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ブチャラティの様子が違う──と思って私は咄嗟にアロルドを引き止めようとした。昨日のことがあったので、二人きりになりたくなかったのだ。
しかしアロルドは振り返りもせずに、門の脇に立てかけていた自転車を引いて、急ぎ足で路地を曲がっていってしまった。
階段から律儀に見送っていたブチャラティは、彼の背が角に消えると戸口へ向き直った。私は思わず後ずさりしてしまった。腫れた顔を見られるのは嫌だったし、何か得体の知れない不安が漂っていて、少しブチャラティと距離を置きたかった。
ブチャラティは私の様子にも黙ったまま残りの段差を上って、ドアに手をかけながら、私がしっかり中に入るまで静かに待った。ほっとした。私はエスコートをするブチャラティに、普段通りだと気を抜いた。
思ったのも束の間だった。
部屋に戻ろうとした私の手を、ブチャラティが即座に掴んだ。ビクッと体が跳ねる。驚いて振り返ろうとすると、そのまま性急に壁際に押し寄せられた。部屋の隅に置いたソファーが腰にぶつかって、バランスを崩した私はそこへ倒れこんでしまった。起き上がる力さえ、ブチャラティの両腕に抑え付けられる。
急なことに思考が追いつかなかった。
「ブチャラティ……ッ!」
と叫ぼうとした声は、呻くどころか息をする間もなく、押し付けられたブチャラティの唇に吸い込まれた。胸が痛いほどに跳ね上がる。首筋の脈が鼓膜まで叩くように鳴り響いて、ソファーに埋もれる私にのしかかるブチャラティは、抵抗する私を無理矢理に押し込める。
私の口は、ブチャラティの舌で簡単にこじ開けられた。まさかそんなことをするなんて、思いもしなかったのだ。
「ふぅ……ッ!ンン……ッ!」
差し込まれた舌が、歯列をなぞってから、探るように暴れまわる。
酷くされても、恋焦がれた人なのだ。私の抵抗はきっと、抑え込めてしまうくらい意味のないものだったに違いない。私は、湧き上がりそうになる快感に飲まれそうになる体を、留めるので必死だった。背中を這いずる恐怖が、どうにか理性を保たせた。
これ以上は落ちたくなかった。これ以上自分を嫌いにはなりたくなかった。
彼が私の舌を探していたのだと気づいた頃には、すっかり息が上がって、もがく力さえ出なくなっていた。
私の力が弱々しくなっていくと、ブチャラティはようやく口を離して伸びた銀糸を拭って、あとは荒い呼吸を繰り返した。

恐怖と快感が、交互に心に押し寄せてくる。
「ゥ……ウ……」
片腕で顔を覆って意味のない呻き声を漏らす私を、暫くブチャラティはうつろに見つめていた。どちらも何も話さなかった。
しかし息が整ってくると、ソファーの中で縮こまる私に正気に返ったように目を見開いて、半開きだった口を引き結んだ。
さっと体を離して、それから立ち尽くしている。
「すまない……」
と囁くように呟いた。
「君に、手を出すつもりは……」
この言葉を聞いた途端、私は思わず泣いてしまった。もう泣きたくないというのに、泣こうと思ってもいないのに、私の意思に逆らって、腫れた目からまたぽろぽろと涙が溢れ出てくる。
両腕で顔を覆うと、鼻水がでるのも構わずに、私は子供のように顔を歪めて泣きじゃくった。声だけは押し殺そうとしたのだけれど、それでも「くぅう」と高く醜い唸りとなって喉から鼻を吹き抜けてくる。
ブチャラティは私のことなど、少しも人としては見ていなかったのだ。他の多くと同じように、幹部の娘で、もしくは黄色の娼婦で、知らない誰かに対する欲を処理する、ちょうどいい存在でしかなかったのだ。
惚れた女がいて、好きでもない上に面倒な女を婚約者に貰ってしまえば、そう思って扱うしかないだろう。組織に忠誠を誓わなければならない状況で、そう思う以外にどうやって私と過ごせばいい。

本当は心の何処かで、いつか「好き」と言ったのなら、情が湧いてくれるのではないだろうかと思っていた。いやらしい自分から目を逸らしたくて、そんな感情をずっと見ないようにしてきた。でももう、そんなことを思うこともない。
組織の道具としてしか見ていない男に「好き」なんて言ったら、それは私の弱みになる。ますますいいように使われるだけになる。今までのように、影で笑われるようになる。今度は妾や娼婦として嘲るように。
それでも私の恋心は、私が思うよりしぶとくて敵わなかった。もし私の気持ちを吐露して気色悪がられてしまったらと、そんなことばかり浮かべてしまっている。
私が泣きじゃくりながらソファーから身を起こすと、ブチャラティは胸元から使っていないハンカチを取り出して、私の涙を拭おうとした。
「触らないで下さい……!」
涙声にも構わず叫んで、私は彼をすり抜けて窓の方へ身を寄せた。
たとえ私をどう思っていようと、私が今組織でどんな扱いを受けていようと、この人だけは、こんな、乱暴なことをする人ではないと思っていた。
「もう私に……触らないで……」
ブチャラティは髪を揺らして俯いた。横髪で、どんな顔をしているのかは分からなかった。
彼のスーツのように真っ白なハンカチをソファーの上に置くと、戸口へ向かい、躊躇うように立ち止まって、
「……夜には、帰る」
と呟いて、静かに家を出て行った。


幾日も、夜が過ぎたかのように思う。たった数時間前なのに、自室の暗がりにずっと蹲っていると、世界の果てまで来てしまったような気分になる。
チェーナは作らなかった。作れなかったと言うのがいいのかもしれない。きっとブチャラティもどこかで食事をとって、食べに戻りには来ないだろう。もう二日も作っていないことになる。
でも、それがなんだというのだろう。私は適当に食べたって構わないし、ブチャラティには作ってくれる人がいる。本当に食べたかった人の味が待っている。その人の家族が待っている。
半年前まで毎晩、私の味を待ってくれていた父は、私を組織に貢献させることを当たり前だと思っている人だ。健康でありさえすれば、他の何事も些細なことだと思っている人だ。それが私の父だ。それでも、私の父だ。父もブチャラティを好いていた。息子になってくれればいいと思っていただろう。
私は父の望むどちらにも貢献できそうにはない。組織にも忠実でなければ、ブチャラティと結婚することもない。生きている以外父にとって、何の取り柄があるのだろう。

ブチャラティは日付が変わる夜更けに帰ってきたように思う。泣き尽くした私は、疲れ果てて自室のドアの横に無気力に寄りかかっていたので、ブチャラティが床を踏みしめて歩み寄ってくる振動を直に感じた。
組織に与えられた仮住まいは立て付けが悪くて、ドアを閉めても隙間風が吹く。ちゃんと閉まらないから、近づけば隙間から互いの姿がはっきりと見えてしまう。
「……いるか?」
わかっているのに、ブチャラティは私の所在を尋ねた。答えなかったせいなのか、彼が僅かに扉を開ける。ほんの狭い空間が開いて、ドアのすぐ側に寄りかかっていた私の目の前に、ブチャラティのスーツの足元が映る。
夜も夜更けだった。電気はつけていないというのに、少し見上げると、ブチャラティの輪郭がはっきりと見える。今日は月夜なのだろう。
ブチャラティは、彼を見上げながら壁に寄りかかっている私を隙間から認めると、私の目線に合わせるように片膝をついて座り込んだ。
腕が一本通るくらいの、閉じかけた狭いドアの間から、互いの姿を見る。
「このまま、少し、聞いてくれ」
ブチャラティが口を開いた。単語を区切って、言葉の音を頭に響かせるように呟いている。
甘い香りが漂って、アルコールの匂いがしたような気がした。どこかで飲んできたのかもしれないと、私はぼんやりと思った。
「君との約束を、俺は忘れてはいない。何があっても、必ず守ろう……俺がした約束だからな……」
ブチャラティは苦しそうに大きく息をついた。ごつりと、反対側の壁が鈍い音を立てた。むわっと、お酒の匂いが押し寄せる。
「君に……君に好きな男がいるというのなら、俺は引き止めはしない。忠誠は、他でだって代用できる……それに結婚前だ……俺がなんとか上に話をつけてやる。その間も君に何も強要はしない……手出しもしない」
壁に頭を押し付けていたブチャラティは、やはり窮屈そうな呼吸を繰り返しながら、
「だが、ほとぼりが冷めるまで」
とくぐもった声を出した。
ぬっと、ドアから腕が一本、私に向かって伸びてくる。怯えて引っ込めそうになったけれど、私の手を掴むでもなく、そっと包み込むように添えたブチャラティの手は、昼間のように乱暴ではなかった。
「もし、君が……良かったらだが……」
ブチャラティが甘い息を吐きながら言った。
「手に、触れることだけは、許してくれ……」
長い指が、こわごわと私の手の甲に触れる。遠慮がちなブチャラティの指が、戸惑うように震えている。
「こうして、少しの間、握るだけでいい。何もしたりはしない……触れるだけ」
壁の縁に額を半分寄りかからせたまま、酔いに揺られているブチャラティが、ドアの隙間の至近距離から私を見つめて、「いいか?」 と苦しげに尋ねた。

何度も、何度も反芻した。酔いのせいだと言いわけもした。また勘違いをしているのだと思おうともした。
とても都合のいいことだけれど、それでもドア越しの声はたとえ何百回繰り返したとしても、私には告白にしか、愛の言葉にしか聞こえなかったのだ。
どうして──頭からこぼれ落ちた言葉を、私はそのままなぞっていた。
「どうして、私の気持ちを……勝手に決めるんですか……」
ぐちゃぐちゃになった胸に、ずっと押し込めていた感情がせり上がってくる。
「あ、あなたは、ちゃんと相手がいて……それなのに、一体……私を、どう思っているんですか……っ」
ブチャラティは口を開きかけて迷うように閉じた。そうしてもう一度開く。
「俺に相手なんて……いるはずが……俺には」
と言葉を切って壁に頭を擦り付けると、重々しく首を振った。これ以上は言えないと、言いたげだった。代わりにひっそりと、「いつでもそんな噂がある」と告げる。
「君こそ、大事な人が……いるんだろう?」
彼の言う大事な人、とは誰のことなのだろうか。父のことなのだとしたら、迷いつつも、私は頷いただろう。
政略に道具として使う男だ。生まれた時からこの世界で生きてきて、それを当たり前だと思っている根っからのギャングなのだ。それでも、私の父親だった。いくら恨んだところで、笑いあった思い出がある以上、大事に決まっている。
でもこの流れで、そんなはずはない。
「アロルドは」
ブチャラティが言葉を切った。彼の手が、私の手をぎゅっと握りしめた。
「君の、昔の恋人に似ていると……」
父はいつでも私のことを知っていた。ブチャラティが切なげな息を吐く。
「……俺は、つまらない人間だ」
アロルドに悔いる、そのたった一言で、私は全てがわかってしまった。

アロルドはパッショーネのただの伝令役で、これからもずっとその仕事だけを続けていくだろう。情報が漏れないよう、組織の内部には決して関わらない。理解のある、ただの郵便配達員だ。真面目な男なので、本業でも十二分に信頼されている。
しかし、組織の中で最も組織から遠くても、パッショーネ側の人間だ。不十分であったとしても、私が恋をしてしまえば、人質になることに変わりない。
ブチャラティは、それを待っていたのだろうか。アロルドに情が移ることを。こんなに震える触れる手を抑えながら、約束を守ろうとしていてくれていたのだろうか。本当に、そう思っていいのだろうか。今度こそ間違いでは、ないのだろうか。
「私は最初から、あなたが……」
押し殺していたものが、私の胸から少しずつ溢れだした。もう堪えることが出来なかった。ここまで捕らえられて、引っ張りだされて、自分の感情に嘘なんてつけない。
「こうして、手を、握ってくれればいいと……」
こんなにやさしい人と添い遂げられたら、どれだけ幸せかと思っていたのだ。
本当は、わかっていた。人には、生まれ持ってしまった運命がある。自分を育てた組織から、一生切り離すことは出来ないのだと、本当はわかっていた。幼い頃からずっと、本当は知っていたのだ。それでも夢を見ていたかった。
だからせめて結婚するならば、望まない形でも、いつかそうなればいいと。“組織の娘”ではなく、“苗字”でもなく、一人の人間として“名前”と、呼ばれる日が来ればいいと、夢を見ていたのだ。フィアンセと決められた時から、ブチャラティがそんな人であることを、心のどこかで望んでいたのだ。
ブチャラティはドアの向こう側で、声をつまらせたように押し黙った。
ドアに遮られた私達の世界をつなぐのは、この腕だけだった。
彼は酔いに世界を回しながら、親指をゆるゆると動かして、キスよりもあたたかい仕草で、私の手の甲を撫でている。

彼について一つだけ、確信していることがある。
ブチャラティは律義者だということだ。過去にどれだけの人を貶めてこようとも、一度結んだ約束だけは守る人だ。そんな人が、静かに私の手を握っている。苦しげに、何かを焦がれるような目をして。
頼みがある、とブチャラティの掠れた静かな声が、隙間から私に囁かれた。
「あの時、どちらでもいいと言ったが……」
薄暗がりの中。今の私たちには鍵が必要だった。隔てる扉を開けるための、ほんの小さな鍵でいい。そうじゃなければ、夜の闇に佇んだまま凍えてしまう。
「ブローノと、呼んでくれないか……名前」
私は、思わず泣いてしまいそうになるのを必死で耐えた。それでもこの人にはバレているかもしれないと思った。私の手は自分でも気づかないほど、震えていたかもしれない。
ずるい人だった。名前を呼ばれてしまったら、私も絞り出さなければならない。組織を、この先の人生を覚悟してでも、目の前のドアを開けるために。
「嫌か?」
微かに笑みをたたえたようなブチャラティの視線が私に寄せられて、私はふと、彼は私と同じように声を待っていてくれたのかもしれないと思った。私の願望にすぎなくてもいい。待ってくれていたら嬉しい。この人の側なら、私は道を誤ったりはしない。生きていく覚悟が出来る。
私は彼へゆっくりと首を振った。そうして絞りだす。飛び出しそうな胸を抑えて、小さくてもいい。恋が始まる声を。鍵のような声を。

「好き」という、私の声を。


|終
13/06/02 短編
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