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03



父と一緒の晩餐から離れ、二人きりでの生活をするようになっても、ブチャラティは私のお気に入りの曲を煩そうにはしなかった。時折彼がかけるジャズも私は好きだった。私の好きなペンネグラタンも気に入らないとは言わず、ぺろりと平らげてくれた。恐怖に似た不安を抱いていた私は、あまりにも想像と違った彼に、少し拍子抜けをした。
一年後に結婚をするという前提で組織から同棲を促され、引越しをした日、荷物が重なる部屋の真ん中で顔を合わせた私は、崖を前にしたように怯えた顔をしていたことだろう。
ブチャラティが言ったのは、一言だけだった。
「俺と暮らすのは苦労するだろうが、約束は守ろう」
半年も一緒にいて、苦労なんて一回だってしたことがない。アロルド以外の構成員を私へは紹介はしなかったし、仕事を持ち込むこともなかった。彼はずっと約束を守り続けている。苦労をしているのは、ブチャラティの方だ。
今まで父に翻弄されていた私には、はっきりと告げて仕事へ戻って行った彼のその背中が、とても頼もしく思えた。
一瞬、私は自分でも知らずに戸口へ向かうブチャラティへ手を伸ばしていた。反射的だった。何のために掲げた腕だったのか分からず、私は自分の手をしげしげと眺めながら荷解きを始めたのだった。
どうしてそんなことをしたのか、今なら分かる。それがどんなにいけないことかも。

僅かに湿り気を帯びた風が、そよそよと吹いていた。
ブチャラティはいつも通り、チェーナの前には帰宅をした。仕事があればその後で出かけていく。会合のある日は事前に告げてから出て行くため、私が食事の準備に困ったことはない。
「時間通りだな。遅れなくてよかった」
テーブルに食器を並べる私へ、スーツの首元を緩めながらブチャラティが言った。
私が「おかえりなさい」と呟くと、頷いて部屋の奥へ消えていく。シャワーを浴びるのだろう。脱衣所のドアを開く音がした。
体が、勝手に動いていた。目の前に半開きのドアがある。脱衣所だった。
「あの……」
私が声をかけると、中から「何だ?」と返事が来る。
ブチャラティはこちらに背を向けて、私がきっちりとアイロンをかけて用意しておいた着替えを前に、スーツのボタンを外している。
いつの間にか、私は手のひらにノブを握っていた。開くと、立て付けの悪いドアが奇妙な音を立てた。
「どうした?」
振り向こうとした彼の横顔が残像となって、私の目に残る。ブチャラティが言葉の途中で息を呑む気配がした。
鼻先に、ブチャラティの背中がある。私の両手が、脱ぎかけの彼のスーツの端を掴んでいた。トクトクと心臓が足踏みを始める。ブチャラティはもう、「どうした?」と、聞いてくれない。息を殺したように、黙ったままだ。耐えようのない沈黙がよぎる。
「あ、あの……」
私は、蚊の鳴くような、本当に小さな声を何とか絞り出した。顔に血が上って、日照りに晒したように熱くなっている。耳鳴りが思考を遮るみたいに、高く高く伸びている。目眩がして、数センチのところにあるブチャラティの背中が、ゆらゆらと揺れる。
二年前、夜の別れに嗅いだライラックに似た香りが鼻を掠めると、私はもう何も考えられなくなってしまった。額に、ぬくもりが触れる。ブチャラティがぴくりと肩を震わせて、身を強張らせた。
真っ赤な顔を寄せて、ぎゅっと目を瞑った。
少しだけ──
「少しだけ……このまま……」
頭の中には何もなかった。熱と、耳鳴りと、ライラックと、そして背中のあたたかさが、私の呼吸を満たした。

私は脱衣所を飛び出して自室へ逃げ込んだ。ベッドに潜り込むと、どうしようもなく涙が出た。泣いたのは、組織から人質に出されたと知って以来だった。
はしたないことをしたと思った。とてもいやらしい人間だと思った。律儀なブチャラティが、どうか追ってこないことを何よりも願った。
枕に顔を押し付けて、頭から被ったシーツごと耳を塞ぐ。不意に、幼少時代の光景が頭を満たした。トラウマだった。
“苗字”の苗字が嫌だった。人間関係のどこまでもついて歩いた。私がどんな人間だろうと、鉛筆も服も靴も血肉でさえも、まっとうではない組織の金で育ったのだという目が、少なからずあった。移民系というのも、あまり快くは思われない。それでいて鼻を高くしているのだと、父へ対する不満が私へも降りかかってやり切れない気持ちになった。
内心ではそうして差別しているのに、父親がギャングだからと仲のいいフリをしておべっかを使い、陰口をたたく仲間も多かった。変わらず接してくれる友人がいても、胸に深い傷が残った。
何度だって不安は頭をもたげた。ブチャラティも、そうなのかもしれない。陰湿で姑息なことはしない人でも、とても快くは思っていないはずだ。あの人に疎まれていると思うと、誰に笑われるより悲しかった。
しかし優しい人だからこそ、内心を隠して私に付き合ってくれているんじゃないだろうか。そうじゃなければ、移民のくせに大きな顔をしている“苗字”の女なんて、相手にするだろうか。

諦めよう。諦めなければならない。もうはしたないことはしない。迷ったりはしない。彼を困らせたりはしない。
どんな人生だろうと、プライドだけは失ってはならないのだ。それをなくしてしまったら、どこにいようがおんなじだ。私は組織よりもずっと嫌いな自分自身を抱えて生きて行くことになる。
自分を嫌いになってしまったら、お終いだ。
「……っ」
私は声を必死で殺した。涙は止めどもなく流れて、いつまでたっても私を枕に張り付かせた。
夜が明けてブチャラティが家を出るまで、私は部屋から出ることが出来なかった。


身支度を整えて会社に休みの電話を入れてから、乱れきったベッドを無心に直した。瞼が腫れたみたいに重たくて、見れるような顔になってはいないだろうと思った。いっそ晴れてくれればいいのに、天気も薄っすらと暗い曇り空だった。
椅子に腰掛けて、タオルに包んだ氷水を当てて午前を過ごす。そうして呆然と窓からの風を感じていると、泣き疲れた倦怠感で眠ってしまいそうになった。ずり落ちる氷を持ち上げては直しと繰り返している内に、舟を漕いでいたらしい。
ドンドン、と扉を叩く音でハッとして、飛び上がるように椅子を立った。窓から、アロルドが覗きこんで手を振っている。時計を見れば、プランツォの時間はとっくに過ぎている。
人に会いたくなかったのだけれど、迷ってももう在宅と知られてしまっているので、私は仕方なく戸口を開けた。
案の定、私の顔を見たアロルドはギョッとしたようだった。口をあんぐりと開けて我に返ると、
「喧嘩でもしたんですか?」
と、普段からは想像もつかないほど遠慮がちに尋ねてくる。私は自分の弱さと恥を露呈するのが情けなくて、曖昧に笑って返した。
居心地の悪い空気が流れた。アロルドは意外にも慰め下手らしい。かける言葉を探しているのか、落ち着きなく肩から下げたカバンを弄っては咳払いをして、意味もなく喉の調子を整えている。
「あっ、そうそう、手紙を」
変わらず、殆どがブチャラティ宛だ。私宛の手紙といえば、月に一度の友人との文通くらいで、父からでさえも届いたことはない。
会おうと思えば会える距離なのだから必要もないのだけれど、パッショーネの目を気遣ってか、父は全てブチャラティを通して伝言をする。パッショーネからの信頼を得るまで、今まで以上に、親子らしいと思えていた部分でさえも遠くなる。
私は自分が思うよりも一人なのかもしれないと思った。組織を離れれば、もっとそうなるのかもしれない。たった一人の父親さえも、親ではなくなってしまうのかもしれない。組織と縁を切るとは、そういうことだ。
「ごめんなさい……」
手紙の宛名を確認しながら私が零すと、アロルドは一緒に手元を眺めていた顔をこちらへ向けた。
「あなたのお母さんが育てたズッキーニ……失敗しちゃったの」
カターニャのあるシチリアは遠い。飛行機に乗って、バスに乗って、もしくは列車を乗り継いで、時間をかけてようやく辿り着く。その距離を、アロルドの母親は息子を思って荷物を送ったのだ。会えない代わりに、息子の健康のために、採れたてのズッキーニを。
「あまり美味しく出来なかった」
そう言った私に、アロルドはまるで最高のジョークを聞いたみたいに声を上げてゲラゲラと笑った。
「それで謝るなら、俺は毎日神に懺悔しなきゃならない」
安心するような、元気な笑顔だった。友人と変わりなかった昔の彼が湛えていた笑顔と、やはりとても似ていた。きっとアロルドが組織と関わらず、正しく生きていくよりも何よりも、彼の母はこのためにズッキーニを送ったのだろう。
「それより」というアロルドの声に、私はうつむきがちだった顔を少し上げた。
「俺はさっきから気になることがあって、どうにも落ち着かない」
「……何のこと?」
眉を寄せると、アロルドは私の顔に、すっと人差し指を近づけた。
「君の目元に付いているまつ毛だ。こういうの駄目なんだ。一度目につくと、もうずっと気になって仕事も手につかなくなる……取ってもいいですか?」
腫れた目の重みを、こすって誤魔化していたせいかもしれない。それに、必死な彼が可笑しかった。これがアロルドなりの慰め方らしい。普通じゃなかなか気づかない。
「それじゃあお願いします」
私の声に、アロルドは任せろと言わんばかりの笑みを浮かべたキメ顔で、私の目元へ指を寄せた。

門を誰かが引いて入ってくる。目を瞑っていても分かる、大きめの歩幅。革靴の音。
「アロルド?」
ブチャラティの静かな呼び声に、ふっと私は目を開けた。無事に取り終えたまつ毛を払ったアロルドが、後ろを振り返って、「あっ」と何故か恐縮をした。
足音と声は聞こえるけれど、アロルドが陰になって、ブチャラティの姿が見えない。
「手紙をいつも悪いな」
「いえ、俺もいつも差し入れを貰ってばかりで……」
ブチャラティが段差の一段目に足をかけたお陰で、真っ白なスーツが目に入る。でも、それ以上は見たくなかった。どんな顔をして会えばいいか分からない。
「結婚したくない」と言った相手に勝手にしがみついて、勝手に部屋に篭って泣き、勝手に家事を放棄したのだ。ブチャラティは私の身勝手に振り回された挙句、理由もなく当たられたようなものだった。
彼の想い人を裏切ってしまったことを考えると、私は自分の浅はかさが恥ずかしくて許せなくなって、ますます、アロルドの陰で縮んでいたくなった。
「今日は俺からチップを渡そう。途中のバールで何か食べるといい」
ブチャラティは穏やかにそう言ってアロルドのすぐ側まで階段を上ると、彼の手をとってリラ紙幣を握らせた。
「ど、どうも」
アロルドの声は強張っている。二人は知り合いというだけで、配達以外の接点もない。何よりアロルドは組織に配達員として雇われているだけで、内部事情には疎い。ブチャラティに恐縮するような関係ではないのだ。
何か、胸騒ぎがした。ブチャラティは少し道を譲ってから、もたついているアロルドへ向かって不思議そうに尋ねた。
「それで何か他に、用があるのかな?」


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