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不意にぷつりと、旋律が途切れる。暫く経っても再開しないので、その場にいた客が、軽い拍手を送った。
聞き入っていた私は、途中で取り上げられた恨めしさを滲ませながら、不思議に思ってフーゴを見た。
「嫌いなんだ」
呟きに似た声だった。
「こういうのは窮屈で、好きじゃあない」
「……メヌエットのこと?」
指を離したフーゴは、私の問いには答えることなく、ちぐはぐな鍵盤を見つめていた。
「知ってますか? このメヌエットがバッハの作品じゃないって言われていること」
唐突な問いかけに、私は声もなく首を振った。
「でも、だからなんだっていうんだろうな……もしそれで何かが変わったっていうのなら、音なんて聞いちゃいなかったってことさ」
何があったのだろうか、と思ってから、私はフーゴのことをよく知らないことに気づいた。
たった一年の付き合いだ。どうして組織にいるのかは、簡単に触れられることじゃない。でも、どこで生まれたのかも、今まで何をして来たのかも、どんな曲が好きだったのかさえも、私は全く知らなかったことに初めて気づいたのだった。
ただ、ミスタから聞いて一つだけ分かっているのは、フーゴが裕福な家の生まれだったということだ。
生きてゆくのに到底困ることのない、そんな場所に生まれながら、組織に落ちてしまった人間にしかわからない、挫折や葛藤があるのかもしれない。フーゴは今でも、名前に縛られているのだろうか。
だからといって、育ちの違う私がそんなことを憶測して、無理に同情めいた気持ちで思いを巡らせても、フーゴを貶めるだけのことだった。

でも、彼が嫌いだからといってなんだというのだろう。私は好きだと思った。こんなに心のこもった音を、フーゴから聞いたことがない。安寧と悲愴の交差した、感情の揺さぶられる音色を。
言葉でも、表情でも、フーゴは決して語らない。だからこそ感じたのだ。この音が、彼なりの感情の重ね方だと。それは私の知らない、きっと誰にも吐露したことのない、フーゴの心の一欠片なのかもしれなかった。
「私は、好き」
寄りかかったまま、呟く。たったの一言なのに、何故か緊張をして、息を大きく吸い込まなければ言葉にできなかった。それはきっと、私でも気づかなかった、本心だったからなのかもしれなかった。
フーゴもいつもなら「君が好きでもぼくは嫌いなんだ」とでも言って譲らないだろうに、私を静かに見返して、一言だけ「グラッツェ」と呟いた。

道端に乗り上げた錆だらけのフィアットは、店の前に停まっているはずだけれど、夜の帳にひっそりと紛れてしまっている。
フーゴは怒り心頭らしいが、入ったばかりで下のいない駆け出しが、お坊ちゃんをこき下ろしたくなる気持ちも、私には理解できた。
フーゴはたかが安いバールのカプチーノを飲むだけで育ちが垣間見える男なのだ。豊かになりたくてもなれず、落ちぶれた男たちからすれば、やに気取ってるようで面白くもないだろう。それでも、それがフーゴだった。頭がいいくせに、不器用で遠回りな性格の男だ。
そこまで思って、私はどうしてフーゴがパーティに協力してくれたのか、なんとなく、分かったような気がした。
ピアノを片付けて、カウンターの特等席に座る。何を言わずとも、カプチーノとエスプレッソが店主から差し出されるのに、フーゴと顔を見合わせた。
酔いのせいなのか彼の目元は、柔和でいて寂しげな、奏でた音によく似ていた。


帰り道は、居心地の悪さはさっぱりとどこかへ消えていた。
ポンコツのエンジンが掛からなくなり、いよいよ廃車となってしまったが、フーゴの顔は清々しい。徒歩で帰路につく足取りは軽かった。
歩きながら、私は自分が放った「好き」という言葉を、幾度となく反芻していることに気づいていた。それが何に対しての“好き”なのか、今はよく分からなくなっていた。
もう、酔いは覚めている。それなのに、フーゴの柔らかな目元が、網膜に焼き付いたように幾度となく思い出されるのだ。忘れようと追いやっている、パーティ会場の照明と、高い天井、布擦れの音、腰を掴む圧力、暗い視界に、柔らかな唇の感触までもが。
光景がまざまざと蘇った時、唐突に隣を歩くフーゴの影が近づいて、私は平静を失くしてしまった。
「待って、フーゴ、だめなの」
叫んでから、フーゴの背後を車が通り過ぎる。私は口を開いたまま、顔を真っ赤にした。フーゴが怪訝な顔つきで、「大丈夫か?」と私の顔を窺っている。私は慌てて何でもないと首を振った。
もうどうにかしたみたいだった。胸からのぼりたつ蒸気が、ゆらゆらと隣の影に吸い込まれて行く。どうしてこんなに意識しているのだろうか。
思い当たる理由がないわけではないのだけれど、認めてしまったら、軽い女のようで嫌だった。
「ね、ちょっと試しに、もう一回やってみない?」
声が震えそうになるのを抑えながら、慎重に舌を動かした。
「やるって、何を?」
ぐるぐると視界が回る。自分が言おうとしていることが、常軌を逸しているのは分かっていた。
「キス」
私は呟きながら立ち止まり、覚悟を決めてフーゴへ向き直った。男の背丈は思いの外大きい。目の前の男は訝しそうに突っ立っているだけなのに、どうしてか今に限って圧倒される。
断られても冗談で済ませられる確信はあった。でもいざ口にしてみると、みるみる体内の水温計が上昇して、まともに立っていられるかも定かじゃなかった。

*

何を考えてるんだ?──
名前の意図が全く汲み取れない。ぼくは暫し呆気にとられたが、おちょくっているのだろうと思い当たった。
「あとで、フーゴに無理矢理やられたって泣くのはなしだぞ」
「それってすっごく失礼じゃない?」
茶化してみれば流れてくれるかと思ったのに、名前はホッとした様子でぼくへ向き直っている。本気だったと、そこで知らされることになった。
仕方ない、一度も二度も同じようなものだ。どうせ、雰囲気に酔いでもしているだけなのだろう。そう思ったぼくも、存外流され気味だったのかもしれない。
一歩近づくと、名前がやはり身を固くするのを感じた。それでも「本気にしないでよ」なんて撤回してこないので、そっと唇を重ねてやる。一秒にも満たない時間だ。触れる瞬間に、彼女の肩が微かに揺れた。
パーティとは比べ物にならない、幼稚なキスだったけれど、ふっ、とぼくは笑いを堪えきれなくなった。このこそばゆさ、這い上がってくる背徳感のような感覚。
口元を抑えて、名前へ背を向けた。
「やっぱり駄目だ、笑っちゃうだろ」
そうだ、まるで兄妹でしてるみたいな感触だ。
笑いを含んで言えば、同じように吹き出すはずだった名前は、背後でしんと静まり返っている。ぼくは怪訝に思って、彼女を肩越しに振り返った。

どうしよう。ぼんやりとした声が、ぽつりと落ちた。名前の小さな口から、本当に、転げ落ちるように。ぽつりと。
どきりとする。
何だ名前のやつ。顔を真っ赤にしている。いや、知っている。これはよくある光景だ。ぼくの目の前で、ぼくの事情も関係なしに、勝手に一人で赤くなっている顔。何度も見てきた。小さい頃から、勘当され組織に落ちてからも、何度も。この顔を、立ち込める靄のような雰囲気でさえも、ぼくは知っている。
けど、今ぼくの前にいるのは名前だ。男勝りで、やんちゃで、少しばかりがさつな。姉というより、世話の焼ける妹分のような女だ。
こんな顔は、今までまるで見たことがない。

急に血が沸き立った。体の中心から波が押し寄せて、思わず身震いをする。自分の目が据わって行くのを、他人事のように感じた。
名前の腕を掴んで振り向かせると、彼女はぼくを見た途端ビクッと肩を震わせた。目に、僅かに怯えが浮かんでいる。意外だった。彼女はいつも、どんな屈強な男に囲まれても、突っ張っていたように思えたからだ。
ぼくは我に返って、慌てて謝りながら名前から手を離した。思わず呟きが漏れた。
「君も、女だったんだな」
「し、失礼ね……!」
緊張しきった彼女の、いつもよりワントーン高い声に笑いを零して、ぼくは沸き上がってくる欲を必死で押し留めなければならなかった。
駄目だ。絶対に面倒なことになる。彼女は上司の娘だ。それにこんなに胸がかき乱されるのも、一時的なものに違いない。彼女の格好と、パーティの熱気に当てられたに決っている。ちょっとした非日常に酔っているだけなのだ。
けれどそう思っても、無視できない熱がいつの間にか侵蝕していて、ぼくの胸をひっきりなしにくすぶっては、思考を遮断していった。
気づけば、名前、と噛み締めながら彼女の名前を呼んでいた。
「一つ聞きたい」
確認しつつも、頭には何も浮かんでいなかった。自分が何を尋ねたかったのか、はっきりしていない。それでも明確にしたいことがあるのだけは、理解していた。
舌が意思を持ったように、勝手に動く。
「君は、ミスタが好きなのか?」
それは、確かにぼくの声だった。自分自身の出した言葉に、唖然とする。どうして今、そんなことを気にするんだろうか。この状況で、これじゃあまるで。
ぼくが放った質問で、名前の中の時間は一瞬止まったようだった。動揺して、黒目が忙しなく動き回っている。
ぼくの意図を窺うような目でまんじりと見つめた後、何かを言おうとして言葉が出なかったのか、幾度か口を開きかける。しかし最後には引き結ぶと、慌てて首を横に振った。それは取り繕ったというよりも、たった今振り切ろうと思い込んだように見えた。
けれどそれで良かった。きっと、雰囲気に流されているぼくにとっては、彼女の心に別の影があっては困る。
さっきまで何度も、しかも他人の目の前で合わせたはずの彼女の唇が、今になって目を逸らせないほどに気になり始めたのだ。
どっと、胸に流れ込んでくるものを感じる。それが何なのか、ひとまずぼくは、見てみないふりをしたかった。
「なら、良かった」
零れた呟きにも思考を止めて、顔を傾ける。えっ、と彼女の小さな声が空気に溶ける。
両手はだらりとぶら下げたままで、名前を拘束するものは何もなかったはずだが、ぼくが顔を近づけても彼女は瞳を揺らすだけで、逃げようとはしなかった。それが全てを物語っているように思えた。彼女の気づかない、奥底のものですら。
ふと、唇が触れる寸前に動きを止める。ぼくは顔を寄せた至近距離から、名前と視線を交わらせた。彼女は今にも触れてしまいそうな距離に、緊張ともどかしさで目を見開いて停止している。
「……目を」
空気を押し出して、一言囁くと、名前が微かに震えたような気がした。まだ唇は触れ合わない。限りなく近い位置で、その時を待つ。
唾を飲み込んで、名前の喉が上下した。戸惑いを押し込め、彼女は覚悟したように目を閉じた。

*

エスプレッソを胃に流し込んだ時、待ち遠しい思いが強くなった。
いきつけのバールの前に、乱暴に歩道に乗り上げて無理矢理に駐車する車が見えたからだ。
ミラー付近にサビのはびこる安っぽいフィアットは、たまにマフラーから黒い煙を吐く。お目見えした瞬間に「こんな廃車寄越しやがって」と、フーゴが毒づいた車だった。
結局一晩置いたら直っていた曰くつきのおんぼろ車を停めて、フーゴは錆びついたフィアットにしっかりため息を零してから、店のドアを開けた。
流れこむ新鮮な空気と一緒に視線を狭い店内へ這わせたフーゴは、カウンターでだらしなく脱力している私の姿を認めると、大股で歩み寄ってくる。体の芯がブレない、モデルのような所作だ。今まで何度も見てきたというのに、私は今初めて目にしたかのように心のなかで感嘆した。
高鳴る胸を抑えながら、私は隣へ立ち止まった人影へどうにかして「チャオ」と笑顔を向けた。精一杯平静を装ったのだけど、頬の筋肉は引きつっていたような気がしてならない。
しかしフーゴは意に介さない様子で、背凭れのない丸椅子に脱力するようにどかりと腰を下ろした。
フーゴが「カプチーノ」と注文を告げる前に、カウンターの店主はアイコンタクトで制しながら、温めたカップを取り出す。
ガラス張りの入り口からは、軒を連ねた寂れた商店と人通りのまばらなレンガ道がすっかり見える。フーゴは相も変わらないオンボロフィアットをもう一度一瞥して、ため息を零した。
いつもの夕刻。いつもの音楽。変わらないコーヒーの香り。同じ時間に満ちた店内。私は店が混むまでエスプレッソ一杯で居座り、フーゴは甘いカプチーノでパニーニを頬張る。
数週間悩ませていた用事も終わってしまった今となっては、私たちの間には少しだけ沈黙が流れていた。
頬杖をついて、思わず溜息を零しかけると、
「あー……」
と、レタスを飲み込んだフーゴが、おもむろに歯切れの悪い声を出した。
首を傾げて、隣の男へ目を向ける。期待に心臓が締め付けられたのだけれど、無理矢理に押し込めて、取って代わる平常心も、忘れたりはしない。
「明日、食事でもどう?」
「へっ?」
予想もしていなかったので、変な声が出てしまった。
ドクドクと胸が痛いほどに跳ねて、私はフーゴへ大きな目を向けた。
フーゴとは今までくだらない話で時間を潰すくらいで、誘ってまでどこかに出かけたことなんてなかった。これは、そうなのだろうか。そういうこと、なのだろうか。
私は居ても立ってもいられない気持ちになった。すぐに確かめないと、誤魔化されてしまうような気がする。それだけは、何があっても阻止したかった。
「そ……それって、デート?」
叫びたい衝動に駆られた。何を言ってるんだろう、と思った。もっと別の聞き方だってあったのに!
こんな言い回しをしたら、期待していることも、私の軽くふらついた感情もバレバレだ。
それでも私は否定することなく、答えを待ってしまった。どうしても簡単に、あの夜の唇の感触を、指先の音色を、柔らかなまなじりを、忘れることはできなかったのだ。
少しの沈黙。たったの数秒だ。時計の秒針が、カチカチと何度か動いただけの時間。しかし、息をするのも苦しい数秒だった。
フーゴは不自然なほどにカップを見つめながら、ちょっとだけ舌で唇をなめる。
「……君が、そう思いたいなら」
呟きが、ぽつりと落ちた。目も合わせずに、ひっそりと。でもそれは、フーゴの言葉だった。遠回りな男の口から出た、本当の。

私達はコーヒーを啜りながら、それ以上言葉を交わせなかった。真っ赤な顔と、上擦った声を晒すのは、あまりにも情けない気がしたのだ。
多分、お互いに知っていたに違いなかった。とっくに気づいていたのだ。変わったのは、一人だけじゃないってことを。きっと、真っ赤に燃える、胸の奥から。

|終
14/04/20 短編
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