の方は背伸びをするたちであるし、年上というので姉貴分とか、ぼくを悪友とでも思っているのだろうが、そういうわけで、こちらからすれば可愛げのない妹分と言うにしっくりくる。
そんな名前が、プライドを投げ売って“お願い”と懇願している。ここで彼女を立ててやらなきゃ、ぼくの格が下がるというものだ。
「……分かってるよ」
ため息混じりに吐き出すと、名前がほっとしたように息をつく。ウェイターからジャンパンを受け取って、一気に飲み干した彼女へ、ぎょっとして眉尻を上げる。
「行くわよ」
振り返った顔はガチガチに強張っている。
大丈夫かよ、と心配しつつも、ぼくは悟ってしまった。性スキャンダルだらけの組織に揉まれているくせに、名前は意外にも、恋愛は得意ではないらしい。
歩き出す名前の後ろで、ぼくは口に拳を当てながら、吹き出すのを堪えられなかった。
いくら意地っ張りでも、背伸びをするにも程があるだろう──そう思ったからだ。

男女に囲まれた賑やかな輪を前にすると、流石の名前でも尻込みをするようだった。
中心には、シルクのドレスを着た美少女が華やかに笑っている。鼻もふっくらとした口も、細い輪郭にそっと添えられた、全てが精巧な人形のような顔だった。件の名前の争い相手だとすぐに理解する。
「あら」
ふと、遠巻きに立っていた名前へ少女の視線が向く。ちらりとぼくを見て、連れらしいと気づいたようだ。彼女の取り巻きの顔までもが、一斉にこちらへ向けられた。
「来てたのね」
明るいトーンだが、言葉の裏にはありありと“意外だ”という感情が込められている。さんざ舐められていると名前から愚痴を聞かされていたが、こういうことかと、ぼくは今更のごとく納得した。
目の前の名前の背からは、息を詰める気配がした。
「ええ、誘ってくれてありがとう。素敵なパーティね」
「あなたも楽しめるパーティになってるといいわ」
名前の眉が微かに上がった。ちょっとした言葉尻にも、女の虚栄心が込められているらしい。
しかし恋人らしくとは言われたものの、名前がこの様子とあっては、どこまで演じればいいのか見当もつかない。甘い言葉なんて吐く雰囲気でもないので、彼女の行動を待って方向性を感じ取るしかなさそうだった。
そうやって半ば呆然と見守っているぼくを、少女の澄んだ瞳が捉えた。ぼくと名前を交互に見て、何か確信めいた直感が少女の目に宿った気がした。
ほっそりと眦がほぐれて、口元に柔らかい笑みが浮かぶ。小さな唇が取り出したのは、決め手の一言のように思えた。
「後ろの方は、ご姉弟?」
ぼくへ向けられた「楽しんでいってくださいね」という声と、名前にかかる微かな忍び笑いが、ホールの雑音の中でも耳に届く。腹の底にどすんと、岩のような重みのある何かが落ちてくる感覚がした。割れ目から熱が吹き出して、神経を火照らせる。
横目に名前を窺う。
彼女の目の奥には、燃えるような闘志がはっきりと見えた。しかし無言だった。引き結んだ口から、どう返してやろうかと、ない頭で必死で考えているのだろう。嫌いじゃあない、と思った。
名前はきっと、嘲笑されると分かっていたのだ。だからこそ、彼女らしくもなく、申し訳ないという気持ちで、ぼくへパートナーを頼み込んできたのだ。
嫌いじゃあない──
もう一度思った。笑い者にされると知っていながら、そして実際に侮蔑を受けながら、それでも逃げない彼女には敬服する。
ぼくは腹の底から静かに漏れだす熱風を手のひらに込めながら、名前の肩に触れる。
「フーゴ?」
緊張した面持ちがぼくを上目に見た。奥手な彼女じゃあ、どうにも出来ないだろう。
ぼくは憮然とした態度を装って、名前の腰を抱き寄せた。彼女の刺繍入りのフレアスカートが大きく靡く。寄せ合った顔の間を、エントランスホールから流れる弦楽団のクラシックな音色が満たしていた。
大きく見開かれた名前の両眼は、驚きが弾けたように、照明を受けてチカチカと光が揺れていた。その中に、薄っすらとぼくの影が見える。じっと見つめ返した時、ふと、ミスタの顔が脳裏をよぎったが、それも一瞬のことだった。
彼女を覆うようにしてキスをする。名前の体が、石のように固くなったのを、抱き寄せた手のひらで感じた。しかし、ここまで来たら成るようになれだ。
衆目の中、きっかりと5秒数える。出来るだけゆっくりと唇を離して、ぼくは名前の争いの相手とやらを見返した。少女に特別な私怨はないが、名前を立ててやらなくっちゃあならない。ショックで固まってしまっている、情けない彼女のためだ。
言葉はいらなかった。出来るだけ無言の方がいい。胸に名前を引き寄せたまま、目の前の生意気な主催者が目を逸らすまで見つめ続ければいい。互いの意図が分かりさえすれば、それだけで充分だった。

*

さんざ知らない人間に冷やかされた後、うんざりしたフーゴによってパーティを早々に引き上げることになった。
私は逃げるようで、もう少し留まらなければならないと思ったのだが、フーゴに引きずられながら坂道を下り、オンボロ車に詰め込まれると、何もかもがどうでもよくなってしまった。
壊れかけのハリボテみたいなフィアットに、パーティのためだけのパートナー。今日の私が身につけていたドレスは、虚栄心そのものに違いなかった。
1時間程度の出来事でどっと押し寄せてくる疲労感に、埃臭いシートにもたれ掛かる。フーゴへは手伝ってくれと頼んだ手前強くは言えなかったが、お礼と一緒にやりすぎだと、不平をちくりと紛れ込ませると、
「連れがシャンパンで酔っぱらってたって言えばいいじゃないか」
なんてけろりと言い放った。
目立ちたくないとぼやいていたくせに、派手なことをしておいて、どうして平気でいられるのか理解に苦しむ。これだからフーゴってやつは分からない。
そう思いながら、助手席でくつろぎきった体勢で、私は横目に今夜の連れを見る。ハンドルを握ったまま、片手で窮屈そうにネクタイを緩める仕草に、ほんのだ、ほんの僅かにどきりとする。フーゴがスーツを着ている姿は珍しいからだ。スーツがいいからなのだ、と私は無意識に自分に言い聞かせていた。

車は自然に、いつものバールに向かっていた。店仕舞いも近いからか客はまばらで、いつも忙しそうにしている店主も、カウンターに頬杖をつきながらイヤホンでラジオを聴いている。
会場を出る前に飲んだワインのせいか、ほんのりと酔いが回っていた。そしてほんの僅かだけど、気まずい空気も存在していた。示し合わせたわけじゃなかったけれど、このまま帰ってはまずいという気持ちは、お互いに感じていたのかもしれない。
いきつけのバールには、日の当たりにくい奥の壁際に古いアップライトピアノが置かれている。店主が娘さんのために骨董屋から買ったものだというが、結局上達はしなかったのだという。
「俺は期待してたんだが、こっちの才能はさっぱりだったな」
と、苦笑交じりに店主が首を振った。
頻繁に通っていたのに、調度品と思い込んで、ピアノをよく観察したことはなかった。やけに目についたのは今日だからかもしれない。フーゴとの間に流れる奇妙な雰囲気を紛らわせたくて、私は初めて見たもののように、興味深げにピアノへ近寄った。
「弾いてもいいよ」
熱心に見つめる私の背中に、カウンターから店主の声がかかる。調整はしてないが、そこまでズレちゃいないだろうと笑う。
お言葉に甘えて、鍵盤蓋を開けてみた。なるほど、年季は入っているらしい。黄ばんだ鍵盤も、少しだけ凹んだ箇所も、直さずに放置してある。
椅子を引っ張って腰掛けると、それまで黙って見ていたフーゴが前板に片腕をついて覗きこんできたので、
「弾けるの?」
とからかい混じりに尋ねてみた。フーゴが答えるのに、少しだけ沈黙があった。
「あまり得意じゃない」
「そう……」
私も小さい頃にピアノを買ってもらったけれど、長続きがしなくてこれっぽっちも肥やしにはならなかった。今でも唯一弾けるのは、バッハのメヌエット位だ。
指で軽く鍵盤を押す。高い音が伸びた。鍵盤は重たくて、それでもその後にぽーん、と軽く跳ね返ってくる感触が気持ち良い。
「君こそ、弾けるのか?」
「もう何年もやってないから、多分弾けない」
及び腰になる私に、
「いいよ、弾いてくれ」
と奥から店主が言った。
「娘よりは聴けるに決まってる」
軽く笑って、私は指先の記憶を思い出してみた。それから息を吸う。アルコールで火照った体に、懐かしい、遠い微かなメトロノームの音が入り込んでくる。
しかし、だ。
「うっ……!」
ぐぅ、と呻きながら、たどたどしい音色を必死で叩く。私の作り出す不協和音に、フーゴは前板に当てた腕に顔を押し付けて、笑い声を忍ばせている。
聞いちゃいられない、という顔だった。フーゴが笑いながら鍵盤に手を添えたので、私は渋々椅子を譲り、どれほどのものかと腕を組んで、神経を尖らせる。
高い、透き通る音がひとつ落ちた。
堰を切ったように、続けて切ない音色が流れる。透明でいて、幾つもの感情を内包した旋律が、後から後から途切れることなく胸を取り巻いていく。紛れもない、ト短調だ。
私ははっとして、息を呑んだ。こみ上げてくるものがあった。
海面に浮かぶ鮮やかな船と漁師。赤みがかった静かな街路を駆ける風。その上を流れる雲を見上げると、刺すような光で視界が真っ白に飛ぶ。美しい情景に反して、入り組んだ路地では、帰る家もなく道端に寝そべる人。狭い部屋にひしめく出稼ぎの移民たち。
そんな町の情景が胸の内にあふれてきて、切なさに膨らんで弾けそうになる。薄っすらと差す光と闇が、その音色には重ねられていた。

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